フォークダンスで口説いて 3/9
名古屋の服飾系の専門学校に進み、そのまま就職した後、暫く地元に戻るつもりは無かった。 そんなある日、母の勤めているブティックの店長が名古屋に電話をしてきた。母が妙な咳をしているのだ、と言う。幾ら病院に行くように薦めても聞いてくれない、と泣きつかれて驚き、慌てて帰宅した。そして渋る母を説得し、総合病院で精密検査を受けさせた。 結果は癌に近い症状だが、影が消える可能性もあると言われた。結局、経過観察となったのだが、禁煙は勿論、食事のバランスの悪さの方が深刻だと指摘された。 それを聞いた時、そろそろ潮時なのかもしれない、と思い、地元への帰省を決めた。 父の趣味が料理だった為、秋野家の食事は全て彼が担当だった。自分も興味があり、基本的な家事は、ほんの小さな頃から教わっている。お陰で高校に入る頃には、ある程度の事は一通り、こなせるようになっていた。 それに気を良くした母は、ほとんど料理をしなかった。掃除と洗濯は嫌いではないらしいし、料理も、やれば上手かった。だから自分がいなくなっても、ある程度はやるだろう、と油断をしていたのだ。 父が倒れた時に自分は頼りない学生だったし、結局、母一人にかなりの負担をかけてしまった。孫の顔を見せられない以上、自分の出来る孝行があるのなら、それは母の介護と、死に水を取るくらいの事だ。 長らく付き合った恋人のような煙草との縁切りを嫌がる母を、説得するのは気がひけた。しかしこればかりは仕方がない。 自分の帰省の決意を聞いた途端、禁煙も食事も、きちんとするから帰らなくていい、と母は言った。しかし、既に辞表も出して受理されたから、と事後承諾で告げた。 文句を言いながらも、母の声は明らかに何処かホッとしていた。それを聞いて、これでよかったのだ、と実感した。 仕事については、出来れば生涯を一販売員で終えたい、と考えていた。店を持つ気はない。雇われの立場が好きだし、心地良かった。 販売員の給料の基礎部分は、多少の地域差はあっても、相場がある。あとは歩合分さえ頑張って伸ばせば、ある程度は稼げる。 身内もほとんどが県外や海外に分散していて、近くにはいない。ならば、万が一の事態に備え、せめて母の側にいようと思ったのだ。 そこまで詳しくは清田に告げる気はない。母の不調が小康状態なのも事実だし、潮時だったと言う程度を伝えるだけで充分だろう。 回想を止めて、秋野はおかわりの入ったポットから珈琲を注ぎ足した。再びふわり、と芳醇なアロマが空気を支配する。 清田を見やれば、彼もおかわりを注ぎ、美味しそうに飲みながら、メニューを熱心に覗き込んでいる。それを見て何だかホッとする。 お互いそれなりに重い話題を交わし、考える事も複雑な筈なのに、目の前の珈琲にも気が向いている。 まるで玩具に集中する子供のような他愛のなさだ。しかし、それでいいのかもしれない。それにこういう空気を共有出来る相手は、貴重だとも感じる。 今後彼が友人になるのか、知人で済むのか……それ以上については、当然、相手の気持ちがまず最優先だ。自分自身は、かなりグラついていると言うのが現状なのだが。 恋人の条件から外していた既婚者と言うのは消えた。残りの除外項目である、客やノンケだからと言うのも、実は、根拠が余りはっきりとしたものではない。 後者二つは面倒だから、とそれだけで決め付けていた節もある。しかし、相手によればそれらのリスクも併せ呑む事が出来るのかもしれない。でもそれは随分とご都合主義だし、清田がそんな選択をする事は有り得ないだろう、と、秋野は甘い期待を打ち消した。 ふと正面の清田の顔を見ると、愛らしいものが口元にくっついている。それを見て澱み気味だった秋野の心が、ふわっと綻びた。 「清田。ついてるよ」 彼の唇の左端になぜだか珈琲の小さな玉がくるん、とついている。目には見えないが髭の剃り残しだろうか? 「へ?」 「ふふ、口の端、反対、あー、じっとして」 手の甲で拭こうとするのを軽く手で制止する。秋野は伸ばした親指で珈琲の玉をすっと拭う。ふと流れで触れた清田の唇は、僅かに乾燥しているものの、フワッと柔らかい。 「あ、秋野……」 驚いたような清田の声に、はっ、とする。たった今、妙な期待を打ち消したばかりだと言うのに、このザマだ。