注意) 現在:女と抱擁
野望は高ければ高い方がいい。
理想は求めるものじゃない、形作っていくものだ。
愛情は、百の嘘と、たった一つの真実があればいい。
美奈が泣き止むまで、俺はその背中を摩ってやる。
抱きしめてやる。
その頬に、涙を零す目尻に、唇に、偽りの優しさを乗せたキスを柔らかく落とす。
それだけで女は俺の手中へとあっさりと堕ちていく。
俺の矛盾だらけの言葉を信じ、俺の言葉に頷き、俺の思うままの反応を返す。
プライドの高かった女は、今や、俺の腕の中、ただの感情的で浅はかな女へと変貌を遂げていた。
「ごめんな……お前をこんな風に泣かせたかった訳じゃないんだ……。だけど、やっぱり俺達は……。」
「嫌よ……っ、嫌っ、航矢……、私、別れないからっ!! 航矢のパパがどんな人でも、航矢は航矢よ! 航矢はいつでも私に優しかったじゃない……っ! それなのに、航矢のパパと同じ血が流れてるってだけで、そんな……、そんなっ、確証もない、曖昧な理由で私を捨てるなんて許さない……っ! 許さないんだから……っ!!」
泣き喚き、髪を振り乱しながら女は俺の勝手な別れを責め、否定し続ける。
そんな女を痛ましいものでも見るような視線で見下ろしながら、俺は小さく頭を振った。
「許してくれなくても、いい。実際俺はお前に許して貰える筈がない人間だ。俺は、どんな理由があろうとも、一度はお前の前から逃げた、卑怯な男だ。親父の事や、その血を引いている事を差し引いても、俺はお前と向きあわず、ただ将来への不安からお前の前から逃げた。――それは、お前や、お前のご両親を裏切ったという事だ。だから、俺はお前にもお前のご両親にも許して貰える筈がないんだ……。」
ふるふると頭を振り、俺にしがみついている女の腕を外しながら苦しみを前面に押し出した声と顔で女から視線を外す。
俺が唇を噛み、悩み、苦しむ姿を美奈はどう思ったのか。
美奈は俺が折角外したその腕をまた無理矢理俺の首に回してしがみつくと、ぎゅうっと俺に抱きついてくる。
そして、俺の耳元で何度も何度も、嫌、嫌、とそれこそ子供のように駄々をこねていた。
そんな美奈をあやすように俺はその髪を優しく撫で、もうひとつの『不安』と言う名の餌を口に乗せる。
「――それに、俺の不安はお前への暴力だけじゃないんだ……。いや、寧ろこれはただのきっかけに過ぎない。」
「……航矢……?」
俺の声のトーンが変わった事に美奈は嗚咽を止めながら俺を訝しむように見上げる。
その瞳を受けながら、俺は自嘲気味に唇の端を釣り上げると、美奈に逃げた『本当の』理由になるべき話を始めた。
「……お前の父親は、政界にも顔が利くいわばこの世界では『如月の怪物』と呼ばれるほどの大物だ。その『如月』という名前の持つ力や、影響力をお前は考えた事があるか?」
「そ、……それは……、その……。」
俺の問いかけに涙でぐちゃぐちゃになった顔に戸惑いを浮かべて見上げてくる美奈に、俺は眉を八の字に下げ情けない顔で見返す。
そして俺の問いかけに、たっぷりと戸惑いと困惑を浮かべてうろたえる様に口ごもりながら答えにもならない言葉を発した。
それもそうだろう。
美奈にとってあの父親は、そこら辺に居る娘に甘い父親以外の何物でもないのだから。
『死の闇商人』、『冷酷な経営者』など『如月の怪物』以外にも数々の二つ名を持つ男がお前の父親の本当の姿だと言った所で、美奈にはピンとは来ないだろう。
父親の姿を会社ではなく、家庭の中でしか見ていない女なのだから。
