とりあえず懇親会のほうに挨拶だけはしてくるから、と言って夏樹はカイルを新庄の手に委ねた。
「任せてください!」
 張り切って言ったものの、カイルは夏樹が行ってしまってからというものどうと言うこともない顔をしている。
「室長……」
「うん?」
「大丈夫ですか」
「平気だよ」
 言って苦笑する。それからそっと腹の辺りをさすった。やはりまだ痛いのだろうと思えば根性なしの自分が新庄は嫌になった。
 先に車に戻っていろ、そう言われて二人は駐車場へと向かっている。幸い、人気はない。時折ホテルの従業員と行き会う程度だった。
「あの、室長と社長って……」
 先程のことが頭にあった。二人が親しい友人だと言うことは知っていたけれど、新庄はそれ以上のことを知らない。
「あぁ……」
 何事かに納得してカイルがうなずく。どこかまだ苦笑の影があった。
「あまり公表したくないんだけどね」
「そう……なんですか?」
「私が入社してあのポストについたとき、国籍は違う上に社長の個人的な友人だって言うんで、かなり批判されたんだ」
「そんなことが」
「あったんだよ。まだカイザーも若かったし」
「まだ、お若いですよ」
「あの頃はもっと若かったから。あの人も加減ってことを知らないから」
 何を思い出したのだろう、カイルは忍び笑いを漏らし顔を顰める。やはり痛むのだろう、ゆっくり歩くせいで駐車場が遠く感じた。
「カイザーは私の三つ後輩にあたるんだ。さっきの西本さんは私の一年上だから、あの人にとっては四年上」
「え?」
「あぁ、うちは中高一貫だから」
「あ、その。うちって」
 訳がわからなくなってきたのだろう、首をひねる新庄にカイルは目を向け、我ながら混乱しているのだと気づく。確かに説明が下手だった。
「私は高校のときに留学してきたんだ。それからずっと日本にいついちゃってね」
「それで留学生?」
「そうそう」
 ようやく話が繋がった。新庄は高校生の室長、と言うものを思い描いてみる。なんだか不思議だった。けれど中学生のカイザーよりはいい、そんなことを思う。少しも想像できなかった。
「あの西本さんって人、何者なんです? カイザーとすごく仲悪かったみたいですけど」
「それは違う」
「え。違うんですか?」
「西本さんが一方的にカイザーにまとわりついてて、それをカイザーが嫌ってただけ」
「……もしかして男子校ですか」
 少しばかり嫌な想像をしてしまった。いまでも華奢で綺麗な彼なのだから、きっと少年の頃はさぞかし、など新庄はあらぬことを思う。
「正解。不思議だよね、別に女性と知り合う機会がないってわけでもないのに」
「男子校ではよくあるって聞きますけど……」
「まぁ、ねぇ。カイザーも見た目は儚げな美少年だったからね」
 喉の奥でカイルは笑い、それで腹が痛んだのだろう。わずかに身をよじる。慌てて新庄が顔色を窺ってくるのになんでもないと手を振った。
「カイザー、今でも、その」
 思わず呟いてしまった新庄の言葉にカイルはちらりと目をやった。一瞬、何かを考えたようだった。それから言葉を選ぶよう、ゆっくりと新庄に向かう。
「それ、本人の前で言わないようにね。儚げなのは見た目だけだから」
「あ、はい!」
「物凄く、怒るから」
「……怖いです」
「同感だ」
 もっともらしくうなずいて、カイルは笑った。また腹をさする。それから一度切った言葉を繋ごうか迷った末、カイルは続ける。
「カイザーは強いよ。あの人を支えようとか助けようとか、そんなことは想像するのも失礼なくらいにね」
 内心を読まれたかと思った新庄はどきりとし、何とかそれを顔に出さないよう苦労する。まさかいくら室長でも気づかれているとは思えないけれど、そう彼の顔を窺えば表情ひとつ変わっていなかった。
