一瞬、あっけに取られた。次いで眩暈がする。
 コンラートはこのとき悟ったのだった。夏樹が声変わりのときを向かえているのを、両親は知らないのだ、と。
「あの……」
 差し出口だとは思いはするけれど、ここで自分が言わなければ、ある日突然両親は夏樹の大人の声を聞く羽目になる。
「カイル」
 掠れた声が言うな、と止める。が、しかし。止めたのを父親が見ては、言えとせっついた。
「夏樹さん……声変わりの最中です」
 母親が固まった。父親は息子をまじまじと見た。当の息子は目をそらしながらコンラートを睨みつけると言う器用なまねをしてのけた。
「まぁ。驚いた」
 さすがは母親。一番に回復する。それから、良かったわねと息子に笑みを向け、まだ硬直したままの夫を見ては溜息をつく。
「そりゃあ、赤飯炊かなきゃな」
 まだ呆然としたまま彼の父が言う。
「あなた!」
「赤飯、ですか」
「そうそう。大人になった祝い事……」
「いい加減になさいな!」
 たおやかで、ともすると存在感の薄い印象の彼の母が夫に対して声を荒らげる様は見ものだった。
 いまだ日本の風習に通暁しているとは言いがたいコンラートは、このとき赤飯の言葉になんの反応もしていない。
 ただそう言う風習があるのだなぁ、と思っているだけだった。だからなぜ彼の母が大きな声を上げたのかわからない。
 理由を聞こうか、と夏樹を見ればこちらはこちらで頭を抱えていて、とてもなにかを聞けるような状態ではなかった。
 後になって露貴に聞いた。理由を知って、改めて今度はコンラートが頭を抱えたくなったのだった。
 その夕食の顛末を思い出してコンラートは一人、闇の中で忍び笑いを漏らす。
 すっかり機嫌を損ねてしまった夏樹は食事も早々にコンラートを自分の部屋に引っ張り込んで黙ってしまう。
「夏樹さん」
 声をかけても返事もしない。
 けれど、機嫌が悪い、と言うよりは照れていたのだろう。いまは決して不機嫌、と言うわけではなく、コンラートが手にした本を横から覗き込んでいる。
「えぇ、面白いですよ」
 見上げてきた目が、「それ、面白い?」と問うのに答えて言う。
 けれど彼は飽きてしまったのか、自分で別の本を取っては開く。なにかの画集のようだった。コンラートがのぞこうとすると仕種でそのまま、と押さえられ、それを疑問に思った途端、背中に温かい感触。
 ――あ。
 声を出さずに驚いた。声を出せばきっと夏樹が嫌がる、そう思って。
 夏樹が背中にいた。コンラートの、夏樹よりは年嵩とは言え、少年めいた線のいまだ抜けない背中に頬を寄せ、寄りかかっていた。
 床に置いた画集をめくる音だけがしている。コンラートは緊張に身じろぎひとつ出来なかった。
「え、あ。はい?」
 不意に腕の辺りを叩かれて正気づく。振り返れば不満げな目がこちらを見ていた。気にしないで本を読め、と言うことらしい。
「そうします」
 苦笑いしながらコンラートが言えば、当面は満足したのかうなずいて視線を画集に戻した。
 そうは言っても、読めるものではなかった。
 自分の背中に片思いの相手がいるのだ。温もりが伝わってきているのだ。鼓動が聞こえていやしないか、そう思うだけで胃が痛む思いがする。
 ――だからまったく頭に入らなかったな……そもそもなに読んでたっけ。
 寝具にくるまって天井を見上げ、コンラートはまた笑ってしまった。
 息子の声変わりに硬直した両親と、たいして変わりがない緊張振りを見せてしまった。
 でも、とコンラートは思う。彼が自分の背中で安心してくれた。それがなんとも言えずに嬉しいではないか、と。
 闇の中、そっと見上げれば穏やかな夏樹の寝顔が目に入る。眠っている夏樹は、ごく普通の少年に見えた。

 頭上で身じろぎの気配がして目が覚めた。一瞬、どこにいるのかわからなかった。
 ――そうか、夏樹さんとこにいるんだっけ。
 思った途端、はっきりした頭で彼のベッドを見上げれば、まだ夏樹は眠っている。その寝顔に夏の朝らしい光があたっていた。どうやら昨夜、カーテンを閉め忘れたらしい。
 そのまぶしさに彼が動いた気配でコンラートは目が覚めたのだった。
 夏樹の薄い瞼に光があたっている。透けて、青い。少年の透明な肌に血管が透けているのだろうか。
「ん……」
 視線を感じでもしたのか、夏樹がゆっくりと目覚めていく。覚醒は極端で、そのくせとろりと目を開く。
「見るなよ」
 まじまじと見つめていたコンラートと目があい、夏樹はそう言っては顔を枕に伏せた。
「ごめんなさい」
