変わりゆく人生 -002-

 ここにいると、口数が減りそうだ。そう思っていても、話す相手もなく、ただぼうっとする一週間だけが過ぎていった。
 そして今日、早くから黒河に呼ばれた赤井は、夜な夜な覚える身体の痛みを堪え、覚束ない足取りで彼らのいる部屋に向かった。
 完全に背筋を伸ばせばそれなりに楽になるものの、それまでの経過が辛い。着くまでにそれを何度行ったか、赤井は幾度も冷たいコンクリートの壁に手をついては眉間に皺をよせた。
 やっとドアの前に立ったものの、今度はその部屋に入る気力が薄れていた。立ちすくみ、ドアノブを見つめる。小さくため息をついてから、それに手を伸ばした。触れるだけで、まだ開く事を手が拒んでいた。それが赤井の意思だ。
「何をしている」
 気配を悟られたのか、室内から声をかけられ、赤井はまた一つため息をしてノブを回した。中に入って後ろ手にドアを閉める。室内には、いつもの場所にそれぞれ二人がいた。
 赤井はドアの前で黒河に視線を向けると、黒河は自分の前を示した。とりあえず、赤井はそこまで足を進める。
 黒河の正面に立つような位置で、灰久津の前に立つ。何とも居心地の悪い居場所に、赤井は何度目かわからないため息を、心のうちでこぼしていた。
 俯いて黙っていると、黒河は懐から何かを取り出した。そして赤井の数センチ先に、その“何か”を投げる。堅いコンクリートに落ち、それは跳ねることなく赤井の爪先まで転がってくる。靴先に当たって止まったそれは、一つの小さな銃だった。
 ピクリと身体を反応させ身を強ばらせると、怪訝そうな趣で黒河を見返す。黒河はそんな赤井に視線は向けず、煙草に火を点ける。
「持っておけ」
 一言だけそう発すると、背もたれに寄りかかった。
 赤井は暫くそれを見つめた後、視線だけを黒河に向け、小さく口を開いた。
「…いらない」
 無意識に頭を横に振っていたのか、前髪が視界の中で揺れる。
「そう拒むな。護身用だ」
「護身…用…」
 復唱するように呟き、口を結ぶ。小さくとも黒々としたそれは、素人には十分迫力のある物だ。
 一層のこと、開き直って銃を握ってしまおうか。
 赤井は自分の呼吸が浅くなっていくのを感じていた。そして今、これから自分が何をしようとしているのかも。
 ゆっくりとした動作で腰を屈め、黒光りするそれに震える手先を伸ばす。形を確かめるように全体をさわり、それから手の内に納めてみる。手の平サイズの護身用拳銃。どんなに小さくても、銃は銃だ。
 赤井はそれを片手で持ち、屈んだとき同様、ゆっくりと立ち上がった。
 焦点がぼやける。銃を握った片腕が、無意識のうちに持ち上がる。
「ほう…」
 黒河が目を細め、哀れむような視線を赤井へと送る。
「そんな小さい弾で、俺に風穴空けようとでも言うのか?」
 震える銃口が向かう先は、黒河だった。
 銃の扱いなんて習ってない。これからも、習うつもりはない。
 赤井は下唇を軽く噛むと、眉間に皺を寄せた。同時に銃を握っていない方の手に、握り拳をつくり、爪が食い込むほどに力をいれた。
「俺に穴が空く前に、お前に穴が空くぞ」
 言いながら、黒河は顎で赤井の背後を示した。黒河の下には灰久津がいる。故に、この先赤井が引き金を引けばどうなるかと言う事くらい、今の赤井には十分理解ができていた。
 赤井は今にも泣き出しそうなくらいに表情を歪めると、その腕をゆっくりと下ろした。腕が完全に下りてから、両目を瞑る。黒河と灰久津の二人に悟られないよう、赤井は小さく深呼吸をした。
 そして次の瞬間、目をカッと見開き、腕を一気に持ち上げる。赤井の目には、下から手を振りかざした黒河の姿が映った。
 同時に、二つの銃声が鳴り響く。
「くっ……」
 苦痛に声を漏らしたのは、赤井一人だった。
 赤井は自分が引き金を引いた事は解っていたが、他の状態を把握する事ができないでいた。把握するよりも前に、膝をついて前のめりになる。
 力の抜けた片腕から銃は離れ、コンクリートに音を立てて落ちる。
「っ…」
 うずくまる赤井は右下腹部に手をあてる。そこから痛みが伝わり、目頭が熱くなる。堪えきれない涙が、垂直に落ちてはコンクリートに染みをつくる。
 赤井の放った弾は、黒河の放った霊によって拳銃ごと逸らされた。同時に灰久津から放たれた弾は、元からそこを狙ったのかどうか、赤井の右下腹部を掠め、致命傷には全く持って至らない箇所に傷を残していた。
 腹部を押えた指の間から、血が滲み出てくる。
「そう焦るな、零」
 黒河の言葉の後、灰久津は無言のまま銃を懐にしまうと、一言“出てくる”と残し、うずくまる赤井の直ぐわきを通り、部屋から去っていった。
 黒河は“やれやれ”といった感じにため息をつくと、改めて赤井を見下ろした。
 痛みの抜けない赤井はそこから動く事ができず、そして声を出す事もできずにその場にうずくまっていた。
 そんな赤井の前まで歩み寄ると、黒河はそこに屈んで赤井の髪を掴みあげた。
「いっ…」
 無理矢理上を向かされ、反動で目に溜まっていた涙が頬を滑り落ちていく。痛みを堪える為にしたのだろう、唇には力強く噛んだ痕と少量の血が滲んでいた。
「痛むか?」
 言葉自身は労わるようでも、黒河の顔は赤井を労わっている様な趣ではない。“これが今、お前が俺にやろうとしていた事だ”とでも言うように、赤井の髪を掴んだ手に力が入り、更には口端が吊り上っていった。
 それでも赤井は、黒河の意図を悟っているのか否か、また唇を噛んでは黒河を上目遣いに睨みつけた。黒河は、赤井の睨みに怯む事もなく、ただ鼻で笑うと、その手を離した。途端、赤井はまたも前のめりになったが、焦ったように出した片方の手をコンクリートにつけた事で、辛うじて突っ伏しはしなかった。
 が、そのあと直ぐに二の腕を掴まれ、引き起こされる。急な立ち上がりに、腹部に痛みが走る。赤井が呻いているのも気にせず、黒河は赤井の腕を引いた。

