退屈な始業式の間、コンラートは「夏休みは楽しかった」としみじみ考えていた。他愛ない、と言えば他愛ない。映画を見に行ったり、ただどこかをぶらついたり。
 けれど夏樹がいた。彼は実家で、自分は寮で、と生活する場所が違うから四六時中一緒だったわけではない。でも去年の夏休みにはなかったこと。
 ――気分的にはデートだし。
 心中独白してはにやけそうになる頬を引き締める。
 壇上ではまだ校長が「二学期の生活」のお話とやらを延々語っていた。

「おい、聞いたか」
 校長の話に加えて教室に戻ってからのホームルールの長さにいい加減飽きて眠たくなっていたコンラートだった。
 ようやく終わってほっとした所にクラスメイトが飛んできて、その眠気が吹き飛ぶようなことを言う。
「西本さん、退学だってよ」
「それって自主?」
「違う違う」
「させられたってことかよ」
「だから騒ぎになってんだって」
 興奮気味に語る級友の言葉を確認したくとも、いまここに露貴はいなかった。彼はホームルームが終わるとともに遊びに行ってしまった。
「そんな、こともあるんだな」
「もっと驚けよなぁ。すごいニュースだぜ?」
 彼を置いて飛び出したいのにまだ話そうとするからつい、生返事になってしまう。
 それをたいして興味もないのだ、と判断してくれたものか、さっさと解放してくれた。
 ありがたく教室を飛び出す。
 行き先は、図書室。
「いてくれよ……」
 知らず、呟いていた。コンラートの背後から「廊下を走るな」と教師の罵声が飛ぶ。
「すいません」
 口先だけで謝って、コンラートは廊下を走り続けた。

 さすがに図書室は静かだった。肩で息をしているのが場違いなほど。
 辺りを見回す。いつもの場所。彼はいた。
「な……」
 声をかけようとした瞬間、夏樹が席を立つ。そのまま二階に駆け上がって行った。
 目もあわそうとしなかった。苦い思いで追いかけようとすればあわただしい雰囲気を感じ取った司書にじろり、睨まれる。
 それに目礼だけを返し、コンラートは急ぎ足で二階に向かった。
 図書室の二階は人気がない。それもそのはず。一階は生徒にとっても面白そうな本があったり、勉強できる机があったりするけれど、二階はほぼすべてが専門書なのだった。
 大学部の教授が借りに来ると言われるほど質の良い本がそろっている、らしい。コンラートはよく知らない。
 だからあまり足を踏み入れたこともなかったのだ。ざっと見れば、階下のように机はなく、立ったまま使用できる書見台が書架の間にちらほら見える。
 その薄暗い一角、中等部の制服が見えた。
 声をかけずにそっと追う。
「あ」
 書架と書架にはさまれた書見台の前で夏樹を見つけた。とっさに逃げようとする彼を腕を伸ばして捕まえる。夏服の袖からのぞく腕が痛々しいほど細かった。
「夏樹さん」
 目をそらしたまま、返事もしなかった。かすかに目許が震えている。
「西本さんが……」
「俺だよ、悪いかよッ」
 閃光に貫かれたかと思った。それほど夏樹の視線は激しいものだった。
 厳しく、けれど反対の感情に揺れる、目。
「俺が、親父に言いつけた。親馬鹿だし、溺愛されてるから。それに――あれでけっこう政治力がある」
 歪んだ口元、自嘲の嗤い。
「俺が、退学に追い込んだ。自主退学なんて生易しいことはさせなかった。俺がやった」
 つかまれたままの腕を払うでもなく、顔を歪めて、そのくせ淡々と話す。そんな夏樹を見ていられなかった。
「そんなことを、あなたが」
「軽蔑するならすればいい」
 ぎりぎりと歯を噛む音が聞こえてきそうな顔をして夏樹が言う。
「そうじゃない。そうじゃ、ないんです」
 だから、とっさに抱きしめてしまった。そんな顔をさせたくなかった。そんなつらそうな顔をさせたくなかった。
「……カイル」
 腕の中、名を呼ぶ声。少年の声から一オクターブ下がった、大人の声。子供のものではなかったけれど、まだごく若い男の声。それがコンラートを呼ぶ。
「西本のことなんか、どうでもいいんです」
 嫌がりもしない夏樹の髪をそっと撫でる。彼がシャツの背中をつかんだ。
