西本は変わっていなかった。たった数分の会話でもありありとそれがわかる。何と言う幼稚さだろうと夏樹はいっそ忌々しい。
 ここは中高一貫の男子校の校庭ではない。当たり前の現代社会だ。ある種の閉鎖社会である男子校の先輩が、少しばかり見目形の整った後輩に執着するのとは訳が違う。今になってもまだ自分に接近を図ろうとする西本が気色悪くてならなかった。
 夏樹は思う。もしもそれが恋愛感情だと言うならば、対応のしようはあるのだ。夏樹自身、同性の恋人がいる以上、そのことに対しての禁忌はない。
 けれど西本は違うのだ。あの頃もいまも。ただ夏樹を手に入れたいと思っているだけ。そのような肥大した自己愛に付き合う必要はどこにもなかった。
「水野は変わってないな」
 ねっとりとした視線に鳥肌が立ちそうだった。
「そうですか」
 自分から逃げることだけは断固としてしたくない、そう思っているからこそ会話を続けている。それでも気分の悪さに注意が散漫になっているのだろう、いつの間にか西本がグラスを手にしているのにも気づかなかった。
「あの頃も君はそんな風に冷たかったな」
「そうでしょうね」
「君が入学してきた年、ラペルピンを渡そうとしたのに受け取ってくれなかったよな」
 紅葉坂学園の奇妙な習慣のひとつ。文化祭の日にブレザーの襟に飾るピンブローチ、ラペルピンを渡すと言うもの。本来は、普段の感謝を伝えるものだったと言うけれど、夏樹が入学する遥か以前から元々の意味は廃れ、思い人にピンを渡し、受け取ってくれれば相愛の印、と言う言語道断な習慣に成り果てていた。
 もっとも、夏樹も受け取ったことがあるのだから、その辺りはなんとも言いがたい。あれはただのカモフラージュだった、とは言え。ただし、それから十余年を経て本物になってしまったが。
「当たり前です」
「なんでかな?」
「は?」
「受け取ってくれなかった理由。聞いてもいいだろ」
「そもそも受け取る理由がありませんが」
「どうして?」
「感謝されるいわれがありません」
 わざとしたずれた答えに西本が笑った。心底ぞっとする。困った子だ、そんな目つきで見られるのは冗談ではない。
「わかってるくせに」
 今度こそ全身に鳥肌が立った。
「君が好きだったから渡した。卒業してから何年にもなるのに、おかしいかな」
 否定を誘導するような言葉に夏樹は反発を覚える。半分ほどに減ってしまったグラスの中身で唇を潤せばその唇を西本が凝視しているように見え、悪寒は高まるばかり。
「おかしいですね」
 まるで睨みつけるよう、夏樹は言う。
「いまでも君が好きだと言ったら?」
 鳥肌が、内臓にまで達した気分だ。喉の奥までもがざわざわとして言葉が口から出てこない。あまりの気分の悪さに頭の中が白くなる。
「とは言え、こんな所で話すことじゃないな。場所を変えないか。いいところを知ってるんだ」
「遠慮します」
「そう言わずに、さ」
 伸びてきた手を咄嗟に払いのけた。西本が驚いたような懐かしいような顔をする。
「やっぱり君は変わってないな」
 西本相手に変わりたくなどない、夏樹は思う。人目も何もなかった。もう一度伸びてきた手を払い様、グラスをもつ手に力を入れる。
「なんなら、ホテルに部屋とってもいいんだ」
 野卑な笑いを浮かべた西本に対してどんな言葉もなかった。ただ、夏樹はグラスを揺らす。少し引く。それから。
「穏便に、ね。夏樹さん」
 はっとした。中身をぶちまけようとしていたグラスはカイルの手に押さえられていた。軽く触れているだけ、それなのに手は少しも動かせなかった。
「……新庄」
 カイルの後ろで縮こまっている部下に視線を移せば、いっそう小さくなって頭を下げる。
「伝言、聞いたんだろうな」
 部下が哀れになってはもう一人の部下にと視線を巡らせた。西本はまだ事態を把握していないのだろう、瞬きを繰り返している。
「聞いたから飛んできました」
 多少はそう思わないでもなかったのだ。ただカイルの勘のよさを甘く見ていただけ。
「あなたが来ると話しが面倒です」
 新庄が驚いて目を上げた。なぜ社長が、室長に敬語を使うのか、新庄にはさっぱり訳がわからない。
「まぁ、そう言わずに」
「絶対ややこしくなるから、来て欲しくなかったのに。コンラート先輩」
 覚悟を決めてしまった夏樹は一転して柔らかく微笑った。
 西本の記憶を刺激したのは夏樹の笑顔だったろうか、それとも彼が呼んだ名か。
「留学生……ッ」
 夏樹の手に触れていたカイルの手を、西本が掴んで払う。馬鹿馬鹿しいようなやり方。西本は夏樹に触れていいのは自分だけだと思っていることだろう。一度として触れさせた事などないにもかかわらず。
「お久しぶりです、西本先輩」
「貴様……こんな所で何をしている」
「仕事、ですね。勤務中ではなさそうですが」
 ちらり夏樹を見て笑った。
「勤務中は勤務中ですけどね、酒が入ってるんだから半分は遊びかな」
「言い切りますね。これも大事な仕事でしょうに」
 茶化した言葉にカイルは肩をすくめて見せる。それに夏樹が笑みを見せるのが西本は気に食わない。
「なんで貴様が水野と一緒にいるのか、と聞いてるんだ」
 これで政治家の秘書と言うのだから呆れる。ちんぴら、ごろつきの類と大差ない。
「コンラート先輩は私の大切な友人です。西本さんにどうこう言われる筋合いではない」
 それからふっと夏樹は微笑った。思わずカイルは目を疑う。中学生の頃の硬質な、張り詰めていたあの当時の顔に見えてしまった。そのせいだろう、彼の言葉が一瞬、理解できなかったのは。
