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NOVEL

罪 悪 感  〜第十話〜

注意)

この幸せはいつまで続くんだろう?
ずっと?死ぬまで?





本当に?

 俺達はゆっくり、ゆっくり時間をかけて、沖縄まで旅をした。
 その旅の中で俺達は、昔を取り戻していく。
 仲の良かった『幼馴染』という関係を。

 だけど、俺は――。

 いつからだろう。
 航矢に対して『幼馴染』以上の感情を抱えていた事に気がついたのは。
 航矢の全てに俺は『男』を感じ、その全てに鼓動が高鳴る。
 こんな感情は初めてで。
 こんな胸の高鳴りは初めてで。
 
 一也さんに対しても、崇さんに対しても感じた事のないこの感情。

 胸が苦しくなる。
 胸が痛くなる。

 だけどそれは、酷く甘い辛さと痛みで。

 俺は、きっと自分自身の意思で初めて『恋』をしたのかもしれない。

 でもこの『恋』は叶わない。
 だって、航矢はノーマルな男だから。
 ゲイをホモを、激しく毛嫌いして、嫌悪して、憎悪しているから。
 どうあがいても俺達は、想いあう者同士にはなれないだろう。

 だから、きっと俺達は永遠に幼馴染のまま。
 この恋は、きっと永遠に叶わない。


 だけど、俺はそれでも、泣きたくなる位幸せ、だった。





 列車を乗り継ぎ。
 時にはバスに乗り。タクシーも使って。
 移動の時間。
 ホテルに泊まった時。
 起きている全ての時間には空白の時間を埋めるように、俺達は会話をした。
 子供の頃の話。
 両親の離婚の事。
 俺と一也さんの事。
 家を飛び出た後の航矢の事。
 俺達が再会をした後の話。
 そして、現在(いま)の話――。
 これからの話――。
 そんな話を何度も何度も繰り返して、俺達は旅をした。

 二人揃っての逃避行は酷く、優しく、幸せなモノで。
 俺達はゆっくり、ゆっくり、旅をした。




 そして、終点・目的地についてからはあっという間に月日は流れて行った。
 気がつけば俺達が生まれ育った場所に背を向けて、半年が経過していて――。

 

 俺と航矢は今、安アパートを借りて二人で一緒に住んでいる。
 保証人の必要の無いこのアパートをすぐに見つけられたのは、ラッキーだった。
 俺達はすぐに契約を済ませ、必要最低限の家具を買い込みそこで新たな生活を送り始めた。
 そして仕事も航矢は早々に見つけ、俺も航矢に遅れること数週間後には近所にあるコンビニのバイトをし始めた。航矢は、土建業の仕事だ。
 いかにも俺達らしい仕事のチョイス。
 東京に比べ遥かにバイト料の安いこの地は、だが、その分生活にかかる金も少ない。
 俺達は二人働いてそれなりの生活を過ごしていた。
 確かに生活は決して楽なものではなかったが、子供の頃に戻ったように俺達は仕事以外はほぼ一緒に過ごし、休みの日にはあちらこちらを歩いて回った。
 それはとても心安らぐ生活で。
 俺はなんだかもうずっとこうやって航矢と二人で、暮らしているような錯覚に陥ってしまう。
 父と母の離婚も、その後の航矢の父と自分の母親との結婚、引き篭もり、そして航矢父と母の離婚、それから後の自分の転落人生。
 それら全てがまるで夢だったような、そんな幸せな錯覚――。
 ずっとこうして錯覚に溺れて生きていけたらいい、そんな浅はかな事さえ願ってしまう。
 だが、今までの俺の堕落した生活は決して俺を逃す事はなかった。