 上の空で謝った。その声に目を上げた夏樹が嫌そうな顔をした。
「綺麗、ですね」
 うっかりと、コンラートはそんなことを口にしてしまった。本心だった。けれど普段のコンラートだったら決して言葉にはしなかっただろう。きっと夏樹が嫌がる、そう思って。
 だが、その判断が働くにはあまりにも綺麗過ぎた。
 夏樹の目に蒼味が差していた。青、と言うほど明るい色ではない。もっと暗い、こうして光でもあたらなければ、わからないほどの蒼。
「おかしいだろ」
 わずかに自嘲的な響きを帯びた声。嫌な思いをしたことがあるのかもしれない。だからコンラートは言う。
「とても、綺麗ですよ」
 そう微笑を浮かべて。他の誰がなにを言おうとも、自分にとってはなんとも言いがたく綺麗なのだ、と。
「深い湖のような……夜の海のような、そんな色です」
 その言葉に夏樹が反応した。ふっと身を起こして笑ったのだ。まだ蒼い目は機嫌良さそうに細められていた。
「おんなじこと、言った人がいる」
 彼の目を見て、その色を評した人間がいる、というのか。急に不快になる。注意力が不足しているわけでもない自分が今の今まで気づかなかった彼の目。それを見たということはそれだけ近くで見た、と言うことだろう。そしてあえて「人」と言ったからには親族ではないのだろう。
 そんな想像が、間違ってはいないことをコンラートは悟っている。嫉妬できる立場ではない自分。それがいまはとても疎ましい。
「誰です?」
 それでも、そのまま知らずにいることが出来なくて訊いてしまった。訊ねなければ良いのに、心の中で自嘲するけれど、そうせずにはいられなかったのだ。
「ホントは、俺にじゃないけどね」
「え……?」
 肩透かしを食らったコンラートはあっけに取られて聞き返す。それに夏樹がにやり笑った。
「伝聞。よく知らない」
 そう前置きして彼は言う。
 篠原忍が同じような目をしていた、と。その彼の目を見て琥珀が「夜の海のような色」と言ったらしい。
「俺は直接、篠原を知らない。叔父貴から聞いた」
「あぁ、水野先生は篠原忍をご存知なんですね」
「叔父貴には育ての親みたいなもんらしいよ」
 彼の父親の双子の弟だと言うのに育ての親、と言うことはなにかしらのわけがあるのだろう。家庭の事情には立ち入らないことにしてコンラートはうなずく。
「叔父貴も、言われたらしいけどね」
 かすかに夏樹は笑い、仰向けに寝転がる。
「前に俺が気にしてたとき、篠原の話、してくれた」
「意外、と言ってはなんですが、優しいですね、先生」
「どうかな。自分も蒼く見える目だし」
「……気づきませんでした」
「そりゃそうさ」
 明るく夏樹が笑った。確かにその通りだろう。夏樹の目でさえ気づかなかったものを知るわけがない。

 ちょうど着替えが終わったころ夏樹の母が持って来てくれた朝食を食べる。そのコーヒーを飲みながらトーストを齧っていたら、突然ドアが開いて驚いてしまった。
「なんだよ、いたのか」
 ドアの向こう、立っていたのは先ほど話題にした水野春真だった。
 だったのだが、一瞬コンラートには誰だかわからなかった。なにか、違う。自分の知っている国語の水野、と結びつかない。
「自分の部屋だもん」
 拗ねたように夏樹が言う。それからふと、コンラートのほうを向き小声で「眼鏡」とだけ言った。
 それで気づいた。普段、彼は眼鏡をかけているのに、今日はかけていない。それで違和感があったらしい。
「そりゃ悪かったな、本、取りに来たんだが」
「篠原の?」
「翡翠が研究に使うって言うんでな」
 その言葉に夏樹はふうん、と生返事をし、それからちらり叔父を見てはにやりと笑う。
「……余計なこと、言うんじゃねーぞ」
 視線を向けることさえもしなかったくせに、水野が誰に言うな、と言っているのかくらいはコンラートにも見当がつく。
 校内での水野は厳格と言っていいほど厳しい教師であるのに、こうして「夏樹の叔父」として見るとずいぶん若々しい。茶目っ気がある、というのだろうか。やはりどことなく夏樹の父を思わせるのは双子のせいだろう。
 和やか、とは言いかねる叔父甥の会話を聞くともなしに聞いていたら突然、挨拶が聞こえた。
「こんにちは、夏樹君」
 水野に気をとられていて、もうひとり人がいるのに気づかなかった。水野の背後から顔を出した青年が夏樹に向かって微笑んでいる。
「久しぶり。元気?」
「うん。君もね」
 どうやら二人は知り合いらしい。なんとなく疎外感がある。
 ぽつん、と取り残されてしまったコンラートに水野がにやり、笑い
