「遅いぞー」
「すいませんっ」
ディアッカは手早く身支度を済ませ正面玄関に回ると、最近納車されたばかりのオープンカーを車寄せに停めていた。ジャガーのE-Type、とか言うらしい。ボンネットが陽光を受けて銀色に光っている。
「せっかくのお天気だしね。どうせならドライブがてらに買い物、ってのもいいじゃない?」
いそいそと助手席のドアを開けるフラガに、ディアッカは眉を顰め、困惑に顔を歪めた。
「俺、運転なんてできません。いつもの車で行きましょう。俺、頼んできますから」
フラガが外出する際には、専属運転手が車を運転し、フラガが後部座席に、ディアッカが助手席に座るのが常だ。
フラガ家に限らず、フラガ家のように使用人が多数使える家ではそれが一般的だろう。
だが、今ディアッカの目の前にある車は、いわゆるスポーツカー。後部座席など無いに等しく、どう見ても運転席と助手席以外に座る場所は無さそうだ。だとしたら、この場合ディアッカが運転しなければいけないのだろうが、生憎とディアッカには運転の経験は無い。
途方に暮れるディアッカに、フラガは訝しげに首を傾げた。
「どうして? 別に構わないでしょ」
助手席にディアッカを押し込んで、フラガは車の前方を回りこみ反対側のドアを開けて運転席に乗り込んだ。
「ドライブだ、って言ったでしょ。せっかくの新車だもん。自分で運転したいじゃない」
戸惑うディアッカを余所に、フラガはキーを回しエンジンをかけた。低いエンジン音が響き、車体がびりびりと震えている。
「じゃ、行っくよ〜!」
言うな否やフラガはアクセルを踏み込み、スポーツカーは車寄せを飛び出した。
ムウ・ラ・フラガという男は、見かけ以上に無鉄砲な男だったようだ。慎重派とは言い難い運転で、銀色の車は街のメインストリートに到着した。
「楽しかったねぇ。乗馬もいいんだけどさ、やっぱりスピードを楽しむ時は自動車だよね」
ご満悦なフラガの隣で、ディアッカはまだ動悸の止まらない胸を押さえ、ふらつく足で車を降りた。
今にも鼻歌を歌い出しそうな機嫌の良さが忌々しい。
ここに着くまでの数十分。それは将に「生きた心地がしない」数十分だった。
土埃を舞い上げ疾走する様は、命知らずというよりも無謀と言った方が相応しい荒っぽさで、ディアッカは悲鳴を喉で噛み殺し、シートの背凭れにしがみ付いていた。
「何があっても金輪際フラガ様が運転される車には乗りたくないです」
「何でぇ? 楽しくなかった? 俺とのドライブ」
「そうではありませんが…… もっとゆっくり景色を楽しみたかったので」
ここで「死にたくないですから」と本音を漏らすほどディアッカも愚かではない。何があっても主の機嫌を損ねないことが、使用人の本分。フラガ家に仕えて最初にノイマンから教わったことだ。
口元を上げただけの笑顔で、ディアッカはフラガを見上げた。
「御用があるのでしょう? 参りましょう」
「じゃあ、帰りはちょっとスピード控えめにしよっかな。ま、とりあえずさっさと用事を済ましちゃおっか」
パーキングに駐車し、フラガとディアッカはメインストリートをゆっくりと歩いた。
道すがらショーウィンドウを覗き、店先に並んだ商品をひやかしながら、フラガはフラガ家御用達のテーラーで注文しておいた新しいディナージャケットを受け取った。どうやらそれが今日の外出の目的だったらしい。
テーラーのオーナーらしき男性とにこやかに会話を交わすフラガは、さすがフラガ家の当主、といった貫禄だ。鷹揚で寛大な領主の風格が漂っている。
話し込むフラガを横目に、ディアッカはこっそりと店内を見回した。一流のテーラーだけあって、並べられている既製品の服からですら、質の高さが見て取れる。
一生かかってもディアッカが手を触れることすら叶わない高級品だ。
しかし、世の中にはこういう品が存在することすら知らない人間が少なからず存在することを思えば、見ることしかできないにしてもディアッカは未だ恵まれているのかもしれない。