 俺が望もうと、望まなかろうと。

 ――体が、疼くのだ。

 最初はこのセックスを必要としない生活はとても楽で、幸せな事だと思っていた。
 セックスがなくても自分は生きていける。航矢が傍に居てくれてるだけで、充分満たされている。
 そう思っていた。
 なのに。
 現にそうだったはずなのに。そうなのに。
 そんな気持ちが霞むほど、俺の体に染み付いた習性は俺を簡単には許してはくれなかったらしい。
 航矢と暮らして半年。
 その半年の一日だって、一度だって、セックスをしてない。したいとも思わなかった。
 否。したい、だなんて思わないようにしていた。
 だって、誰としたらいいんだ?
 航矢は俺に対して、幼馴染以上、友情以上の気持ちなんて持ってない。それになにより、航矢は男同士のこういった行為を酷く嫌っている。
 それを知っているのに、航矢に俺の勝手な欲情を押し付ける訳には行かなかった。
 かといって、まったく見知らぬ男と、だなんて、今はもう絶対に嫌で。死にたくなるほど、嫌で。
 男が欲しい、と体が疼く反面、知らない男との性行為を嫌悪している俺が居る。
 お陰で最近は、夜も余り寝れず隣で寝ている航矢の体温や体臭にさえ、欲情しそうになる自分を必死に抑える日々が続いていた。





 そんなある日――。

「渉。」

 やけに早く航矢が帰って来て、玄関を開けるや否や俺に声を掛けてきた。
 俺は夕食の支度をしていた手を止めて、玄関で靴を脱いでいる航矢に顔を向けると、お帰り、と言葉をかける。
 と、靴を抜いて部屋に上がりこんだ航矢が、ずかずかと俺に向かって直進してきた。

「? 航――ぅあ!?」

 余りにまっすぐに向かってくる航矢に俺は目を瞬かせながら、航矢の名を呼ぼうとした。しかし、航矢の名前を全て言う前に航矢は俺の手首を掴むと、怒った様な顔をして俺を強く引っ張る。
 その強引な引き寄せ方に俺は、目を白黒させながら航矢に向かって倒れそうになる自分の体のバランスを取ろうと、その場で二、三歩たたらを踏む。だが、もう一方の航矢の手も伸びてきて俺の腰を掴むと無理矢理航矢の方へと、引き寄せられた。
 結局俺の努力の甲斐もなく、俺の体は航矢の腕の中にすっぽりと納まってしまう。

「なっ、何すんだよ! 離せよっ! 航矢!!」

 頬に当たる航矢の作業着越しに感じる胸板の感触に俺は慌ててしまい、思わず航矢の体から離れようとその腕の中でじたばたともがきながら、精一杯の虚勢を張った声を出して航矢を責めた。
 だが、航矢はやけに難しい、怒ったような顔で俺を見下ろしていて。
 その、間近で見る航矢の端整な顔に、俺は顔に血が上っていくのを止める事が出来なかった。

「渉。お前、今日コンビニで倒れたらしいじゃねぇか。」
「っ! そ、それは――。」
「お前、最近ちゃんと寝てねぇだろ?」

 じたばたと航矢の腕の中で暴れる俺の体を、難なくその二の腕だけで押さえ付けながら航矢は、俺をムッとした顔で睨み付けながら低い声でそう聞いてきた。
 航矢に言われた言葉に、俺は一瞬返答につまり、どう言い訳をしようかと頭を働かせる。
 しかし、俺が何かを言う前に航矢は深く溜息を吐くと、俺の腰に回していた腕を移動させた。そして、俺が反応するよりも早く、航矢は俺の膝の後ろに腕を潜り込ませると一気に俺の体を持ち上げた。

「うっ、わわわっ……っ!? こ、航矢……、な、何す……!」
「うるせぇ。いいから、お前はもう寝ろ。飯は当分俺が作る。お前は暫く店、休め。――いいな?」
「なっ、そんな事、出来るわけねぇだろっ! 規模小さいってもあそこ結構客、来るんだぞ! 俺がそんな休んだら他の店員とかに迷惑かけるじゃんっ!」
「大丈夫だ。もう店長とは掛け合ってきた。」
「……っ!?」