「あなたが、そんなつらそうな顔をするのを見たくない。そんな顔をさせるくらいなら、殴られ続けたほうが、ずっとマシです」
 わかりますか、そう耳元で囁いた。
 まぎれもなく、コンラートの本心だった。確かに目障りだった西本がいないのは嬉しい。けれど、そのために夏樹が苦しむのだったら、なんの意味もない。
 告げ口や、大人に頼るのを殊の外嫌う彼が、自分のためにしてくれたこと。夏樹が自分のためにしたことでないことくらい、コンラートにもわかっている。
 だから余計、つらい。自分のせいで彼を、愛しい者をつらい目にあわせてしまった。それがたまらなかった。
「カイルが、殴られるのは、嫌だ」
「あなたが……」
「お前がそう言うのとおんなじくらい、俺はカイルがあいつに嫌な目にあわせられんのが嫌だったッ」
「夏樹さん……」
 しがみつくように背中に回された腕がきつくシャツをつかんでいる。胸元に彼の頬の温もりが、伝わっている。
 ふと心づいて、このままではよからぬ行動を取ってしまいそうで慌てて、けれど慌てているように見えないよう細心の注意を払って夏樹を離した。
 見れば少しばかり不満そうな、顔。心の中でそっと笑い、コンラートは夏樹の腕の下、手を入れて抱き上げた。
 そのままひょいと書見台に座らせてしまう。小さな夏樹の、その顔を見上げてコンラートは微笑んだ。
「ちょっと行儀悪いですけどね」
「……ん」
「夏樹さん」
「ん」
「私は、あなたが嫌な思いをするほうが、ずっとつらいです。だから、ひとりで抱え込まないで。たいした取り得もないけど、でもここに、いますから」
 ずっと、あなたのそばに、ね?そう目で言って、彼の顔を覗き込む。
 夏樹がした反応は、意外だった。
 目を、そらしたのだった。それは拒絶ではない。なにかを耐えるように、きつくこぶしを握っていたから。
「夏樹さん」
 小さく、呼んだ。ふっと彼の体から力が抜けた。と、ふわり絡まってくる温かいもの。書見台に座ったまま、彼はコンラートの首に自分の腕をかけたのだった。
「カイル」
 ただ、それだけ。
 それだけでいい。慰めるように彼の腕を軽く叩けば夏樹がうなずいている。
「校内で――」
 突然聞こえた大人の声。慌てて離れて振り向けばそこに人影。
「ラブシーンはやめとけよ」
 光の中、出てきたのは教師の水野。にやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。
「誰がだよっ」
 照れたような罵声は当然、夏樹のもの。
「先生に向かってその口の聞き方はなにかな、ん?」
 そう茶化してから、本気かどうか人目のないところへ行け、など言ってくれる。呆れて物も言えないコンラートに目顔で伝えてきたのは、感謝。
 それを夏樹が認めるより早く、ひらひらと手を振って行ってしまった。
「下、行きましょうか」
「だね」
 なんだかこのままこうしているのも気恥ずかしく、どちらからともなく視線を外してしまった。コンラートの背後で書見台から飛び降りる音が聞こえる。
 夏樹が並んで歩き出す。
「背。伸びた」
 ぽつり、夏樹が言った。
「そうですか」
「うん」
 前はこのくらいのところをつかんでた、と言いたげに、少し高い位置のコンラートの腕を軽くつかむ。それから少し下げて、今はここ、と彼の目が言う。
「自分では気づきませんでした」
「ちょっと、ずるい」
「すぐにあなたも伸びますよ」
 そんなことを言う夏樹が妙に可愛くて、いたずらに髪を撫でれば、頭を振って嫌がる。下から睨み上げてくる視線は子供扱いして、と抗議していた。

 階下に降りた途端、声が飛んできた。
「水野君!」
 もちろん、露貴ではない。見かけたことのない高三が走り寄ってきた。
「君をね、探してたんだよ」
 自分では格好良く決めているつもりなのであろう、気障な態度が癇に障る。コンラートでさえそうなのだから、夏樹はもっと不快に違いない。
「最近、物騒だからさ。途中まで送って行こうと思ってね」
「結構です」
「まぁ、そう言わずに、さ」
 放って置いたらどんな無礼を働かないとも――夏樹が、だ――限らないので、このあたりで介入することに決める。