「お待たせ」
ようやく会話を終えたフラガが、大きな箱を抱えてディアッカの元へやってきた。荷物を受け取ろうと差し出した手を押さえ、フラガが優しげな笑みを浮かべた。
「あともう一件だけ、俺のワガママに付き合ってくれる?」
断れる理由などあるはずもない。ディアッカはこくりと頷いた。
「フラガ様も、こういうところに来るんですね」
連れて来られたのはメインストリートの外れにある大きなドラッグストアに併設されたソーダファウンテンだった。
カウンターに席を取り、慣れた様子でソーダにアイスクリームのトッピングまで付けて注文したフラガに、ディアッカはまず面食らった。
きっとフラガだったら、外でお茶を飲むとしたらクラブハウスのティールームのような場所しかない、と思っていた。だが、実際に連れて来られたのは庶民が、しかもハイスクールの学生たちが集う騒々しいソーダファウンテンだ。
「ハイスクール時代にノイマンとよく来てたからねぇ」
懐かしそうに目を細め、フラガが呟いた。
ノイマンがハイスクールからカレッジまでフラガに追従して通っていたことは、古参の使用人たちから聞かされてディアッカも知っている。学内でフラガの世話をするため、という名目でフラガの父が命じたことだが、いずれノイマンがフラガの片腕になることを見込んでの投資が本来の目的だったのだろう、と使用人たちの間でもっぱらの評判である。
実際、ノイマンは先代の期待に反することなく優秀な成績を収め、今ではフラガ家になくてはならない人物になっている。
「アイツさぁ、俺が授業をサボって女の子とソーダ飲んでたら怒るクセに、自分は俺が追試受けてる間にこっそり一人で来てるんだもん。ずるいと思わない?」
チェリーレッドのソーダをストローでかき回しフラガがぼやいた。あまりにも「らしい」光景に、ディアッカは小さく笑い、古びたスプーンでソーダに浮かんだアイスクリームを口に運んだ。
「どうして笑うの?」
「だって、すっごい想像できますもん。ノイマンさん、大変だっただろうなぁって」
きっと今と同じようにフラガを諌め、諌めながらも最後には許していたのだろう。何といってもノイマンはフラガには厳しいようで寛大なのだから。
「まー、アイツがいなかったら、俺、カレッジどころかハイスクールもまともに卒業できたかどうか、って感じだったしねぇ。なにしろ、学校にはキレイな女の子たちが一杯だったからさ」
ソーダファウンテンにたむろする学生たちを暫く眺めていたかと思うと、フラガは徐に学生時代の出来事を語り始めた。ノイマンが如何に自分に厳しく、容赦なかったか。風紀担当の教師よりも厳しかった、と微笑みながら苦々しげに話し続けた。
「楽しかったんですね」
「そうだなぁ、楽しいっていえば楽しかったかな」
そこで一旦口を噤み、フラガはディアッカの顔を覗き込んだ。
「ディアッカも学校に行きたい?」
年齢だけを見ればディアッカも学校に通っていてもおかしくはない。だが、学校とはフラガやノイマンのように限られた人間が行く場所だとも思う。
「今のままでいいです。ノイマンさんが色んなことを教えてくれますし、それで充分すぎるくらいです」
「そっかー……」
フラガはカップの底に残ったソーダを一息に吸い込み、空になったカップをカウンターの上にそっと置いた。
「ノイマンほどじゃないけど、俺にもディアッカへ教えてあげられることがあるかもしれないよね。だから、まぁ何て言うか…… 少しは俺のことも頼ってほしい、と思うんだけど…… どうかな?」
優しげな口調で語られる真摯な言葉に、ディアッカは息を呑んだ。一介の使用人に対して過分すぎるほどの言葉だ。
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけ口にすると、ディアッカはぎゅっと膝の上で両拳を握り、唇を噛み締めた。
嬉しさに涙が出そうだった。