 軽々と俺を抱き上げ、隣の部屋に俺を運びながら航矢は淡々と俺に対してそんな指示を出してくる。
 そんな航矢の勝手な言い分に、俺は目一杯航矢に抱きかかえられた腕の中で暴れながら、反抗をする。だが、俺の反抗などお見通しだったらしく、航矢は飄々とした顔でそんな俺が驚くような事を言ってきた。
 その余りの用意周到さに、俺は一瞬言葉を失い、暴れる事も忘れて、ムッツリと口をへの字の曲げている航矢の顔を見上げた。
 航矢はやっぱり、酷く怒ったような顔をしている。
 だけどそれは俺の体の心配をしているからこその表情なのだと、俺はその時になってようやく気がついた。
 無愛想で、ぶっきら棒の癖にやけに優しい航矢。
 その伝わり難い優しさに、胸の奥がジーンと熱くなる。そして、自分の頬が赤く染まるのも解った。
 途端、今まで必死に航矢に対してだけはダメだ、と抑えて来たセックスへの欲望が急激に腹の中に膨らんでいく。
 そのまるで爆発したように膨れ上がった堪えようのない欲情に、俺はどうしていいか解らなくなり思わず航矢の首にしがみついていた。

「? 渉?」

 俺が航矢の首に両腕を回してしがみついてきた事に驚いたのか、航矢は歩みを止めて俺の名を呼んだ。
 その低い“男”の俺を呼ぶ声に、俺の体の奥からゾクゾクとした快感が駆け上ってくる。下半身から、背骨を伝い、脳みそまで駆け上がってくる久々の感覚に、俺はブルリと体を震わせて更に航矢の首にしがみつく。
 それは自分の中で膨れ上がってくる“欲情”と言う獣に恐怖を抱いたから。
 しかしそれは逆効果だった。
 航矢の首にしがみつく事で、航矢の仕事終わりの強い汗の匂いが鼻腔をくすぐる。
 それは、確実に、男の汗の匂い。
 むせ返るような男の匂いに、俺はくらりと眩暈を感じた。
 慌てて航矢の首にしがみついていた腕を引き剥がし、俺を心配そうに見下ろす航矢の顔をなるべく見ないようにしてその腕の中から降りようとする。

「おいっ、渉? お前、何……。」
「っ、航矢、離、せっ! 降ろせ!! 頼むからっ!!」
「渉……!?」

 必死になって航矢から顔を背け、その腕の中から逃げ出そうとする俺を航矢はかえって落さないようにと、自分に引き寄せようとした。それを俺は航矢の肩に置いた手を突っぱねる事で阻止する。
 俺のその急激な態度の変化に航矢は俺を落さないようバランスを取りながら、驚きに満ちた目で俺の顔をまじまじと見詰めていた。

「ダメ、なんだ! 航矢、お前だけはダメなんだっ! だから、降ろして! 自分で歩くからっ!! 大丈夫だから!!」

 横顔に突き刺さる航矢の視線に、唇を噛みながら俺は少しでも航矢から離れようと腕を突っぱね、顔を向こうに背ける。
 そんな俺をどう思ったのか。
 航矢は、一つまた深い溜息を吐くと、俺の体をゆっくりと畳の上へと降ろしてくれた。
 足の先が畳の感触を感じた途端、俺はホッとして航矢の体を突っぱねている腕の力を緩める。
 それがいけなかった。
 俺の腕の力が抜けたことを察知した航矢は、俺の足が完全に畳につく前にまたしても一気に俺を抱き上げる。

「――っ航矢っ!!」

 また航矢の体に触れ、体臭を感じパニックに陥った俺は、金切り声のような悲鳴を上げてしまった。
 その声に航矢は五月蝿そうに顔を顰めながら、今度は離れやすい横抱きではなく俺の体をまるで荷物のようにその肩に担ぎなおす。
 航矢の広い背中に顔が当たり、むわっとする汗の匂いが俺の鼻腔を強く刺激した。そして何より。俺を担いだ航矢の手が俺の尻を支えるように掴んだ事に、更にパニックになる。
 バレる――!!
 その恐怖感だけが俺の胸のうちを染め上げ、航矢の背中に滅茶苦茶に拳を振り下ろした。

「降ろせっ! 降ろせってば!!」
「イテッ、イテーって、渉。力、加減しろよ。お前が幾ら非力でも、やっぱ殴られりゃイテーんだからよ。」
「っ、ならっ!! 降ろせよっ!!」
「ヤダね。いいから。黙って運ばれてろ。」
「イヤダって言ってるだろ!!」
「まったく、聞き分けのねぇ奴だな。じゃぁ――。」

