午後。
 アムロはもう一度乗りたいとは言い出さず、淡々とテストは進んだ。
 昼食も、アムロは二人とは摂らなかった。
 これ以上の私語も、殆どなかった。
 テストが終わってしまう。
 焦りだけは誰の目にも明らかだったが、言い出せはしなかった。
 時間が欲しかった。

 最後のテストを終えた頃、時間はまだ宵闇が落ちるには間があった。
 帰ってしまう。
 アムロは、ジープからジム改を睨んでいた。
 横で見ているキースははらはらし通しだった。アムロのぴりぴりとした苛立ちが、キースにも十分に伝えられてしまっている。
「調整、終わりました」
「…………ああ。テストを終了する。ウラキ少尉、そのまま帰還せよ。データのバックアップを取った後、機体の状態チェック。結果を僕と整備長へ提出。データは僕の方へ。それで任務完了だ。……お疲れ様、キース少尉。戻る。運転を頼む」
「了解です」
「…………ウラキ少尉?」
 命令に、返答がない。
「コウ?」
 通信に異常でもあるのかとキースは機械のボタンを押してみた。しかし、正常に動いている筈だ。
「コウ、返事は?」
「ウラキ少尉。聞こえているなら返事を」
 返ってこない。
 アムロは溜息を吐いた。
「……キース少尉、ウラキ少尉を引き摺り出してくれ」
「……やってみます」
 ジープを降りるキースとは裏腹に、アムロは座席へ深く身を沈める。
 昼休みから以後、怒らせているのだろうと思った。
 つい、意図的に、それも露骨に避けてしまったのだ。気に障ったのだろう。
 何も知らない、何も分からない、そんな人間に心の奥底を浚われた気がして、アムロはコウを避けてしまっていた。
 何処までも鈍なくせをして、コウはアムロが誰にも知られたくない部分を簡単にこじ開けてしまった。
 せっかく友達だと言ってくれたのに。
 そう言ってくれたからこそ、どうすればいいのか分からなくなってしまったのだ。
 「友達」というものの、心の距離感がアムロには分からなかった。

「コウ、いい加減にしろよ。上官の命令だぞ」
 ジム改は直立している。よじ登る手段はここにはない。キースは下から怒鳴った。
 ややあって、ハッチが開く。
「……キース、僕は、まだ帰りたくない」
 顔を覗かせたコウは、地面にいるキースを睨んだ。
「馬鹿言うなよ。大尉がもう終わりだって」
「このままでいいもんか。アムロは……乗りたいんだぞ?」
「だからって、俺達に何が出来るんだ!」
「もっと、ちゃんと友達にならなきゃいけないんだ。ちゃんと」
「ちゃんと、って……お前なぁ……あの人は、大尉で、あのアムロ・レイなんだぞ? たったの二日で、もう十分親しくなったじゃないか、それを、これ以上なんて……もっと時間を掛けないと、無理だよ。そんなにいきなり踏み込んだって、受け入れてくれるわけない」
「……キース、だから、それじゃ駄目なんだよ。だけど……戻ったら、ちゃんと話なんて出来ないんだ。だからっ」
 手が地面まで下げられる。
「アムロに来て欲しいって。コックピットの中で、また話そうって、そう……」
「…………お前さぁ……何考えてる」
「キース、ごめん。…………キースには、戦い続けている相手っているか?」
「…………居ないな」
「だから、僕とアムロで話をしなきゃいけないんだよ。ごめん……キース」
 キースは大きく溜息を吐いた。
 みんな、どうしようもないバカだ。自分も含めて。
 ジープの窓から顔を突っ込む。

「大尉。ウラキ少尉が、コックピットまで来て欲しいと」
「…………どうして」
「さぁ。俺じゃあ駄目みたいです」
「トラブル?」
「……さぁ…………」
 肩を竦める。
 アムロは溜息を吐いた。コウは、何処か妙なところで勘がいい。
「…………厭だ、と言ったら、基地まで帰ってくれないんだろうな」
「多分」
「…………分かった」
 ジープから降りる。
 いきなりの外は暑く、アムロは一瞬蹌踉めいた。
「っあ、大尉!」
 手を伸ばすが、アムロが立て直す方が早い。
「……大丈夫だ。…………なぁ、キース、友達、って何なんだろう?」
「へ?」
 キースは実に珍妙な表情になった。
 本当に難しい問題だ。
 アムロは軽く肩を竦め、ズボンのポケットに手を突っ込む。
「……いや……忘れて。キース少尉、ジープの中で待機していてくれ。出来れば……通信は全て切っていて欲しい。ジム改とも」
 軽い足取りでジム改の手に乗る。
 見届けて手が上がり、コックピットに隣接した。

