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NOVEL

罪 悪 感  〜第九話〜

注意) 【過去】社長×主人公

自由になれるの?

本当に?

何処までも?

 東京駅に着いてまず航矢が取った行動は、駅中にあるショップで服を買うことだった。
 何件か梯子をし、二人で全身を着替えられるだけの衣類を買い込むと、構内にあるトイレの中でそれに着替えた。スーツ姿だった俺達は、すっかり年相応のその辺に居る若い男達と大差ない格好になり、顔を隠す為の帽子を深く被る。今まで着ていたスーツは買った服が入っていた紙袋に詰めた。
 その姿で今度は、駅の一角にあるコインロッカーに航矢は向かう。
 俺は航矢のその迷いない足取りに、目を瞬きながらも特に質問をする事はせず、その後をずっと着いていった。
 人気の少ない端の方にあるコインロッカーに辿りつくと、航矢は自分の財布の中から一つの鍵を取り出し、躊躇する事無く沢山並んでいるロッカーの中の一つに差し込む。
 カチャ、と小さな音がしてロックが外れると、航矢は扉を開けてその中から小さな紙袋を取り出した。

「――ほら、これがお前のな。」

 そう言いながら航矢が紙袋の中から取り出したのは、小さなカードだった。
 何か解らず俺はそれを手に取り、まじまじと眺めた後、小さく声を上げた。

 それは、誰のものとも知れない保険証。

 まったく見知らぬ名前の書いてあるそれをまじまじと眺め、俺は航矢に視線を戻す。すると、航矢は何も聞くな、と視線で俺に言っていた。
 だから一体コレをどんな手を使って入手したのか解らなかったが、俺は何も言う事なくその小さなカードを尻ポケットに入れていた財布を取り出すと、その中に丁寧に納める。

「渉。お前の保険証、寄越せ。」

 と、航矢が俺の目の前に手を出して、そう言った。
 それに俺は素直に従って、航矢の掌の上に自分の財布の中から抜き取った“自分”の保険証を置く。俺の保険証を航矢は無言で受け取ると、そのまま自分の上着のポケットの中に入れた。

「これでお前は今日から、“木島雄一”だ。いいな、お前は“雄一”。俺と二人っきりの時以外は、その名で通せよ。」
「う、うん……。お前は?」

 しっかりとした目で見据えられ、航矢にそう宣言される。それに俺は硬い表情で頷き、航矢がどんな名前になったのかを聞いた。

「俺は、“笹川祥吾”だ。これからは、“祥吾”って呼べよ。」
「“祥吾”……。」

 航矢の告げた名前を口の中で数回復唱し、俺はその事実を頭に叩き込んだ。
 仁科渉は、今、この瞬間、消滅した。
 そして、渡良瀬航矢も。
 これから俺達は、今までの人生も名前も全て捨て、まったくの別人として生まれ変わる。それは、とても大それた事だったが、不思議と不安はまったくなく、それどころか何故か俺は酷く安心した。
 今までの人生。
 そんなものクソ食らえ。
 そう、心の中で呟く。

「覚えたな?」

 少し俯き加減で先程の保険証を入れた財布をじっと見ていた俺に、航矢が硬い声でそう聞いてきた。それに顔をあげると、俺はコクリと頷く。

「よし。じゃあ、このロッカーの中にさっきまで着てた服入れて、次行くぞ。“雄一”」

 俺の頷きを認めると、航矢はニヤリと笑って、開け放しているロッカーの中に地面に置いていたスーツを入れている袋を無造作に突っ込んだ。
 俺もそれに習い、ぎゅうぎゅうにそのロッカーの中に袋を押し込む。
 そして身軽になった俺達は、また賑やかな雑踏の中へと潜り込んでいく。



 次に航矢が向かったのは、銀行のATMだった。
 そこで貯金していたお金の紙幣だけをそっくりそのまま下ろす。そして、俺にも同じ事をするように言う。それに従い、俺もカードを使い一度で下ろせる限度額一杯まで下ろすと、隣で見ていた航矢が苦笑した。
 明らかに俺達の年代が持つには不釣合いな、大金。
 機械から吐き出された残高照会の紙を見て、もう一度航矢は苦笑を漏らす。
 しかし特にその事で何か俺に言う事はなく、俺が下ろした金を航矢は預かると、斜めがけしていたボディバックの中に丁寧に納めた。
 そして銀行も何件か梯子して、俺の通帳の中にあったほとんどの金を引き下ろす。
 その金を持って今度は、郵便局へ俺達は向かった。
 何をするんだろう、と思っていると、航矢は先程ロッカーの中から取り出した小さな紙袋の中から一冊の通帳を取り出し、ATMを操作して通帳を差し込むと一回に預けられるギリギリの金をそこへ振り込む。

