校内は喧騒に包まれていた。男子校である紅葉坂の中で、唯一華やかな嬌声が聞こえる日。文化祭の二日めだった。
 一日目は、父兄や関係者だけが参加するので、少し寂しい。が、二日目は受験予定者やその父兄、近隣の人々なども観覧に来るから華やかなことこの上なかった。なにしろ紅葉坂の校内で女性の声が聞こえるのはこの一日だけだ。
 昨日はコンラート・夏樹ともに級友と校内を回っている。夏樹の弁によれば「つまんないし」と言うことなのだが、確かに今日のほうが学生も気合が入るようで活気が違う。
 以前から二日目は一緒に、と夏樹はコンラートに約束させていた。
「露貴と三人で回ろうよ」
 そう言って。
 だから、コンラートは露貴と夏樹と三人で歩いている。制服のポケットに入れた小箱の存在を痛いほどに感じながら。
 本人にはすでに伝えてあるのだから、渡してしまっても良いのだけれど、なんとなく機会がつかめない。
 それはただ単純に「はいこれ」などと渡したくない、少しでもいいから喜んでもらいたいと言う感情の表れでもあった。
「高一のクラスが焼きそばやってるってよ」
 夏樹もコンラートがピンブローチを渡す、と言うことは当然覚えている。そのせいだろう、態度がぎこちない。
 二人の間に漂う緊張をなんとかしようと露貴があれこれとなく世話を焼いてくれているのだが、どうにも上手くいかなかった。
「焼きそばか……見に行ってみますか」
「別に」
「あー、んじゃ夏樹。あれはどうだ、お化け屋敷」
「絶対ヤダ」
「こいつね、意外と怖がりなんだぜ」
「やなこと言うな」
「それは、意外ですね」
「だって……びっくりする」
「それが怖がりなんだって」
「そうじゃないんですよね。怖いわけじゃなくて、いきなり驚かされるのが嫌なんでしょう?」
 小首を傾げてコンラートが夏樹を見れば、うなずくのが見えた。
「それ、怖がりって言わないか」
「怖いんじゃないんだよ、露貴。嫌なだけ」
「お前、甘すぎ」
 ぼそり、露貴が嫌味を言う。
「どこがだよ」
「どこもかしこも」
「うるさいなぁ、もう」
 軽口の応酬に夏樹がかすかに笑った。ようやく緊張が解れてきたのか、それに露貴は内心でほっと息をつく。
「あぁ、調理部だ。軽いものでも買ってきましょうか」
「うん。甘いのがいい」
「俺はなんでもいいや」
「お前もかよ」
 コンラートは笑い、それでもちょっと待ってて、と手振りで二人を止め前方の教室に入って行った。
 男子校の調理部、と言うのは珍しいのかもしれない。ただ、コンラートは日本人ではないので違和感はない。ドイツでは料理くらい男もするし、ケーキを焼くのが趣味と言う男だっている。
 日本では事情が違うのか、それともこれは単に紅葉坂の遊びなのか、調理部はまともなものを作らない。
 作らないわけでは、ない。ただ、少ししか作らないから、さっさと買いに行かなければなくなってしまうのだ。
 ――去年のあれは凄まじかった。
 コンラートは思い出す。まだ日本に慣れていない留学生に親愛半分からかい半分で、調理部の作品を食べさせよう、と誰が思ったものか。
 確かにあれはアメリカンマフィンだった。普通はチーズやチョコレートが入っている。コンラートだって決して嫌いではない。
 が、去年の調理部のマフィンは唐辛子味だった。
 ――それも山葵クリーム入り。誰が考えたんだか。
 思い出すだけで頭を抱えたくなる。
 今年はそんなものを食べずに済むよう、ちゃんとしたものがなくならないうちに買ってしまいたい。
「お。コンラート、よく来た」
 人は見た目ではない。それはわかっているが、なにもどこから見てもラグビー部、と言った人間が調理部にいなくてもよさそうなものを。
 とても同級生には見えない彼にコンラートは苦笑いをし、
「それ、なんかのコスプレ?」
 思わず聞いてしまった。
「なにがだよ。清潔第一!」
 それはそうだろう。仮にも食べ物を扱うのだから。しかしなにも全員が割烹着を着なくてもよさそうなものだと思う。ついでに頭に三角巾まで着けている。
「まぁ、なんでもいいよ。なにがある?」
「今年の新作はな、すごいぞ。我が調理部の精鋭が作り上げたこのケーキ、綺麗だろ?」
