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NOVEL

罪悪感 航矢編
〜第八話〜

注意) 現在:女とのキスシーン

女は夢を見る。女の理想を形にした夢を。

まるで穢れなき少女のように。

ただの虚像でしかないそれを、大切にその胸に抱いて。

 俺の背中に抱きつき、一度は止めた涙をまた止めどなく流しながら女は、美奈は、低く嗚咽を漏らしている。
 美奈はこれでもう完全に俺の手の内だろう。
 それでも俺は、慎重に、慎重に言葉を選んで、美奈に声をかける。

「……俺と一緒に……? 本気か……? 本当に……俺と……。俺、なんかで……いいのか……?」

 声を震わせ、美奈の言葉に怯えているように聞こえる様に俺は声を絞り出す。
 背中からは変わらず嗚咽を漏らす声が聞こえて来ていた。
 だが、言葉の変わりに俺の腰に回されている腕に力がこもった。まるで、離さない、とでも言うべくぎゅうっと抱きつかれ、美奈の体温と体の柔らかさと、そしてその頬を濡らす涙の生温かい感触が背中全体に広がった。
 腰に回された美奈の腕に俺は戸惑いで震える手を握るか握らないかを悩んでいるように、空中で何度も何度も拳を握ったり開いたりを繰り返す。
 それを長い時間繰り返していると、美奈の方が焦れたらしく、突然片方の手を伸ばしてくると俺の手を掴み、自分からぎゅっと握り返してきた。
 そして美奈自身の言葉を俺に向けて嗚咽交じりに口にする。

「っ、……当たり、前、っ、でしょ……っ、私は、航矢と結婚するって、決めたんだから……っ。ひっく……っ、ず、ずっと、一緒に居るって、……っ、決めたんだから……っ。」
「……美奈……。」

 驚いたような、戸惑ったような声を出す。
 俺の言葉には口にした言葉以上に複雑な感情を込め、美奈がそれを汲み取るように仕向ける。
 すると美奈はまんまと俺の意図を読み取ったかのように、俺の背中に相変わらず嗚咽を零しながらも、強く、強く俺の手を握る事で返事を返してきた。
 そんな美奈に俺はまた戸惑いと、切なさと、苦悩を色濃く滲ませた声を出して美奈の気持ちを誘導していく。

「っう……、ぅ……、美奈……っ、俺はどうしようもない男だ……。そんな男を、どうしてお前はそんなに……。」

 男泣き、とでも言うように声を詰まらせ、震わせ、美奈に握りしめている手の中で手のひらをぐっと握りしめる。
 すると美奈も俺の背中で鼻を啜りあげ、震える声を出した。

「っ……だって、……航矢だけ、なのっ……っ、初めて会った時から、私には、航矢だけしか……っ航矢だけしかいらないから……っ。ずっと、ずっと……好きだったの……。神月さんの会社であなたを見かけた時から、ずっと……っ。」
「美奈……?」

 思いもしない美奈の告白に俺は、演技ではなく素で美奈の名を驚いたように呟く。
 そんな俺に美奈は更に俺の背中にしがみつき鼻を啜り上げながら、少しはにかんだようだった。そしてぎゅっと握りしめている俺の拳を解すように握り返すと、無理矢理指と指を絡めるようにする。
 重い荷物など持った事もない華奢な指が、意外なほど強い力を出して俺の指を絡め取り、離れまいとするように握りしめた。

「……あなたは覚えてないだろうけど、私、あなたがあの会社に入社した日に一度会っているのよ? 私は大学生で、たまたまパパと食事に行く途中にパパが用事を思い出して、あなたの会社に寄ったの。その時、会社の外でパパを待っている私に声をかけてくれたのが、あなただった。」
「……。」

 美奈の言葉に耳を傾け、記憶の随分と底に沈んでいた入社の日の事を思い出そうとする。
 ――そして、思いのほか早く記憶の底にある一つのシーンが引っ掛かった。
 確かにあの日。自分が入社する事になった金融会社が入っているビルの薄暗い入口に、女が一人佇んでいた。
 明らかにその場にふさわしくない服装をしている女の姿に、俺は酷い違和感を覚えたもんだ。だから、何の気なしに女に声をかけた。