「ウラキ少尉、何か」
「来て。中に」
 身を乗り出し、アムロの腕を掴もうとする。
 アムロは避け、コウは落ちかけた。咄嗟にアムロが支えて事なきを得る。こういった時重力というものは殊更鬱陶しい。
 眉を顰めながらも、アムロは平静を装う。
 コウが何を言いたいのか、何となく分かっていた。
「もうテストは終わった。後の調整は、格納庫でやる。戻れない程の傷みは出ていない筈だ。それで? まだ何かあるというのか」
「ある。機体にではなくて、僕と、アムロに」
「…………君達はこのテストの終了と同時にオークリー基地へ戻る。今日限りだよ。きっと、もう二度と会う事も出来ないだろう」
「そんな事言うな! せっかく友達になれたのに」
「……友達って、何なんだ? 僕には…………分からない」
「頭で考える様な存在じゃない!」
 コウはそれでも強引にアムロをコックピットへと引き込んだ。
 どのみち、掌の他に逃げ場はない。
 身体を使うことでは、アムロよりコウの方が数段長けていた。
「捕まえたっ!」
「くっ、そ……離せっ!」
「厭だっ」
 アムロをコックピットに放り、押し込めるとハッチを閉じる。パスを掛けてロックする。
 アムロは解除を試みてコンソールを叩くが解けない。
 マスターコードを入れる為にポケコンを取り出すが、コウはそれを叩き落とした。

 アムロは、もの凄い目でコウを睨んだ。

 コウがNTだったなら、身動きが取れなくなっていたかもしれない。
 ただ、その目のきつさに一瞬怯みはしたものの、同じ程に頭に血の昇っているコウには、大した衝撃でもなかった。
「いい加減にしろっ!」
「いい加減にするのはアムロの方だ! この意地っ張り!」
「僕の中に土足で踏み込むな!」
 コックピット内は喧嘩には向いていない。
 お互いに掴みかかろうとするが、何もかもが邪魔で狭かった。
 更には重力下なので余計に自由も効かない。
「営倉にぶち込まれたいのかっ!?」
「好きにしろよ、「大尉」!」
 あからさまに揶揄いが分かる。アムロは、思わず帯びていた拳銃に手を掛けた。
 冷たい感触にはっとする。
 その隙をつかれて、手首を取られ捻られた。
「くぅ……っ……」
 しかし、それでも折れるアムロではない。
 自由になる方の手をコンソールに伸ばして、通信を入れる。
 その瞬間に引き寄せられ、スイッチが一つだけ入る。
「ちぃっ」
 半端にジープとの通信のみが繋がった。
『どうした?』
「キース、先に戻ってろ!」
『何言ってんだ、コウ?』
「キース少尉、通信を基地へ回せっ!」
『大尉まで! 何やってんです?』
 こんな争い、基地へ回せる筈などない。
 キースには、声を聞く限り喧嘩にしか思えなかった。
 何処か暢気なキースに苛立ち、コウはアムロを片手で捻じ伏せて、通信を切る。
 コンソールパネルに顔を押しつけられ、アムロは苦痛に呻いた。