  ◆

 半ば強引に引かれ、ついた先は赤井が使っている一室だった。
 黒河は掴んだ腕を押しやり、赤井をベッドへと放り込んだ。
「っ…」
 ベッドに体が落ちる前に、怪我をした部分を庇うように身体を捻り、手で傷を押さえ込んだ。おかげで直接傷には触れなかったものの、遅れて間接的な痛みが赤井の脳裏を襲ってきた。その痛みに息を飲み込み瞳を固く閉じる赤井は、ドアの閉まる音を耳に聴いた。瞼を静かにを開いててみれば、黒河の姿はなかった。
 赤井は暫く寝そべったままの状態でいた。それからまた暫く経ってから、肘をついて庇うように上半身を起こすと、傷ついた腹部に改めて手を触れてみた。服の上からではよく解らず、直接見るのに気は引けるが、その傷を確かめる為にゆっくりと服を捲りあげる。
 傷が見えそうになった所で、再度ドアが勢いよく開けられた。
 何事かとドアに視線をやった赤井の目には、一つの小さい缶を持った黒河が映っていた。赤井は数回瞬きをして、黒河が煙草を銜えている事にも気づいた。一歩前に進み出るなり口元を緩め、手も使わずに、銜えていた煙草を床に落とした。途中、自分の服にあたり、部分的に白い汚れができたが、黒河はそれを気にとめる事はなかった。そのまま、次の一歩で火を消し、赤井の前まで歩み寄る。
 赤井はベッドの上で後ずさり、壁に背を預ける。黒河に迫られる度に身体を硬直させるのには疲れていたが、本能には逆らえない。無意識のうちに、息まで止まりそうになっていた。
 黒河は赤井を上から見下ろす位置まで来ると、赤井の肩に手を伸ばし、そのまま引いて彼をうつ伏せにした。
「痛…」
 怪我人だから少しは丁重に扱ってほしいなど、この男には通用しないのだ。
 されるがままになるのが不本意な赤井は、少しの抵抗をみせ腕を突っ張ろうとする。だが、上から圧迫される力には及ばず、やがては腕が疲れて頬を布団へとこする破目になる。
「無意味な抵抗はしないほうがいい」
 赤井はその言葉に唇を噛み締め、肩越しに黒河を睨みつける。それも気にせず、片足をベッドへ乗せると、赤井の上着を捲りあげた。背骨に沿って、器用な指先が上へと登ってくる。悪寒に似た震えに、冷や汗が出そうになる。
 それから完全に足を押さえつけられる形で膝裏に跨られる。赤井は肘を立てて上体を少しだけ起こす。痛みはなかった。
 顔を後ろに傾けると、黒河が薄い円錐状の缶から白いクリーム状のものを指に取っているのが見えた。薬だとわかったのは、ほのかな香りからだった。ごく一般で流通している薬の独特な香りが、薄っすらと漂っていた。
 赤井は顔をシーツに埋め、腹部に力をこめた。
 黒河の指先が、傷の周辺にゆっくりと這わされる。
 思わずそれを制止しようと後ろ手に伸ばすが、黒河の方が速かった。薬のついた指先が傷口に触れる。
「っ…」
 その冷たさと傷に触れられる少しの痛みにうめき声が出そうになる。行き場のない手は宙で止まり、その後縋るようにしてシーツを握り締めた。
 指先は傷を抉りはしないものの、容赦なく力をこめられる。傷口が痛む度に、赤井は噛み殺した声をシーツへともらした。
 やがて指先が離れ、終わったのだと切れ切れの息をする。全身から力を抜いて、楽な姿勢をとろうとするが、黒河が上からどく気配がない。
「もう…どいて…」
 弱弱しくも抗議すれば、黒河クツクツと笑い出す。直後に足への負担がなくなる。同時に痺れが訪れ、まだ暫く動かせそうにないと赤井は改めてシーツに顔を埋めた。
 ホッと息をついたのも束の間、黒河に腰を掴まれ引き寄せられる。
「なっ」
 慌てて肘をつき、振り返ろうとするが、その頭は手に押さえつけられ、シーツから浮き上がる事も出来なかった。
「やめ、あっ…」
 片方の指先で赤井のズボンのベルトとボタンを外す。どこまで器用なのかと変に感心する暇すら与えられない。直ぐにジッパーも下ろされ、割って直にその手が赤井の精器を包み込む。
「んっ…」
 一度覚えてしまえば、屈辱に似たものでも“快楽”と言うものは忘れ難いものだ。その事実に疎ましく思いながらも、忘れられない快楽の訪れに唇を噛み締め、赤井は溺れるようにまた瞳を閉じた。