 航矢の言いかけた言葉に俺は、降ろしてくれるのか、と期待を持った。
 しかし、その次に続いた言葉は俺の想像を遥かに超えている、言葉で――。
 航矢の言葉を耳にしてから、航矢が実際に行動に移すまでの時間は俺にとって、一瞬であり、そして。

 永遠だった――……。

◇◆◇◆◇

 関係が変わった。
 傍目から見ただけでは、どこが変わったか解らないだろうけど。
 確実に。
 俺達の関係は変わっていた。


 俺を犯していた首謀者の男が行方不明になってから、五ヶ月が経った。
 あの日。
 一体俺の身に、そして何より、あの男の身に何が起こったのか。
 ボスも、あの時周りに居た人達も決して俺には話してくれないけど、俺にはもう何もかもが解っていた。
 あの男は、大西さんは死んだんだ――。
 それも銃で、頭を打ち抜かれて。
 あの時、俺の上に振ってきたシャワーはあの男の血と脳漿だ。
 だからボスはあんなにも俺に目を開けるなと強い口調で命令をして、あんなに丁寧に体を洗ってくれた。俺の体にこびりついた大西さんの血と脳漿を俺に、見せないように気遣って。
 そのボスの優しさに、そして、人一人を殺しても平然としているその恐ろしさに、俺は今までのようにボスに相対する事が出来なくなっていた。
 見た目は今まで通り、従順に。
 ボスの愛玩動物としての役割を忠実にこなしてはいたが。
 だが、心の中ではボスに対する恐怖心と、愛情がごちゃ混ぜになり、ただただボスに奉仕する事も体を開く事も苦痛になっていた。
 その俺の変化に、ボスが気がつかないわけはなく。
 ボスは俺を気遣ってか、それとも、そんな俺に愛想をつかしたのか、前と変わらず俺の元には通っては来るが、俺を抱く頻度は前の半分以下になっていた。
 一週間に一度。
 最近はもっと頻度が落ちてきて、一ヶ月に一度程度。
 しかも、何故か前のあの獣じみた仕方とは違ってやたらに優しく、丁寧にボスは俺を抱いた。
 まるで、普通の恋人同士のように……。
 それはかえって俺の中にある、ボスに対する恐怖心を膨らましてしまう。
 抱き方一つとってもこれだけの変化があった。
 そしてなにより、一番の変化は。

 あの事件以降、今まで俺の傍に居た“監視者”が、一人も居なくなっている事――。

 もう俺に監視者をつける必要がなくなったと、ボスが判断したんだろう。
 あの事件の数週間後には、いつも俺の傍に居た男達は一斉に姿を消した。
 そして二度と俺の前に姿を見せる事はなかった。
 このボスの処置に俺は、ボスがいよいよ俺に対して完全に愛想を尽かしたのだと言う事をまざまざと実感した。
 俺はもうお払い箱。
 つまりそう言うことだ。
 俺の元に残ったのは、この高級マンションの一室と、一応今だ支払われている毎月の“手当て”、そしてお義理程度にたまに通ってくるボスの微かな残り香だけ。
 そんな状態だから、きっといつか手当てもなくなり、この部屋さえも追い出されるだろう。
 それが解っていたから、俺はいつからかたった一人で、本当に一人でだだっ広いこの高級マンションの一室で追い出される時の為にと荷物を纏めたトランクケースを傍に置いて、ぼんやりと過ごす事が多くなっていた。
 俺一人で使うにはむやみやたらに広いこの部屋で、トランクケースだけを横に置いて。
 お陰で誰とも話す事のない日が、一週間以上続く事も珍しくない。
 ただぼんやりと広い部屋のリビングで、あの忌まわしい出来事のあったリビングで、俺はあの時とはまったく違う家具に囲まれてテレビやDVDを見て過ごす。
 そうしながら、俺は時折あの日の事やボスと過ごしたこの一年半を思い出しながら、自分の中に吹きすさぶ無気力と言う名の風にただ流されていた。
 朝起きて、運ばれてくる食事をもそもそと一人で食べ、テレビを見て、暗くなったらシャワーを浴びて寝る。
 そんな日々を繰り返して気がつけば、前回ボスが訪れてから一ヶ月以上経過していた。




