あの日から、忌々しいくらい何事もなく日々が過ぎていく。
 元々夏樹は中等部、自分は高等部、そう接点があるわけでもない。強いて言えば共通の図書室で顔を合わせることがあるか、という程度か。
 それでもいままで夏樹が図書室に顔を出すことがほとんどなかったことを思えば期待は薄い。
 コンラートは本を読むのが好きだった。それだけでなく、もちろん語学の勉強、と言う意味でも本をたくさん読むことにしている。だから図書室の司書とも顔なじみだったし、利用する生徒も名前は知らなくとも顔だけはたいてい知っている。なにせ六学年分が利用するのだ、名前など覚える方が難しい。
 定位置になっている窓際のテーブルに着く。ブラインド越しの陽光がやんわりと温かかった。
 なにとはなしに持ってきた本を開いて読み始め、気づく。選択を誤った。祖母との関わりから名を知っていた篠原忍。彼の「旅行記」を手に取ったのだった。
 文中に氾濫する琥珀の名。彼の終生の友人であったと言う男の名があふれている。時にためらいがちに、時に大胆に。
 下種な想像をするような関係ではなかったのだろうけれど、いまのコンラートには刺激が強すぎた。あまりにも信頼しあった二人の姿がありありと浮かんで、我が身が惨めになる。
 溜息ひとつついて、コンラートは立ち上がる。
 いっそ本は返してしまおうかとも思ったけれど、それもなんだか癪でカウンターに寄って借り出して続きをとることにする。
 それからふらり、歩き出す。
 どこへ、とは決めていなかった。せめてもう少し明るい場所で読めば気がまぎれるかもしれない。
 そう思ったとき、ふと思いつく。
「そうだ、あそこに」
 溜息から一転明るい顔になってコンラートは足を進めた。

 まだ明るい午後の光が満ちていた。木立の中にあるくせに、そこだけはぽっかりと陽が射している。
 あの木立だった。夏樹に会った、場所。
 途中でしっかり飲み物も仕入れてきたコンラートは木に背中を預けて静かにページを繰っている。時折、紙の擦れる音がする以外、鳥の鳴く声も風が葉を揺らす音もしなかった。
 静寂を破ったのは、突然の闖入者。
「あ」
 驚きの声を上げたのは、同時。
 またもそこに夏樹が立っていた。まるで冗談のようだ、コンラートは思う。積極的に会う手段さえなくて苛々していたというのに、ここに来てまた、こうして夏樹が現れる、とは。
「どうしました」
 再開を祝う前にそう訊ねていた。あまりにも夏樹が不機嫌な顔をしていたので。
「付きまとわれて。鬱陶しい」
 吐き出すようそれだけを言う。それからためらうことなくコンラートの横に腰を下ろした。
「同級生? なにか行事でもありましたっけ」
 口数は異常に少なくとも、彼ならばなにやかにやの委員を任せたいと思う同級生も多いことだろう、そうも思う。本心はそうではない「付きまとい」の方を想像していたのだが。
「まさか」
 口許に浮かんだ嘲笑めいた影。それからはっきりと
「高三。うるさい」
 言って影からまぎれもない嘲りの笑いに。
 コンラートは想像力に欠けている質ではない。だから理解できる。好きでもない相手に、しかも男に追いかけられて心躍るわけがあろうはずもない。
 それは確かに理解できるのだけれど、こうもはっきりと彼の顔に浮かんだ嗤いを見てしまうと、やはりそれはそれでつらくないとは言えなかった。
 そんなコンラートの心の動きなど夏樹が知る由もなく、彼の手の中にある本を横から覗き込んでいる。
 それからコンラートを見上げて少し、笑った。今度は純粋なもの。それを見せてもらえることに安堵し、歓びが湧き上がる。
「面白い?」
「まだ、読み始めたばかりで」
 ふうん、と声に出さず口の形だけで彼は言い、小首をかしげて指先で本に触れる。
「読んでみたら、どうです?」
「よく」
「まだ、読んでないんじゃないかな、と思ったので」
「……うん」
 満足そうななにかがかすかに滲んだ彼の、声。覗き込んで文章を追っているのだろう目許、仕種。なにもかもが愛おしい。
 まだ柔らかい子供の髪が額にかかるのをさも邪魔だと言わんばかりに乱暴にかきあげるのも、また。
「水野君」
「なんですか、シュヴァルツェン先輩」
