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NOVEL

罪悪感 航矢編
〜第五話〜

注意) 特になし

深呼吸をしよう。

ここからが俺の見せ場。

本当の、戦い。

 子供のように泣きじゃくる美奈を、ホテルの一室で空々しく慰める。
 ベッドの上に腰掛け、駄々っ子のように俺の肩を叩く美奈の手はそのままに、優しく美奈の頭を撫でた。
 そうしながら、ただ呪文のように、謝りの言葉を口にする。
 たったそれだけの事で美奈の俺に対する怒りは徐々に収まりつつあるようだった。

「ごめんな。突然居なくなってしまって……。でも、お前の前から姿を消したのには理由があったんだ。」

 様子を見計らって、謝罪以外の言葉をかける。
 できるだけ深刻そうに。申し訳なさそうに。
 すると、美奈の顔が持ち上がった。涙で潤んだ瞳が、複雑そうな色で揺れている。

「航――。」
「自信がなかったんだ!」

 俺を見詰めたまま口を開きかけた美奈のそれを制して、俺は、また彼女の体を強く抱き締めるとそう叫んだ。
 俺の腕の中で、え……、と呟く声が聞こえる。
 その声に、俺は内心苦笑した。
 明らかに美奈の漏らした呟きには、俺の言葉が予想外であったかのような響きがあって。
 これで俺と渉の関係を完全に疑っていた事が証明される。その事に、俺は更に苦笑を深めた。
 だが、それを美奈に気取られてはならない。
 抱き締める腕に力を込めながら、俺は言葉を続けた。

「……あの日、俺は渉に相談してたんだ。お前と結婚する事への不安を……。お前は何故、あいつに? と思うかもしれないが、俺と渉は餓鬼の頃から兄弟のように、いや、お前も知っている通り一時期は実際に義理の兄弟にもなった一つ違いの兄として俺はあいつを慕っていた。……だから、他の誰にも相談できない事もあいつには、あいつだけには言えたんだ。お前との結婚が決まった時だって、あいつに俺の不安を打ち明けた事だってある。」
「え……、そ、そうなの……?」

 まるで本当にそんな相談事を渉にしていたかのように俺は、当時を懐かしむように瞳を細め、宙に視線を彷徨わせる。
 そんな俺に美奈は、驚いたような、戸惑ったような声を出して俺の顔を下から見上げる。

「あぁ。俺はこの通り学もない、チンピラ紛いの仕事をしていたしょうもない男だ。それなのに、お前のような家柄も申し分のない、しかも、あの如月グループの会長の一人娘と結婚だなんて、どう考えても釣りあう筈がない。その事を考えると、俺は情けない話だが、不安で不安で仕方がなかった……。それを折に触れ、渉に聞いて貰って、励まして貰っていたんだ……。あの日もそうだった……。」

 美奈の顔を眉尻を下げて情けない顔で見下ろしながら、俺は自分の中にさもあったかのような苦悩をゆっくりと、所々込み上げて来る感傷で言葉をつっかえながら口にしていく。
 それに美奈は益々驚いたような顔をし、おろおろと視線を彷徨わせ、俺の腕を掴む美奈の手には少しずつ色が抜けていった。

「……式の前に、あいつに早く来て貰って俺の不安をあいつに宥めて貰っていた。あいつは笑って俺らしくないって言ってたが、それでも優しく俺なら如月グループの後継ぎになれるって慰めてくれたんだ。それがあったから俺はその後、胸を張ってお前の横に並ぶ事が出来た。」
「それなら……っ。」
「だけど!」

 俺の言葉を最後まで聞かずに口を挟んできた美奈に、俺は鋭く声を荒げる。
 俺の声に美奈は俺の腕の中でビクリと体を固め、驚いたような顔で俺の顔を見上げた。

「それなのに……、何故、あいつが……。……あの時、披露宴で、呼んでもいない男の姿を……、渉の傍に立っていたある男の姿を見て、折角持ち直した気持ちがいっぺんに、萎れちまったんだ……。」