 取り出したるはひとつのケーキ。可愛らしいピンク色に染まった薄いスポンジの層の間に淡い緑と黄色のクリームが挟まっている。
「なんか……嫌になるほど見覚えがある配色なのは、気のせいか」
「気のせいだ、気のせい。どうだ?」
「まず、なにでできてるのか、聞かせろ」
「ケツの穴のちっせぇ男だなぁ。仕方ない、一度しか言わないから良く聞けよ」
「一度しか聞きたくないよ」
 思わず小声で呟けばじろりと睨まれ、慌てて愛想笑いをしてしまう。コンラートとて小柄な方では決してないが、なにせ横幅と厚みが違う。
「このスポンジはな、唐辛子が入ってんだ。綺麗な色にするのがどれだけ大変だったか! で、こっちの緑のクリームは山葵だ。これも配合がなぁ」
「だったら黄色は……」
「そう! 辛子だ!」
「……あのなぁ」
「なんだよ」
「どうして、辛いもんにこだわるんだよ」
「伝統だ!」
 ラグビー男は反り返って誇らしげに言った。割烹着に三角巾で。お玉でも持たせたらさぞ似合うことだろう。
「どんな伝統だよ……それより普通のないの普通の」
「普通ねェ……」
 せっかくの力作を褒めてもらえないのにがっかりしたのか、彼は途端につまらなそうな顔をしてそっぽを向く。
 話が進まないのに業を煮やしたコンラートは賭けに出た。
「……水野が甘いもんがいいなって言ってたなー」
「なに! それを早く言え!」
 喜色満面で、陳列台の下からケースを取り出し、蓋を開ける。そこには寮の談話室で買うよりずっとおいしそうなケーキがあった。
 自分で賭けをしたくせに、なぜか脱力したくなるコンラートだった。
「これは高三の本庄さんのチョコレートケーキ。こっちは中一の嵯峨野のチーズスフレ。あと、マロンパイだろー、アップルケーキもあるぞ」
「と、とりあえず、ひとつずつ。あと塩気のあるもんは……」
「おー、待ってろ。それはな、こっちに」
 ごそごそとやって取り出してきたのは見事なサンドイッチやパンだった。
「サンドイッチと、そのハムロール。あと、卵パンもらってく」
 滔々とまくし立てられるより早くコンラートは言い、まだ新作唐辛子ケーキを押し売ろうとするのをかわしきって退散した。
 教室を出たところで深い溜息をついてしまう。
 ――どう考えても運動部のパワーだろ。
 知らず苦笑いが口許に浮かび、コンラートが足を進めようとしたそのとき、後ろから声がかけられた。
「あの……」
 振り返ればそこに少女が立っていた。文化祭なのだから異性がいてもおかしくない、と言うのはわかっているのだが、自分の目の前に立っている、と言うことが一瞬、信じられない。
「はい?」
「あの、友達とはぐれちゃって」
「あぁ、だったらこの先に生徒会の運営部がありますから……」
「そうじゃなくて! 一緒に回ってもらえませんか!」
「は?」
 我ながら間抜けな返答だと思うが、コンラートはすでに混乱している。いったいなにが起こっているのか理解できなかった。
「えっと、ハーフですか。日本語、わかってますよね」
 少女は言い、一歩前に出てくる。目がきらきらしていた。たぶん、精一杯におしゃれをしてきたのだろう。紅葉坂はこれでも名門校。それなりに何事かを期待して遊びに来る少女は、多い。
「わかってますが」
 言いつつコンラートは一歩下がった。
「だったら」
 また一歩前に出る少女につられて一歩下がる。下がった拍子に見えてしまった。
 廊下の向こう、夏樹が険しい顔をしてこちらを見ている。
 ――まずいと言うか嬉しいと言うか。
 思わず視線を天井に投げた。
「悪いけど、友達が待ってるんで」
「あ。一緒でいいです。全然」
「友達が、嫌がるから」
「訊いてみてください」
 わからないでしょ、そんなこと。彼女は続け、にっこり笑う。
 進退窮まって辺りを見回せば、いつの間にか夏樹と露貴が待っているところまで来てしまっていた。一歩ずつずるずると下がってしまっていたらしい。
「先行く」
 視界に入った途端、夏樹が言った。返事を待つこともせず、さっさと歩いて行ってしまう。それは歩く、と言うよりむしろ小走りと言った方がふさわしいほどの早さだった。