 皮肉げな声になっては視線をあわせてきた。
「それ、発音しにくくないですか」
「ものすごく」
「かまいませんよ」
「だったら」
「と言っても水野、は変でしょう?」
 仮にも保護者殿の苗字だ。呼び捨てるには若干の抵抗がある。無論、下心がなかったわけではない。
「名前でいいです」
 期待は報われた。飛び上がって喜びたいのをなんとか自制し、微笑んで見せる。
「夏樹さん?」
「さん、いらない」
「……その方が呼びやすいので」
 コンラートは大嘘をつく。この上、名前の呼び捨てなどを許されてはいったいどんなとんでもない不幸に見舞われるか、わかったものではない。幸福とはそこそこが良いのだ。
「なんて」
 夏樹が言う。自分は名で呼んでいいと言ったくせ、こうやってきちんとコンラートに確認を求めてくる律儀さ。それもまた嬉しい。
 だから、そう呼んでもらうことに、決めた。
 今まで友人の誰一人として許さなかった呼び名。ドイツにいる兄にさえ、呼ばせない。
 たった一人、最愛の長兄が呼んだ名。あの甘やかな声は二度と戻らないけれど、今度は彼がそう呼んでくれる。
「カイルと」
「カイルさん……」
「発音しにくいでしょうに」
「ちょっと」
「さん、は要りませんよ」
「でも」
「いやなら、かまいませんけど」
 笑って言う。言って促す。促して彼を見た。かすかな笑みは少しだけ、大きくなって。
「……カイル」
「はい」
「なんか」
 言葉を濁して下を向く夏樹の髪に触れてみたい。想像するだけで思いとどまる。今の幸福を壊す気はなかったし、露貴との約束を破る気もなかった。
「少し、照れますね」
 けれど、これくらいはいいだろう。
 うつむいたまま夏樹がうなずく。いっそ可愛らしい、と言っていい仕種だった。
 露貴が言っていたではないか。あまりにも子供なんだ、と。いまの仕種を見てコンラートもまたそれを実感する。中学二年にしてはやはり幼いような気がする、と。
 それでもなお愛しさに拍車がかかるだけのことではあったが。
「カイル……」
 本に手を触れ、夏樹がなにかを言いかけたとき、忍び足の音が聞こえた。
 こんな聞こえるような足音で狩をしたら失敗している、そんな空想とともにコンラートはそちらに顔を向ける。と、丁度ひょっこり顔を出した人物と顔を合わせてしまった。
 狩、と言う印象は間違っていなかったかもしれない。その男のブレザーを見る。黒いブレザー、襟元の線は三本。高等部の三年生。
 振り返れば夏樹の顔が強張っていた。
「こんなとこでなにしてる」
 彼が発した言葉は夏樹へのものではない。コンラートが返答しようとしたその前に、夏樹が言い返す。
「西本先輩に、なんの関係がありますか」
 あまりにも敵意に満ちた声音に、コンラートのほうがぎょっとしてしまうほどで。
 西本はちらりと夏樹を見ては苦笑し、またコンラートに視線を戻す。こちらも夏樹に劣らぬ敵意を持っていた。
「本を、読んでいただけですが」
 とにかく事態を収拾させたいコンラートの言葉をあっさりと彼が信じるわけもなく、その顔に冷笑が浮かぶ。
「調子に乗るな、留学生」
「なんのことだか、理解しかねますが」
「それが調子に乗ってるって言ってんだよ」
「まともな話し方ひとつ出来ないとは……」
 盛大に溜息をついてみせる。頭の悪い人間と話をしているのは疲れて仕方ない、と態度で示した。
 事実こういうタイプはコンラートのもっとも嫌悪するところだった。大きな声を出せばなんとかなる、などというのは頭の悪い証拠、と思っている。まして愛しい者が敵意を持っている相手のこと、コンラートが好意を持たねばならない理由などありもしなかった。
「テメ……」
 西本が一歩、足を踏み出した正にその時、夏樹の声が飛んだ。
「コンラート先輩に指一本でも触れたら、絶対に許しませんから」
 ゆっくりとした口調だった。けれどその言葉を信じずにはいられないなにかがある。澄んだ少年の声が告げるそれにはある種の神性さえ感じてしまいそうだった。
 確かに言葉通り、西本は足を止めたのだから彼に関しては夏樹の言葉が絶対であったことは違いない。
「水野……」
 あれだけ強硬だった西本の声が一瞬にして哀願の調子になる。夏樹はその視線の強さを変えなかった。
