その時、首筋の毛がちりりと立った。
悪寒に似たその感覚に、アレがまた来たのだと知った。

「…先に行っててくれ」
「え? でも副隊長…」
「悪りィ。ちょいヤボ用なんだ」

今日はご苦労だったと手を振り、踵を返せば、 察しのいい隊員たちは、苦笑を浮かべ、 気軽に揶揄する言葉を投げつけながら、その場を去りだした。

「お休みなさい、副隊長!」
「オウ。明日…、つか今日も早えぇんだ。少しは寝ておけよ」
「そりゃあ副隊長の方っしょ」
「またグウグウ居眠りこいても起こしませんからね」
「ヤカマしいッ! 早く家に帰ってクソして寝ろッ」

柔らかな笑い声が響きわたる。
酒のせいで覚束ない足音が交錯して色を添える。
海燕は何もないフリをして、いつものようにぞんざいに手を振って見せる。
そしてその姿が道の向こうに見えなくなった時分にやっと、肩の力を抜いた。




海燕は意識を澄ませた。
いつの間にか虫の音が完全に消えてしまっている。
草原とも呼べぬ僅かな草っ原。
それを囲んでいるのは暗い森。
この世界の端を住処と決め、他に行き場を持たない無数の生命たちは、 息を潜めるだけで災厄をやり過ごそうとしている。

─── それも、知恵だ。 下手に逃げるより、遣り過ごしたほうが生き延びられるのだと、彼らは本能で知っている。

海燕は、帰途へついた部下たちの背中を思い浮かべた。
そして先程から漂いだしたその気配に向かい、
「…俺の時間を喰うな」
と吐き捨てたものの、そんな自分に驚いていた。

─── いつもならこの気配さえ無視して遣り過ごすはずが、 立ち止まったばかりか、声を掛けるなど。俺もヤキがまわったか…?

酔いのせいだろうか。
西流魂街のさらに僻地、知らぬ間にあの男の領域に足を踏み入れていた。
迂闊な自分に海燕は舌打ちし、踵を返そうとした。
だがその時、 冷たいなあという声が聴こえた気がした。

「 ... ?!」

海燕は息を飲んだ。
その気配を感じたことは何度もあったが、 いずれも思い過ごしと思えるほどの僅かなものだったからだ。
それなのに、声まで聴こえた。
幻覚をみるほど焦がれた覚えはない。
ならばこれは怪異の一種に違いない。
あの浦原の魂が、簡単に消えるわけがなかったのだ。

─── …ついに化けて出るようになったか。

海燕は腰に差した斬魄刀の柄に手を掛け、眼を閉じた。
改めて開かれた海燕の半眼が、草の海を睥睨する。
風が渡り、波が揺れる。

「…さっさと逝け」

振り絞るように吐き出された海燕の言葉に対する返事のつもりなのか、微かに大気が震えた。
浦原の気配が質量を伴い、生ぬるい風となって吹き付けてきた。
だがそれは、海燕が知る浦原のもので、決して虚や他の何かではなかった。

─── まさか…!

肌が粟立った。
浦原という人物。
消息知れずと公式に確定されたということは、暗に消されたのだと理解していた。
なのに失踪からしばらくして、その気配が海燕の前に姿を現し出した。
ゆらりと風に乗って現れ、しばらく漂った後消えるだけのものだったが、 繰り返されるうちに、かえって浦原の死を確信するようになっていった。
それが生きていただなどと。

まるで彼の裡に身を浸すようなその感覚に、 生理的な嫌悪感と共に、燃えるような怒りを感じた。

─── 生きていたというのか。

あの消失。
浦原が企てたとされたあの事件で、何人もの隊長格が失われた。
何も知らぬ間に起こった、尸魂界を震撼させたあの変動。
たった一晩で、世界の何もかもが色も形も変えた。
いくら天才と浮竹に重宝されていても、所詮は一般隊員の身。
何も知らされておらず、すべて後手に回った。
渋る浮竹から事の顛末の断片を掻き集めるだけ掻き集めたが、 どうしてもあの浦原がと信じられなかった海燕は、個人的に探索を試みたが、あまりの多忙にそれも潰えた。
副隊長の責を負ったからだ。
その頃の護艇は多くの隊の隊長格を失い、機能不全に陥っていた。
統制の取れない戦いで、死神達がバタバタと死んでいった。
無駄な死だった。
一方、十二番隊では、病弱とはいえ、浮竹は存命。
確固とした体制も整っている。
海燕は、腹を決めた。
そして他隊の業務や教育、体制の強化などを請け負った。
それからの日々は、ただ駆け抜けるだけだったように思う。