「いまのはお前が悪い」
 見送った露貴が追い討ちをかけてくる。
「わかってる」
「ほんとかー」
「全面的に俺が悪い」
 思い切り溜息をつき、頭を抱えようと手を上げればまだ調理部で買ったものを持ったままだった。
「一緒に回ってもらえますよね?」
 くすくすと笑う少女を一瞥することもなくコンラートは、
「これ頼む」
 そう露貴に荷物を渡す。
「ちょっと、聞いてます?」
「君に関わってる暇はない」
 視線も向けずにコンラートは言い、例の場所で待ち合わせ、とだけ露貴に言い残し走り出した。
「ちょっとなにあの人!」
 文化祭の喧騒の中、少女の悪態が背後を追いかけてきた。露貴がなにかを言っているのが聞こえる。あとは騒ぎにまぎれてもうなにも聞こえてこない。
 夏樹がいないかと、手近な教室を覗き込む。が、いる気配もなかった。
 いったいどこからこんなに来ているのだろう、と思うほどの人数。そう簡単に見つかるわけもない。コンラートは落胆を隠せなかった。
 せっかくの文化祭。弾除け志願と称して、想いの証を渡すはずだったのに。きっと彼は気づかない、そんなスリルを味わって苦い喜びを感じたいと思っていたのに。
「夏樹さん……」
 知らず口の中で彼の名を呼んだ。答えはない。
 ふと思いつく。コンラートは人混みの中を抜け、足早に校舎から外に出ていた。

 そっと動いたはずだったのに、やはり音を立ててしまった。
 振り返った彼が冷たい目で見ている。
「夏樹さん」
「なにしに来た」
 あの木立の中だった。こんな日でもここは静かで、いつも通り人気もない。夏樹が一人、木漏れ日の中に座っていた。
「あなたを探しに」
「行けばよかった」
「興味、ないですから」
「嘘」
「本当に」
「だって」
 言い募る彼の横、嫌がられないよう少し間を開けて腰を下ろした。
「約束しましたし」
「なにを」
「あなたと一緒に回るって、約束したでしょう?」
「そんなの……」
「ひどいな」
 コンラートは笑い声を立てる。それをいぶかしげに夏樹が見上げた。その目の険は薄れ始めている。
「なにが」
「私はものすごく楽しみにしていたんですよ、あなたと一緒に回るの」
 あなたは違うんですか、コンラートの目が夏樹を覗き込んで訊ねていた。
「さっき……嬉しそうにしてた」
「違いますよ、硬直してたんです」
「なんでさ」
「いきなりわけのわからないこと言われたんですからね。それくらいは許してください」
「じゃあ……」
「全然そんな気はありませんでしたよ」
 そう言ったコンラートの言葉が真実か探ろうとするように、夏樹がそばに寄ってその目をじっと覗き込む。
 まだ怒っているふりをした彼の目。拗ねたように尖らせている唇。噛みしめていたのか、少し赤い。
「信じてくれませんか?」
 こんな近くでそんな顔をされたら、おかしくなってしまう。目をそらすこともできず、コンラートは自分の視界から彼を隠すよう、彼とは反対側の手でもって夏樹の髪をくしゃくしゃにした。
「よせってば」
 照れた声を出して夏樹がそっぽを向いた。彼に悟られないよう、そっとコンラートは息をつく。
 胸が痛んだ。
 だから、今を逃さない。それは傷口に爪を立てるの等しい行為だったけれど、こんな気分にはちょうどいいのかもしれない。
「夏樹さん」
 呼びかけに振り返ろうとした彼を押し止め、
「目を、閉じていてくれませんか」
 静かに言った。
「なに」
「照れますから」
「嘘つけ」
 乱暴に言い放った彼だけれど、コンラートの言うとおりにしてくれたのがわかる。
 一度深く呼吸する。それから例の小箱を取り出し、手の中に握りこんだ。
 夏樹の後ろから腕をまわし、所在なさげに膝の上に置かれている手にそっと置く。わずかに彼の指が震えた。
「いいですよ」
 こくり、夏樹がうなずく。
「開けて、いい?」
 今度はコンラートがうなずく。見えないだろうけれど、彼にはわかるから。
 夏樹の指が蓋にかかり、開く。木漏れ日がピンに反射してきらり、光った。




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