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ひとひらの花 6


独りにしてほしい。力無くそう一言呟いてフラガはデスクに肘を付き、両掌に顔を埋めた。
肩を落とした背中には、疲労が色濃く滲んでいる。
ディアッカはその背に手を伸ばしかけ、肩に指が触れる直前でぎゅっと指を掌に握りこんだ。
その背中を慰め、労わる言葉を自分は持っていない。どうしたらいいのか、どうすべきなのか、それすらわからない。
ディアッカは拳を胸に引き寄せ、不甲斐ない自分への口惜しさに唇を噛み締めた。

「ではフラガ様。御用が出来ましたらいつでもお呼びください」

掠れた声で小さく呟き、つい先刻受け取ってきたばかりの画集をそっとデスクの上に置いた。それがせめて少しでもフラガの慰めになることを祈りながら、ディアッカはそっと書斎の扉を閉めた。





「もう、今日はいいよ。疲れてるんだろ? 休んでいいから」

キッチンのテーブルに腰掛けるノイマンを前に、ディアッカは返す言葉もなく項垂れた。呆れたようなノイマンの口調が、ズキリと胸に突き刺さる。

「そんなこと、ないです」

無理矢理搾り出した反論にも力が無い。当たり前だ。今日一日の間にどれだけの不手際を自分が仕出かしたか、思い返しても情けなくて涙が浮かんでくる。
花瓶に活けようとした花の枝を落とそうとして花の頭を切り落としたり、掃除をして埃と一緒にマントルピースの上に飾られた写真立てをことごとく払い落としたり。使用人としてあるまじき失態を何度も繰り返している。

「ほんとに……何でもないんです。すいません」

頭を下げるディアッカに、ノイマンはふぅと小さく溜息を付いた。

「フラガ様のところで何かあったの? フラガ様のところにお茶を運んでからでしょ、おかしくなったのは」

ノイマンの指摘にディアッカは緩く頭を振った。
確かにフラガの書斎を辞去してから、何をやってもフラガのことが頭から離れない。今にも泣き出しそうな、辛そうな表情が気になって、つい手元が疎かになってしまったのかもしれない。だが、それを言い訳にしてはいけないような気がした。

「俺が不注意なだけで、ほんとに何でもないです」

頑なに言い張るディアッカの頭にノイマンは手を置くと、腰を屈め下からディアッカの顔を覗き込んだ。

「じゃあそういうことにしとこうか。でも、今夜はフラガ様は外出されるからディナーの用意は簡単でいいんだ。人手は足りてるし、たまにはゆっくり休むといい。いいね?」

確か親戚筋の誕生パーティがあるとか聞いた覚えがある。フラガが不在で、今夜は屋敷にクルーゼしか居ないのであれば、確かに人手は多くなくてもいいだろう。
クルーゼは生まれ育ちのせいなのか、テーブルマナーに縛られ、一皿一皿を使用人に給仕される食事の仕方が好きではないらしい。そのため、フラガという体面を取り繕う相手が居ない時は、軽食を私室に運ばせ、一人で食事を済ませるのが常だった。

「でも……」
「明日は今日の分も働いてもらうから、ゆっくり休むんだ」

諭すようなノイマンの仕草に、ディアッカはおずおずと頷いた。それにノイマンはにっこりと笑顔を浮かべ、ディアッカの背をやんわりとドアの方へ押し出した。
ノイマンの掌から伝わる力は強くもなく、かといって弱くもない。微妙な力加減はさりげない優しさだけを伝えてくる。

「ありがとうございます」

掌はとても暖かかった。





ノイマンにキッチンから追い立てられ、ディアッカは使用人部屋がある別棟に続く渡り廊下をとぼとぼと歩いた。
普段のディアッカならば突然与えられた休みに嬉しさを弾けさせながら走り抜ける渡り廊下も、今日はひたすら長く、遠く感じる。
フラガ邸に住み込む使用人は、同じ敷地内にある別棟でそれぞれ個室を与えられている。このご時世、使用人部屋といえば暗い地下室や窓のない屋根裏部屋が殆どであることを思えば、まさに破格の待遇だろう。
とは言っても、所詮は使用人部屋。主(あるじ)二人の主寝室のある主翼と比較すれば、造りも広さも比べることすらおこがましいような慎ましさである。
だから、別棟にも、別棟に続く渡り廊下にも使用人以外が足を踏み入れることは通常ない筈なのだが。

