ナタル・バジルールがAAを去ってから、ノイマンが事実上AAの副艦長兼操舵士になっている。
副艦長といっても、戦術や作戦行動は士官以上が協議の上で決定されるため、肩書き以上の意味は無いけれど、冷静な判断力と温厚な性格で元々クルーの信頼が厚かったこともあり、それは特に若い下士官たちに歓迎された。
そのため平時には艦長のマリュー・ラミアスとノイマンは、どちらかがブリッジに居るよう交代でシフトが組まれており、ノイマンがマリューと顔を合わせる機会は少なくなっていた。
「ノイマン少尉、ちょっといいかしら」
マリューがノイマンの座る操舵士席の背後にふわりと降り立った。マリューの手入れの行き届いた栗色の巻き毛は無重力の中、ふわふわと漂い、甘い香りを運んでいる。今日もきっちりとメイクされたその顔に、ノイマンはうんざりした気持を押し殺して視線を向けた。
正直言って、ノイマンはマリューが苦手だった。
どんな時でも外見に気を配ることを忘れないマリューを、女性らしい、と好む者もいるだろう。また、規律を重んじる軍において、乱れた服装は最初に是正されるものだ。
だがマリューの場合、どこか方向がずれているようにノイマンには思えた。
前線においてさえ「女」を前面に出すことに、何の意味があるのか、と思ってしまうのだ。これは元々の上官であったナタルが、女性でありながら常に「軍人」であることを優先させた人物であったからかもしれない。
だが、それを差し引いても、ここが戦艦であり、前線であることを考えると、マリューの「女性らしい」外見は、どこか不自然で、不似合いでさえある。せめてその鬱陶しい髪の毛を、切るか纏めるかしてくれれば、今より多少は指揮官らしく見えるのに。
「何かご用ですか?交代時間には、未だ間がありますが」
「ごめんなさい。交代の前に相談したいことがあって…作戦会議室まで来ていただけるかしら」
AAの現在位置は戦闘空域から外れており、緊迫した状況にはない。補給も受けたばかりで、物資に余裕もある。マリューの言う「相談事」に思い当たる節が無い。
マリューの表情を見ると、微かに眉を寄せてはいるものの切迫した雰囲気は無い。一分一秒を争う程の緊急事態ではないのだろう。
「わかりました。3分後に行きます」
きっかり3分後にノイマンは作戦会議室のドアを開けた。壁に並ぶディスプレイに浮かぶ空域図が、室内をぼんやりとしたグリーンに照らしている。
「お待たせしました。相談、ということですが、何か問題でも?」
「ええ…実はバスターの彼、ディアッカ君のことなんだけど……最近なんだか様子がおかしいような気がするの。怯えてるっていうか、警戒してるっていうか…落ち着きが無くなったような……彼は今のAAにとって大切な守り神だわ。失う訳にはいかないのよ。彼が精神的に不安定になってしまった理由に、ノイマン少尉は心当たりはない?」
マリューの言うとおり、最近のディアッカはどこか不安定だ。
他人との接触を必要以上に避けるようになった。帰還した際のメカニック達の手荒い歓迎に、怯えた悲鳴を上げることもあるらしい。
「いえ、彼の変調は私も気になってはいましたが」
「そう…ムウも何かと気を配ってくれてはいるんだけど、原因がわからなくて」
頬に手をあて、マリューがため息をつく。
マリューがフラガと特別な関係にあることは、AA内では周知の事実であったけれど、特別な関係にあるのであれば、何故フラガの裏の顔に気がつかないのか。
八つ当たりだとわかってはいたが、ノイマンはマリューの暢気といってもよい態度に拳を握り締めた。
「わかりました。私も一度ディアッカと話をしてみます」
ノイマンはマリューに軽く一礼すると、その場を後にした。
作戦会議室を出ると、ノイマンはそのまま展望スペースへ向かった。
最近、ディアッカはそこで宇宙を眺めて時間を過ごすことが多くなっている。ここ暫く戦闘も無かったから、パイロットであるディアッカに今は艦内でやる事がある訳でもない。きっと今も人気の無い展望スペースで独り暗い宇宙に思いを馳せているのだろう。
元々人懐っこい性格のディアッカが、好んで独りになるようにしている事だけをとっても、少なくとも正常な精神状態では無いことがわかる。
フラガとのことを気付いてやれなかった分、これ以上ディアッカが傷つくことがないよう守りたい-----その思いがノイマンを動かしていた。
「ディアッカ」
ノイマンの声にディアッカがゆっくりと振り返った。何故ここにいることがわかったのか、と訝しげな眼差しがノイマンに問い掛ける。
「最近艦内で噂になってるからね。ここに悩める王子様がいる、って」
殊更明るい表情を取り繕い、ノイマンはディアッカに近づいた。手が触れそうなほど近くに立つと、ディアッカが身体を強張らせていることがわかる。
「誰が王子様だよ。こんな色黒の王子様なんてどこにもいないよ」
いつもの口調で言い返しつつ、ディアッカはつい、と一歩下がり、ノイマンとの距離を開けた。
空いた距離を哀しいと思いつつ、それを表情に出さないよう、ノイマンはディアッカに微笑みかけた。
「そうかな。でも、そうかもしれないな。童話の王子様より、ディアッカの方がきっと綺麗だから」
「きれいなんかじゃないよ…俺は、汚い」
「どうしたんだ?汚い、って、何が?」
泣き出しそうに顔を歪めたディアッカに、ノイマンはつい、と手を伸ばした。他意はなく、ただディアッカを慰めたくて。
「いやだっ!」
伸ばされた手がディアッカに叩き落された。その手は更にノイマンの顔を掠め、頬に一筋の傷を作った。
刻まれた傷からじくじくとした痛みが走る。指先で触れると、滲んだ血がうっすらと頬を濡らしていた。
「ディアッカ?」
「あ……!」
信じられない、といった表情でディアッカが自分の手を見る。そのまま両手を握ると胸に抱え込み、崩れ落ちるように床に膝をついた。
「ごめん、なさい…俺、そんなつもりじゃ、なかった…!」
ぽろぽろと涙を零し、ディアッカは何度も謝罪の言葉を繰り返す。震える背中が哀しげで。傷を負ったのはノイマンなのに、それ以上にディアッカが傷ついていることがわかる。
「いいんだ、驚かせた俺が悪かったんだから。そんなに気にするな」
ノイマンの言葉に、ディアッカが子供のように首を振る。押さえきれない嗚咽に喉を詰まらせながら繰り返される謝罪に、ノイマンの胸が締め付けられる。
「ディアッカ、場所を変えよう。いい?触るよ?」
ディアッカが顔を上げるのを確認し、ノイマンがゆっくりと手を伸ばす。頬に指先で触れると、びくりとディアッカの身体に緊張が走る。
その緊張を解くようにノイマンはディアッカに微笑むと、背中に腕を回し、ディアッカを抱き起した。
「一緒においで。いいよね?」
ディアッカがノイマンを見上げ、手の甲で涙を拭い、こくんと肯いた。
その幼げな様に笑みを返すと、ノイマンはディアッカの肩を抱き、展望スペースの出口へと向かった。