彼の肩越しに、その指がピンに触れるのが見えた。そっと慈しむように、触れている。コンラートからは彼の顔が見えなかったけれど、口許がほころんでいるのを確信していた。
「気に入って、もらえました?」
 問いかける声が、緊張に掠れた。夏樹が振り返るその前にコンラートは視線をあらぬほうへと飛ばし、咳払いをしたりする。
「うん」
 こちらを向いた夏樹が、目を細めて笑っている。木漏れ日が彼の目に射してかすかに蒼い。
「カイル」
 視界の端で彼の髪が光に透けていた。気の早い落ち葉が一片、夏樹の髪に落ちかかっては、絡まって止まる。
 コンラートは視線を外したまま手を伸ばし、黄色い葉を髪から取った。
「なんですか」
 少しばかりぶっきらぼうな答え。まるで、いつもの夏樹のよう。
 手の中で髪から外したばかりの葉をくるくる回して弄ぶ。
「カイル」
 呼び声と共に。柔らかい感触が腕に。見るまでもなかった。夏樹が腕に寄りかかっている。細い髪が腕に触れている。
「卒業するまで、面倒だよ」
 でも、謝らない。彼は小声で呟いた。
「かまわない、と言いませんでしたっけ?」
「聞いたっけ」
「たぶん、ね」
 どちらからともなく視線を合わせ、それから笑う。夏樹は心から。コンラートは心内を知られないよう。
「いま、つけちゃおうかな」
「え?」
「これ。ダメ?」
「いえ、だめじゃ……」
 コンラートが否定しかけたその時、木の葉のざわめく音がする。それと共に足音も。
「つけちゃえばいいのに。どっちにしたって人身御供だ」
 現れた途端に口を出したのはもちろん露貴だった。
「なんだよ、人身御供って」
「んじゃ、アニュス・ディ」
「俺は羊か! って言うか、それは不遜」
「そりゃ失礼。信仰がないもんでな」
 露貴が軽口を叩いてくれることにほっとする。多少なりとも甘い雰囲気になるのは、コンラートにはつらい。夏樹にそんなつもりが微塵もないのはわかっている。けれど、そう取ってしまいたくなる言動を彼がすることもまた、否定は出来ない。
 だから、避けたいのに、けれど、彼と二人でいたい。
 どうしていいかわからなくなるその前に、露貴が来てくれて、本当に良かった。コンラートは思う。
「せっかくカイルと喋ってたのに」
 それなのに夏樹は。
 そんなことを不満そうに言うのだ。夏樹からは見えないよう、露貴がコンラートに苦笑してみせる。
 ――お前も大変だ。
 と、彼の目が言っていた。
「悪い悪い。それ、さっさとつけちゃえ。それからご飯だ」
 そう言って露貴は先ほどコンラートが預けたパンやケーキをかかげて見せた。
「そういえば」
「おなか、すいたでしょう?」
 コンラートの問いに夏樹が微笑む。それから小箱を取り上げてコンラートに差し出した。
「つけて」
「はい?」
 思い切り、間抜けな声になってしまった。向こう側で露貴が声を出さずに腹を抱えて笑っている。それを一睨みしてから、もう一度夏樹に問い返した。
「どうするんですって?」
「自分じゃ上手くつけられないから」
「あぁ……」
 なんの不思議なこともない、と言う顔をして夏樹は言う。返ってなぜそんなことをわざわざ聞き返すのか、とそちらの方が不思議そうだった。
 諦めたコンラートはブローチを手に取る。目を細めた猫まで、自分を笑っている気がして、少しばかり頭痛がしないでもない。
「この辺でいいですか」
「良いようにして」
 見えないし。言って夏樹は笑う。
 それもそうだ、とコンラートはまた自分を嗤いたくなった。自分で見えないから、頼んでいると言うのに。ただ、それだけだと言うのに。
 夏服の白いシャツの襟にピンを刺す。震えそうな指に力を入れて押しとどめた。夏樹の髪にわずか、手が触れた。
「はい、いいですよ」
 それを悟られたくなくて、さっさと手を離す。ちゃんととまっているかな、そんな顔をして確かめて見せることも忘れずに。
「ありがと」
 照れたようにうつむいた彼の耳が赤いのは、たぶん気のせい。それでなければ光の加減。
 改めて見上げた目に、信頼以上のものがあるように見えるのも、気の迷い。
 彼に気づかれないよう、自分の背後に回した掌を握りこむ。爪が食い込むほどに。
「どういたしまして」
 茶化すように微笑んだコンラートの目に、木漏れ日の射した猫が銀色に光を放っていた。

 夕暮れ、一般観覧者の退去を求める放送がだいぶ前にあった。これからは生徒と教師だけが校内に残る。
 文化祭の最後を飾るキャンプファイヤー。いつごろから行われているものかは知らない。ただ、火をつけて周りでそれを見ながら歓談し、そして一人ひとり帰っていく。それだけのことなのだが、祭りの最後にふさわしい、なにか物悲しいような華やかさを持った行事だった。