「…………だからっ…………厭なんだ…………っ…………」
 どうせこうなるのだ。
 人と親しくしようとしても、どうすればいいのか分からない。
 NTだなどと言っても、この程度のものなのだ。
「離せっ…………離してくれ……」
「アムロが暴れないなら」
「…………君に力で敵わないのは分かってる」
 アムロは目だけで無理に後ろを見ながら、コウを睨んだ。
 手の大きさでさえ一回り以上違う。身体を使った抵抗の無駄は良く悟った。
 そっと手が離される。
 アムロはコウを振り解き、シートの後ろまで逃げる。
 手負いの、けれども、やはり猫の様だった。毛を逆立てている様に見える。
「……僕に……執着するな……」
「執着じゃないよ。心配してるんだ」
「同じ事だ。余計なんだよ」
「友達を心配するのの、何が悪いんだよ」
「そんなもの、必要ない!…………っ……」
 叫ぶ。
 アムロは堪えきれない衝動のまま、声を上げた。
 しかし、すぐに自分の発した言葉の意味が頭に入り、息を飲む。
 見る間に瞳が潤んだが、涙は溢れなかった。

「……嘘つき」
 友の存在を、普通の生活を羨んでいた。
「嘘なんか……っ……」
 アムロは何にも持っていなかった。
 身を守るものすら、帯びた拳銃一つ。それも、一年戦争の頃に流行った旧式のものだけ。
 コウは慣れない溜息を吐く。
「僕は自分が鈍感なのは知ってる。NTとかそんなのも関係なくて、普通の人より鈍いところがあるって、分かってる。だけど、それでも、今のアムロよりはマシだ」
 頭はお互いに悪くはない筈だ。
 なのに、全て遠回りするしかないらしい。何も持っていなくて、何も分かっていない、この同輩の大尉の為には。
「NTの力なんて、大したものじゃないじゃないか。自分の事も分からないなら、そんなの、意味がない。他人と他人の距離が分かったところで、何の意味があるって言うんだ」
「それを誰が分かってくれるって言うんだよ!」
 身を引き裂かれる様な錯覚に陥る。
 コウはぎゅっとハッチの扉に後ろ手を回し、アムロに立ち位置を奪われない様に姿勢を固めた。
「……アムロならさ、分かってくれるんじゃないかって思ったんだ。戦いの昂揚感やその後の静けさ。それから……虚しさ。決着の着かなかった気持ちの悪さとか、やるせなさとか……」
「……分からなくはない。だけど……買い被られても困る」
 この声音をどう表現すればいいのか、コウにも分かる。
 悲痛、だ。
 今逃してはいけない。
「…………全部が分かるなんて言わない。僕は、だから……そういうの凄く鈍感で。だけど、逃げもしない。僕にはNT理論なんて小難しい感覚論は性に合わないから、こうして会って話してるアムロの事しか分からないし分からなくていいんだ。それで、僕はアムロと友達になりたいと思ったし、もう友達だって思ってる。その友達が僕にも分かるくらい困ってて、辛そうにしてるのにほっとけないよ」
「要らないって言ってる!」
 アムロは、ゆっくりと拳銃を抜いた。
 安全装置を外し、コウに向ける。
 コウは慌てなかった。

「そこを退け、ウラキ少尉」
「厭だ。アムロは軍人じゃない。僕を撃てる?」
「撃てるさ。生身の撃ち合いだって、した事がない訳じゃない」
 トリガーに指をかける。
「外さないよ、僕」
「だろうなぁ……。だけど、友達を撃ったことはないよな?」
 コウはいつでも真っ直ぐにものを見る。
 視線が辛い。アムロはトリガーに掛けた指が震えるのを感じていた。
 ジムを傷つけず、且つコウに重傷を負わせない様に発砲する事は出来る。それだけの自信はあった。
 だが、何故か銃身がぶれる。
 アムロは舌打ちをした。
「アムロ、何で、そんなに何もかもを難しく考えるんだよ。友達になったんだから、後はメールアドレスでも交換して、じゃあまた後で、って言えばいいだけなのに」
「メールだって検閲される」
「気分は良くないけど、他愛のない世間話までいちいち禁止したりはしないさ」
 銃を収めはしないが、確かに撃てそうにはなかった。
 アムロは顔を歪める。
「……コウは分かってない。あいつらが恐れているのは、僕が誰かと親しくなる事自体だ。僕自身が機密なんだ。僕一人が何を叫んだところで揉み消されるのは確実だけど、でも……アムロ・レイの名前は、僕にももう背負いきれないくらい大きくて、その大きさを軍は恐れている。…………僕が何を言ったところでどうなる? 人体実験をされました。廃人寸前まで薬と暴力とレイプと…………そんなこと、言ったところでどうなる! だけど、ほんの少しのきっかけでもあいつらは恐れてるんだ!」
 ヒステリックなアムロの言葉にぎょっとする。
 何をされてきたのか、具体的なことなど考えてもなかった。