「……なんだか凄く、久しぶりですね。崇さん。」

 思わずそう口に出してしまうほど、久々に訪れたボスを玄関で迎え、いつものようにシャンパンとチーズ等の軽いおつまみを気難しい顔をしているボスの前に出す。
 だがボスは俺の出した酒にもつまみにも一向に手を出す素振りはなく、そして俺の言葉にも答えを返す事はなかった。
 ただ機嫌の悪そうな顔をして、深くソファに腰をかけ腕を組んで俺を睨みつけている。
 そのボスの態度に俺は言いようのない不安を感じた。
 ひょっとしたら今日を限りにここから出て行け、と言われるのではないかと思い、部屋の隅に移動させたトランクケースをチラリと目の端で確認する。
 あの中には当面の着替え、そして今までボスから支払われてきた手当を貯金している通帳が入っていた。頂いた手当てはほとんど手付かずのまま、通帳の中で眠っている。あれだけの金が有れば、かなりの期間仕事をしなくても生活していける筈だ。
 その事を頭に思い描きながら、俺はボスに合わせて同じようにただ黙ってボスの前のソファに座っていた。
 そうして一体何分、何十分経ったのか。
 腕を組んでいたボスが突然その腕を解き、俺に向かって手を伸ばしてきた。

「渉。」

 短く硬質な声で俺の名を呼ぶ。
 その声に、突然伸びてきたボスの手に、俺は少しだけ緊張しながら覚悟を決めてボスの次の言葉を待った。
 しかしボスの手が俺の頬に触れ、ゆっくりと指先が輪郭を辿った後。
 ボスは腰を降ろしているソファから薄く腰を浮かせると、それ以上の言葉を重ねる事無く俺の顔を強引に引き寄せてキスをしてきた。
 てっきり最終通告を受けるものだと思っていた俺は、ボスの意外な行動に驚き、まるで初めてキスをされたかのように体を固めてしまう。ボスの舌が唇を割って入ってきても、俺は今までのようにすぐさま反応を返す事さえ出来なかった。
 そんな俺に構わずボスはその舌で俺の咥内を、たっぷりと時間をかけて余す所なく舐め上げると俺の口を漸く開放する。

「――渉。」

 そして唇を俺の唇に薄く当てたまま、また俺の名を呼んだ。

「は、はい……。」

 ボスの呼びかけに俺は、オドオドと小さな声で答える。
 それにボスは小さく苦笑をすると、俺の頭を抱き寄せてきた。またもや予想外のボスの行動に、俺はボスの胸に顔を埋めた格好のまま目を白黒させる。

「お前、幼馴染がいるそうだな。」

 抱き寄せた俺の頭を優しい手つきで撫でながら、ボスは本当に俺のまったく想像外の事を聞いてきた。
 突然聞かれたその問いに、俺はどう答えればいいのか迷う。
 確かに俺には幼馴染と呼べる男は、居たが……。だが、アイツはもう俺を幼馴染だとは思ってばいないだろう。そんな相手の事を、軽々しくボスに伝えていいものか。
 そんな葛藤が俺の中を巡る。
 だが、俺の葛藤を他所にボスは俺の答えを待たず、口を開いた。

「渡良瀬航矢――お前の幼馴染の名は、そう言うのだろう? しかも我が社の金融部門でかなりいい成績を収めてる優秀な奴で、私の会社に入社する前もなかなかに素晴らしい経歴を持ってる男らしいな。……主に暴力沙汰の方だが。……あぁ、それから、お前を私の会社に入社させた人間だと、お前と初めて会った時に川崎に聞いたな。」

