『アクロポリスへようこそ。快適な滞在をお祈りいたします』
歓迎の言葉を柔らかな合成音が繰り返し流すエアポート。ディアッカはコロニー・アクロポリスに降り立った。
ターミナルの雑踏を行き交う人々の会話は、どれもたわいの無いもので、すぐ近くで戦争が行われていることなど、微塵も感じさせない。
同じ時間を過ごしているのに皮肉なものだと思うが、それ以上にこの平和な空気に安堵する自分もいる。
この任務に自分を選んでくれたマリューに、今日何度目かの感謝を捧げ、ディアッカは街へと足を踏み出した。
「予約してたダリル・トラヴァースだけど」
「お待ちしておりました、トラヴァース様。ご予約は最上階の大通側のお部屋でございますね」
月のエアポートから予約したホテルのフロントで、ディアッカは偽名を名乗ると、偽名で作られたIDカードを差し出した。
フロントの係員がさりげない視線でディアッカの服装や持ち物を確認する。一瞬のうちにディアッカへ「合格」の判定を下すと、慇懃な笑みを浮べ宿泊の手続きを始めた。
ディアッカは差し出された宿泊カードを記入すると、フロントのカウンターに凭れて背後のロビーを眺めた。
広々としたロビーは最上階まで吹き抜けが設けられ、天井のガラスから陽光が差し込んでいる。さりげなく配置されている調度品と生花の装飾が、ロビーの片隅で奏でられるクラシック音楽と相まって落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
ぐるりと周囲を見渡してみれば、隣でチェックインの手続きをしている老夫婦も、コンシェルジェにオペラのチケット手配を依頼している女性も、物腰や服装から一目でアッパーサイドの人間だということがわかる。
潜入先のモルゲンレーテ研究所を見通せる、という立地条件だけで予約したホテルだったが、どうやらここは所謂「一流シティホテル」だったらしい。
Astrayの面々から散々文句を言われたけれど、やはり月で服装を改めてよかった、とディアッカはにんまりと自己満足の笑みを浮べた。
戦闘中にAAへ投降したディアッカには、私物といえばパイロットスーツとバスターくらいなもので、衣服やアンダーウェアは全てAAから支給されていた。
そのため、月に降り立った時のディアッカというと、作業着のようなジャケットにズボン、古びた軍用スニーカー、それにいかにも軍用品といった丈夫なだけが取柄の小さなバッグ、といった出で立ちで。
これでは、不法就労者か家出少年、もしくは脱走兵にしか見えず、どこに行っても怪しまれるだけだから、と言い張って、街に出るのは危険だ、とか、無駄な出費だ、とか渋るAstrayの面々を説き伏せ、月の街で服やバッグ、アクセサリーを買い揃えていた。
買い物が終わった後、領収書を見たAstrayのクルーが顔面蒼白になっていたことには少しだけ罪悪感を感じたが、どうせ買うなら自分の気に入ったものを買ってどこが悪い、と開き直ることにした。
今のディアッカは黒のジップアップニットとジーンズにアンクル丈の黒いブーツ、手首に太いシルバーのブレスレットというカジュアルではあるが質の良い服装で、そこに加えて生来の育ちの良さが、
ディアッカをこのホテルの重厚な雰囲気に自然と溶け込ませていた。
「お待たせいたしました。トラヴァース様」
フロントの係員に呼ばれて振り返ると、カードキーが目の前に差し出された。
「快適なご滞在をお祈りいたします」
「ありがとう。多分そうなると思うよ」
AAを出てからここに来るまで全てが順調で、怖いくらいに幸先が良かった。