だが実際、如月剛三と言う男は、家庭はともかくとして、経営や仕事に関しては冷徹で血も涙もない男だ。
己の邪魔をするものはどんな人間であってもその手で文字通り『始末』、をつけ、小さな不動産業から裸一貫、一代でこの凄まじいほどの地位も財産も名誉も手に入れた。
時代がこの男に味方をした。そう言う見方も、一部には確かにある。
だが、ただそれだけでは説明がつかないほど彼の経営手腕は鋭敏で、確実。先見の明に秀でており、そしてそれをフルに利用するコネもあっという間に築き上げる事が出来る程巧みな話術と機転の良さ。そのどれもが、天才という枠を超えて働き、如月剛三と言う男をこの国で、世界で『怪物』とまで言わしめる結果となった。
しかも、『怪物』と言われる所以はそれだけじゃない。
如月剛三は金や権力を手に入れる為ならばどんな手段も厭わない。非情なほどビジネスライクに、この国ではタブーとされている、薬も銃も売春も、血の繋がりさえも、それが自分の利になり、金になり、コネになるのならば己から手を出し、売りさばく。
あいつには道端に転がっている石一つ、雑草一つ、そして自分の兄弟も子供も全てが、売り物に見え、売買の対象に違いない――。
――そう俺達の住む世界では公然の秘密として下っ端にさえもその恐ろしさは囁かれ続けている。
実際剛三は己の肉親も、兄弟も、従姉妹も、全てを金に換えてきた。
勿論血の繋がりなどない人間なら尚更、その臓器も性も全てを非情に、冷酷に売りさばき、金か力に換える。
剛三の不興を買えば、ヤクザの親分でさえもその血肉を売られる――。
そんな噂までまことしやかに流れ、そこら辺に居る三下のチンピラやヤクザでさえも裸足で逃げるくらい実際に血塗られた、恐ろしい経歴を持つような男だ。
しかも誰がどう見てもグレーどころか真っ黒な癖に、何故か警察・検察の捜査、摘発からは巧みに逃れ、今まで一度も剛三はその手に縄をかけられた事はない。
それも一重に剛三自身が手に入れているコネや権力のお陰だ。想像もつかないような額の献金や接待によって政治家や官僚に太いパイプを持ち、その反面どこで仕入れたのかそいつらの弱みを握り、意のままに操る。
つまり、日本と言う国でさえ下手をすれば裏で動かす事が出来る、それ程の男。
それが如月剛三と言う男の素顔。
だが、そんな男にも弱点はあった。……いや、新たに出来た、と言うべきか。
一つは、妻の房江。
剛三がまだ名もない一青年だったころから付き合いのある女で、富を手に入れてから漸く結婚までこぎつける事の出来た愛妻だ。
そしてもうひとつが、今俺の目の前に居る、如月美奈。
なかなか子供が出来ない体質だった房江との間に、齢60を超えてから、漸く出来た、念願の一粒種。
房江自身すでに高齢であった為に、美奈を出産する事には両者とも命の危険に晒された。
だからか、如月剛三はそれこそ目に入れても痛くない程に美奈を溺愛している。
勿論、剛三には房江と結婚する前に外の女に作らせた子供は何人かいた。だが、そのどれもが認知はして貰ってはいるが、愛情など一切かけられず、またその母親も剛三との間にできた子供は金づるとしてしか存在理由がなかった為、どの子供も美奈とは違った方向にねじくれて成長をしている。
しかし、あれだけ外の女に産ませた子供や、他人に対しては冷徹で、血も涙もなかった男が房江との間にできたこの娘だけには目尻の下がった好々爺然とした顔で、この女をべたべたに甘やかし、欲しいといったものはどんなものでも手に入れ与え、女がどんな理由であっても嫌いになった人間は全て女の周りから排除する。