「……『こんな所に女一人で突っ立ってたら危ないぞ。』……だったか……?」

 記憶の中に微かにあるあの時口にした言葉を、なぞるように口にする。
 すると背中から美奈の酷く驚いたような気配が伝わって来た。

「?! 覚えて……た、の……?!」
「いや、今思い出した……。しかし……、あれ、美奈、だったのか……。俺はてっきり……。」

 美奈の言葉に俺は緩く頭を振り否定をする。だが、すぐに複雑な思いをそのまま言葉に乗せて小さく呟く。

「迷子になった子供だって、思ったんでしょ?」
「あ、いや……、その……。」

 あの時俺の目の前に立っていた地味な女に対して感じた感想を、美奈が俺の背中で少し拗ねたような声で代弁した。
 それに俺は否定も出来ず、口の中で返事を濁す。
 だって仕方がないだろう?
 あの時俺が声をかけた女は、今俺の背中にしがみついているような派手な女じゃなかった。
 確かに身に着けている物は全て高級品ではあったが、どちらかと言えば地味な装いで、俺の声に驚いて振り向いた顔には化粧っ気すらなかった程だ。
 黒くストレートの髪に、金はかかっているが地味な服装、そして化粧っ気のない顔。
 だから俺は、それが美奈だとは思いもしなかったし、あまりにも印象に残らない程地味な女だった為、その女の存在自体今まですっかり忘れていた。
 それ程、今の美奈の姿と重ねてみても、全くと言っていいほど重なる個所がない。
 今、俺の背中にしがみついている美奈の姿とかなりイメージの違う女の姿を脳裏に思い浮かべながら、その変貌ぶりに改めて女の化けっぷりの凄さに小さく苦笑した。
 だが、それをそのまま認める訳にはいかず、美奈の言葉を一瞬否定しようと口を開きかけたが、美奈はそれを制するように口を開いた。

「いいの。そう思われても仕方ないもの……。だって、私だって、今あの頃の私を振り返ったら、なんて地味で子供じみた女だったんだろうって思うから。」

 くすり、と自嘲気味な笑い声を漏らしながら美奈は自身の過去を振り返るように言う。
 その話を聞きながら俺は、これは面白い展開になってきた、とそう思った。だが、その感情はおくびにも出さず、ただ黙って美奈の話を聞くふりを続ける。

「私ね、あの日までずっと地味な格好で生きてた。パパもママも派手な女はダメだって、成金の娘だからこそ清楚で、上品な女になりなさいって言ってて……。だから私もそれまでパパとママの言う事を真に受けて生きてきたの。」

 そこで一旦言葉を止めると、美奈はまた自嘲気味に鼻を鳴らして笑う。
 俺の背中にその額を押し付けながら、俺の手を不安気味に握ったり離したりを繰り返し、ゆっくりと呼気を吐くと続きを口にする。

「……だけど、あの時、あなたに声をかけられて、驚いて振り返った時。私、今でもあの時のあなたの顔覚えてる。いい年をして、化粧もしてない女の顔を見て、ちょっとだけ苦笑ながら、子供の居る所じゃないぞ、って……。私の頭をポンッって、本当に子供にするみたいに、撫でて……、だから、このままじゃいけないって……そう思って……、努力して……、努力して……それで、やっと、あなたの前に立つ事が出来たの……。」
「……美奈。」

 美奈の話に感銘を受けたように静かにその名を口にする。
 事実、多少の驚きと新鮮さを俺は美奈に感じていた。
 まさかあの時の地味な女が俺のあんな些細な、何気ない態度を気にして、ここまで変われるとは。女とはつくづく単純で、それでいて奥が深い。
 思いもしなかった美奈の告白に俺が関心をしていると、美奈は俺の背中にその頬を甘える様に擦り寄せ、握っている俺の手を確かめる様に撫でた。

「……ねぇ、航矢は、運命って信じる?」

 突然美奈から似つかわしくないロマンチックな台詞が飛び出し、俺は一瞬なんと答えればいいものか躊躇してしまう。
 運命。
 美奈が口にした言葉を、ゆっくりと口の中で声にならない声で転がす。
 そして心の中で、馬鹿にしたように笑う。
 そんなものは俺の中にはありはしない。
 運命なんて、そんな不確かなものよりも俺は俺自身の手で、力で自分の行く道も未来も決める。そうして生きてきた。
 だが、それを今の美奈にそのまま伝える訳にはいかず、俺は肯定とも否定とも取れない曖昧な言葉で言葉を濁す。

