変わりゆく人生 -003-

 身体が麻痺し始める。その姿を捉えた瞬間、時間が止まったような気がした。
 これは自由ではなければ偶然でもない。
 決められた ――― 未来だ。

  ◆


 その人物は、赤井の存在を確かめるように手を伸ばしてその頭に乗せた。二、三度撫で、そして軽く叩く。ふと微笑むと、そこでようやく赤井の向かいに腰を下ろした。
 頃合良くウエイターが席までくると、お決まりの台詞で注文をとる。
「コーヒーを…。赤井は?」
 その問いかけに、頷く事も、首を振ることもできない。
「…二つで」
「かしこまりました」
 ウエイターは丁寧なお辞儀を見せると、カウンターの奥へと消えていった。
 赤井の目の前の人物は、椅子に深く身を沈めると、胸ポケットからシュガーケースを取り出し、その手に一本挟めた。次いで火をつけ、一息吸い込んだ。
「しゃべれない…訳じゃあないんだろう?」
 懐かしさの抜けない瞳が、赤井を真正面から捕らえる。赤井は辛うじて少し顎を引く事ができた。それによって、肯定と見做す。何から言えばいいのか、何を聞けばいいのか、どのみち、その何かさえも今の赤井には思いつかなかった。
 向かいに座り、煙草を吸う彼も、それ以降口を開かない。開く気配すらない。何を考えているのかも読めない赤井は、とりあえず、自分が覚えている事を口にしようと、ゆっくり彼を見上げる。
「……とう、どう…」
 久しぶりに会えたのに、第一声を発するまでやけに時間がかかった。
「忘れてた訳でもないんだな。頼むから…そう固くなるな」
 藤堂は優しく、それでもつらそうな表情を見せる。その表情に、赤井は酷く胸が痛むのを覚えた。こんな藤堂を見たのは、初めてかもしれない。
 藤堂は面白い事には首を突っ込みたがるが、面倒ごとは悉く嫌い避けていた。それなのに、今こうして面倒事とも言える問題に首を突っ込んでいる。それ位、藤堂本人にとっては、重要な事だと言えるのだろう。
 “お待たせ致しました”と店員がコーヒーを二つ、其々の前に置く。一礼すると、また注文をとった後と同じように奥へと消えていった。
 藤堂は目の前に置かれたカップを持ち上げ、初めて自分も固くなっている事に気付いた。赤井を落ち着かせるためにも、自分だけは緊張しまいと決めていたのに、カップを持つ手がぎこちなく震えていた。悟られないよう神経を落ち着かせ、一口飲む。そして気を紛らわすように口を開いた。
「あいつらが探してるぜ、お前のこと。特に森本なんて、普段見せない顔つきで…」
 思い出したのが可笑しかったのか、藤堂は一人自然と微笑んだ。だがそうしたと気づき、直ぐに舌打ちをして俯く。
 笑ってる場合ではない。本題を切り出さなくては。
 藤堂はふと赤井の目の前にあるコーヒーを見つめた。少しも減ることのないそれは、ただただ深く、濃い彩に赤井の表情を映していた。その表情もコーヒーのように暗く、以前の彼の明るさは欠片も残っていないかのようだった。
 藤堂は赤井の無邪気な笑顔に知らずと惹かれていた。何にでも直ぐに首を突っ込みたがる迷惑と言っても過言ではない彼に、最初は鬱陶しささえ感じていた。なりが地味だろうが何だろうが、だからこそある彼の笑顔には、人を惹く魅力があった。
「浅ましいな、俺は。未練タラタラだ」
 溜息をつき、コーヒーを一口だけ口に含み喉を潤す。
 どんな結果になろうとも、自分の意思を伝えるだけだ。
「赤井、好きだ」
 周りを気にしない藤堂の真っ直ぐな言葉が、真っ直ぐな視線が、赤井の戸惑う視線と絡み合う。衝動的に開いた口からは声が出ず、自分が何を言おうとしていたのかすらわからなくなってしまっていた。
 開いた口をゆっくりと閉じ、顎を引く。
「嘘も偽りもなく、お前が好きなんだ。俺の所に、帰ってきて欲しい」
 お願いをするように藤堂は頭を下げる。
 なぜ藤堂が頭を下げる必要があるのか。そもそも“好きだ”なんて始めて聞いた。赤井は頭の中が混乱してしまい、上手く前を見れずにいた。
「それでも、赤井は俺の所じゃない場所へ帰るのか? そっちの方がいいのか?」
 次々と雨のように降り注ぐ藤堂の言葉が脳裏を埋め尽くす。
 赤井の事を好きと言ってくれた藤堂。言葉と態度でばかり赤井を捕らえ続ける黒河。どちらについて行くのが、今の赤井にとって幸せであるか、それはわかりきっていた事だ。
 それなのに、赤井の口は言葉を発しようと開きはしなかった。口が開かないならば顎を引いて深く頷けばいい。そうすれば、藤堂が手を引いてくれる。しかし…赤井は全身が凍りついたように、頷く事すらできなかった。
 このまま藤堂についていけば、黒河はどうなる? そのまま自分たちの事は放っておいてくれるのだろうか? 若しくは、また追われ、この身を呈する事になってしまうのか?
 赤井の意識だけが慌て始める。後のことなど今が過ぎてから考えればいい。そうは思っても、赤井はやはり口を開けずにいた。
 視線だけをずらす事のないまま、時間だけが過ぎていく。何もせずただ見つめ合っているだけの客は不自然すぎる。だから早く口を開かなくては…顎を引かなくては…。
 それなのに…。
「タイムリミットだ」
 音を立ててカップをソーサーへとのせる。ガチャッと言う音に思わず身を竦め、立ち上がった藤堂を見る。その怯え縋る様な瞳に、藤堂は一瞬の躊躇を覚えた。だが首を振ることでその思考を振り落とし、隣においていたコートとマフラーを片腕にかけた。そしてテーブルの上にある細い透明な筒から伝票を抜き出し、それを指に挟んで赤井の椅子側へと回った。
「風邪、引くなよ」
 言いながら、持っていた白いマフラーを赤井の首に、きつくない程度に巻きつける。そして、来た時と同じように頭に手を置くと、静かに撫で上げた。
「…じゃあな」
 頭上をポンと叩かれ、その手の温もりが離れて行く。
 今ならまだ間に合う。そう思っても、思うだけで何をする事もできなかった。
 藤堂の顔色を伺う事もなく、彼を呼び止めることもなく、背後でドアの閉まる音が聞えた。その音でハッとし、呪縛が解けたかのように、勢い良くドアの方へと振り返る。直ぐに振り返ったはずなのに、そのドアの向こうには、もう彼の姿はなかった。
 答えを出さなかった事が答えとなってしまっていた。