「夏樹さん……」
 が、コンラートのある意味では好意に相手は気づくこともない。鼻で笑ってコンラートの言葉を遮った。
「やっぱり外人はダメだな。水野君は馴れ馴れしくされるのが嫌いなんだ。名前で呼ぶなんてもってのほかだよ。そうだよね?」
 彼が気づくのことのなかったコンラートの介入を、悟っていたのは夏樹だった。いつもならば、冷たく一睨みくらいはするところ、視線をそらして無視するだけに収め、あからさまにコンラートの方へ体を向けた。
「コンラート先輩」
 相手に見せつけるよう普段、人目があるところでする以上に丁寧な口調で彼が言う。思わず笑ってしまいそうになるのをコンラートは必死でこらえた。
「お願いしておいた本、持って来てくださいましたか」
「えぇ。まだ教室にあるけれど」
「いま、取りに伺ってもかまいませんか」
「もちろん」
 なんのことだかさっぱりわからなかったが、おそらくはこの場から逃げ出す口実なのだろう、と話をあわせて微笑んだ。
「あ、水野君。待ってるからさ」
「結構です、と申し上げました」
「でも……」
「必要ありません」
「君が事故にでもあったらと思うと心配で」
「心配していただくほど親しくはないと思いますが」
 せっかく夏樹が収めようとしたものを相手はそんなことを知る由もなく、さらに彼の不快を煽るようなことばかりを言う。だんだん夏樹の頬が引き攣ってきたのを見て取ったコンラートは再度の介入を試みた。
「……ちょうど、駅前に買物に行きますが」
「ならコンラート先輩、一緒に」
 明らかにわざとらしい、けれど飛び切りの笑顔で夏樹が言う。そして言うだけ言って用は済んだ、とばかりにさっとさコンラートの腕をつかんで歩き出す。
 背後で舌打ちの音が聞こえて、彼が下を向いて笑った気配がする。
「……巻き込んじゃった」
 図書室を出てしばらくしてから、ようやく彼は言った。けれど、謝罪はしなかった。
 それでいい、コンラートは満足する。先ほど言ったことをちゃんと理解してくれたのだ、と。
「西本がいなくなったとたん、これだ」
 顔を上げ、不愉快極まりない、と目が言っている。
「とたん、ですか」
「ある意味では、いままで抑止力みたいなもんだったし」
「では……」
「同じくらい気色悪いけど」
 そう彼は頬をゆがめている。笑ったつもりかもしれない。
「心配しないで平気」
 少し困ったような顔をして言う夏樹に、コンラートは答えない。その代わり「本当に?」と視線で質す。
「あいつらは、別に俺をどうこうしようってんじゃない」
 それでも気持ちの良かろうはずはない。男に付きまとわれてなにが楽しいのか、そう彼の顔に書いてある。
「誰が俺と親しくなるか、ゲームみたいなもん」
「……気分が悪い」
 そんなことを言うつもりではなかったのに、とっさに口に出してしまったらしい。
 が、しかし。夏樹はそれに向かって微笑んだ。心からコンラートがそう思ってくれている、と思ったのだろう。笑みには感謝があった。
 けれどコンラートは彼に同情したわけでも彼と同じ不快を分け合ったわけでもない。自分の想い人がそんな風に遊びの種にされているのが、たまらなく嫌だっただけ。
 それを顔に出すわけにも行かず、コンラートはただ夏樹に笑みを返す。
「俺も景品扱いされる気はないし」
 そう言って夏樹はもう一度コンラートの目を覗き込む。心配しないで、彼の目はそう言っていた。
 中学生に、これほど正確に分析されてしまっては立場がない、と言うものだが、元々悪いのはあちらなので、同情する気にもならない。
「そう言われても、はいそうですか、という具合には行きませんよ」
 思わず苦笑して言い返しはしたが、コンラートの目は「なにかあったら力になります」そう語ってしまう。我ながら器用なものだ、と後になってコンラートは自分を笑ったのだった。
「そのときは、ね」
 ちゃんと頼るから、彼は言い、ようやくまだコンラートの腕をつかんだままだったことに気づいては、ばつが悪そうに笑って手を離したのだった。




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