「……運命、……そう、だな、そういうものもあるのかもな……。」
「私はね、航矢。運命を信じているわ。だってあの時、あなたに微笑まれて、頭を撫でられて、初めて私は運命ってモノを目の当たりにしたの。まるで世界がバラ色に輝き出したような瞬間だったわ。だから私、その瞬間、航矢が私の運命の人だ、って。そう確信したの。」
「……。」

 俺の曖昧な返事をどう受け取ったのか。
 美奈は俺が口を挟む事など難しいほど、思いつめた真剣な声できっぱりと、運命を信じる、存在する、と言い切り、俺の背中に俺に対する『運命』と言うその思いをぶつけていた。
 そして声同様に美奈の腕は俺の体を強く抱きしめ、俺の存在そのものをその手の内に入れようと、縛り付けようとしているようで、俺は少しだけ内心で苦笑をする。
 だって、そうだろう?
 この女がどう言おうと、どれだけ断言しようと、俺とこの女の間には『運命』なんてそんな綺麗なモノはどこにもない。あるのはただの『打算』と『計算』だけ。
 これを言えば美奈は盛大に否定をするだろうが、この女だって本当は『運命』なんて馬鹿らしいものを信じているとは思えない。
 俺に惚れているのは事実だろうが、それが『運命』なんて下らないものに寄って形作られたものである筈はない。
 いい年をして今更、乙女や可愛らしさの演出も何もあったもんじゃないだろうに。
 そうは思うが俺は美奈の言葉を否定はせず、ただ無言で美奈の手を握り返す。

「航矢。」

 俺が手を握り返したのを『運命』とやらの肯定だと取ったのか、美奈は俺の背中で嬉しそうな声で俺の名を呟いた。
 その声を聞きながら俺はこれ以上美奈から運命だとか、そんな下らない薄っぺらい言葉を聞き続けたくなくて体を反転させると、少しだけ驚いたような顔をした女の体を腕に抱きいれ、そして、泣き腫らして真っ赤になっている女の瞳をじっと見つめる。
 美奈は俺に突然抱きしめられた事にびっくりしたのか、戸惑ったような表情で、だがそれでも俺の瞳を見つめ返していた。
 俺は真剣な瞳を作り、それからゆっくりと口を開く。

「美奈。お前が俺の事をそんな風に想っていてくれてたなんて、思いもしなかった。……本当に、そんな風に想ってくれていたお前を、あんな形で裏切って……本当に……、すまない……っ。」
「航矢……。」

 美奈の体をぎゅっと抱きしめ、俺は後悔の念をその顔一杯に広げると、美奈の栗色の髪に鼻先を埋めながら震える声で謝罪の言葉を口にする。
 そんな俺の言葉に美奈はなんとも形容しがたい複雑な思いを言葉に、顔に込めて俺の名を呼ぶ。
 美奈の声に俺はふるふると頭を振ると、もう一度強く美奈の体を抱きしめた。

「今まで本当に、すまない。俺はダメな男だ……。」
「っ、航矢……っ、そんな、そんな事ないわ……っ!

 俺の自虐に美奈が被り気味に否定をする。
 それに深く自虐的な笑みを向けながら俺は、美奈の体をそっと離した後、その足元に膝まづいた。

「航矢……?」
「美奈……。そんな俺だけど……、お前のその優しさに甘えても……、いいのなら……、俺に……、俺にもう一度だけチャンスをくれないか……?」

 恭しい仕草で美奈の手を取り、その甲に頬を寄せる。
 そして上目使いで美奈の顔を見上げ、そう情けない男のふりをしてお伺いを立てた。
 すると美奈の泣き腫らしていた瞳が希望に輝き、握りしめていた手を振り払うと、美奈は俺の首にむしゃぶりつくようにしがみついてくる。

「航矢……っ!! 勿論よ……っ!」

 耳元で美奈の泣き笑いのような喜びが溢れている声を聞きながら、俺はある種本心からの愛おしさを込めて抱きしめ返した。
 そして上向かせた美奈のその唇に俺は愛しさと、その華奢な体の向こう側にある富と権力と力を見据えながら、ゆっくりと己の唇を押し当て、女の理想の男を演じる。
 全ての事が、完全に終わるまでは。
 甘い女の幻想に付き合うほか、俺の道はないのだから。