「……アムロ…………そこまで、されたのか?」
「…………僕は、彼らが握っている、一番顕著なNTだからな。無理に薬を打たれて、いろいろな実験に付き合わされた。反応を見るだとか、何だとか……僕のデータを元に更に投薬された他の人達の方が、もっと酷い目に遭っていた様だけどな。それでも、頭の中に電極を埋められたり、電流を流されたり……脳波だって、計るだけじゃなくて増幅装置の様なものに繋がれたりもした。こっちの体調なんてお構いなしでさ。死ななきゃいい、って、そんな扱いで…………僕はこの通りの性格だから、生粋の軍人って奴には気に入らないって息巻く奴もいて暴力も堪えなかったし……その……レイプ事件もないじゃない。これだけ人間が集まってれば、特殊な趣味のヤツもいたから。そんな事を、例えば、今僕がコウに話してしまった事が知られたとして、それがジャーナリストの手にでも渡ったらどうなる。僕だけじゃない。コウも、そのジャーナリストも、みんな消されるんだ。現状の軍って言うのは、そういう存在だ。そのジャーナリストが死の前に一部に公表したとする。アングラの雑誌にでも載る。反連邦の団体が勢いづく……全部、連鎖するんだ。僕は、自分がそんなものの輪の中心にいるのだって、厭なんだよ。こんなままで死ぬのは厭だ。僕はまだ何も償えちゃいない。だから……友達なんて要らない。必要ない。君も……今の話は忘れるんだ。ここに来た事も忘れて、さっさと戻れ…………」
 話していれば、頭の中の整理がついてくる。アムロは銃を収めた。
 コウを撃って済む問題ではない。
「親しい人を作るわけにはいかないんだ。これ以上。君に監視がついているなら尚更。ただでさえ、僕との接触は警戒されているってのに。一泊して、こんなメンツでテストなんかに出て……もう僕がこれに乗って動かした事はばれてる筈だ。僕達は、もうこれで精一杯だよ。これ以上僕に望むな。お互い戻れなくなるだけだ」
 銃にはまだ手だけ掛けられている。
 コウの目には、アムロがそれを愛おしげに撫でている様に見えた。
 手入れは行き届いているが、古い銃。
 それを見てコウも自身の懐に手を当てて銃の形を確かめる。
 コウもまた、まだ想いの残る銃を携えていた。同じだ。

「…………その銃、古いな」
「一年戦争の終わりに持っていたものだ。シャアと撃ち合った」
「…………赤い彗星と」
「………………あの時、あいつについていく事が出来ていたら……もう少しマシだったのかも知れない」
「あの時?」
「ア・バオア・クーで…………同志になれ、って。馬鹿なヤツだった。今まで撃ち合った人間にそんなこと言って。僕のことを野放しに出来ないなんてさ。あいつの方がよっぽど危険人物なのに」
「赤い彗星なら、アムロの友達になれたか?」
 アムロは銃に手を沿わせてしげしげと見詰めた。
 この銃の様な男だったと思う。
 冷たくて、熱くて、少し古くて。厳めしいのに、何処か手に馴染む。
 だが、こんな武器の様な友人を持つつもりはない。
「無理だ。そんなの。あいつが求めるのは、そういうものじゃないから」
 シャアが求めていたのは友人などではない。恐らく、口から出てきた言葉通りでさえなかっただろう。
 ララァがアムロのものになったと思っているのだ、あの男は。
 だから、ララァを手放したくないから自分を誘った。あの時にはそう感じ、そしてそれを拒絶したのだ。
「コウだって、ソロモンの悪夢とは友人になんてなれなかっただろう?」
 昨日の話を思い出してそう言う。
 ガトーの名を聞いて、一瞬コウの目に再度の炎気が走った。
「……それは、ごめんだな、確かに」
「そういう関係だよ。要するに。……あんな時にあんな形で出会わなくて、ララァも死ななかったら……分からないけど、でも、もう過ぎてしまった。取り戻せなんてしないんだ」

