「あいつに?」
 露貴も小声で答える。
「サボってたら会ったよ」
「なんだ、珍しい。あいつもサボりか」
「珍しいんだ」
「そりゃそうさ。面倒なことには近づかないタイプだからな」
「ふうん」
 そう答えて、あの木漏れ日の中、彼がした答えと同じ調子だったな、と思えば自然、口許もほころぶ。
「なんか嫌なことでもあったかね……」
 可愛い従弟を案じる声。それにわずかばかり嫉妬した。
「まぁいいや。あいつと会話、成立しないだろ」
 不安を振り払うように露貴は言い、笑ってそう続ける。
「いや、そうでもなかったよ」
「は?」
「ちゃんと、話せた」
「あいつが!?」
「……というより、彼はほとんどしゃべってないな」
「それが普通。そういうのを成立した、とは言わないぜ」
「でも会話にはなってたよ。俺が話しっぱなしだったわけじゃないし」
「と、言うことは。お前、あいつの言ってることわかったわけか」
「ある程度はね」
 さりげなく、誇るような響きにならないよう、気をつけて言う。けれど心の中は誇りで満たされていた。
 従兄が言うのだから、間違いなく彼と会話が出来た人間は珍しいのだ。自分はその珍しい一人なのだ、と。
「そりゃすごいわ」
「彼が?」
「あいつもだけど、お前がさ」
「そういうもんかな」
 訊ねながらも確信している。それが嬉しくてたまらない。
「そういうもんなんだな、これが」
 呆れるように言った露貴の言葉に重なるように、寮長が風呂に入るよう促す声が聞こえた。

 他の寮生ががやがやと騒ぐ中、露貴と並んでコンラートは湯船に体を浸していた。温かい湯が広い浴槽一杯に満たされていて心地良い。
 留学した当初こそ他人とともに裸になって湯につかる、と言う行為に違和感を覚えたものの、もうずいぶんと慣れた。
 湯につかっているとコンラートに肌はすっかり赤くなる。日本人に立ち混じってさほど目立つ外見をしているわけではないのだが、こうして肌が温まると日本人とは違った染まり方をするのだった。
 自分と比べてもたいした違いがないように見える露貴の肌と比べても、彼のほうがずっと肌理が細かい、そんなことを思う。だからと言ってなに、と言うわけでもないのだが。
「熱くないか、今日」
「そうかな。それほどでも」
「お前もすっかり慣れたもんだ」
「いい加減ね」
 そんなことを言っては笑いあう。
 露貴こそ、熱い湯につかっているのが苦手で、すでに額に汗が浮いていた。
 以前、別の級友が露貴を評して言った。
「ああいうのを烏の行水って言うの」
「烏?」
「ばしゃばしゃって短いだろ」
 露貴を思い出したように友人は笑ったが、彼にしても自分にしても烏が水浴びする所など見たこともない。
 それにしても日本語は面白い、そう思った記憶があった。コンラートには外国語を学ぶ才能があったのかもしれない。言葉とその背景に得も知れぬ面白さを感じるのだから。
 洗い髪からしずくが滴った。
「なんだお前だって熱いんじゃんか」
 露貴がそれを見て笑い出す。どうやらそれを口実にさっさと出たいようだ。
 自分から先に出るとは言わないあたり、まったく露貴らしかった。
 思わず苦笑して
「だね、出よう」
 言って出れば、なにやらタイミングが悪かったらしい。
 脱衣所は出る人間と入る人間でごった返しているではないか。
 二人は顔を見合わせ目配せひとつ。体だけを拭いて服を着てはさっさと部屋に引き上げることにした。浴室を出るときにそっと辺りをうかがうことは忘れれていない。濡れた髪を見られては寮長から睨まれることはわかりきっている。
 混んだ浴室を後にした二人は悠々と自室でドライヤーを使うことに決めていた。
「禁止されてるぜ」
 後ろから誰かが笑いを含んだ声をかける。
「規則は破られるためにあるんだってことを寮長は知るべきだな」
 いけしゃあしゃあと言ってのけた露貴に向けて、笑いが炸裂していた。

 髪を乾かしてみれば思いの他時間がかかっていて、慌てて二人は食堂に向かう。
 紅葉坂の寮では入浴の時間も食事の時間も一斉に行動する、と定められているわけではない。決まっているのはただ浴室・食堂ともに決められた時間が過ぎれば閉まってしまう、それだけだった。