「邪魔です。行ってください」
 コンラートは驚く。自分と話しているとき、夏樹がこれほどはっきり物を言うことはなかった。言葉は途切れがちで、口数も少ない。
 だからコンラートは話すことが苦手なのだ、と思っていたのだ。確かに苦手ではあるのだろう。けれど出来ないわけではない。それをいま知った。
 苦手なことを強要しないコンラートと言う存在は、ともに過ごした時間こそ短いけれど、夏樹にとってどれだけ心安らぐものだっただろうか。
「だけど、水野」
「邪魔です、と言ったの、聞こえませんでしたか」
「そいつは……」
「いい加減に、してください」
 言い募る西本。心底呆れた、と視線を外す夏樹。その間に挟まったコンラートはもうどうしたらいいものか、天を仰ぐばかり。
 そのまましばらく時が流れ、やがて諦めたように西本が立ち去る。
 足音が完全に聞こえなくなって始めて息をつく。そのコンラートの吐息にあわせてもうひとつ。重なる音に二人して顔を見合わせ、笑った。
 その笑みの硬いことを見て取ったコンラートは、まだ口を開けていないペットボトルを黙って夏樹に差し出す。
 なにも言わずに受け取って一口飲む。それから口許を引き締めて、うつむいた。
「ああいうの、さぞ嫌でしょうね」
 そっと声をかければ、視線を地面に落としたまま夏樹はうなずく。ボトルを握り締めた指先は白く爪は桜色。よほど強くつかんだものかボトルが変形している。
 コンラートはその手に触れることなく、ボトルの口に指を添える。はっと顔を上げた夏樹に
「割れると危ないですから」
 穏やかに言って力を緩めさせれば。
 泣き出しそうな、夏樹の目。
 動揺した。あれほど毅然としていた彼がこんなにも脆い顔をするなんて、驚き以上のものだった。
 歯を食いしばって目をそらした夏樹にコンラートは触れられない。無理やりもう一口飲んだ飲み物を強引に飲み下すのを横目で見ているしか出来なかった。
「……気持ち悪い」
 振り絞るようにようやくそれだけを言った。
「おかしな事を聞くようですが……」
「ない」
 コンラートの言葉を先読みして夏樹が答える。まるでなにかされたのか、と問われること自体聞きたくない、とでも言うように。唇を噛み締めた夏樹にコンラートはどんな言葉をかけることができただろうか。
「ごめんなさい」
 嫌なことを答えさせてしまった、それを詫びれば強く首を振って答える。
 その肩が震えていた。細い肩だった。
 他意はない、他意はない、自分の心に説明しながらコンラートはその肩に手を置く。嫌がる素振りは、見せなかった。
「力になれることがあれば、言ってください」
 夏樹は変わらず下を向いたままだった。ためらっているのだと察したコンラートはあえて黙りつづけ。
「うん……」
 どれくらい時間が経っていたのだろうか。ようやくそう言って夏樹は顔を上げる。
 そこにはコンラートが求めてやまないものがあった。
 晴れやかな、夏樹の笑顔。
「でも」
 それだけを言って言葉を切るけれど、目の中には信頼があった。
「大丈夫」
 照れたようにうつむいて、口許を弛めた。その夏樹の全身が語っている。なにかあったら相談するから、と。
 それだけで充分だ、コンラートは思う。なにより欲しかった顔を見せてくれた。その上自分を信じてくれた。こんなに嬉しいことはない。
「それより……」
「ええ、気をつけます」
 顔を上げた夏樹の心配そうな目の表情。西本と言う男はしつこいから、とコンラートの身を案じるわずかな視線の動きに、コンラートの心もまた、動かされる。
「ホント」
 言葉だけを聞くならばそれは西本の陰険さを強調したものだっただろう。
 けれど態度がそうではないことを告げていた。本当によく自分の言っていることがわかる、と。それが嬉しくてたまらない、と。
 あまり動くことのない表情や、一見冷たくも見える態度。だが、彼は彼なりにささやかな主張をしていないわけではなかった。
 ただ、それを理解できる相手がいなかった。それだけなのだ。
 いま、その一人であることをコンラートは誇らしく思う。心から。




モドル   ススム   外伝目次に