「アムロ、友達は? 一人くらい、」
「いないよ。そんなの。今に始まった事じゃない」
 フラウが繁く世話を焼いていてくれた他、ホワイトベース以外でそう大した人と触れ合ったこともない。
 フラウでさえ友達だという認識ではなかった。悪い子ではなかったし、大好きだったが、少なくともアムロの認識では友と言うものとは違う。
 ホワイトベースにいた人達は最早友ではないのだ。仲間であり、同志であり……家族だった。
 だからこそ、余計にアムロには「友」というものが分からない。
「僕は、何? 午前中には、友達だって思ってくれた」
「思い過ごしだった」
「人の関係なんてそんなものだ。思い過ごし、思い違い、それで作られていくんだ」
「そんな曖昧なもの」
「だから、辛くなるんだよ。…………曖昧で置いて於いた方がいいことなんて、幾らでもある」
 こんな真っ直ぐで熱い男がそれを言うのがとてつもなく不思議で、アムロは訝しげにコウを窺った。
「友達でも、彼女でも……知らなかった方が良かったことだって、あるんだ。だけど、それでも人とは付き合っていける。感覚に任せるしかないのかな、って思うんだ。そういうの。僕は鈍いけど、それでも何も感じないわけじゃない。何も考えてないわけでもない。……アムロは、僕の友達だ。平時に出会えて、誰もその為には死んでない。僕達が戦う様な理由だってない。だったら、なれるよ」
 真っ直ぐで力強い。
 コウの思念は、アムロにとって不可思議で仕方がなかった。
 知らなかった方が良かったことを知ってしまっても、それでも揺るぎなくいられるその強さが、アムロには理解できない。

「……コウは……強いんだな…………」
 それだけを言うのがやっとで、アムロは薄い胸を喘がせた。息が詰まる。
「弱いことだけは、たくさん知った。だから、強くなりたいんだ。アムロみたいに」
「僕から見れば、コウは十分に強いよ。僕には、そんな強さなんてない。……強さって言うのは、別に、どれだけMSを上手く操れるかとか、そういうことじゃないだろう? 僕には腕力なんてない。気力もない。人を信じることも出来なければ、頼ることも出来ない。…………僕は、弱いんだよ」
 コウにも、アムロの言うことはよく分からなかった。
 アムロが強いのは周知の事実だ。だからこそ、まだ幼いとさえ言える歳でも戦争を勝ち抜けた筈だ。
 その自覚もなく、自身を弱いというのが不思議で仕方がない。
 眉を寄せて困った様にアムロを見る。
 もう怒鳴る程の気力もないらしく、アムロはシートに縋る様にして俯いていた。
 確かに、あまりに力のない……弱々しくさえある様な姿だった。
「アムロが強くないなら……僕なんて、何なんだ」
「コウは、強い。強いって言うのは、想いのことに他ならない。強い想いがあれば、負けないよ」
「負けないんじゃ駄目なんだ。勝たなくちゃ!」
 もう勝てないのだ。生きてる間につく決着なら、つけなくてはいけない。
 勝ちたい。ただそれだけがコウの望みだった。二度と叶うことのない願いが身を引き裂く様だ。
 アムロは微かに顔を上げ、唇を引き結んでいるコウを窺う。
 そして、ほんの少し目を眇めた。
「…………もう二度と勝てない相手にでも向かっていく、その事だけでも、十分に……本当に、強いことなんだ。コウ。僕は、基本的にはただ負けなければそれで良くて、それ以上のことは望まなくて……ただ一度、勝ちたいって思った人はいたけど、その人に勝ってしまってからはやっぱり同じで……まあ、今だから分かるんだろうけど。あの頃はまだ子供で、勝つことと負けないこと、負けることと勝てないことの区別なんてついてなかったから。……僕は、そして、負けたんだよ。今なら分かる。負けたんだ、僕は。相手を倒したからって、勝てるんじゃないんだ。……この様は、どう見たって負け犬だものな」
「僕だって……少し前には、分からなかった。僕は生きているから負けてない。ガトーは死んでしまったから勝ってない。だけど……僕は勝ってないし、ガトーだって、負けたから死んだんじゃない。いや、僕には負けてないけど、きっと、何かには負けたから死んでしまったんだろうけど……だけど……僕は、勝ってない。ただの一度も! だから、僕だって……負けてるんだ。負け続けてるんだ。だから、勝ちたい」
「それだよ、コウ。僕には、それが分からないんだ。だから、僕は弱い」