◆◇◆◇

 まさか渉があんな事になっているなんて俺は微塵も想像できていなかった。
 なにせ諸悪の根源は全て取り除いた、そう思い込んでいたから。
 だから俺は、あの悪魔から自由になった渉が明るい表情をしてあのドアを開けて俺を迎えてくれるだろうと、俺はずっとそんな自分にとってだけ調子のいい妄想を頭に思い描いていた。
 だが、あのクソ親父をあの部屋から追い出して十日以上が経ったある日。
 もうそろそろ会いに行っても不自然ではないだろう、そう判断し俺は浮き浮きとした気持ちを精一杯押し隠しながらあいつの住むアパートの前に立っていた。
 だが、その時になって初めてあいつの、いや、あいつの部屋の異変に気が付く。
 俺の仕事が終わってから会いに行ったのだが、もうすでに暗くなっているというのにあいつの部屋の窓には明かりすら点いていない。
 確か今日はバイトは休みの筈……。
 もしバイトだったとしても、もうすでに夜の10時を回っているというのに部屋が真っ黒なままだと言う事に俺は違和感を覚えた。
 ひょっとしてもう寝ているのだろうか、そんな事を思いながら玄関の薄い金属のドアに耳を当てて中の様子を窺う。しかし俺の耳には部屋の中の音は全く聞こえてこない。
 だから俺は一瞬、俺自身が渉のバイトのシフトを覚え間違えているだけなのかと思った。
 今日は休みではなく、ひょっとしたら出勤で、バイトに行っているとか……。
 そう思い、俺は肩から提げているビジネス用の鞄の中から手帳を取り出し、パラパラとめくる。
 手帳の中には渉のバイト先の女店員から手に入れたあのビデオショップで働いている人間のシフト表が挟みこまれていた。
 シフト表を薄暗い中目を凝らして見詰める。
 仁科渉の欄を指先でなぞり、上部に記入してある今日の日にちを確かめると、やっぱり今日は渉は休みの予定だった。
 ひょっとして親父の手から自由になって、渉自身がそれを謳歌し、外にでも遊びに出ているのだろうか。
 そんな予測がちらりと頭の中を過る。
 だが、あの渉に限って夜に遊び歩くなど考えられなかったので、俺は暫くドアの前で俺は立ち尽くしこれからどうするかを考える。その最中、ふと視線を動かすと、台所の前にある窓がまた薄く開いている事に気が付く。
 不用心だな……。
 そう思いつつまるで導かれるようにその隙間に引き寄せられ、俺は暗くなっている渉の部屋を覗こうと瞳をその隙間にくっつけた。
 暫くは目が暗闇に慣れず部屋の中がどんな状況になっているのか、全く理解できなかった。
 それでも目を凝らして見続けていれば徐々に暗闇に目が慣れ、次第に部屋の中の物の輪郭がおぼろげに解ってくる。すると部屋の中に人気がない事が解った。
 その事に、やはり渉は外出中か、と思い、今日は諦めて帰るか、そう一瞬思った。だが、前に親父の持ち物を処分した時となんだか部屋の中の様相が様変わりしているように思え、確認するようにギョロギョロと瞳を動かして室内を見える範囲で観察する。
 そして、気が付いた。
 かろうじて視線が届く壁に、何か、等身大の人形のようなものが置かれている事に――。
 その存在に気が付き、俺はギクリと身を固める。
 必死になって目を凝らし、その等身大の人形を凝視する。
 すると闇の中におぼろげに輪郭が浮かび上がり、そして、壁に寄りかかり俯いているソレが、人形などではない事に気が付いた。
 頭の中に、最悪の事態が思い浮かぶ。
 あっ、と思わず小さく声を出し、慌てて玄関まで行き呼び鈴を押そうかと手を伸ばす。
 だが、呼び鈴を押した所で、もしあれが本当に俺の想像通りだとしたらこのドアは俺の力では開ける事は出来ない。
 仕方なく他の手を考えようと顔を上げると、またあの台所の隙間が目に入った。
 あそこがもし俺の体を通すくらい開くのだとしたら、そこから侵入すれば渉の状態がはっきりと解る。そう判断すると、俺はらしくもなく辺りを窺う事もせず、その窓へと手をかけた。
 力を込めると多少立てつけは悪かったものの、それはガタガタと音を鳴らして横へとスライドした。そしてなんとか体を潜り込ませるだけの隙間を作る事が出来ると、俺は窓枠に手をかけ、よっ、と声を出してその窓へとよじ登る。
 だが、その瞬間。