やはりどこか弛んでいるとしか思えない。 「ご、ごめんね、清田。おれ、うっかり」 「い、いや」 気持ち悪かったかな、と反省しながら両手を合わせ、再度、ごめん、と謝る。その腕の間から見れば、清田は頬を真っ赤にしている。 「へ? 顔、真っ赤……なんで?」 思わず呆然と事実を口にすれば清田は益々赤面を深め、軽く秋野を睨んでいる。 「あ、わわわ、ごめん。清田、ごめんなさい」 慌てたように謝れば、清田はふうっと太い溜息をついて、水をゴクゴクと飲んだ。 そして気を落ち着けていたらしい彼が、ぼそり、と呟くように言う。 「気持ち悪いってより、どきっとした」 余りに意外な台詞が、咄嗟には信じられない。これではまるで、誘い文句ではないか。 「え、と、どきっと? それって……え?」 止そう、いや止さねばと理性は必死にブレーキを引き絞る。なのに口は止まらない。思わず清田に続きの言葉を促してしまう。 「凄く、その。秋野が色っぽく見えた。こんな、その。急だし、気持ち悪いよな、すまん」 続いた清田の台詞は秋野の筋金入りの筈の、堅固な箍を一気に吹き飛ばした。あまりに素直そのものな、その言葉。しかも無防備な清田の様子に、秋野は、ソワソワと落ち着きの無い気分になってくる。 感情を素直に顔に出す性質の清田は対面では嘘をつけないし、誤魔化しが効かない方だと思う。割と朴訥な所もあるらしい彼に、からかわれているとは、思い難い。 ならば、完全にこれは脈アリなんだろうか? とびきりのご馳走を目の前にして、しかも食べて良さそうな気配があるものならば。試食程度にでも手を出したくなるのは罪なのだろうか? もしくは、少しばかり驚かせて、手を引くのならそれで諦めもつくかもしれない。事故で済ませる事が出来るのなら、それもいい。 秋野は周りの気配を用心深く伺い、そろり、と清田の顔を覗きこむように近づけた。 「気持ち悪くないよ。おれは。ね、清田。キス、してみる?」 危険な賭けだった。わざと、からかっているような顔を装い、悪ふざけだと解らせる様に、ゆっくりと告げる。 なのに、反応は思ったより早く、意外なものだった。頬を清田の大きな掌が触れたと思う間もなく、ついばむようなキスをされる。即答に近い行動に驚き、びくり、と肩を震わせれば、囁くような声で、逃げないでくれ、と請われた。 伏せ気味にした目は、それでも互いの合意を読み取れる。軽く下唇を引っ張るように、清田の唇で挟まれ、思わず条件反射で軽く開いた口の中に、舌がぬくり、と入ってくる。もはや、冗談にしては過ぎるほどの接触と、甘いような珈琲の香るその行為に、思わず目を閉じた。 「ふ、んっ、んぅ!」 激しくなるキスに溺れたい。けれど、駄目だと理性が告げている。そっと身を引こうとするのに、清田はしっかりと顔を抱え込んでしまい、一向に離そうとしない。 音を控えながらも、舐め、啜り、噛んでついばむと言うフルコースの手順をすべて披露される。そのままたっぷり一分近くもの濃く、長く、念の入ったキスを味わう。 「……っ、っ……んっ」 「……秋野……」 水音を抑え、名を微かに囁かれながら、緩慢に繰り広げられるリスキーなキスは、とても丁寧で酷いほどの官能と興奮を呼ぶ。 今まで色々きわどいプレイはこなしてきたと思う。しかし、こんなシチュエーションは、さすがに初めてだった。 軽く上がった息のまま、ようやく身を離せば、自分の唇に残った唾液を清田はそろり、と親指で拭い取る。軽い情事の証拠は、密やかに、彼の唇の中に納められてしまった。 余りに淫靡なその仕草に、秋野は呆然としてしまう。よくぞ下半身が反応しなかったものだ。一分以上に及ぶ濃密なキスは、まるで軽く交わしたセックスの後のような余韻すらも、残している。 「清田、キス凄いね。おれ、こんなになる程のは初めて。ひょっとして男も経験ある?」 彼のキスは上手い、を通りこして凄いとしか表現のしようが無かった。秋野の全身からはクタン、と力が抜けてしまい、普通に座っているのすら難しい。両肘を机につく格好で顔だけを起こして、疑問に感じた事を尋ねれば、ふるふる、と首を横に振られた。 「キスは好きだけど男はお前が初めて。それにお前、昔からなんか、凄い、こう、色気みたいなのあるし。覚えてるかな。