「それに、コンラート先輩とは一緒に暮らしてますから」
 背後でおろおろとしている新庄が息を飲んだ。夏樹はちらりと視線を送るだけで何も言わない。
「水野……!」
「だからコンラート先輩が私といるのはなんのおかしいこともありません。そうですよね、先輩」
「えぇ、まぁ。確かに」
 新庄の手前、若干訂正を要するような気がしなくもないのだが、当面の問題は西本なのでカイルは目をつぶることにする。
「どうして、水野。こんな留学生を。俺より」
「なにが言いたいかさっぱりわかりませんね。なぜ西本さんと秤にかけなくてはいけないんですか。コンラート先輩と比べられると思っているんですか、自分が?」
 嘲笑ぎりぎりの声音。ここまであからさまにされればいくら西本でも自分が嫌われていると気づかざるを得ないだろう。悔しそうに青ざめたまま西本は夏樹を見つめた。
「君は……こいつは先輩と呼ぶくせに、なんで俺は」
「西本さんとは親しくもなんともない。先輩と呼ぶほどの敬意も持っていませんから」
「夏樹さん」
 たしなめるつもりのカイルの言葉が西本を逆上させた。
「狎れ狎れしいッ」
 カイルは新庄にああは言ったものの、まさかこんな場所で暴力沙汰に訴えるとは思ってもいなかった。いい年をした大人なのだから、そう思っていたのが裏目に出た。
 逆手で張り飛ばされた口許にわずかに血の味が滲む。夏樹が息を飲む音。カイルは夏樹を止めることしか考えていなかった。
「貴様なんか――」
 シャツの喉許を掴まれた。前に出ようとする夏樹を何とか片手で制し、カイルはもがく。その腹に拳が来た。
「西本」
 夏樹の低い声。掴みかかりかけた彼を止める術がカイルにはなかった。偶然だとしても鳩尾に決まってしまった拳にカイルはよろめく。
 それを目に止めた夏樹が一瞬迷う。手は西本にではなく、カイルに出てきた。みっともない、それがわかっていてもそうすることで夏樹が止められるなら、とカイルはその手にすがる。
 夏樹にとっては都合のいいことに、カイルの姿を目に止めた女性がようやくのことで悲鳴を上げた。耳を劈くその声に、一斉に視線が集まる。
「西本、その手を離せ」
 夏樹の言葉に、カイルはまだ喉を掴まれたままだったのだと気づく。半ば慌てるよう、手を離されれば足元がふらついた。
「あ、いや……水野……」
 ただ夏樹はじっと西本を見ている。何も言わない。ただ見ているだけ。それなのに西本がなぜか一歩下がった。
「西本議員。ご子息の行状を黙って見ているのは卑怯ではありませんか」
 静かな声だった。それでいて遠くまで良く響く。体を強張らせて西本が振り返った視線の先に、顔を真っ赤にした男がいた。
「いったい何があったというのかな」
 一歩。前に出た。苦々しい、そんな顔を取り繕ってはいたけれど、怒りを押し殺しているに違いない。無論、夏樹に対してだ。このような形で議員の素性が明らかになれば、間違いなくスキャンダルだ。
「ご子息が私の友人を理不尽にも殴ったのですよ」
「それは」
「言うまでもないことですが、居合わせたどなたにでもお聞きになればいい。突然のことで友人は身を守ることも出来なかった。そもそも暴力に訴えるなど、ごく普通の社会人がするべきことではないはずです」
 西本親子にはわからなかっただろう。カイルにも、新庄にもわかった。夏樹が長い言葉を使うときほど怒り狂っているということは、すでに社内でもひっそりと言い交わされている。
「父さん。俺は」
「黙れ。話しは後で聞く」
 押し潰したような声は苦渋に満ちていた。父にも息子のことは良くわかっているのだろう。あるいはこのような状況は初めてではないのかもしれない。
「後ほど、謝罪に伺う。君、名前は」
 とても謝る者の態度ではない、新庄はようやく不快に思った。こんな場面に出くわすとは思ってもいなくて、ただただ呆然とするだけだったのだ。そのせいで室長が怪我をしてしまったと思えば忸怩とする。
「水野、と」
 わずかに唇を噛んでいた新庄の目に、夏樹の微笑が映る。笑っているのに、背中がぞっとした。小さなカイルの溜息が新庄の耳に届いて彼を見れば苦笑している。
「……あの水野氏か」
「その、水野です。もっとも、直接ご存知なのは父のほうでしょうが。ご了解いただけたようですから念のために申し上げておきましょう。ご子息が私の友人を殴ったのはこれで二度目です。よもや次はないはずですが今度万が一にもこのようなことが起きた場合、私としては友人にしかるべき対処を取るよう助言せざるを得ません」
「……わかっている」
「では、そういうことで」
「武義。お詫びしろ」
 まだ痛む腹を抱えて、カイルはいままで西本の名前を知らなかったことを意外に思った。夏樹はと見ればどうやら彼も知らなかったらしい。
 それほどまでにまるで興味がなかったのだと、知ったら西本はさぞ落胆することだろう、そんな意地の悪いことをカイルは思っては内心で苦笑し、思わず動いてしまった体に腹が痛んだ。
「すまなかった、水野」
「詫びる相手が違うでしょう」
「……留学生、お前にも」
「詫びられている気がしませんが、殊勝になられても気色が悪いだけですから。コンラート先輩、行きましょう」
 西本には一瞥も与えず、ただ礼儀ばかり父親のほうには会釈をして夏樹は歩き出す。そっとカイルを支えるように見える手指は力を入れるあまり白くなっていた。




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