「泥棒ーーっ!!」

 誰かの声が鋭く俺の耳をつんざいた。
 思いもしなかったその声に驚き、窓にかけていた手から力が抜け俺は無様にもそのまま地面へと尻から落ちる。
 ドスン、と鈍い音が響き、尾てい骨から鋭い痛みが上がってきた。

「ぅ……っ、痛ぅ……っ!」

 痛みに小さく呻き、視線を上げるとちょうど渉のアパートの前にある道路から一人の男が俺を指さしながら、しきりにデカイ声で「泥棒!! ドロボー!!」と叫んでいた。

「ててて……、え、なんだ……? 泥棒……?」

 一瞬今の状況が冷静に判断できず俺は痛みに顔を顰めながら、男が叫ぶ言葉を呆然と呟き返す。
 しかし男の周りに泥棒が出たと叫ぶ声のでかさで静まり返っていた住宅街のあちこちから人が出て来るざわざわとした雰囲気を感じ取ると、俺は痛みに顔を歪めながら一瞬どうするべきかを考える。
 だが、男が叫びながら鞄からケータイを取り出すとどこかに電話をかける素振りをした。
 それを見た瞬間、俺は本能的にヤバいと感じ立ち上がると、痛みを感じるのを無理矢理押し込め男が居る方向とは反対方向に走り出す。
 後になって冷静に考えれば何も俺自身はやましい事をしていなかったのだから、その場に残ってその男や恐らく男が呼んだであろう警察官に事情を素直に話せば良かったのだろう。
 だが、俺は自分が就いている職業や今までの悪行のせいで、警察という組織が何よりも嫌いだった。
 そのせいでその時の俺はほとんど条件反射のように男の前から逃げ、渉の安否が解らぬまま駆け出してしまった。
 そして俺が漸く冷静さを取り戻したのは渉の住むアパートが見えなくなった頃で。
 ここの所少し運動不足だったせいか、すっかり息は上がり、走りにくい窮屈な皮靴のせいで足の指が痛くなっていた。
 ゆっくりと走る早さを緩め、俺は肩で息をしながら道と住宅を分かつブロック塀に手を突いてそこで漸く足を止める。
 ドクドクと脈打つ心臓の音に耳を澄ませながら、俺は息を整え、そして、その時になって俺は激しく後悔をした。
 何故あの時、逃げ出してしまったのか。
 何故あの男に自分の身は潔白だと説明しなかったのか。
 後悔が頭の中を渦巻く。
 それにあのままあの場所に居れば、俺は渉の安否を自分の手で知る事が出来た。
 その事に思い当たり、俺は今逃げてきた道を肩で息をしながらゆっくりと引き返す。
 ――しかし。
 後ろから突然けたたましいサイレンの音が響いてきて、俺はビクリと思わず身を固める。
 そして、恐る恐る振り返った俺の横を俺を追い抜くようにけたたましくサイレンを鳴らしながら救急車が走り抜けて行った。
 その救急車の姿に俺は何故か異様な禍々しさを感じ、暫く呆然と走り去る救急車の姿を見送る。
 目で追いかけていると俺を追い抜き救急車が向かっている先は、今、俺が走って来た道と寸分たがわなかった事に気がついた。
 それが解った瞬間、俺の中で不安が一気に膨れ上がり、思わず弾けるようにその救急車の後を追いかけて走り出す。
 見る見るうちに遠ざかっていく救急車を追いかけ、心の中で祈る。
 俺の想像通りじゃない事を。
 俺がさっきまで居た場所に救急車が向かっていない事を。
 そして。
 渉……、わたる……っ、頼む、無事で居てくれ!!
 そう心の中で叫び、俺は学生時代以来初めてじゃないか、と言うくらい必死になって全力疾走した。

 こんなにも神に祈ったのは、恐らく初めてだった。
 そして自分自身の行動を後悔した事も。











to be continued――…