「――おし。じゃあ行くぞ、渉。」

 周りに誰も居ないからか航矢は俺の本当の名を呼び、ニヤリと満足そうに笑った。
 その一連の余りに無駄がない航矢の行動に俺は、航矢が今回の事をどれだけ想定して、下準備をしていたのかが解り、不覚にも胸の奥が熱くなる。
 決してタクシーの中で漏らした航矢の言葉は、嘘ではなかった。
 航矢はずっと俺を連れ出そうと、していてくれた。
 その事実に、俺は何故か凄く嬉しくて、ここが外でなければ航矢の首に抱きつきたかったくらい嬉しかった。

「……何、見てんだよ。」

 と、俺が航矢の顔をじっと見ていることに航矢が気がつくと、そう不機嫌そうな声を出して、俺に片眉を上げて見せた。それに、何でもねーよ、とだけ答えると、俺は先に立って郵便局の自動ドアをくぐる。
 途端に世の中の喧騒が自分の周りを取り巻き、その五月蝿さに俺はなんだか酷く自由を感じた。
 久々に聞くその人々の喧騒は、帰るところのない俺達を受け入れてくれたように感じ、それがまた嬉しい。
 ガヤガヤと街を行きかう人の群れに、俺は瞳を細めて微笑む。

「なんか楽しい事でもあったのかよ?」

 俺に続いて出てきた航矢が俺の顔を見て、そう怪訝な表情で問い掛けてくる。そして、俺の見ている方向へ視線を走らせ、訝しむように眉を潜めた。

「……別に。何か久しぶりに、人の喧騒聞いたなー、って。それが、ちょっと嬉しかっただけだよ。」

 航矢の態度にくすりと笑って答え、俺は、次はどうすんだ?と、航矢に聞き返す。
 すると、航矢は顎をしゃくって駅を指し、ニッと笑った。

「決まってんだろ。新天地に行くんだよ。」

 そう言うと俺の頭を帽子越しにくしゃりと撫で、航矢はさっさと人ごみに紛れて歩き始める。それの後ろを、流れてくる人を避けながら俺は追いかけ、隣に立った。

「……但し。」

 俺が隣に立つと同時に、航矢がそう呟いた。
 その声に俺は小首を傾げて、次の言葉を待つ。
 すると、航矢は俺を見下ろし、口の端を吊り上げて笑った。

「真っ直ぐには行かねぇ。あちこち寄り道して行くから、覚悟しろよ。“雄一”。」

 酷く凶悪に受けとれる笑顔で、航矢は俺に笑いかける。
 その航矢の笑顔に、言葉に俺は一瞬の間の後、俺なりの精一杯の笑顔を浮かべる。

「あぁ、着いて行くよ。どんな過酷な道のりだろうと、大変な未来だろうと。お前に――“祥吾”に、これからずっと俺は着いて行く。」

 瞳を細め、眩しいものを見るような笑顔を浮かべて航矢を見詰め返した俺に、航矢はひょいっと片眉を上げた。そして、ポンッと俺の肩を軽く叩くと、行くぞ、と小さく口の中で呟き俺の手首を緩く掴む。
 そのまま、優しい力加減で俺の手を引いた。

「――俺に着いて来い、何処までも。」

 先に立って歩き始めた航矢が、そう俺を振り返らずに呟いたのは、駅のホームに入る瞬間だった。
 その呟きに、俺は航矢の広い背中を見ながら、微笑む。
 柔らかく、優しく。
 ここ数年、すっかり忘れていたそんな自然な微笑を。

 これからずっと航矢の傍でこんな笑顔を浮かべて暮らして生きたいと、思いながら。

 そっと手を伸ばして指先だけを航矢のその広い背中へ薄く触れる。
 指先から伝わってくる確かな航矢の感触に、体温に、俺はもう一度静かに微笑んだ。

 それは静かに力強く俺に、“自由”を伝えていた。

 そして、俺達は丁度ホームに滑り込んできた列車に乗り込む。
 小さな鞄一つと、自由になる事への希望と、この身だけを持って。


 俺達は、自由に向かって走り出していく。
 還る場所はなくても、二人で生きていく場所がこれから還る場所になるようにと。
 そんな淡い願いを胸に抱きながら。

◇◆◇◆◇

 コレハ、ナニ――?