 そこで一旦言葉をとめると、ボスは何を思っているのか少しだけ間を置く。
 そして、俺の頭上で小さな溜息を吐いた後、軽く息を吸い込むと続きを口に上らせた。

「そいつ、女が放っては置かないような、かなりの美形だとも聞いたが……だが渉。私はお前の口からこの幼馴染の話を一度も聞いた事がない。それはそいつはお前にとってただの幼馴染ではないからか? お前が心を通わせていた相手だったからか?」
「……何故?」

 ボスが俺の幼馴染の事をすらすらと話すのを聞いて、俺は頭の中が真っ白になっていた。ただ、何故、という疑問符ばかりが浮かんでは消える。
 何故、今更そんな事を聞くのか。
 何故、今アイツの事を調べたのか。
 何故、俺とアイツの関係を邪推しているのか。
 何故、何故、何故……。
 そればかりが頭の中を巡り、その事だけに気を取られていた俺は、ボスがその時どんな顔をして俺を見下ろしていたのか知らない。
 だが、続いたボスの言葉に俺は驚き、顔をボスに向けた。

「その幼馴染が、資産家の娘に見初められたらしいぞ。彼女の父親から、私の方に先日そう連絡があった。恐らくもう本人にもコンタクトを取ってるだろう。そして私の見解では、お前の幼馴染はこの話を受ける。――渉、お前はこの事を知っていたか?」

 航矢が資産家の娘に見初められた――?
 そんな事、知らない。
 だって俺達はもうずっと連絡を取っていない。うぅん、取る事なんて、出来なかった。
 ボスの目がずっとあったから……。俺の全てをボスに捧げていたのだから……。
 ボスからの驚きの報告を聞き、俺はそんな事を考えながら首を緩く左右に振る。

「本当か? 本当に、知らなかったのか?」

 だが俺の否定が信じられないのか、ボスはもう一度強い口調でそう問い質してきた。

「……知らない、知りません。初耳、です。」
「だが、お前と幼馴染はその関係を邪推するに足るほど、非常に仲が良かったと聞いた。なら、何らかの連絡があってしかるべきではないのか?」
「なっ……! そんな、そんな連絡なんてありません! アイツとは、うぅん。アイツだけじゃない。俺は貴方のモノになってから、『外』とは一切連絡を取ってない。それは崇さんだって、知ってるでしょう? 俺が、貴方と貴方が俺の周りに配置した人間以外とコンタクトとってない事ぐらい。俺の今の世界は、ここだけ、だってのも!!」
「…………そうだったな。」

 再度問われた事に、俺は少し強い口調できっぱりと否定をする。
 その俺の言葉の真意を探るようにボスは暫く無言で俺の瞳を覗き込んでいたが、漸く納得したのか眼鏡の奥の切れ長の瞳を少しだけ伏せると、溜息と共に俺の言葉を認めた。
 そしてボスは、俺を体ごと自分に向けて引き寄せる。
 俺の髪に鼻先を埋め、優しくそこを大きな掌で撫でながらボスは言葉を続けた。

「渡良瀬には近日中に今回の話の返答を聞く。その答えの如何では、恐らく急速に話は進んでいくだろう。」
「……そうですか……。」
「渉。渡良瀬航矢に会いたいか?」
「え――?」

 突然振られた言葉に俺は、言葉に詰まる。
 航矢に会いたいか――?
 そんな事を何故ボスが聞くのか解らなかった。そして、この問いへの自分自身の答えも。
 自分の気持ちが解らなかった。
 久々に航矢の名前を聞いて、心がざわめいたのは確かだ。
 だけど。
 ……解らなかった。
 俺が返答に困ってボスの胸に顔を埋めていると、不意に頭上から微かな溜息の音が聞こえた。俺は、だけど、自分の中に湧き上がっているざわめきに気持ちを持っていかれていて、ボスの零した溜息の意味を考える余裕はなくて。
 だからその後、それ以上俺にその事を聞かず押し倒してきたボスの真意も解らなかった。
 いつも以上に優しく丁寧に愛撫をされ、快楽に飲み込まれるその刹那。

 ボスが小さく呟いた言葉だけが、それからずっと俺の心の中でしこりとなって残り続ける事になる。


 そしてその言葉の意味はずっと解らないまま――。




to be continued――…