「ちょっと露貴、手ェ貸してくれ」
 文化祭実行委員が、彼らの元に来たのは火がつけられる時刻の少し前だった。
 どうやら不手際があったらしい。なにかにつけて目端の利く露貴はこんなとき重宝がられる。
「悪いな」
 夏樹にそう言い残し、コンラートに軽く手を上げ、露貴は行ってしまった。
「三人で見ようって約束したのに、残念ですね」
 コンラートは傍らの夏樹に言う。彼自身、残念でもある。夏樹と二人きりでいたいのは嘘ではなかったが、なんと言っても至誠を捧げたばかりのこと。どことなく居心地が悪い。
「そうでもない」
 けれど夏樹は一言の元にそれを否定した。どういう意味なのかはわからない。コンラートと一緒にいるだけでいい、そうも聞こえてしまう。
 コンラートは彼に見えないよう首を振り、押し殺した溜息をつく。そんなわけはないのだ、と。
「水野君」
 二人の背後から声がかかった。言葉の調子からして面白くない訪問者であることは間違いない。振り向いた夏樹の視線が険しくなっているのが手に取るようにわかった。
「あー、こんな所にいたんだな、と思っただけ。じゃ」
 その場に一瞬立ち尽くした彼はそれだけ言ってそそくさと背を返す。
 不審げな顔をしたコンラートを夏樹は見上げ、にやり笑った。
「どうしました」
「効果あり」
「え?」
 聞き返すコンラートに夏樹は再び笑みを向け、指先で襟元のブローチに触れる。
「見てたから」
 そう言って。
「あぁ、なるほど」
 彼の答えを聞いてどれほどものを見ていなかったのか、驚くほどだ。
 彼はきっと夏樹を誘いに来たに違いない。そしてあわよくば自分もピンを渡そう、と思っていたのだろう。それなのに夏樹の襟はすでに飾られている。「冬服になったときに飾る」という伝統を無視していま、夏樹の襟にはそれがある。
 そして夏樹の横にはコンラートがいる。それを誰が贈ったのか、あえて聞くまでもない、彼はそう思ったのだろう。
「弾除け志願した甲斐がありました」
 コンラートは笑みを作って夏樹に向けた。
 彼の思ったことは物語として間違ってはいない。目に見える現象としても間違ってはいない。夏樹の心が感じている事実としても、おそらくは。
 けれどコンラートの心は違う。嘘偽りなくあの贈り物はコンラートの本心だ。心から彼を愛しいと思う。夏樹自身の意思として自分を受け入れ、その後に襟に飾って欲しいと思った。高望みだというのがわかっていてさえ。
「あ、ついた」
 校庭の真ん中でキャンプファイヤーに火がついた。はじめは小さく、そして徐々に大きく。いつしか陽は完全に落ち、夜空に高く火の粉が舞う。赤い火の照り返しが、夏樹の額を染めている。
「綺麗ですね」
 口先だけの答え。火に見惚れた夏樹は気づかない。
 いま隣にいる夏樹が遠い。こんなにも、考えていることが違う。一見、コンラートを受け入れてくれたかのよう。でも違うことは二人ともがよく知っている。
 掌の中、指を握りこんで力を入れる。夏樹に気づかれないように。
 彼が自分の思いを知るのが怖かった。知らせてしまうにはあまりにもコンラートは夏樹を愛しく思いすぎていた。
 彼がショックを覚えることはわかりきっている。初めてできた打算のない友人が、自分に抱いた思いを知ったなら、彼は人間と言うものを信用することができなくなってしまうかもしれない。
 コンラートは、想い人をそんな目に合わせたくなかった。だから、知らせない。悟らせない。思いを隠し続ける。
 いつまでだろうか。自問する。彼が大人になるまで。自答する。それは、いつのことだろうか。あるいはその日まで、自分は日本にいることができるのだろうか。彼の横にあり続けることができるのだろうか。
「もう一度しかないんだな」
 突然、夏樹が口を開く。まるでコンラートの思いを読み取ったようなことを言うのにぎょっとした。
「再来年はもう、卒業しちゃっていないんだ、カイル」
「そう……ですね」
 少しは寂しい、と思ってくれるのか。そんなことを自嘲と共に思った。彼が寂しがるなど、知らないわけはないのに。
「……帰っちゃうの」
「ドイツにですか」
「そう」
 火を見つめたまま、夏樹は言う。目をあわせようとしないのは――怖いからか。
「ごめんなさい」
 ふと、コンラートの頬に微笑が浮かんだ。
「やっぱり」
「違いますよ」
「だって」
「言っていなかったな、と思って」
 なにかに取り紛れて、まだ彼には伝えていなかった。もしかしたらこんな日のために自分は言っていなかったのかもしれない。
「大学、進学します」
「え……」
「この前、帰省したとき兄の許しを得ました」
 言葉もなく夏樹が見上げてきた。唇が動く。
 ――本当?