「えっと、その」
「うん? どうした」
「あ、いえ。別に」
 言葉を濁した新庄にカイルは黙って微笑みかける。その笑顔からは何を考えているか新庄に推し量ることは出来なかった。
「けっこう痛いなぁ」
 まるで話を変えようとするよう言ったカイルの言葉に新庄は救われ、いささか性急に反応する。
「本当に大丈夫なんですか」
「だいぶ良くなってはきたよ」
 あっさりと言うカイルに懸念の目を向け、新庄はようやくついた車のドアを開けようとする。それを手で制し、カイルは車にもたれた。
「私は当時も西本さんに殴られててね。二度目だから」
「さっきカイザーが仰ってたのって、そのことですか!」
「そう。西本さんにしたら突然現れた留学生にかっさらわれた気がしたんだろうね」
「え、それって」
 思わずまじまじとカイルの顔を見てしまった新庄に、カイルは慌てて瞬きを繰り返す。それから苦笑して手を振った。
「違うって。私は後輩、と言うか……友達が変なのにまとわりつかれてるのが嫌だったんだ。西本さんには私が邪魔者に見えただろうなってこと」
「あぁ……なるほど」
 言ったほど、釈然とした気持ちにはなれなかった。なにかが引っかかっているような気はするのだけど、なにがどうと巧く言えない。新庄が口を開こうとしたとき、夏樹の姿が見えた。
「戻ってろって言っただろ」
 不機嫌も露な夏樹に新庄は思わず身を縮ませてしまった。カイルはこともなげに肩をすくめる。
「戻ってますよ」
「そうじゃない」
「わかってます」
 そう言ってカイルはそっと微笑う。それを目にした途端だった。夏樹が崩れた。新庄が息を飲む間もない。
 ぎゅっと唇を噛みしめたかと思うとそのままカイルの肩口に夏樹が額を寄せた。
「大丈夫ですよ、夏樹さん」
「また、殴られた」
「知っているでしょ、西本さんは肝心な所で根性なしだから。それほど痛くないから、ね?」
 そういう問題ではない、伝えるよう夏樹は黙って首を振る。カイルの頬の辺りで彼の髪が揺れた。カイルはなだめるよう彼の背を緩く抱いて撫でていた。
「もう、嫌だ」
「夏樹さん? 不穏なことは考えないようにね」
「なにも考えてない」
「嘘を。ほら、仏の顔も三度までって言うでしょ。穏便に」
「俺は幸い凡人でな。二度が限界だ」
「次はないって言ったの、誰だっけ?」
「この次はお前に法的手段を取らせる、と言った。俺がどうするかは何も言ってない」
「そう言うのをなんていうか知ってる?」
「なに」
「詭弁って言うの」
 呆れたようカイルが笑う。その声に触発されたのだろう、夏樹も顔を上げた。浮かんでいるのは微苦笑。それを目をしてカイルは、新庄が色々と気にかかりはするのだけれど、言葉を繋いでしまうことにする。
「平気だから。俺はあなたに守ってもらわなきゃならない留学生じゃないよ」
 カイルの言葉に夏樹が唇を噛む。
「守ってくれるのは嬉しいけどね」
「……庇われてるのは俺だってことくらい、わかってる」
「そうだったの? 知らなかったな。俺だと思ってたけど」
「とぼけやがって」
 わざとらしく睨んで夏樹はようやく常態に戻った。それからやっと新庄に気づいたのか、少しばかりばつの悪い顔をした。
「帰るぞ」
 言ってさっさと車に乗り込んだ。後部座席でくつろいだ彼の姿にカイルは笑みを漏らし、自分は助手席へと入り込む。
「新庄」
 まだ呆気に取られたままの新庄を呼べばなにやら言葉にならない悲鳴のようなものを上げ、慌てて運転席へと収まった。
「室長。いいんですか、そこで」
 そう新庄が尋ねたのは、すでに車が走り始めてからのことだった。