 真っ赤な飛沫が俺の頭から降り注ぎ、俺の顔を、目の前のソファを朱に染め上げていく。
 それが何か解らず唖然として目を見開いていると、不意に、背中に男が圧し掛かってきた。その余りの重さに俺は押しつぶされ、朱に染まりぬめるソファに体と顔を強く埋める羽目になる。
 ツンッとした鉄と生臭い匂いが鼻につき、俺はその気持ち悪さに吐き気を覚えると共に、背中に無言で圧し掛かってきている男に苛立ちを覚えた。

「――退けろ、よっ……!」

 口の中で小さくそう言い、俺は体を動かして背中に圧し掛かっている男を退け様とする。と、対して力も入れていないにも関わらず男の体は俺の体の上から滑り落ち、ドサリ、と重く鈍い音を響かせて床の上に転がった。

「何なんだ、いった――!?」

 そう言いながら身を起こして男を見ようとした瞬間、突然俺の視界は暗闇に包まれる。その事に驚き、声を上げようとした所を、今度は口まで押さえ込まれてしまった。
 そして。

「渉。静かに。大丈夫だ。」

 俺の耳の後ろに唇を押し当てて聞きなれた声が端的に、そう素晴らしいバリトンの声で囁いた。
 ――崇さん――
 声の主であるボスの名前を胸の中で呟き、俺は必死になって声の主を振り返ろうとする。だが、目と口を覆われた格好では首もしっかりと固定されてしまって、後ろを振り返ることは出来ない。

「いいか、渉。絶対に目は開けるな。これからバスルームに連れて行くから、ゆっくりと立ち上がれ。……立ち上がれるな?」

 俺の口を覆った戒めを解くと低い声でそう耳に囁き、ボスは俺の胸に手を回してゆっくりと上へと力を込める。
 ボスの言葉に俺は小さく頷くと、散々男達に好き勝手されて力の入りにくい足にそれでもなんとか力を込めてボスの腕に助けられながら立ち上がった。
 その時になって俺は始めて、自分達を取り巻く周りの雰囲気が奇妙な静寂を持って、慌しさを増していることに気がつく。
 静かに、だが、確実に多数の人間が辺りを歩き回り、色々な作業を行っている感覚だけが伝わってきていた。
 それは最初に居た男達とは明らかに雰囲気も所作も違う人達で。
 ボスの周りを固めている人間の中でも一種異彩を放っている人達だろう、となんとなく想像がついた。
 そんな事を思っていると、ボスの手が俺を柔らかく引っ張る。それに釣られて俺は足を一歩踏み出す。と、やたら生温かい水溜りに足が浸り、その突如現れた水溜りに俺は思わず小さく声を上げた。
 その声をボスの口がすぐさま吸い取り、飲み込むと、俺の体を突然ボスの両手が抱きかかえる。

「大丈夫。なんでもないから。」

 唇が離れると、柔らかく優しい声でボスが俺の耳にまた、小さく囁く。そして、所謂お姫様抱っこの体勢のままボスは悠々と部屋を横切り、バスルームへと俺を連れて行った。

「私が綺麗に洗ってやる。だが、目は開けるな。いいな、渉。」

 ひんやりとしたタイルの上に足からゆっくりと下ろされると、ボスはまたそう言い、俺に優しく口付けた。
 そのまま俺はボスの命令どおりに瞳をしっかりと閉じたまま、ボスの気配だけを感じる。シャワーのコックを捻る微かな音に続いて、ザーーッと水が勢いよくタイルに当たり流れる音が耳に届く。そして、ボスの気配が近づくと肩を抱かれそっと優しく体に温水が掛けられた。
 ゆっくりと、優しくボスの掌が俺の体を泡立てたソープで洗い流し、そしてそれと共に自分自身に纏わり着いていた男の精の匂いと、鉄の生臭い匂いが洗われていく。
 頭も丁寧にボスの手でシャンプーをされ、あらかた体についていた男達の汚れが落ちた頃、漸くシャワーの音は止まった。
 そして無言のまま、俺はボスに導かれるようにバスタブの淵に手を着き、尻を突き上げるような格好にさせられる。それが何を意味しているかが解り、俺は閉じている瞼を更に強く閉じた。