「どうした。随分と元気が無い様だが」

クルーゼが。もう一人の主であるクルーゼが、腕を組み、壁に背を凭れて渡り廊下の中ほどに立っていた。
天窓から差し込む陽にクルーゼの仮面が鈍く光る。顔の半分を覆う仮面のせいで表情は隠されているが、口元が僅かに上がっている。

「顔色が悪い。何かあったのか?」
「別に何も……」

クルーゼから視線を外し、ディアッカは小さく答えた。
この男は苦手だ。
おざなりに頭を下げ、足早にクルーゼの前を通り過ぎようとした、そのすれ違いざまに腕を取られた。

「何を急いでいる?」
「急いでは、いません。御用があるなら……承ります」

使用人としての義務感だけでディアッカは渋々と足を止めた。顔を上げ、視線をクルーゼの背後にある壁の燭台に据える。

「用があるから呼んでいる」

含みを持った返答に、ディアッカは微かに瞳を眇めた。
どんな用件であれ、これまでクルーゼが誰か特定の者を指定したことはない。いつも執事頭であるノイマンを通じて指示が下されている。
それなのに、わざわざこんな場所に自ら足を運んでまで、どんな用があるというのだろう。

「……どういう御用でしょうか?」
「随分と警戒しているようだな」
「いいえ…… そう思われたなら、申し訳ございません」

慇懃無礼に頭を下げ、足元の擦り切れた絨毯に視線を落としながらディアッカは唇を噛んだ。
脳裏にフラガの姿が甦る。
打ちひしがれ、悄然と肩を落としていた。
太陽を背負ったような陽気な笑顔は消え、いつも子供のように無邪気に輝いていた藍瞳は、涙こそ流していなかったものの泣いていた、と思う。
ディアッカにその理由を知ることはできないが、原因はわかる。今、眼の前にいるこの男だ。
クルーゼがフラガを傷つけ、そのせいでフラガは苦しんでいる。そのクルーゼに対して好感を持てる筈が無い。
元々接触する機会が無かっただけに、今のディアッカにはクルーゼに対して使用人として最低限の礼儀を守るだけで限界だった。

「お急ぎでなければ、失礼させて頂きます」

上半身を捻り、ディアッカはクルーゼの腕をさりげなく振りほどいた。

「用があるから呼んでいる、と言った筈だが」

クツクツと喉の奥で低く笑いながら、クルーゼの指先がディアッカの喉元へと伸ばされた。冷やりとした指先が触れ、ぞわりと後ろ髪がそそけ立つ。
咄嗟にクルーゼの手を振り払い、ディアッカは一歩後退った。

「本当にオマエたちは骨の髄までフラガ家の使用人なのだな。まぁ、よい。今更だ」

唇を歪め、クルーゼはディアッカに背を向けた。

「いつも私は夕食後に書斎へホットウィスキーを持ってくるようノイマンに言いつけてある。今日はオマエがそれを持って来い」
「……それは私のような未熟者には手に余ります。申し訳ございません」

ノイマン自ら行っていることであれば、執事見習いにすぎないディアッカが手を出すことなどできない。
同じ使用人の間でも、やるべき仕事、誰が何をするのかは明確に区別されている。
主人と直接顔を合わせる機会が多いほど使用人としての格は高く、逆もまた然りだ。その区別は、使用人の上下関係に比例する。
もう一度頭を下げ、ディアッカは慇懃に、だがきっぱりと拒絶の意思を示した。だが、

「オマエはフラガ家の使用人であろう? 私とてフラガ家の主の一人だ。素直に指示に従うがいい」

一言吐き捨て、クルーゼが踵を返した。

「ノイマンには私から伝えておく」