そんな親として間違った愛情のかけ方をされて育った女は、自分の思い通りにならないものは何もないと思い込む愚かで悲しい女に育ってしまった。
その力が、自分のものではなく、父親のものであるという事にも気がつかずに。
だからこそ、俺は美奈に教えてやる。
実の父親のその後ろに隠している顔の恐ろしさを。
「……お前は娘だから解らないかもしれない。だが、実際、お前の父親は凄い人間だ。……いや、恐ろしい人間だ。『如月』の名を出せば、黒も白になる。……つまり、犯罪を犯しても、お前の父親の一言でそれはなかった事に出来る。そんな力を持つ人間の娘と結婚するという事は、ゆくゆくはその力の全てを受け継がないといけないという事だ。……それがどれほど恐ろしい事か、大変な事か、一般人にとって物凄い重圧になるか、お前には解るか?」
「……私、私には……。」
俺の鬼気迫る表情と、言葉に美奈はすっかり口紅の落ちてしまった唇を戦慄かせる。
美奈に、娘婿になる男のプレッシャーもその重圧も解る筈などない。
そして俺の想像通り美奈は俺のプレッシャーなど理解できなかったらしい。
おろおろと視線を彷徨わせ、困ったように眉根を寄せる。
その表情にはありありと、パパは航矢が思うほど怖い人じゃないわ、という感情が表れていて、俺は小さく溜息を吐いた。
「そりゃ、お前にとってはあの人は何処にでもいる優しい父親だろうよ……。」
「っ……そんな、言い方……っ。パパは、優しい人よ……っ!」
俺が呆れたように呟くと、美奈は眦を釣り上げて抗議しようと口を開く。
それを手で制すると、俺は苦悩を前面に押し出した表情で美奈の肩を掴み、軽く揺する。
「だが、俺にとっては、いやっ、俺達みたいなヤクザの世界じゃ、如月剛三は雲の上の人間で、その存在自体が畏怖の念を感じさせるような恐ろしい人なんだよ! それにっ、俺達ヤクザだけじゃないっ。警察も、政治家も、官僚も、やくざも、お前の親父には頭が上がらない!! それ程、恐ろしく強い権力をその手中に収めている男なんだよっ!!」
「っ……っ!」
どれだけ美奈の父親が恐ろしい人間かを真剣な顔で力説すると、美奈は目を見開き俺の言葉を否定するように緩く頭を左右に振る。
だが俺はそんな美奈の否定を更に否定するように、力強く頭を振った。
そして一拍置いた後、ゆっくりと如月剛三の跡を継ぐと言うプレッシャーについて美奈に語る。
「……いいか、美奈。そんな男の跡を、俺のような……学歴もないっ! 頭もそれ程良くないっ! ヤクザの下っ端をやっていたような……っ、そんな、底辺に存在する人間に、あの人と同じように、あの巨大な会社を動かし、人を動かし、黒を白に出来るような権力と人望を集められると思うか?! 操れると思うかっ!? 俺には……っ、俺には、到底無理に決まってる……っ!!」
叫ぶように自身のありもしないコンプレックスを口にし、美奈の体を突き飛ばす。そして、女から見て苦悩しているように見えるように俺は眉間の間に深く皺を刻み、頭を抱えるようにして弱々しく頭を振った。
美奈は俺に突き飛ばされ床に尻もちをついた態勢で呆然と俺を見た後、ハッとした表情をすると俺の足に縋りつくようにしてその手を絡めてくる。
「で、でも……それは……っ! ……っ、そ、そうよ……! パ、パパ! パパは……っ、パパは、航矢は素質があるって……! 経営の才能があるって……っ! だから、……だから、パパは最終的に私達の結婚を認めてくれて……。私……、私だって、航矢は十分パパの跡を継げる力を持っているって思ってるわっ!」
