往くのかと、
差し伸べられた白い手が見えた気がした。




月凍る




目覚めてみればそれは酷く寒い夜で、指先まで染み渡った無力感のせいか身体も重かった。
何かに呼ばれた気がして夜着のまま飛び出すと、冷たく重いものに足を取られて転びそうになった。
見下ろしてみれば両足が、厚く積もった白いものに埋もれている。

─── 雪? いつの間に…。

記憶が朦朧としていてはっきりしない。
抉られるような痛みに袷を開いてみると、肩から腹に掛けて白い布が巻いてある。
傷から滲み出した血が黒く乾いているのを眼にしてようやく、何があったのか、何故こんなに深手を負っているのかを思い出した。

─── また負けたのか、俺は…。

無意識に手にしていた蛇尾丸が、始解さえしていないというのに重い。
恋次は歯軋りをして、裸足のままで雪の中を歩き始めた。



その日、恋次は白哉に真剣勝負を願い出た。
無理は承知していた。
焦っているという自覚もあった。
だが隊務の合間を縫って鍛錬を重ねるようになってずいぶんと経っていた。
そしてその日の戦闘では確かな手ごたえを感じた。
以前の自分ではないという確信があった。

しばらくの沈黙のあと、白哉は背を向けたまま、よかろうと言った。
正直、時期尚早と一蹴されると思っていた。
だがついに認められたのだ。
無意識に自分を押し込めていた箍が吹き飛ぶと同時に、恐ろしいぐらいの力が漲った。
周囲の隊員たちが後ずさるのが視界の隅に見えたが、白哉の横顔以外、目に入らなかった。
恋次を一瞥した白哉は、僅かに微笑らしきものを口元に浮かべ、
場所を移すとだけ言い捨てて霊圧もろとも姿を消した。

─── 甘めェ! 見失うもんか。

尸魂界の端で追いついたときは、雪が降り出していた。
千本桜を想起させるその景色の中に、白哉は佇んでいた。
それがとても静かで、一瞬、恋次は声を失った。
だが振り向いた白哉の手には、斬魄刀が握られていた。
威圧的な霊圧がその場に満ちていく。

─── おもしれえ…!!

まさか白哉が先に刀を抜くなどと、想像もしていなかった。
血が滾った。
昂ぶる己をこれ以上、抑えられない。
薄く細められたその眼も、圧倒的なその霊圧も、身の裡に響き渡る、今すぐ闘わせろという蛇尾丸の咆哮も、すべて真正面から受け止めて構えを取った。
そして本能のまま、吼えた。
それなのに。


─── 俺はまた、負けたのか。

恋次は俯いたまま、脛まである深さの雪を掻き分けて歩き続けた。
あれからどれぐらいの間、床についていたのだろう。
凍てついたままの空気は、引っ掛けただけの夜着の隙間から忍び込んでこんできて、容赦なく恋次を痛めつける。
指もかじかみ、宙に曝したままの頸もゆるりと凍りだす。
下腹にまで生温かい血が流れてくる感触がするのは、すっかり傷が開いてしまったせいだろう。
酷い痛みが身体中を駆け巡っている。
だが、その苦痛をを心地よくさえ感じるほど、恋次は憤っていた。
勝つどころか、傷一つ負わせることができぬまま、あの時以上にあっさりと打ち倒されたのだ。
しかも白哉本人の手でご丁寧に搬送されるという恥の上塗り付きで。

─── チクショウ、チクショウ、チクショウッ…!!!

意識を失いかけ、黒く塗りつぶされていく視界に映り込んだ白哉の表情が今も眼に焼きついている。
あれは憐れみの色ではなかったか。

─── …クソッ、俺はこんなに弱かったのか?!

恋次は足を止め、呆然と天空を仰いだ。
当の昔に雪は止んでしまったのだろう、
雪が降り積もった枝の向こうに見え隠れしているのは、闇空にぽっかりと浮かぶ白銀の月。
その冷たさと遠さがまるで朽木白哉の背のように思えた。

身体が重かった。
希った未来など、存在しないように思えた。

─── 俺は…、弱いのか?

疑念を抱くと同時に、それを肯定する蛇のあけすけな哄笑が頭の奥に響いた。
と同時に、蛇を嗜める聡い狒々の声も。

腹わたが瞬時に煮えくり返った。
二頭が恋次の動向を凝視しているのを感じたが、自分を抑えられなかった。
力の篭らない指で、刀を握り締めなおした。

─── チ…クショウ…ッ!!

これは己の意思で手にした刃。
自身が内包する矛盾を映した恋次の力。
それに嗤われ同情されるようでは男が廃る。

恋次は刀を抜いた。
白い静寂に逆らうように、漆黒の天空に切先を突きつけた。
そして真紅の髪を振り乱し、あらん限りの力を込めて刀を振るい続けた。
宙に漂う何かを切り裂くように、刀身にまとわりつく余分な何かを振り払うように、ただ必死に。



→月凍る 2


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