 と。見開いた目が少しずつ笑いの形になっていく。いつの間にかコンラートの手に夏樹の指が絡んでいた。
「本当に」
 もっとも、試験に落ちることもあるかもしれませんけどね。冗談のように付け加えた。
「そんなことない」
 絡んだ指が解かれてコンラートの腕が叩かれる。
「わかりませんよ」
「カイルが落ちるくらいだったら……」
 ふいに夏樹は言葉を切ってコンラートを見上げて目で問う。
「内部推薦を取れたらいいな、と思ってますよ」
 問いに答えれば、彼の頬が緩む。彼の目が言っている。なんでこんなに俺の言うことがわかるんだろう、と。
「だったら間違いないじゃんか」
「意外とそうでもないです」
「そう?」
「これから励みますよ」
 口では言ったものの、内部推薦が取れる程度の成績は残しているつもりだ。前回の期末試験がいささか問題のある結果ではあったけれど、これからあと二回の試験で取り返せないでもない範囲だ。その点は自信があった。
「じゃあ……」
「なんです?」
 あえて問い返せば、甘い目が睨んできた。わかってるくせに、そう言って。
「あと五年半は、一緒にいられるんだ……」
 しかし夏樹はちゃんと口に出して言ってくれた。視線はすでにキャンプファイヤーに戻してしまっていたけれど。
 さりげなく、コンラートの希望を入れて言葉にしてくれた。
「えぇ、そうです」
「でも」
 火を見つめたまま、唇を噛む。それから意を決したように口を開いて彼は言う。
「いまみたいにずっと一緒にいられるのは、卒業するまで。あと一年半しかない」
 まるでそれが耐え難い、とでも言うように。
「寂しいですか」
「寂しいよ」
「……私に出来る限り」
「一緒にいようとしてくれることくらい、わかってるよ」
 火からも目をそむけ、夏樹は視線を地に落とす。
 キャンプファイヤーの周りで歓談する生徒たちの声が、どこか遠い世界の物のようだった。夏樹と二人、なにか硬くて透明なものに遮られて世界から隔てられてでもいるかに。
「卒業して大学行って。新しく知り合いだって友達だってできる」
「それでも」
「そもそも、俺がこんなこと言えるわけないじゃん」
 火の反射だろうか、見上げてきた夏樹の目がぎらり光った。
「こんなのただの我が儘じゃん」
 吐き出すような言葉。自分に愛想が尽きたと言いたげな言葉。
「我が儘でもいいですよ」
 強い視線を受け止めてコンラートは微笑む。我が儘でいい、それが嫉妬だとわからなくても、充分。
「よくない」
「あなたの我が儘聞くのは、楽しいですよ」
「嘘つけ」
「おや、信じられませんか? 私が言うのに?」
 そっと手をのばして夏樹の髪に触れた。嫌がる素振りさえ見せず、黙ってされるままになっている。
「信じてください」
「……嫌いにならない?」
 幼子のような、口ぶり。高ぶった感情が収まってきたのだろう、髪を梳くコンラートの指に身を任せ、安堵の溜息を漏らしている。
「その程度のことで? ずいぶん見くびられたものです」
 いつまでもこうしていたい、そんな誘惑に打ち勝ってコンラートは彼の髪から手を離しては笑って見せた。
「うん……」
 信じる。彼の呟きは、露貴が駆けてくる音に掻き消されるほどに小さかった。




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