俺を彼女なりに慰めようとしているのか、必死になって俺の足を掴み、その身を寄せる。そして大きく見開いた目で、言葉で、一生懸命俺に、そんな事はない、と訴え続けた。
確かに、美奈の言うとおり俺は如月剛三に一度は俺自身の力を認めさせた。
当たり前だ。
その為に俺は血の滲むような努力をしたのだから。
だが、俺はそんな自信は露ほども見せず、変わりに美奈に弱々しく微笑んで見せ、俺は足に縋りついている美奈の頭を力ない仕草で撫でる。
「……美奈、ありがとう。お前にそう言って貰えるだけで、嬉しいよ……。」
「本当よっ! 本当にパパは航矢を認めてるわ。だから……、だから、航矢っ、お願い、私と別れるなんて、もう言わないで。あなたはパパの元でも上手くやっていける人なんだから……っ、えぇ、そうよ! あなたなら、立派にパパの跡を継げるわよっ! 自信を持って、ねぇ、自信を持ってよ、航矢!!」
俺の言葉に美奈は一瞬希望に顔を輝かせると、更に俺を勇気づける様に明るく声を弾ませた。
その美奈の言葉に、俺はカッと瞳を見開くと肩を掴んでいる美奈の手を強く払いのけ、そしてまたその体を引き離す。
「っ、それが、そう言う所がっ、俺にとってはプレッシャーなんだよっ!!」
なおも続きそうになっている美奈の空々しい俺を鼓舞させるような言葉を遮り、大声を出す。そして怒ったようにブーツを履いている足を床に向けて踵を落とした。
ドンッ! と酷く鈍い音が響き、俺が蹴った床が衝撃をベッドや俺の体にまで伝える。
突然の俺の激昂に、美奈はビクリと体を恐怖で竦め、驚きと不安を湛えた瞳を俺に向けた。
今までの付き合いの中でこんな風に俺が声を荒げた事などなかっただけに、美奈はその瞳の中にありありと恐怖を浮かべている。
父親にも母親にも、そしてその周りに居る大人達にも、この女は蝶よ花よと育てられ、大声で怒られた事もなければその頬に平手打ちを食らった事もない。
そんな女だけに、俺の怒鳴り声と床への蹴りは恐怖そのものだったのだろう。
カチカチと歯の根が合わない音を鳴らしながら、美奈は俺を恐怖に彩られた瞳でそれでも見つめる続ける。
「――デカイ声を出して、すまない……。」
怯える女の顔を見ながら俺はふっと肩から力を抜くと、さっきまでの激昂が嘘のように弱々しく謝りの言葉を呟いた。
「だが、美奈。解って欲しい。俺はこんな風に自分の感情もセーブ出来ない駄目な男だ。幸い、まだ俺達は籍を入れてない。だから、俺の事なんて忘れて、お前にもお前の家柄にも相応しい優しい男を見つけてくれ。俺はお前をこれ以上傷つけたくないし、怖がらせたくない。それに、親父さんの期待をもう二度と裏切りたくもないんだ……。」
美奈の零れ落ちそうに見開かれた瞳から視線を逸らすと、俺はゆっくりと立ち上がる。
そして呆然としている美奈に、背中越しにそう別れの言葉を伝えた。
「ありがとう。お前と一瞬でも一生一緒に生きていけるかもしれない、なんて、そんないい夢を見させてくれて、本当に感謝している。」
ドアの前まで歩み、その一歩手前で立ち止まるとそう肩越しに美奈を振り返って、本当はありもしない感謝の言葉を美奈へ弱々しい声で投げかける。
そのままドアノブに手をかけると、今だ呆然としている女に向けて最後の言葉を俺は、ゆっくりと声を震わせながら、たっぷりと感情を込めて最後の仕上げを口にした。
「だから、お前は俺の事など忘れて、お前にも、お前の家にも相応しい男を見つけて――幸せになってくれ。」
わざとらしく声を詰まらせながら俺は俯き、肩を小刻みに震わせる。