 ぐちゅ……つぷぷっ。

 いやに粘着質な音がバスルーム内に響き、俺の中にボスの長い指が侵入してくる。

「……くぅ……っん。」

 侵入してきた指の感触に俺は微かに喘ぎ、その指がナカから掻き出す男達の精液の粘つく感覚に眉を寄せる。

「……大量に注ぎ込まれたようだな。」

 静かに、だがどこか怒気がこめられたその声に、俺はハッとした。
 慌てて俺は言い訳を募ろうと口を開きかけたが、その口にボスのもう片方の手の指が突っ込まれる。
 そしてゆっくりと歯列を指先で辿り、俺の言葉を封じた。
 俺が言葉を飲み込んだのを見て取ると、ボスは俺の唾液に塗れた指を引き抜き、今度はそれを俺の唇の形に合わせて這わせた。

「何も言わなくて良い。お前は被害者だ。」
「……崇、さん……。」
「アイツは、大西は、父の息がかかっている人間でな。名目だけは私の部下だが、その実、今だ父の命令の方を私の命令よりも優先するような奴だ。」
「……。」

 ボスの淡々と紡がれる言葉に、俺は何も答える事が出来なかった。ただ、初めて語られるボスの家庭や家族に対する軋轢や摩擦のようなものを感じ、俺は何故か航矢の事を思い出していた。

「私と父は、血の繋がりがあるというだけで敵対している関係だ。元より私のやり方が気に喰わない父が、何らかの妨害工作をしてくるとは思っていたが――。だが、まさかそれが、お前に大してこんな形の暴行を働く事だとはな。こんな無意味な行動を起こすとは、父も老いぼれた、と言う事か。」

 最後の言葉は、多少自嘲気味な声色で呟かれた。
 その言葉に、感情に俺の胸はツキンと微かな痛みを覚える。
 それは、ボスの中で俺の存在と言うものが、大した価値がない、と言外に秘めていて。解っていた事柄ではあったが、そうはっきりとボス自身に言及されると、酷く悲しかった。
 と、後ろに突き刺さり掻き回していたボスの指が、突如引き抜かれた。
 そして、もう一度シャワーのコックを捻る微かな音が耳に届き、温水が俺の下半身に当たる。ザーーッと音を立てて流れるお湯が、ボスが掻き出した精液を綺麗に洗い流していく。
 その事に、俺は少しだけ安堵の息を吐いた。

「――さぁ、綺麗になったぞ。渉。」
「ありがとう、崇さん。ねぇ、もう、目、開けても良い?」
「あぁ、良いよ。」

 ボスのお許しが出た所で、俺はゆっくりと瞳を開けた。
 暗闇に閉ざされていた瞳に、バスルームの淡い光が突き刺さり、その眩しさに少しだけ目を瞬く。白く輝くバスルームの壁に光が反射して、やたらと眩しかった。

「……大西さんは、どうなっちゃったの?」

 反射してくる光が余りに眩しくて、いつもなら暗黙の了解になっていたタブーを、思わずスルリと口にしてしまう。だが自身の声が耳に届いた瞬間、俺は慌てて自分の口を両手で覆った。
 しかし、どんなに急いで口を塞いだ所で、一度出してしまった言葉は取り消せるわけもなく。
 俺は、一体この後どんな仕打ちをボスに受けるかわからず、身を固める。
 しかし。

「お前は知らなくて良い事だ。」

 意外にもボスの声は穏やかで、そして、身を固めている俺を後ろから優しく抱きしめてきた。
 背中にボスのぐっしょりと濡れたスーツとネクタイの布地が当たり、俺は思わずボスの腕の中で体を反転させると、そのスーツの襟に手をかけた。

「ごめんなさいっ!」

 そう謝りの言葉を口にし、濡れそぼっているボスのスーツを脱がしにかかる。
 その謝りの言葉は、一体何に対して発したのもなのか。自身でも良くわからず、それでも、ボスをこのまま濡れ鼠にさせて置く訳にはいかなかった。
 ボスのスーツを肩から落し、ネクタイを外し、カッターシャツのボタンに手をかけた所で、ボスの手がやんわりと俺の掌を包んだ。
 ぎゅっと、力強い指でその手を握られ、俺は顔を挙げてボスの顔を見た。
 ボスは穏やかな顔で俺を見下ろしていて、そして、その顔はゆっくりと下降してくる。
 柔らかく口を吸われ、何度かついばまれると俺の手を握っていたボスの手が俺の腰に降りてきた。

「渉。私はお前の為なら幾らでも、この手を汚す事は厭わない。だから……。」

 その後の言葉は、俺の口の中に消えた。
 ボスが一体どんな言葉を口にしたのか、俺には伝わらず、俺はただただボスの甘い口付けに酔わされる。




 それが、俺達の関係が大きく変わった日の出来事。




to be continued――…