「伯父貴の叔母の曾孫。留学してきてる」
 そう青年に向かって言った。
「それでわかると……あぁ、ドイツにお嫁に行ったっていう?」
「それそれ」
 どうしてそれで理解できるのか、一向にわからないコンラートに青年は笑みを向け手を差し出した。
「はじめまして、高遠翡翠です」
「コンラート・カイル・フォン・シュヴァルツェンです。コンラートと呼んでください」
 差し出された手を握って握手すれば、なぜか急にぞっとした。背筋が冷たくなるほど似ている。
 亡き、兄に。
 なにがどうと言うのではない。風貌はちっとも似ていなかったし、体格だって兄はもっとずっと大柄だった。
 けれど、青年――高遠の持つ雰囲気が、その手の優しい感触が、亡き兄に、似ていた。
「篠原忍の研究もしてるんです。だからあれでわかったんですよ」
 よほど不思議そうな顔をしていたのだろうか、高遠は複雑な血縁を理解した背景を教えてくれる。
「篠原も、ですか」
「本業は琥珀の方でね。ただ、一緒にやらないと理解ではないことが多すぎて、やむなく篠原も研究する羽目になってます」
 笑って高遠はまだコンラートが握ったままだった手をそっと外した。
 外されてはじめて握ったままであったことに気づき、慌てた。なぜか、二人分の視線が突き刺さっている気がする。
「真人さんが生きてたら、さぞかしコンラートは可愛がられただろうにな」
 空気を変えるよう、水野が言ってくれたのがありがたい。が、コンラートはまたもや取り残された気分になる。誰のことやらさっぱりわからない。
「なんでさ」
 不機嫌そうに夏樹は言い、またコンラートのために小さく「琥珀の本名」と添えてくれた。
 ほっと溜息をつき、改めて夏樹の横に腰を下ろし礼を言う代わりに彼の目を見て微笑めば、彼もまた目許だけで笑ってくれた。
「なぁに、真人さんは伯父貴の我が儘に苦労してたからな」
 笑み交わす二人を見ながら水野はにやにや笑い、そんなことを言う。
「大変だろう? コンラート」
「どこが、ですか」
「我が儘だろう、そいつは」
「全然。仮に他の方にそう見えるとしても、自分はまったく気になりません」
「……そういうのなんて言うか知ってるか」
「なんて言うんです、先生」
「病膏肓に入るって日本語では言うんだ」
「ハル!」
「叔父貴!」
 呆れたように言う水野の声に怒鳴り声が二つ同時にかぶさった。
「ッたく、なに言い出すんだか」
 コンラートは水野の言う言葉を理解するのに多少時間がかかった、そして理解したあとは背中に冷や汗が流れる思いがする。
 そしておそらくこの場でただひとり、わかっていない夏樹だけがまだ文句を言っていた。
「コンラート君が真人さんに可愛がられるんだったら、僕も資格は充分にありそうだけどな」
「うん、その通り」
 高遠の言葉に夏樹がようやく機嫌を直してうなずいた。
「叔父貴相手に苦労してるはずだもんね」
 機嫌を直した、と言うのは早計で単に水野をやり込める機会を狙っていただけらしい。
「翡翠には苦労させてる。自覚してる。だけどな……」
「ハル。そこまで」
 どうやら、はるかに年下であるように見える高遠のほうが主導権を握っているらしい。水野の言葉を途中で遮り、「困った人だよ」と夏樹に笑みを向けるが、無駄だと悟ってコンラートにその視線を向けた。
 思わずコンラートも視線でうなずいてしまう。
「カイル。出かけよう」
 突然、夏樹が言った。
「え……」
「行くの、行かないの」
「もちろん、行きますよ」
 コンラートが言ったときにはすでに夏樹は部屋のドアを開けている。返事がなくても自分は行く、という強烈な意思の元、行動しているようだった。
「失礼します」
 あっけに取られている二人に軽く頭を下げ急いで夏樹を追った。
 コンラートは思う。
 高遠とわずかながら親密に見えたのがよくなかったらしい。それで気分を害したのだろう、と。
 夏樹がいま感じている幼い独占欲。彼の背中を追いかけながらコンラートはしばしの幸福に浸った。
 自分の友達が別の人と話しているのが気に入らない、そんな子供のような焼きもちなのだとわかってはいる。けれどいま夏樹はあるいは嫉妬、と言って良いかも知れないものに苛まれている。
 コンラートを拒絶するように黙って歩き続ける彼の小さな背中を見ながらコンラートは心の中、呟く。
 ――あなただけが、好きですよ。
 夏樹の機嫌はしばらくの間、戻らなかった。




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