「遅れてスイマセン!」
「20分の遅刻だよ。お茶の準備までには帰ってくるように、って言っといたと思うんだけど」
「ごめんなさい……」
その日ディアッカはフラガの使いで街に出かけていた。フラガが書店に注文していた画集を受け取るためだ。
既に絶版となったその画集を入手するために、フラガがあらゆるツテを使ったことをディアッカは知っている。
書店から「手に入れた」と連絡が来たとき、フラガが子供のように喜んでいたところも見た。
だから、仕事から手の離せないフラガに代わって、ディアッカが出かけたのだ。
だが、街まではバスの本数も少なく、しかも時刻表はあって無きの如く。結局、ディアッカはノイマンと「お茶の時間までに戻る」と交わした約束を破ってしまった。
「今度から遅れるときは必ず連絡するんだよ。何かあったんじゃないか、って心配するからね」
険しいノイマンの表情に、ディアッカは小さくゴメンナサイと呟いた。
ノイマンの態度は「言いつけを破った使用人を咎める執事頭」のものだが、口調は優しい。きっと本当に心配していたのだろう。
「ほんとにゴメンナサイ……」
「わかってくれたらいいよ。今度から気をつけてね。フラガ様のお茶の準備が出来たから運んでくれるかな? どうせ、その本を届けに行くんでしょ?」
表情を緩めたノイマンに、ディアッカは顔を綻ばせ、何度も頷いた。
急いでワゴンに駆け寄るディアッカに、ノイマンがあきれたように声をかけた。
「慌ててワゴンを引っくり返すんじゃないよ。いつもどおり丁寧に、ね」
「はいっ!」
カラカラとワゴンを押し、ディアッカはフラガの書斎へと向かった。ワゴンの上にはノイマンが整えたティーセットが一式。何度見ても惚れ惚れするくらいに完璧だ。添えられた一輪挿しに飾られた花も、皿の上に並べられた焼き菓子の選択も飾りつけも、何もかもが完璧で一分の隙も無い。
こういう完璧な気遣いを見る度に、ディアッカは己の未熟さを思い知ると同時にノイマンには絶対に叶わない、とも思う。ノイマンと同等に、とまでは行かないまでも、一日でも早くノイマンの邪魔にならないようにはなりたい、とディアッカは思った。
フラガの書斎に近付くと、どこからか人が怒鳴りあうような声が聞こえてきた。
ノイマンの威光が隅々まで行き届いているフラガ邸において、使用人同士が邸内で揉め事を起こすことなど考えられない。では、誰が。
ディアッカは恐る恐る声のする方へと歩を進めた。
「オマエの言うことはもっともだが、今そこまでする必要は無いだろう!」
「フラガ家の体面、というヤツか。何をするにも不便なことだ」
「ふざけるな! オマエもそのフラガ家の一員だろうがっ」
「私は今も昔もフラガ家の庶子にすぎん」
「そんなことを言ってるんじゃない!」
怒声はフラガの書斎で起っていた。
こっそりドアを開け、中を覗いてみると、フラガが声を荒げてクルーゼに詰め寄っていた。
今にも掴みかからんばかりのフラガに対して、冷静さを崩さないクルーゼ。対照的だ。
「くだらんな」
一言吐き捨て、クルーゼがフラガに背を向けた。
「まだ話は終ってない!」
「私には話すことはない」
背を向けたまま、クルーゼがドアに向かって歩いてくる。
仮面に顔上半分を覆われているせいで表情は窺い知れないが、冷静な口調と裏腹に足取りは荒い。
ディアッカはドアの前から慌てて離れ、書斎から出てきたクルーゼに腰を曲げ礼を示した。
下げた視線の先、自分の爪先から50cm先にはクルーゼの靴が見える。上等な茶色のカーフレザーは、そのまま行き過ぎるかと思ったらピタリとディアッカの前で止まった。
「おまえは誰だ?」
フラガ付きの使用人など覚えてもいない、ということか。ディアッカは一抹の寂しさを覚えながらも、静かに顔を上げた。
「ディアッカ・エルスマンと申します」
「そうか。おまえがディアッカか。フラガから名を聞いたことはある。早く行くといい。今頃、あの男は地団駄踏んでいるだろうからな」
それだけ言うと、クルーゼは踵を返し、すたすたと歩き去った。
鈍く光る仮面越しに見えた瞳が暗い光を湛えていたことに、ディアッカは気付かなかった。