 あとは各自の自主性に任せられている。自由である反面、面倒でもあった。
 入浴に時間をとられた露貴とコンラートはせっかくの食事をゆっくり取ることも出来ず、とにかく食べるだけは食べて部屋に戻ることになってしまった。
「それもこれもケーキが問題だったな」
「なんだ、俺のせいか」
 そうではないことを知りつつ、露貴をからかってコンラートが言う。
「そうだ、お前のせいだ」
「ひどいことを言う!」
「だいたいお前が夏樹に会ったりするからいけない」
 従兄は彼のことを音で呼ぶ。かじゅ、と言う響きを不思議に思って訊ねれば、コンラートの祖母の甥でもあった文豪・篠原の本名がまた夏樹、といったのだそうだ。親しい人はその篠原のことをやはり音で呼んでいたらしい、と言うことをどこかで知った露貴は彼の従弟のことをまたいつしかそう呼ぶようになっていた、そう話してくれたのだった。
「別に自分で会いに行ったわけじゃないんだけどな」
「あいつと話し込んだりするからだ」
「悪いのは全部俺ってわけかよ」
 口先だけで不満を表せば彼もまた冗談に笑ってその通り、など言って笑う。
「それで?」
 不意に露貴の目が真面目になる。顔だけは変わらず笑っていたけれど。
「え」
「話したいことがあるって言ってたろ」
「ああ……」
「話す気がなくなったんならいい。話すなら聞く用意は出来てる」
「驚くと思うよ」
「お前の顔見てりゃ想像はつくさ」
「どんな」
「とてつもなく驚かされるって辺りかな」
 茶化すでもなく言った露貴にやはり、話してしまおうか、そう思う。思うけれど、しかし。そう思う気持ちが止まらなかった。
 露貴ならば信頼できる。自分がとるべき道を示してくれるかもしれない。そんな気さえした。
 いままでこの友人に自分はどれだけ助けられてきたかわからない。自分も彼の友人としてふさわしい振る舞いはしている、そう自負していてもコンラートにとっては自分のほうがずっと露貴に助けられていることを知っている。
 きっと露貴ならば。
 それでも逡巡は止まらない。驚かされるだろう、とは言ってくれてはいるものの、まさかこんなことは思ってもいないだろう。
 おそらく、言うべきなのだろう。言って露貴に止めてもらうべきなのだろう。
 彼の従弟を傷つけないうちに。
「……手ぇ貸してやろうか」
 悩みにうつむいたコンラートに露貴がそっと声をかける。
 驚いて見上げれば彼の顔にすでに笑いはない。
「夏樹に惚れたな」
 そう、言った。
 その口調の厳しさにコンラートは愕然とする。あるいは自分たちの友情もここまでか、と。
「うん」
 けれど嘘はつけなかった。
 はっきりと彼の目を見て、言う。
「あいつに手を出してくれるな」
「それは……」
「あいつはガキなんだ。友達だと思った人間にそんなことされたら立ち直れない」
「友達ってほど、知り合ってもいない」
 友達だと言われるほど知り合ってもいず、友人としか見てももらえない。二重に、苦しい。
「あいつはそう思ってるさ」
「……そうかな」
「放課後、あいつに会った」
「え」
 確かに授業の後、ずっと一緒にいたわけではない。そういえば彼は図書室に本を返しに行く、と言っていた。その後、談話室で合流してコーヒーにしたのだった。
「黙ってて悪かった。あいつ、喜んでたよ。自分の言いたいことをあんなにわかってくれたのはじめてだって、喜んでた」
 口許に浮かんだのは従弟に友人ができた喜びだろうか。それともコンラートへの同情だろうか。
「あいつはガキで、色恋沙汰には興味のかけらも持ってない。だから」
「それじゃ、つらい思いをさせちゃうよな」
「……そう、思う」
 もしかしたら夏樹にとって、初めて波長のあう友人なのかもしれない。
 その友人が自分のことをそんな風に思っている、と知ったらきっと彼は裏切られたと思うことだろう。
 いまこそ思う。本当に彼が好きだ。だから。
「わかったよ。悟られないように、する」
「充分だ」
「でも」
「いいよ、いいんだ」
「諦められない。……好きなんだ」
「わかってる。あいつのために堪えてくれることは、わかってる。ごめんな。俺が、謝ることじゃないけど、ごめんな」
 痛ましそうに目を伏せる露貴にコンラートは手を伸ばす。
 その頬を軽く打つ。