そしてゆっくりと息を吸い込み吐き出しながら、足を更に一歩ドアに近づけるとドアノブを回す腕に力を込めた。
その瞬間。
ドンッ、と鈍い衝撃と共に、俺の背中に美奈が抱きついてきた。必死に細い腕を俺の腰に回し、行かせまいとするかのように足を踏ん張ってその場に俺を繋ぎ止める。
「嫌っ、嫌よっ!! 行かないで航矢っ!」
泣き声が交った声で美奈が俺を引きとめる言葉を口にした。
「私、私、絶対にあなたと別れない……っ、別れないからっ……!! あなたがなんて言おうと、私別れないわっ……! だから、ねぇっ、お願い、もう一度考え直してよ……っ、私の事、好きなんでしょ? 愛してるんでしょっ!? だったら、諦めないでよっ……、私も出来る限り協力するから……っ、航矢が自信持てるようになるまで、一緒に頑張るから……っ!!」
ぎゅうぎゅうと俺の体を抱きしめながら美奈はそう泣き叫ぶ。
声を枯らすように、その心の全てをその声に乗せて、美奈は俺を全身全霊で引きとめた。
そして俺は。
その言葉に、背中に感じる体温に、腰に回されている腕の力に、ゆっくりと、気取られぬように、そっと唇を歪めた。
勝利の笑みの形に。
親父が気を失い、床に倒れこむまで俺は親父の体をサンドバックに見立て殴り続けた。
気がつけばこっちの両手も血まみれで、どれだけ俺が酷く親父を殴りつけていたのかが解る。
ハァハァと肩で息をし、全身を濡らすほどの汗に多少の不快感を覚えた。
だが、それを気にしている時間は俺にはない。
チラリと腕に巻いている時計に目を走らせ、結構な時間を親父の粛正に使った事を知る。
とりあえず息を整えると、床に倒れこみ、ピクリとも動かなくなった親父の首筋に手を当て、その口元にもう片方の手を宛がい息と脈がある事を調べた。
幸か不幸か、親父はかすかながら息をし、脈もしっかりとある。
昔取った杵柄とやらか。
俺は自分でも無意識の内に急所は避け、死なない程度の暴行で済ませたらしい。
我ながら甘ったるい処置だとは思う。
だが、ここで殺人を犯してしまえば、俺はかなりの期間塀の中で過ごす事になる。
だからこれで良かったのだ。この屑をこの手にかけなくて、良かったのだ。そう自身に言い聞かせる。
死んだように気を失っている親父の腹にもう一発蹴りを入れ、親父の体を仰向けにすると俺は次の『仕事』に取り掛かることにした。
手早く親父の作業着のポケットというポケットを探る。
目的のものは程なく見つかった。それは尻ポケットに入れていた財布の小銭入れの部分に入っていた。
探していたものを見つけ、俺は瞳を細めてそれを見た後、自分のジャンバーのポケットに大事そうに収める。
そして、俺はこの部屋を後にした。
ビルの入り口付近に待機していた昔のツレに後始末を頼み、用意させていた車の鍵を貰うと、俺はそのまま渉のアパートへと向かう。
渉は今日、バイトで帰りが遅くなるはずだ。
それを見越した上で、俺は急いで渉のアパートへと向かった。
辺りに誰の気配も存在もない事を確認すると、ジャンバーのポケットからまずは手袋を出し、手に嵌める。そして、更にさっき親父から奪い取ったこの部屋の合鍵を取り出すとそっと差し込む。
カチャ、と小さな音がしてその扉は難なく開いた。
ドアを薄く開け、また辺りを伺う。
そろそろ夕闇に包まれ始めたその住宅街には、人っ子一人居ないかのように静まり返っていた。
アパート前の道にも、ブロック塀の向こう側にある小さな空き地にも人がいない事を確認すると、俺はゆっくりと背中から渉の住む部屋へと侵入し、音を立てないようにその扉を閉める。