 迷い、戸惑い、それでも貫き通せるだけのもの。
 今のアムロにはそんなものなどありはしない。
 シートに縋りながら、アムロは膝を付いた。
 頭痛がして、気分が悪い。
 こんな話などしたくないのだ。もっと……そう、昨日ホースで水を掛け合ったときの様に、あの様にしたいのだ。
 しかし、アムロにはどうすればいいのか分からなかった。
 重い話は厭だ。現状をどれだけ愚痴ったところで、よしんば、叫んだところで、何が解決されるわけでもないのだ。
 勝つだの負けるだの……。
 シャアには負けなかった。もう、アムロにはそれだけで十分だった。二度と戦いたいとは思わない。シャアと戦えば、また大切なものを失う、その予感がある。
 勝ちたい思いもないのに戦い続けられる程、アムロは好戦的に出来ていない。また、政治にも、軍事にも、興味がなかった。
 戦い続けられること、軍にいる理由を持ち続けられること、アムロのコウに対する羨望の理由は、そこにあった。
 学校へはたいして通っていなくとも、アムロの頭の回転は悪くない。
 コウと話していれば、自分より更に混乱した様なその言葉に、自身の頭の中は何処となく整理されていく様だった。

「……………………ちょっとすっきりした」
 アムロはゆっくり立ち上がる。
 自分のコウに対する苛立ちの意味が分かっただけでも、かなり頭痛が引いていた。
「本当に……厭になるな。戦争が終わってまで……僕は何で軍なんかにいるんだろう」
 親指の爪を噛む。
 そうだ。この癖を注意してくれる人も、もう側にはいないというのに。
「僕と出会う為、とか…………ちょっと恥ずかしいか。うーん……」
「何だよ、それ」
 アムロは漸く表情を僅かに緩めた。
 コウはまだ一生懸命にアムロへの答えを探している。
「アムロの責任感が強いから、とか……」
「そうでもないよ。そんなの。責任なんて、出来れば取りたくないに決まってる」
「そんなの誰だってそうだ。そこで逃げてしまうか、それとも、厭でも踏み止まれるかで変わるんだよ。……うん。そうだよ。やっぱり、僕達が友達になる為にアムロはここにいたんだ。じゃないと絶対会えなかったんだから」
 子供、だ。
 こんなに率直な物言いは、大人なら出来ない。
 アムロは困惑しながらも苦笑した。
「どうして、そんなに僕と友達になりたがる。一年戦争の英雄の実態は、もう十分に見ただろう?」
「そんなの関係ない。アムロが僕と同い年だって言うのは、よく分かった気がするけど」
「じゃあ、物珍しいNTだからか?」
「そんなの、僕には分からない。アムロが僕とどう違うのかとかも分からないし……何か違うのか? NTって、何?」
「分かるかよ、僕に」
 シートを軽く蹴る。
「……そういう風に……頭で考えて説明することじゃないって言うのか」
「そりゃあ、そうだと思うよ。例えば、キースと友達でいる理由なんて、特にない。一緒にいて気が楽だったり、楽しかったり、そういうだけで、今アムロが求めてる様な答えなんてない。……そもそも、どうやって友達になったかなんて覚えてない。何となく、気がついたら、一緒にいる様になって、仲良くなって。そんなものだ」
「でも、僕達にはそんな時間なんてない」