中学ん時か。体育祭で、フォークダンスしただろ?」 ああ、と中学三年の体育大会を思い出す。 定例のフォークダンスが開催され、男女共にこれを結構楽しみにしていたものだ。 当時、学年では女子の数が少なくて、一部はあぶれた男同士で踊る羽目となった。そしてたまたま、秋野は清田と踊れる事になった。既にゲイである事は自覚していたし、清田に憧れていた秋野としては嬉しいハプニングだった。 相手が嫌がらないのをいいことに、ちゃっかり手を繋がせて頂いた。振り払われたらどうしよう、と思っていれば、しっかりと握り返してくれた。 女子を相手にするのと変わらず、恥ずかしそうに、少しぎこちなく、たどたどしく踊るのがとても、嬉しかった。 調子づいて得意の軽口でおどけ、しっかり腰まで密着させてリードしたのを記憶している。余りの露骨な密着ぶりに、周りから散々冷やかされたものだ。 赤面してしきりに恥ずかしがっていた清田は、それでも手を振り解いたりはせず、最後まできちんと相手をしてくれた。彼は当時からそんな風に、どこか優しくて、紳士的だった。 「あのときお前、さ。俺じゃなくて自分に冷やかしが行くように気ぃ遣ってくれてたじゃん。それに秋野って、凄くなんつうのかな。今もだけど、俺みたいにムサいんじゃなくて、細くてもスラッとしててさ。肌とか綺麗で色も白くて。何かもうドギマギしまくって。妙に興奮してかなり、ヤバかった」 デパートで会った時も本当はそれを思い出し、一人で馬鹿みたいに意識していた、と告げられる。 その言葉に秋野は、再び呆然としてしまった。余りに衝撃的な言葉がポロポロと出てきて、嬉しい筈なのに、妙にフワフワとして、夢をみているようだ。 「だって清田、あの頃からカッコよくてさ。おれ、憧れてたから嬉しくて。ごめん」 「カッコよくなんかない。半端なだけだよ」 清田は言葉を詰まらせている。そのまま見交わした互いの目は、僅かに潤んでいる。再び腕を伸ばし、身を乗り出してきた清田に、そっと目を閉じようとした時だった。 携帯のバイブ音が鳴り響く。清田のものらしい。電話は中々鳴り止まず、彼は伸ばしかけた腕を降ろして、眉間に皺を寄せている。 「大丈夫? 出た方がいいんじゃない?」 見かねてそう促すと、すまん、と謝り、モニタを確認してから、電話を取っている。 「はい、清田です。はい。え? えぇっ? あー、ああそうですか、あ、今ちょっと……」 そのまま、自分に軽く手を上げながら席を立ち、ちょっと出先なので、と電話口に告げながら、店の外に出て行った。 休みの日も呼び出しがあると言っていたし、仕事だろう。空いた席を見ると寂しいような気がするが、少し、ホッとしてもいる。勢いであんな濃密なキスまで交わしはしたが、絶妙な差し水が入った事にはむしろ、感謝だ。 あのままだと、きっととんでもない、余計な事まで言い出してしまいそうだった。弾みで起きた事故と言う言い訳で、逃げてしまうのなら今が絶好のチャンスだろう。 何となく頬杖をついて、空いた席をぼんやりと眺め、無意識に先ほどのキスを反芻する。 そのまま緩く反応しそうな下半身の衝動を必死に押さえ込む。まずい、とばかりに珈琲と水を立て続けに飲んでも、頭の中はすぐにその余韻で一杯になってしまう。 確かにここ一年、人肌とは縁が無い。清田の掌の感触がまだ顔に、はっきりと残っている。その印象は余りに強烈で甘すぎた。 オカズにしてしまって罪悪感、どころの話ではない。思わぬ期待まで生まれてしまった。 まさか、と思う。でも、あの言葉をなぞっていけば、ひょっとしてどころか、かなり脈ありなんじゃあ、と妙な期待を抱いてしまう。 ふるふる、と頭を振り、お絞りで頬を冷やしてみる。必死で一人百面相をしていれば、トントンと階段を登る足音が響き、清田が席に戻ってきた。 何とか冷静な表情を保たねば、と思うのに胸の高鳴りが中々落ち着かない。それこそ中学生のガキじゃあるまいし、と苦い思いを噛み殺していれば、すまん、と謝られた。 「仕事の呼び出しだった。トラブってるみたいだから行ってくる。折角だったのにすまん」 さっ、とレシートを掴んで立ち上がられたので、待って、と引き止める。しかし清田は聞く耳を持たなかった。 「こないだの返しにしちゃ、随分安いもんで悪いけどな」 そう言いながら早くも出ようとしている。