 驚きに目を上げた露貴に向かったコンラートは微笑んでいた。
「軽蔑されると思ってた」
 それから、ありがとう、と。
 そんなコンラートに露貴は声をかけることもできず、ただ黙って彼の額を指で弾き返すだけだった。
「痛いじゃんか」
 笑って見せたつもりのコンラートの目に浮かんだ涙を見ないよう、露貴は窓の外に目を向ける。
「天気、いいな」
 言わなくてもいいことを言いながら。
 窓の外、夜空は今にも泣き出しそうに曇っていた。

 部屋の反対側、露貴の規則正しい寝息が聞こえている。
 故国から逃げ出すように留学してきた。
 コンラートにはことのほか優しかった長兄が、その肩の重荷に潰されるように亡くなった後、どうしても故郷に留まることができなかった。
 まだ幼いころ、親の言いつけに逆らって湖に落ちた自分を救ってくれた兄。冷たい水の中、もう死んでしまうかもしれない、と震えることも出来なかった自分を抱き上げてくれた温かい腕。
 厳しい父がコンラートを叱りつける間、ずっとそばにいてくれた。その兄がすでに体を病んでいた、とは亡くなってから、知った。冷たい水に入るなど、自ら死を求めるようなものだった、と葬儀の間に大人たちが話しているのを耳にしてしまった。
 だから、ドイツに留まることができなかった。
 あの優しい兄を自分が殺したようなものだ。いや、殺したのは自分だ。そう、責め続けた。
 みかねた次兄が留学を奨めてくれたのだった。父の親友がいるイギリスならば良いだろう、そう言ってくれたものをあえて自分は日本を選んだ。
 ヨーロッパでは、近すぎる。
 あのコンラートはそう思ったのだった。いまも、思ってる。長兄の面影はいまも去らない。コンラートの胸の内にあって、いまなお優しく微笑んでいる。
 あまりにも優しすぎる兄だった。湖の事故があったすぐ後に急逝した父からすれば、物足りなくもあっただろう。
 事実、その優しさと誇り高さの間の挟まれて、心労を深くしては亡くなったのだ。決してコンラートだけの責任ではない。それを知ってはいる。けれど、兄が早世した原因の一端であることは違いない。
「あの人は」
 声にならない声が胸の中に響く。
 長兄に、似ている。
 姿かたちではない。気性が、あまりにも似ている、そんな気がしてならない。
 まだ深く知っているわけではない。むしろなにも知らないに等しい。けれどコンラートの心から、直感めいたものが去らずにいた。
 そばにいたい。支えたい。兄のように、死なせたくない。
 あるいはその思いは、自分が兄を死なせてしまったのだ、と言う罪悪感に由来するものなのかもしれない。
 そう思った途端、違う、心が叫ぶ。
 罪悪感などではない。確かに兄の力になることが出来なかった自分を責めてはいる。だから兄のような運命を彼が得ないよう力を尽くして支えたい。それは事実だ。
 でも。彼に対しての思いはそれだけではない。彼の笑顔を見てみたい。すでに重荷にあえいでいるような彼が、心から笑った顔を見てみたい。腕に、抱いてみたい。彼のぬくもりを感じたい。それは兄の腕の温かさを求めるものとは本質的に、違う。
 それを自覚している。
 自覚しているから、眠りは訪れなかった。
 日本に来て以来、進んで求めたものとは言え、不安がなかったわけではない。むしろ文化も言葉もまったく異質の国に来て、戸惑うことばかりだった。
 それを一つ一つほぐしてくれたのは露貴だった。言葉がわからなくてまごつくとき、元々英語を得意としている露貴と英語交じりで話しては日本語を教えてもらった。少しずつ語彙が増えていく。同じ速度で日本に馴染んでいく。
 露貴がいるだけで不安が薄れた。文化の違いに悩んでも、露貴の寝息を聞きながらベッドに入れば、なんとかなるさ、そう思って眠れた。
 けれどいまは。とても眠れない。露貴の手を借りることの出来ないことに出会ってしまった。
 それを後悔は、しない。
 眠れないままに目を閉じる。瞼の裏側、長兄の顔が浮かんだ。こうして夏樹に出会ったのも、兄の導きかもしれない。そんなことを思っているうち、いつしかコンラートは眠っていた。




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