「あるさ!」
 コウは叫ぶなり身を屈め、シートの下のボックスからなにやら取り出した。
 紙とペンだ。
 筆記用具は、遺書に使う為に積んである。
 コウは、それに大きく書き殴った。
「これ、僕のメルアド。持ってて。このアドレスは、検閲は一番最後だろうから」
 アムロに押しつけた弾みで紙が皺になる。
 広げて、アムロは泣きそうに眉を顰める。
 アカウントからして、wEBメールの様だった。
「繋ぐ手はあるだろ?」
「……………………ああ……」
 手に力が籠もり、紙が余計に握り潰される。
 遺書の為の用紙だなどと、なんとそれらしいものだろう。
 アムロは、漸くはっきりと、笑った。
「……手は、なくもないな。ドライブくらいは許されているから。コウ達より僕は休暇が多いし。メールは送れないかも知れないけど。例えばルートを真っ直ぐ何処までも走ったりさ……そんな看板の陰で少し休むくらい誰か咎めるかな」
「ああ、それはいい」
「いつかの為に、取り敢えずこれは受け取っておく。……僕だって、あと何十年もこのままでいるとは思ってないから」
「うん。持ってて。紙って、案外データより丈夫かも知れない。特に僕達みたいな状態だと。……それで、さ。良ければアムロのも教えてくれないか?」
「ああ」
 向けられた紙に、さらさらと自分のアドレスを記す。
 遺書に署名する様に。
 その事に、アムロは満足していた。
 軍に預ける遺書に何の意味があるだろう。自分には、もう、家族なんていない。
 ならこうして無理に自分の友人になろうとしてくれる男にそれを預けるのもいいかもしれない。
 コウなら大切に保管してくれるだろう。
 どちらかが、潰えるまで。

「定期的に見られるかどうかは分からないけど……君よりずっと厳しく検閲されてもいいなら送ってくれ。君の彼女のことだとか、家族のことだとか、そういうものでも」
「分かった。下らないことでも送るよ。基地の行事とか、馬鹿なパーティーとか。キースの彼女とか」
「いいね。そういうの」
 アドレスの下に、自分の名前と今日の日付を記す。そして、小さく畳んでコウの手に握らせた。

「持っていてくれ。これを。……遺書みたいに」
「遺書みたいに?」
「そうだ。僕が、死ぬまで」

 コウの胸を軽く小突く。
「凄いな、それは。じゃあ、アムロも、僕のを……遺書みたいに」
 アムロの手から一度紙を取り返し、コウも自分の名と日付を記す。

「ホントに凄い。こんなこと、キースともしたことない」
「僕だって、他の誰とも。前に書いた遺書なんて、ブライトに預けたままホワイトベースと一緒に沈んだ。これは二通目だ」
 これしきの悪戯、許されてもいいだろう。
 アムロは声を上げて笑った。
「僕はメールでドライブの報告をコウにする。オークリーの近くとか、わざとに通ったりして。側のルートの看板とか、写真に撮って」
「僕も、たまに散歩に出る。それをメールで、アムロに教えてやるよ。どんな風にコロニーが突き刺さってるのかとか、そういうのを。それで、一番近い町の、道路標識とか写真に撮って、送る」
「ああ……そうだな」
 コウはアムから渡された紙を大切に腰のポーチへ仕舞った。アムロも紙を、羽織っていたジャケットの内側にあるファスナーのついたポケットへと仕舞う。
 見届けて、コウはハッチを開けた。
「今晩も、泊まっていいかな? ああ、酒盛りは、ナシで」
「……言い訳を考えるのが大変だ」
「修正データで、リサンプリングするとか、なんとか」
 コウはシートに座った。
「……そうだな。何か捻りだしてみるさ」
 アムロは軽くフレームに手を掛け、ひらり、ジム改の掌に移る。
「アムロ大尉、下ろします!」
「ゆっくり頼むよ、ウラキ少尉」