 ぎりっと奥歯を噛み、悔しそうに顔を歪める。
 俺の言葉と、表情に美奈はハッとした顔になると気まずそうに俺から視線を逸らした。

「……なんで、あいつが……、あんな所に……。」
「あ、あいつって……?」
「親父だよっ!!」

 視線を遠くに飛ばし、わなわなと唇を戦慄かせながらそう憎しみを込めて呟く。
 そんな俺に美奈はわざとらしくその相手が誰なのかを聞く。
 この女にそれが誰か解らないわけがない。あの男をあの場所に招き入れたのは、確実に女の方なのだ。あの場に正式に招待していた俺の母親や親族が、あの男に連絡を取る筈もない。ならば誰があの男にあの場所と時間を教えたのか。その答えは女の声が震えている事で解る。
 その事に忌々しさを覚えながら俺は女を突き刺すように鋭い声で吐き捨てる様に、親父、と口にした。

「折角、渉に持ち上げて貰っていた気持ちが、あいつを見て、……俺はあいつの息子なんだ、そう思うと、やっぱり俺にはお前の横に並ぶ資格なんてないんだ、って思い知らされたよ! 案の定、あの後すぐ渉はあの男に抱きかかえられるようにして会場を後にした。……あんな、鬼畜な男の息子が、お前と結婚して幸せになんてなれる筈がないんだ……!」

 あの式の途中。
 あの男が、まさか俺達の結婚式に現れるとは。それが全ての誤算だった。
 本来ならあの時点で俺は渉を連れて逃げる気なんてさらさらなかったんだ。それなのに……っ!
 その悔しさと憎しみが一気に俺の中に膨れ上がり、美奈の腰に回していた腕に力を込める。ぎりっと腕が腰に密着し、美奈の口から苦しそうな声が漏れた。

「っ……っ、こ、こう、矢……っ。」
「……っ、すまない……。興奮した。」

 息苦しさからか掠れた声で俺の名を呼んだ美奈に俺は我を取り戻す。そして、腕に込めていた力を抜き、再度ふんわりと美奈の体を抱きしめ直すと、俺はその髪に鼻先を埋める。

「……なぁ、美奈、あいつが、俺の親父がどうしてあそこに居たのか、知っているか?」
「……え……、い、いいえ……し、知らない、わ……。」

 苦い感情をむき出しにして、俺は美奈にそう尋ねた。
 すると美奈は俺の腕の中で戸惑っているように頭を左右に振る。それに、俺は美奈に顔が見えないのをいい事に、深く苦笑をする。
 やはりあの場所にあの男を、招かれざる客を招き入れたのはこの女だ。
 俺が何故、自分の父親は式にも披露宴にも呼ばないと、あれ程何度も何度も念を押してこの女とこの女の両親に伝えたのか、納得させたのか、その意味をこいつはさっぱり理解していなかったらしい。
 だから母親だけを招待して、他の親族も母親側だけだったというのに。
 あの男と同じ血がこの体内に流れていると考えるだけで体中に虫酸が走る。
 
「まぁ、いい。……あの男はな、俺だけでなく渉もそのご両親の人生も滅茶苦茶にした、本当にどうしようもなく酷い奴なんだ。そんな男と同じ血が流れている、そう思うと俺は折角持ち直したお前との結婚への前向きな気持ちが、すーっと萎んでいった……。だから、あの後……俺は……。」
「……。」

 どうして俺があの場所から逃げたのか。
 その説明を、理由をお前に話してやるよ。
 目の前で戸惑いをその顔の前面に押し出している女に向かって、俺は弱々しい微笑みを無理矢理形作ると、そう真実にも聞こえる嘘のストーリーを語ってやる。
 それはきっと女には想像もつかないような話だろう。
 だが、それが女にとっての真実になるのだから。

◆◇◆◇

 渉と親父の関係を知った日から、俺の胸の中はマグマのようにふつふつとある感情が沸きあがっていた。
 親父に対する憎悪と嫌悪感。
 そして、渉に対する言いようのない怒り。
 不思議と渉に対しては嫌悪感は湧かなかったが、それでも、俺の親父としていた行為を思い出すと、その度に、焼け付くような痛みと怒りを覚える。
 だが、それをぐっと飲み込み、俺はある決意をした。
 ――渉に知られないようにして、親父に会う。
 ――そして、渉の前から親父を完全に、一生、排除する。
 その二つを、心に刻み込む。
 全ての怒りは渉を良い様に玩具にしている親父へと向いた。