それをすべて浦原のせいにするわけではない。
そもそもあの浦原が、あんな無様な実験をするわけがない。
ただ、何らかの形で関わったのは確かだ。
なのに何一つ、海燕に悟らせなかった。
あっさりと消えてしまった。
覚えているのは、いつものあのヘラリとした笑顔だけ。

─── 会った当初から…、始めた時から変わらねえ、あの図々しいツラ。 ヤツに与えられた記憶はそれだけだ。

海燕は歯軋りをする。
信じていたわけではない。
だが嘗て知らぬ世界に取り残され、 その後始末に奔走するために、あの男に関わったわけではない。

「テメエ…、嗤ってんじゃねえ」

こみ上げる悪寒と拒否感に、思わず鯉口を切った。
全身を緊張させ、身構えた。
その時、その声がした。

「嗤ってなんてないですよ。人聞きが悪いなあ」
「…オマエ…!!」

それははっきりと、浦原の肉声だった。
驚き、強張る海燕の目前で、 その気配は凝集し、形を作り、ついにぼんやりと浦原の姿に姿を変えた。
口元にはあの笑みを浮かべている。

「…ついに化けたか」
「なわけ、ないでしょ?」

浦原の影は、鮮明に笑った。
その声に含まれた皮肉げな響きは、尸魂界から姿を消す前のものと全く変わっていない。

「……」
「死んでなんかないッスよ。分かってんでしょ?」
「…浦原…。オマエ、本当に浦原なのか…」

その問いには応えず、 薄っぺらな影は、薄っぺらな笑みを浮かべたまま、やっと名前を呼んでくれたと微笑した。
海燕は、肩と背から意識して力を抜き、 不意の攻撃にも対応できるように、関節を軽く緩めた。
手はもちろん柄に添わせたまま。

「…何で来た」
「何でって…、そりゃあアナタに会うためですよ」
「ほォ」
「…つれないなあ」

ヘラリと笑ってみせる浦原は、数年前、いやもう十数年にもなるか。
尸魂界から姿を消した頃と一寸も変わっていないように見えた。
だが、

─── 何だ…?

海燕は眼を細めた。
姿かたちで言えば何も変わっていない。
死神の浦原が、そうそう変わるわけが無い。

─── だが…。

その魂の何もかもが変化しているように思えた。
少なくとも海燕の知る何かが失われている。
酷く硬く、歪んでいる気がする。

─── ……ありえねえ。

海燕は焦る自分を感じた。

─── あの、浦原が…?!

腹の奥のその深遠で、全てを俯瞰していたあの浦原が自分を変えるなどと。
あの傲慢さを捨て去り、変貌することを自分に許すなどと。

「…何で此処に来たかなんてこたァ訊いちゃいねえ」

海燕は、声を強めた。

「へ…?」

いかにも意外そうに、浦原の影はひらひらと扇子を仰いで見せた。
芝居染みたしぐさが癇に障る。

「…つか一体何なんだ、その趣味の悪りィ服は」
「言ってくれますねえ」

海燕は、眼を細めた。
底が見えた気がしたのだ。

「テメエ…、浦原じゃねえな」
「なんでそう思うんっスか?」

落ち着いた声音はあくまで浦原のもの。
だからこそ胡散臭いのだと海燕は断定した。
記憶など、思い込みに過ぎない。

「俺が違うと思うから違うんだ。違うか」
「まさか…」

浦原の影は嗤う。
ゆらりゆらりと揺れる。

「アナタが違うというのなら、違うんでしょ」

空気がさざめき、夜が深まる。
秋虫の声はまだしない。

「アタシはもう、アタシじゃないって訳ですか」

何がアタシだ、と海燕は内心、吐き捨てる。
そして再び問う。

「…何しに来た」

これが浦原でもそうでなくても構わない。
それに関わったのも遥か昔。
相対しているのは遠く失われたもの。

「何しに来た」

海燕は重ねて問う。
浦原の影は、見慣れぬ帽子と扇子の下でじっと海燕をねめつけてきている。
海燕は微動だにしない。

何がどうなってそこに行き着いたかは知らぬが、 頭だけはよく働くあの男が、 追われる身になって、海燕に会いにくるような愚を起こすわけがない。
だが目前の浦原は、道化染みたほど浦原本人だった。




→分点3


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