 地面に降りると、キースはジープの中でうたた寝をしていた。
 長く待たせてしまったからだろう。蚊帳の外に置かれたキースはさぞ面白くなかったに違いない。
「キース……ごめん」
 隣に乗り込み、軽く身体を揺する。
「ん……ぅん……ぁ…………ああ、アムロ大尉!」
 微睡んでいただけだ。目は直ぐに覚める。
「ごめん」
「話は終わりました?」
「ああ…………コウはもう一晩泊まっていきたいって。キースは、どうする?」
「俺一人で戻るってのもなぁ……俺も、いいですか?」
「いいよ。一人も二人も一緒だ。だけど、コウのご要望により、酒盛りは却下」
 キースは軽く肩を竦めた。
 自分もつくづく懲りている。
「それで、仲直りは?」
「……出来た、と思うよ。多分」
 キースともしたことがないなら、この交換した紙はコウとアムロ、二人の内緒だ。
 アムロはにやりと笑うだけに留めた。
 キースはもう一度肩を竦める。
 二人の間に何かがあったのは分かった。それが、悪くないことであったのも。
 キースは、そういうことをより深く考えようとは思わない質だった。
 いいことがあったなら、それでいい。
「そっか。じゃあ……」
「……ああ。キース少尉、ジム改と通信回線を開け」
「了解!」
 向こうからの通信はとっくに回復している。スイッチを入れると、微かなノイズの後、コウの声が聞こえた。
『通信回復。聞こえますか?』
「ウラキ少尉、戻れるな?」
『はい! 戻ったら、データのバックアップを取った後、機体の状態チェック。結果をアムロ大尉と整備長へ提出。それから、データを大尉へお渡しします』
「良く覚えてたな。……基地へ戻る。ウラキ少尉、先行しろ」
『了解です!』

 コウからデータを受け取り、理由を捏ねてシャイアンとオークリーの両基地へと提出する。
 オークリーの方も、それなりにまったりとした空気になっているらしく、殆ど素通り状態だった。
 シャイアンが問題だとアムロは覚悟していたが、それも、何とかなった。
 残っているうちで、申請書に判を搗く権利を持っているのはアムロの監視に付いている輩が中心だ。
 それでも、アムロがこうまで他人に興味を示した事例が少なかった為、監視つきながら許されることになったらしい。
 NTが人との関係に深く関わるらしいという研究が成されている。その為のデータ採集だと位置づけられたようだった。
「ま、いいか。僕が言葉に気をつければいいだけだ。確かに、今夜は酒宴には向かない」
 思惑などどうでもいい。ただ三人でいられる部屋に籠もり、ただの友人になる。
 コーラにケーキ。フライドポテト。チョコレート菓子にキャンデー。
 そんな子供じみた支度でも、三人には十分だった。
 酒で口が滑ったのではたまらない。それはコウやキースも弁えていたし、今の自分達に必要なものが大人の道具である酒や煙草などではないことも、よく分かっていた。

「しっかし……なぁ、どうやってそこまで仲良くなったんだよ。ちょっと気持ち悪いぜ」
 顔を寄せてくすくす笑うコウとアムロを眺めて、キースはひょいと片眉を上げる。
「秘密!」
 コウは楽しげに宣言した。
 アムロにはそれが何故か申し訳なく思えて首を竦め、キースの様子を伺う。
 キースはアムロを気にした素振りもなく、手を頭の後ろで組んだ。
「ちぇっ。ずるいな」
「じゃあ、キースもアムロと秘密を作ればいい!」
「えー?……うーん……ヒミツ……なぁ……」
 根本的な解決になっているのか分かりもしない。
 コウの言い分にアムロは面喰らったが、キースはキシシと笑った。
「そうだなぁ……じゃあ……」
 アムロの耳元に顔を寄せ、口元を手で隠す。何かを囁く素振りを見せる。
 コウは辛抱強く見ていた。
 その様子が次第に焦れを隠せなくなるまで、キースはアムロから離れなかった。

「何? 何言ってたんだ?」
 好奇心と……少しの嫉妬の混じった風にアムロに尋ねる。キースに聞いたところで答えないだろう。
 アムロは大きな目をぱちぱちと瞬かせて困惑していた。
「秘密! だよな、アムロ」
 キースが片目を瞑ってみせる。
 それを見て、アムロにも漸くどうすればいいのか分かった。
 満面に笑みが浮かぶ。

「秘密!」

 何もない。
 何もないから、誰にも奪われない。
 アムロは本当に久しぶりに、心から笑うことが出来た気がした。

 忍び寄る軍靴の幻聴を聞きながらも、アムロはただこの瞬間の永続を祈る。

 アムロの予感は外れない。
 これから後、再びコウとキースに会うまでそれなりの時間を要することになるという感覚は、今のアムロには考えたくもないことだった。


作  蒼下 綸

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