錆びついた空に背を向けて、
きしり、きしりと影を踏む。




分 点




夏が過ぎた。
いつのまにか消えてしまった蝉の代わりに秋虫たちが台頭し、その音色で宵がさざめいている。
空に掛かった薄く硝子のような雲が半月を庇い立てて一歩も譲らぬから、 月待ちだなどとうそぶいても申し訳が立つ気がする。
例えそれが、決して慣れることのない通夜の宵だとしても。



「副隊長!」
「…」
「副隊長! 志波副隊長!」

いつの間に隣に来ていたものか、 隊員の一人が海燕の顔を覗き込んでいた。

「あ…? ああ、お前か。何だ、どうした」

海燕は笑んで返した。
その男は、今宵の通夜で送られた新米隊員の親友だった。
戦闘後、遺体に取りすがって叫んでいたその背中が瞼の裏に焼きついている。

「どうした、じゃないっすよ。副隊長こそ空ばっか見て、どうしたんっすか?」
「んー…、もう半月かと思ってな」

海燕の言葉に空を見上げ、 ああ、本当ですねと眉目を開いてみせたその部下の横顔はひどく透明だった。
それが思いがけず、当の昔に消えてしまったあの男の、 似ても似つかぬあの横顔を思い出させたので、海燕は顔を一瞬、歪めた。


「…にしても雲が速いっすねえ…」

誰に聞かせることなくぼんやりと紡がれた言葉がまたひとひら、海燕の肩に圧し掛かる。
それは副隊長という役職を引き受けて以来、静かに積もり続けている。
海燕はそっと自分の肩を見遣ったあと、改めて空を見上げた。
天上では風が強いのだろう。
忙しく紋様を変えつつ行過ぎる薄雲の向こうで、月が淡々と輝いている。
星は見えない。

そういえばあのひねくれ者も、何故かこういう夜の月だけは好きだと言っていた。
夜道を歩くときは、風に煽られながら間抜けな面で、その軌跡を追っていた。
だが今は昔。

─── それに今夜の月は、なんか妙だ。

奇妙な胸騒ぎを覚えて、海燕はきつく眉を顰めた。
その足元には影。
くっきりと海燕の容を写し取っている。
それが異形に思えるのは、自分の至らなさのせいか。
それとも何か歯車が狂いだしたか。
海燕は空を睨みつけるが、 螺鈿のような雲の向こうの半月に形こそあれ、色など無い。



「…ねえ、副隊長。死神って何なんでしょうね?」
「…ッ?」

海燕は、部下の呟きに一瞬、言葉を失った。
物思いに耽りすぎて、すっかりその存在自体を失念していたのだ。
気がつかれた様子が無いのが幸いだったが、 普段の海燕にはありうべからざる失態だった。

「…死神、か?」
「はい。死神、です。  俺ら、副隊長と違って才能とかないし、それは最初っから分かってました。
 だからうぬぼれたりとかしてなかったつもりです、アイツも俺も。
 でもなんでアイツは、あんなふうに敵う筈の無い敵につっこんでって、しかも死んじまったんでしょうね。
 意味とか、ないですよね。でも俺ら、死神になったっていっても、やっぱ変わらない。頭も悪いし、力も無い。何も変わってない」

その戦闘の指揮をとった海燕を責めているわけではないのは、 静かに紡がれる独白に近い口調からも察することができた。
部下は、不意に立ち止まり、真っ直ぐに海燕を見上げてきた。

「ねえ、副隊長。なんでアイツが死ななきゃならなかったんでしょうね」

強い言葉に、海燕は言葉を失った。
傍からみれば理不尽この上ない死だったのだが、実のところ稀ではない。
闘い慣れした者たちでさえ時折、見せるその無謀さ、 つまり敵に圧倒され、混乱した挙句、自死を選ぶようなその突発的な行動は、
果たして本能の一環ではないかとさえ最近は思うようになっていた。

海燕は、自分を見つめ続けるその男を見遣る。
この新米が生きていること自体が奇跡に近いのだと、 たった一人の死で凌げたのは幸運だったのだなどと、 そんなことはあの場に居たものなら皆、頭では理解している。
だが本人にとって、それを今、知ることが果たしていいことなのかどうなのか。