そして、家の中を物色した。
狭いアパートの室内は思った以上に簡単に目当ての物を見つける事ができ、俺は作業をしながら緩く微笑んだ。
親父の持ち物だと思われるものを、それこそ唐突に家を出たと思われるように、必要最低限物色し玄関に置いていく。そして今度はそれを慎重に周りに住む人間に知られないように、俺はアパートの入り口に停めてある車に乗せていった。
程なくこれだけ持ち出せば不自然ではないだろうという程度に親父の衣類と金銭を持ち出し車に乗せ終えると、俺は渉の部屋のドアを親父から奪った合鍵で何事もなかったように閉め、そして、この場を後にした。
これで渉は、親父が渉の元を去った事を知るだろう。
そして、晴れて自由の身となる。
もう親父のあんな理不尽な暴力に怯える事も、親父の性処理として使われる事もない。
俺はそう、渉が親父から解放された事を信じ、妙にすがすがしい気持ちで車を運転した。
欲を言えば親父にさっき一筆書かせて、はっきりと別れを告げさせればよかったと思う。だが、そうして下手に渉が親父に対して未練や心配が残っては困る。
だから、きっと何も告げずにこうして去った方が渉にとっては良い筈だ。
そんな事を思いながら暫く車を転がしていると、バイトから帰ってきたであろう渉と偶然すれ違う。
長い前髪で顔を隠すようにして、俯き加減で歩く渉を流れる景色と共に見送り、俺はあいつがこれで俯かず前を見て歩けるとそう信じた。
――そう、この時までは俺はバカ正直に、自分がした事は正義で、渉にとって何も悪い事など起こらないと、盲目的に信じ込んでいた。
親父さえ排除すれば、それで渉が幸せになれると思い込んでいて。
そのバカな思い込みのせいで、まさかあんな風に渉がなるとは思わず、あんな悲しい渉の姿を見る事になるとは思わず。
ただただその時は上機嫌で、鼻歌交じりに車を転がしていた。
顔見知りの何でも屋に行き、車に乗せていた親父の服やら小物やらを一切合財、金に換える。
使い古された服や小物では大した金にはならない。だが、渉にあんな事をしでかした鬼畜への手切れ金ならこれで十分だ。
渡されたぐしゃぐしゃの紙幣と小銭を見詰め、俺は小さく笑う。
そして、また俺は鼻歌交じりに車を運転して、親父を転がしているのビルに一室に戻った。
「……お帰り。――まだ寝てるよ。」
ギィッと立てつけの悪い音を立てて鉄製のドアを開くと、ツレが俺を見てそう声をかけてきた。そして、俺の目を睨むように見る。その眼にはありありと、やりすぎだろう、と言った思いが現れていて、俺は小さく苦笑する。
だがそのツレの無言の圧力には言葉を返さず、俺は親父に近づく。
「……あれ、何。お前わざわざこいつの手当てした?」
視線を床の上に寝転がされたままになっている親父に向けると、その唇の横や腕などあちこちに絆創膏が張られたり、ガーゼや包帯が巻かれていた。
それを見て、ツレに視線を戻すと、そいつは面白くなさそうに口を開く。
「仕方ねーだろ。あのまま放置してたら死にそうだったんだからよ。」
ありありとまたお前はやりすぎだ、と言う感情が込められている言葉に苦笑だけで返し、俺は床の上に無様に転がっている親父の傍に立ち、その姿を見下ろす。
親父の顔は絆創膏だらけで、見るからに痛そうだ。
だが、余程俺のパンチが良い具合に入ったのだろう。
意識が綺麗にすっ飛んでいて、今の段階では痛みなど感じないほど深い場所に意識が落ちているらしかった。
「……さってと、こいつ、どうすっかなー。起きねーと話になんねぇし……。」