  ◆

 藤堂がいなくなってからも数分、赤井はそこから動かずにぼーっとしていた。
 そろそろ出ようと思い、ふと視線を落とすと、テーブルに水滴があることに気づく。そしてそれが、自分が流した涙だと言う事も。
(――良かった…涙を…忘れた訳じゃないんだ…)
 そして袖を少し伸ばし、その涙を一気に拭う。口を開けて深呼吸したとき、始めて喉が乾いている事に気づいた。目の前にあるコーヒーは、一ミリも減っていない。コーヒーに手を伸ばし、そっと包み込む。冷えているのはカップだけではない。中身もだ。
 その物がまるで自分自身に思えてしまった。周りからかけられる暖かい声にも、優しく撫でてくれる手の温もりも、全て、自分から拒んでいた。
 冷え切ったコーヒーのように、心の中も外も、既に冷え切っていてしまっていた。
 レジに行けば、店員に“お客様の分は先ほどの方から頂いてますので”と言われ、赤井は一礼してその店を後にした。
 藤堂に、感謝しなくちゃいけない。お礼の言葉も。でも、また会う事ができるのか。希望は少ない、と言うよりは、ほとんど皆無と言っても可笑しくはないだろうと思う。それならば、尚更きちんと話すべきだった。
 赤井はレストランより少し離れた人気のない小道に立ち尽くした。自分が涙を流しているんだと、今度は直ぐにわかった。目頭が熱い。藤堂の最後に言った言葉が、縦横無尽に脳内を駆け巡る。赤井は、別れの言葉すら、言えなかった。
 色々手を尽くしてくれたであろう人に、何も言えなかった。
「…っ」
 足が自然と震え、その場に弱弱しくしゃがみ込む。膝を抱えて顔を埋めると、嗚咽が漏れてきた。
「ごめ…藤堂…ごめんっ…」
 ただひたすら詫びをいれた。藤堂の行為に、そして自分の行為に。
 気づけば目の前には、黒塗りの車が止まっていた。
 これからどうなるのだろう…そう頭でぼんやりと考えながらふらりと立ち上がり、車の方へと向かう。
 ドアを開けて乗り込み、虚ろな眼差しを外に向けたまま、大きな音を立ててドアを閉めた。
 明るく輝いていた光を自ら拒んだ。
 もう、皆の元へ戻ることはできない。

2007.02.11/←BACK/NEXT→