「くそ…ッ、あんなにあっさり死んじまうなんて…ッ!!」
「…」

まだ少年と呼んでいいほどのあどけなさを残したその隊員は、 海燕を見上げ、くしゃりと笑った。

「でも、副隊長…、ヤツは頑張ってましたよね?」
「…ああ」
「ですよね?!」

その眼には、どこか不安の色が浮かんでいる。
それは多分、逝ってしまった故人だけではなく、自身の未来を思ってのことなのだろう。

海燕は真顔で向かい合った。

「ああ。いい死神だった。ヤツの死を俺たちはムダにしない」
「志波副隊長…」

声を震わせる彼の肩を叩いてやり、海燕は後も見ずにまた歩き出した。



足元には濃い影が落ちている。
群れ歩く隊士たちの声が高く低く、虫の音に重なり、夜空に響き渡っている。
逝ってしまったその隊員との短い思い出を語り、笑い、泣いている。
語り合うこと、それ自体が霊送りだと熟知するほどには死線を潜り抜けてきた年長の隊士たちが、 年若で経験の少ない隊士たちの背をさすってやっている柔らかい音が聞こえる。
強くなってきた風が耳元を駆け抜ける。

─── 命は脆い。

残された方が辛いと泣くのは、思い上がりと紙一重の欺瞞。
それと悟ると刃が鈍るが、うまく誤魔化しきれれば生き延びる。
つまり本能。
人は、したたかだ。
昨夜より少し太り、ちょうど半分になった月の下で、海燕は大きく息をついた。

夜を謳歌する道端の虫らは、海燕たちの賑やかな道行に驚き、静まり返る。
だが遠くの同胞たちの声に我を取り戻す。
そうやって緩やかに繰り返される沈黙と虫の音は、波のように耳に柔らかい。
夜というのは海に似ていると思う。


「…けどねー、副隊長。隊葬もできねえっつーのはやっぱ…」

つい立ち止まってしまっていたのをどう感じたのか、 先程のとは別の隊員たちが、海燕に話し掛けてきた。
故人の実家で門前払いを食らったので、 霊送りと称して酒を思いっきり飲みなおして来た後だから、
勢い、隊員たちの口調もいつも以上に崩れていた。
それを好ましく思った海燕は、一瞬だけ眼を細め、
「不満か?」
とわざと大きな声で問い返してみた。
すると彼らは更に声を上げて反論を口にしだした。

「そりゃそうっすよ! 俺もアイツの通夜や葬式に出たかったっすよ。なのに…」
「いくら家の反対を押し切って死神やってたってもよ!」
「それじゃあヤツが浮かばれねえっつーか」
「そうだよ! 通夜にも入れてもらえなかった」

悲鳴に近い声が耳を劈く。
足元には月が創る影。
薄暗闇が滞った、深い深い闇。
これが日中なら陽光の下、怒りにでも形を変えて昇華されただろうが、 月明かりにも夜そのものにも、そんな力はない。
哀しみも無力さも元の形のまま、底知れぬ影の底に蓄積されていくのだ。

海燕は、続き鏡の奥を覗き込んだときのように、くらりと眩暈を覚えたが、 眉をしかめただけで、その場を踏みとどまった。
そして改めて隊員たちの顔を見遣ると、 集まっているのは総じて同年代の者ばかりだったことに気がついた。
自分に何を求めているのだろうと、不意に疑問に思った。

「仕様がねえだろ。あの死に様じゃ。家族の気持も考えてやれ」

だが海燕の口は、いつもと同じように、変わらぬ口調で正論を紡ぎだした。

「あ…」
「すんません…」

頭を垂れる隊員たちと、 まるでそれを強要したかのような自分の言動に、海燕は眉をひそめる。

「謝ることじゃねえ」
「…はい」
「アイツと最期まで一緒に闘ったのは俺たちだ。ヤツは俺たちとある。それだけ覚えとけ」
「…はいッ」

海燕の言葉に安堵を覚えたのか、隊員たちは目配せをし合い、そしてまた先へと歩きだした。
若いな、と海燕は眼を細めた。
一歩一歩踏みしめて、明日など見ずに、過ぎた夜など振り返らずに、ただひたすら、今を歩く。
皆で月を見上げて心を通わせたと夢を見ている。

─── 俺にそんなときがあっただろうか。

海燕は足元を見た。
今日は俯いてばかりいると思った。
先と変わらぬ暗い影が、ぽつりと落ちている。
その深さも、曖昧さも、奇麗だと思う。
だから己に述懐する。
これでよかったのだと。
嘘でも構わない。
死神の生など、血塗れなのだ。
明日も明後日も百年先まで闘い尽くしの日々。
たとえ上っ滑りの言葉でも、彼らの力になればそれでいい。

永遠にさえ思える過ぎ去った日々と未来を想い、海燕は地面を睨みつける。

─── 死なせるわけにはいかない。
一人でも多く、生き延びる。
したたかに、強く、生き延びるてやるんだ。
永らえてこそ見えるものもある。

海燕は正面を見据えた。



→分点2


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