 その決意を固めると、俺は上司に無理を頼み込み、有給を取って渉の部屋を数日間張った。
 幸いにも辺りは住宅街だった為、そこそこ渉のアパートからは死角だが、こちらからはアパートのドア部分が丸見えという、なんとも見張るにはお誂え向けの少し小高い場所にある公園を見つけ、俺は早朝そこに潜み、親父が部屋から出てくるのを監視した。
 親父は工場勤務だからか、大概朝七時過ぎには部屋から出てくる。そして、ぷらぷらと覇気のない足取りで職場へと歩き始めると、その後を気づかれないように着ける。
 見張り一日目で親父の職場を突き止めた後は、親父の退社時間までどこかで暇を潰した後、また渉の家まで戻るのを見届ける。
 そんな日が数日続いた。
 その間、ただひたすら親父に接触する日を俺は注意深く探った。
 だがそのタイミングはなかなか難しい。
 朝では時間の関係で接触しにくいし、なにより親父と同じように通勤するサラリーマンなどの人目が割とある。かといって帰りの時間帯だと、親父は俺の尾行に感づき、わざとじゃないか、と言うくらい人通りの多い場所へと足を向けるか、パチンコをしに行く。
 しかし、最初は今言った様に俺の尾行に気がついたのか、と思い、慎重に距離を開けていたが、すぐに俺の尾行に気がついて人通りの多い場所に向かっていたのではない、と気がついた。
 どうした理由かはその時は解らなかったのだが、親父は渉のアパートとは逆方向にある商店街へ向かうと特に何かを買うわけでもなく、その商店街の中、とりわけある一区画だけを何度も往復する。
 その親父の姿に、何故すぐに渉のアパートに帰らないのか、何故この一区画だけを行ったり来たりしているのか、最初はとても不思議に思っていたが、すぐにその謎は解けた。
 どうやら親父は俺達と一緒に住んでいた頃、家族だった頃からは想像も出来ないほど落ちぶれ、卑しい、嫉妬深い人間になっているようだった。
 俺の知っている親父はそこそこいい外資系の会社に勤めていて、毎日渉の親父さんみたいにスーツを着て出かけていたのに、何故か今では、薄汚れた作業着を着て工場に勤めている。
 その工場での仕事は、どうやらベルトコンベアーに流れている車かなんかの部品のチェック。
 そして、昔は吸っていなかった煙草に、嫌いだった筈の賭け事が趣味になっていた。
 更に渉に対する、軽いストーカー行為。
 そう、親父が渉のアパートにすぐに帰らないのは、商店街の外れにある渉がバイトしているレンタルビデオ店の前を何度も何度も通り過ぎ、ガラス張りのその店の中で働いている渉の動向をチェックしていたからだった。
 渉がどんな客にどんな対応をしているか、同じバイトの人間とどんな風に接しているか。
 それを自分の仕事が終わった後の数時間分逐一チェックを入れ、渉のバイト時間が終わり、裏に入ったのを確認すると同時に親父は踵を返して渉のアパートへと向かう。
 これが親父の一日の行動の全てだった。
 但し、パチンコをしている日はそのストーカーじみた行為は収まっていたが、親父がパチンコをする日と言うのは、大概、渉にバイトが入っていない日か、親父よりも仕事が先に終わりアパートに帰っている時で。
 つまり、親父は渉が他の人間と親しくなる事を酷く嫌っているらしい、と言う事が良くわかった。
 その証拠に、渉に対する態度が常軌を逸している。
 俺の親父は渉がバイト先で少しでも楽しそうに客と話をしたり、バイト仲間と二、三言葉を交わしただけでも、渉が帰って来た時に酷い暴力と性的な暴力を渉に対して振るう。
 そう、俺の親父は、どうやったのか知らないが渉を懐柔し、その家に上がりこみ、あいつ自身をも暴力と快楽で支配している。
 こうして俺があいつを張り込み、あいつの事を調べ始めてまだたったの数日。
 たったの数日だというのに、俺はあいつがどれだけ酷い事を渉にしているのかを知っていた。
 渉がバイト先で他の男と話すのを見ただけで暴力を振るうような男だ。パチンコ屋に行き、負けて帰った日など、渉に対する暴力も更に酷いものになる。
 家に着くなり、先に帰宅していた渉をその場に引き倒し、玄関先で犯すなどほぼ日常茶飯事らしかった。
 更には、殴る蹴るも日常茶飯事。
 何か少しでも気に入らない事があれば、すぐに渉に手を挙げる。