ツンツンとその体をつま先で突き、反応を確かめる。
だがやはり親父は目を覚ます気配はない。
仕方ないか、と思い、俺は親父の体の傍に腰を下ろすと、その肩を乱暴に揺すった。
「おいっ、起きろよ、親父!」
乱暴な口調でそう呼びかけ、親父の覚醒を促す。
すると、数度の揺さぶりで親父の瞼がぴくぴくと覚醒の痙攣を起こした。それから親父がはっきりと目覚めるまではものの数秒だった。
うぅん……と小さく唸り声を上げ、意識が戻ると同時に体中に走ったらしい痛みに顔を顰めると、ゆるゆると瞼を持ち上げぼんやりと俺の顔を見た。
だが、俺の存在をその意識が認めたらしい瞬間、親父の体に恐怖と言う名の硬直が走った。俺を恐怖の目で見上げる親父のその瞳に、俺はニヤリと凶悪な笑みを向ける。
そして口を開いた。
「ぐっすりとおねんねだったなぁ。お陰でアンタが眠っている間に全部済ませて貰ったぜ。」
「ぜ、全部……? な、なんの事だ……?」
「なぁに、簡単な事だ。渉のアパートにあったアンタの所持品は処分したって事だよ。」
「っ、な……っ?!」
驚き目を見開く親父に俺は口元を優越感で歪めながら、簡潔に今してきた事を親父に話して聞かす。
すると親父の顔が更に驚きに崩れ、声を詰まらせる。
そんな親父にくすりと笑いかけると、俺は親父に最終通告を突きつけた。
「って、事でー、これでアンタは綺麗さっぱり渉の元から去ったんだ。もうアンタはあいつの所に帰れない。……ほら、これがアンタの家にあったアンタの持ち物の代金だ。ありがたく受け取れよ。」
俺をまるで何か知らない生き物を見るような怯えた瞳で見る親父の肩に俺は馴れ馴れしく手を回す。
そうしながら、先程親父の持ち物を売り払った代金、千二十円を親父の手に無理矢理握らせる。俺に手渡された金と俺を最初は怯えた視線で見詰めた後、だが、俺に顔を覗きこまれ促されたからか、親父はその金を恐る恐る受け取りると、それに一瞬視線を走らせた後、親父は更に俺を怯えた目で見た。
そして、怯えと疑問符が浮かんでいる視線を再度手の中にある紙幣と小銭へと戻す。
親父の手の中には金の他に、一枚の紙切れと小さな金属が置いてある。それは、一枚の地図と渉のアパートの合鍵とは違う鍵だった。
「くく……それが、アンタの新しい住む場所への地図と鍵だ。なかなか良い場所見つけてきてやったんだぜー? 俺が世話になっている組の息がかかったアパートだ。喜べよ? なぁ、親父。これで俺はお前をちょくちょく気兼ねすることなく訪ねていけるようになったんだぜ? 嬉しいだろ? 親父。」
くつくつと喉を低く震わせて笑いながら、俺は親父にアパートの場所を懇切丁寧に説明をする。
そこは渉の住むアパートとはかなり離れた場所にあり、俺がチンピラをしていた頃の兄貴分が住んでいた場所だ。
勿論、他の部屋にも組の息がかかっているゴロツキ共がうじゃうじゃと居る。
その中でも特に懇意にして貰っていた人に、親父の世話は頼んでいた。
だから、親父はもう俺の手の内だ。
俺の目を盗んで渉の所へなど、戻らせない。
俺は俺の隣でまた顔面蒼白になり、小さく震えている親父の肩を残酷なまでの強さで握り締めた。
「だからさ、これから仲良くしよーぜぇ? お・や・じー?」
そう囁いた俺の言葉に、親父は歯の根が合わないくらいガチガチと震え始める。そして、ぐるり、と瞳が裏返るとそのまま、崩れるように気を失った。
その時の俺は、これ以上ない位有頂天になっていた。
この後、自分の犯した過ちに気がつくまで。