  ◆

 翌日の明け方、赤井は黒河に突拍子もない事を言われ、驚きのあまり立ち竦んだまま声を出すことができずにいた。
『お前に一日自由をやろう』
 これが黒河から告げられた言葉だ。条件として『必ず戻る事』と付け加えられたものの、黒河には結果が見えているような表情と言い方だった。
 赤井は外に出る気などなかった。今更、たった一日自由にされたからと言って、特別だった何かが戻ってくるわけでも、思いとどまっている妙な感情に結論を出せる訳でもないと思っていた。それ位なら籠りっきりでじっとしていた方が楽だった。
 しかし、『出たくない』と答えても、黒河の返す言葉はそれを無視する。黒河の方も引かなければ、赤井も引く気はなかったが、無言の黒河は赤井の腕を引くと、無理矢理車に押し込んだ。そして黒河も運転席に乗り込むと、ドアを閉めると共に発進させる。
 有無を言わせない行動に不快感を持ちながらも、こういった強引な行動に逆らえない赤井は、内心、この男に抵抗することをほとんど諦めかけていた。
 走り出して数分もしないうちに車は止められ、「降りろ」と声をかけられる。同時に顎で行き先を促すように、古びたレストランが示された。従って車から降りると、ドアを閉めた。瞬間に後ろから風が吹き荒れ、赤井は肩を竦めて襟元をたてた。
 改めて示されたレストランに視線をおくる。目に映るレストランは古典的な造りで、無駄がない造りでもあるような気がした。造り手の気持ちが籠った、独特の雰囲気がにじみ出ている店だ。
 そんな風に思い、赤井は引き寄せられるようにそのレストランへと足を進めた。ぼうっとしているうちに動いたのか、黒河の車は既に去っていた。
 小さな音を立てて店内に入ると、中は意外にこぢんまりとし、客数も少なかった。それでも外見同様、クラシック調の造りには、初めて訪れる赤井でさえも心を安心させる事ができた。
 どうすればいいか分からず、とりあえずと窓際の四人席へと行き、腰を下ろした。窓の外を見ると、木々が風に吹かれて斜傾になっていた。
 一つため息をし、テーブルに額をつけた。ゆっくりと目を閉じる。何かを考えようと耽ってみるが、どうにも先が見えない。テーブルに貼りついたまま頭を少しずらし、もう一度窓の外に視線を向ける。赤井は虚ろな眼差しを、揺れる木々へと向けていた。
「本当にいるとは思わなかった…赤井」
 不意にまだ覚えている自分の名前を呼ばれ、赤井は目を開いて頭を擡げる。しばらく焦点が定まらなかった。なんとなく見覚えのある顔がそこにはあった。

 そしてそこから、最後の駆け引きがスタートする。

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