「うん? お前、カイザーの自宅の場所知らないだろう?」
「あ、そういえば。はい、そうでした」
 どこか上の空の笑いだった。カイルはちらりと見るだけで何も言わない。夏樹にいたっては気づいてもいないのだろうな、とカイルは内心でおかしく思う。
「さっきのカイザーのはったり、すごかったですよねー」
 うつろに響く笑い声に、不審の表情を浮かべた夏樹がバックミラーを覗いた。
「はったり? なんのことだ」
「あ、ほら。さっきのですよ、室長と一緒に暮らしてるって。あれはインパクトあったなぁ」
 言ってまた新庄が意味もなく笑った。カイルは困った顔をしてミラーを覗き夏樹と視線を合わせる。彼は何も気づいていないらしい。
「別にただの事実だが」
 小首を傾げ夏樹が言う。新庄が瞬きをした。
「新庄! 前! 信号、赤!」
 カイルが慌てて言わなかったならば、信号無視は確実だった。突然かかった制動に夏樹が前のめりになっては不機嫌な顔をする。
「すみません、驚いちゃって!」
 ミラー越し、謝る新庄に夏樹がにたりと笑った。
「もっとも、書類上のことだけどな」
「え……それは……」
「新庄、頼むから前見て。私がちゃんと説明してやるから」
 呆れてカイルが言う。無論、呆れる相手は夏樹だ。後ろから喉を鳴らすような笑い声が聞こえた。
「元々いまのマンションは私が大学のときに親の遺産で買ったんだ。カイザーが社会人になったとき、ちょうど空いてた真下の部屋を買って、行き来してたんだけど、一度部屋を出てエレベーターに乗らなきゃならないからね、面倒で」
「はぁ」
「それで、どうせ独身だし、部屋は空いてるから一部屋上下で抜いて階段をつけたんだ。その過程で共同名義になってる。カイザーが仰ったのはそういう意味」
 いささかカイルにしては余計な言葉が多い。説明過剰でもある。それが動揺の現われだとわかるような新庄ではなかったのが幸いだった。
「ははぁ、そういうことでしたか」
「秘書室の連中には黙ってるようにね」
「え、あ。はい」
 どうやら口止めしなかったら明日は大騒ぎになるところだったようだ。カイルは隠れてひっそりと溜息を漏らす。
 具合のいいことにそろそろ到着だ。新庄はなぜ夏樹が軽口を叩いているのかなど知りもしないだろう。まだ怒りが収まっていないだけだった。高揚したままの気持ちで話すから、失言をする。一刻も早く新庄から引き離す必要を感じていたカイルはほっと息をついた。
「お疲れ様でした!」
 そればかりは元気よく言って新庄が後部座席のドアを開けた。夏樹がわざとらしい彼の素振りに少しだけ笑う。それにぱっと顔を明るくした新庄のことをカイルは黙って見ていた。
「新庄、車乗って行っていいよ。電車通勤だったね? 明日は社まで乗ってきて」
「え、でも室長。困りませんか」
「私の車で行くから大丈夫。帰りはご自分で運転してくださいね」
 了解、の印に片手を上げる夏樹に新庄は少しだけ驚いた顔をしてうなずいた。
「じゃ、遠慮なく乗ってきます」
「お疲れさん、ここでいいよ」
 部屋の前まで送ろうとでも言うような新庄を手で制しカイルは夏樹を促す。夏樹は何も言わず新庄に向かってうなずいて見せた。
 それに向かって頭を下げている間に二人が遠ざかっていく。新庄はじっとそれを見送っていた。ゆっくりとエレベーターの表示ランプが上がっていく。七階で止まった。
「カイザー」
 ぽつりと漏らした声に自分で慌てた。それからまたじっと表示を見ていた。もう一階分上がるはずのランプはいつまで経ってもつかなかった。




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