トラブルと言っていたし、急ぐのだろう。思わぬ性急さに慌てながら、秋野も釣られたように慌てて席を立つ。 席に置き忘れられた清田の本を掴んで、レジへと行けば、自分の珈琲豆を渡されていた。それまで会計を済まされたらしい。 「清田、これ忘れ物。えと、豆までごめんね。ありがとう。ご馳走様です」 そう言いながら、本を渡す。するとサンキュ、と軽く笑いながら、本と引き換えに珈琲の缶を渡してくれた。そのままチーフに頼みごとをしている。 「すみません、何かペンを貸してくれませんか?」 何だろう、と首を傾げていれば、清田は財布から出した名刺の裏に何かを書きとめた。そして、ありがとう、とチーフにペンを返している。 店の外に出ると、それを渡された。 「これさ。俺の携帯のメアドとか住所。番号は名刺通りの一本だから。あと、ウチのパソコンのメアドも。その、迷惑じゃなければ、また逢いたい。連絡が欲しい」 はっきりとした声で告げられて、秋野は何と返事をしたら良いか戸惑った。無闇に心臓だけがどぎまぎと高鳴っている。そんな秋野を、じっと見つめていた清田が、左右を素早く見回し、さっと身を屈めざま、秋野の耳元に囁きを残す。 「さっきの続きが、凄くしたくてたまんないのに。残念だ」 「なっ! え、ええっ?」 くしゃっ、と帽子を被らぬ頭を、清田の大きな掌で引っ掻き回された。秋野が、驚きの余り固まっている間に、彼は側を通りがかったタクシーをさっさと捕まえ、颯爽と乗り込んでいく。窓越しに、軽く微笑んで片手を上げるその仕草に思わず釣られ、秋野もそっと手を上げ、走り去る車を見送った。 何であんなに格好いいんだろう。甘い程の余韻をこんなに鮮やかに自分に残して去る男が小憎らしい。なのに、もはやグダグダになってしまった。 店先に突っ立って、走り去る車をじっと目で追ううち、秋野の頬に見る間に血が昇って来る。さっきの清田の、悩ましい誘いの言葉が耳の奥でグルグルと何度も甦る。 ぐっと奥歯を噛み締めて、熱すぎるほどに熱の出た耳たぶを両手で引っ張るようにして冷やしてみる。ふと目の前の三叉路から喫茶店のマスターが、ひょい、と現れた。 「あっ、秋野さん、こんにちは。あれ、何か、お顔、真っ赤になってますよ。最近寒いですしねぇ、お風邪かな? 大丈夫ですか?」 彼の到ってのどかな言葉に少し気分が落ち着いてくる。 「や、いや。珈琲と日差しであったまったんじゃないかな。今日、結構あったかいし。あ、コロンビア凄く美味しかった。また来ますね」 「そうですか? お口に合って良かった。ありがとうございます。来週はマンデリンのいいの入りますよ、是非また来て下さいね!」 マスターの溌剌とした言葉に秋野は微笑で応えると、軽く手を振ってから歩き出した。 まさか清田が、ああも大胆な行動に出るとは思わなかった。しかもあの口調では実際には別居して長いようだが、離婚の成立をしてからは、まだそう日も経過していない筈だ。 優しくしてくれる相手と、興味本位、それに切実に人肌が恋しかったのは自分も一緒だ。 それに誘ったのは自分だが、清田も少し不謹慎でノリが軽いような気もする。こんなに軽く一足飛びに性別の壁を飛び越えられると、正直、戸惑ってしまう。 ゲイだと言ったのが、そして遊び慣れているように振舞って、キスを誘ったりしたのが、裏目に出たのだろうか? でも随分、生真面目な申し込みにも思えて、名刺をひっくり返してみる。綺麗で角っぽく右上がり気味な筆跡を見詰めながら、考える。 どうせキスは交わしてしまった。誘うようなきっかけを作ったのは確かに自分だ。いっそ、もう飛ばしてしまった箍ならば、試してみてもいいか、といささか乱暴でヤケッパチな気分も、ふと胸を過ぎる。 路傍のベンチに腰をかけ、名刺を見ながら携帯にワンギリとメールには珈琲の礼を入れ、秋野は大きく息を吐いて、立ち上がった。浮かれた心に落ち着け、と言い聞かせながら、買い物を済ませて、自宅へと帰宅する。 清田の住所は、自宅のすぐ側の賃貸マンションのものだった。行動の時間帯がずれているせいで、今まで遭遇がなかったのだろう。
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