 渉の部屋からは常に、親父が渉を殴ったり蹴ったり罵倒したりする声と音、そしてあいつに無理矢理犯され、呻き、すすり泣くような渉の声が仕掛けた盗聴器から俺の耳へと届いていた。
 そのあまりに俺の良く知る親父との違いに、俺は何度も何度も、あれは親父に声も顔もよく似た別人なんじゃないだろうか、と自分を欺こうとした。
 だが、どれだけ俺の知る頃の父親と素行が違っていても、親父は親父だった。
 笑う時の癖。困った時の癖。
 否定しようと思えば思うほど、自分の記憶の中にある親父の姿とあいつはダブる。
 ダブればダブる程、俺は言い様のない悔しさと、怒りと、生きていて初めて感じる強い殺意を親父に覚えた。
 そして、渉に対しても俺は言い様のない感情を抱いている。
 何故かあんな酷い事をする親父に、渉は反抗する素振りさえ見せない。それどころか従順にあいつに従い、あいつの気が済むようにさせている。
 いや、従順に従っている筈などない。あれだけ酷い暴力なんだ。だからこそ、恐らく反抗する気も起きないくらい、親父の暴力に怯えているのだろう。
 そしてもう一つ。
 渉をそうさせているのは、寝る前にあのクソ野郎が紡ぐ甘言のせいだろうか。
 ――愛している。殴ってごめん。君しか居ない。愛している。愛している。愛している。渉、愛している。許してくれ。――
 暴力の後、決まって繰り返されるそれらの言葉に、渉はしゃくりあげながらも頷いているらしかった。
 そして、毎夜、暴力の後に渉の部屋で行われる情事の際に、渉があいつの名を呼ぶ声が、耳の奥にこびりつき離れない。
 ――一也さん。一也さん。一也さん。かずやさん、かずやさん……――
 あいつが女のような声を上げながら、泣きながら、俺の親父の名を何度も何度も繰り返す。
 その事は見たくもない、聞きたくもない現実を、突きつけられているようなもの。
 否定しようがない、事実。
 つまり、俺が泣こうが喚こうが怒ろうが笑おうが自分を偽ろうとしようが、やはり渉の上に乗ってあいつを支配している男は、俺の親父でしかなかった。
 その事が血反吐を吐くほど、苛立たしく、苦しい。
 何故、親父なんだ?
 何故、あんな酷い事をするような奴を受け入れる?
 何故、あんな人間の屑に抱かれて甘い声を上げる?
 何故、何故、何故……。
 俺の頭の中には渉の行動の一つ一つに対して、疑問しか浮かばない。
 そして。
 反抗しろ!
 親父を追い出せ!!
 親父から逃げろ!!
 そんな渉へのどうしようもない怒りが俺の中へと沸く。
 たった数日間で知り得た親父と渉の関係は、そうして俺の心にはドス暗い感情が溜めて行った。
 どうやってあいつを陥れてやろう。
 どうやってあいつを抹殺してやろう。
 どうやってあいつを……。
 気がつけば頭の中は、自分の親父をこの世から消す事ばかりが占めていた。
 渉があいつを突っぱねる事も、あいつから逃げる事も出来ないというならば、俺が変わりにお前の前から目障りな害虫を全部、ぜんぶっ!! ぜんぶっっっ!!!!
 排除してやる……!!!
 親父も、他の奴らも!!!
 渉を幸せになど出来ないようなカス共になど渉を渡さない!!! 渡せない!!!
 俺は渉と親父の睦言が繰り広げられているイヤホンを両耳から外すと、そう声にはならない声で暗闇へと咆哮した。
 流石に、その時になって、その自分の怒りや憎しみ、そして渉に対する執着が尋常ではない事に気がつく。
 そして、俺は始めて気がついた。
 自分自身の感情に。
 どうしてこれ程までに親父が憎いのか。
 どうしてこれ程までに親父に死んで欲しいと願うのか。
 どうしてこれ程までに渉の幸せを想うのか。
 自分の物騒な感情に、俺はひっそりと嗤う。
 殺人なんて割りにあわない。そんな事は百も承知だ。
 だが、俺が今しなければならない事は、渉の前からあいつを排除する事。

「渉……、俺がお前を自由にしてやる……。親父から……。俺が、俺の手で……お前を、幸せにしてやる……。」

 手の中で盗聴器のイヤホンが、バキバキと音を立てて砕けていくのを感じながら俺はそう暗闇の中呟いた。
 そして俺はふつふつと湧き上がる憎しみと殺意を押さえ、その時が来るのをじっと待った。

 あいつを社会的に抹殺する日を。
 渉を幸せにする日を。