フォークダンスで口説いて 5/9
きくち 和

 結局、清田の請うような台詞に釣られ、付き合うようになって早くも2ヶ月が経過した。互いに忙しい合間を縫って、寸暇を見つけては、甘過ぎるほどの関係を、続けている。
 ある木曜日、珍しく急遽土曜に休みが取れる事が決まった秋野は、仕事のひけた後で、いそいそと清田に、メールを送った。繁忙期を過ぎたとは言え、販売業で土日、祝祭日の休みを取るのは、矢張り難しい。とは言え、秋野の勤めるブランドは他店に比べると、休暇が取りやすい。
 それに最近雇い始めたバイトがいてくれるので、こうやって土日の休みが突発的に取れる事もある。今日もその突然のご褒美のような休暇に胸が弾むのが解った。
 メールを送って、少し間をあけてから携帯が鳴る。互いの会社の相性なのか、ちょっとばかり時間差がつく事が多いのだ。
「もしもし。お疲れ様」
 もはや交わしなれたいつもの台詞。相手からもああ、お疲れ様と言葉が返ってくる。
『土曜日、本当に悪いけど、仕事がな……。結構難しい相手の苦情処理で、ちょっと前から上に同行しろって言われててさ。多分夕方には帰れると思うんだけど。ごめんな。あ、代休は月曜に取れそうなんだけど』
 開口一番で、そう謝られた。ゆっくりと歩みながら秋野は首を微かに左右に振る。受話器越しにそんな動作が伝わる訳でも無いだろうが、自分の落胆を慰めるような言葉が続く。
『なあ、良かったら帰りに寄れないか? 俺もさっき帰ったとこでさ。カシワのいいの貰ったし冷蔵庫見たら材料あるみたいだから、お前が来るんなら、水炊きしてみようかと思ってんだけど』
 上手く出来るか不安だが、食べに来ないか、と言う誘いは、現金にも気分を上向きにする。
「おっ、そうなんだ。やった、嬉しい、水炊き大好き、行く行く!」
 弾むような声に、清田が電話の向こうで、そうか、と言いながら笑っているのが解る。
『それとさ、もし良かったら泊まれないかな? 俺も仕事だし、明日に差し支えない様にするから。それに月曜は確か、休みだろ?』
 囁くようにして漏らされた、後の台詞にカッと頬が熱くなる。その言葉の奥に潜む、淫靡な行為を思うと身体の奥が妖しく疼く。差し支えない程度と言っておきながら、抱き合えば、セーブが効かない事はしょっちゅうだ。
 清田はタフだった。彼自身が、セックスを覚えたてのガキを通り越して猿みたいだと自分を評し、困惑しているのも解っている。しかし秋野はそれすらも嬉しい。始末に負えないと思うのに、自分が煽ってしまう事すらある程だ。自業自得とは言え、翌日の立ち仕事は、だるい事も多い。
 けれど、それを推してでも逢いたくて堪らない。しょっちゅう逢っては、ベッドはおろか、家中の到る所でくっついている。なのに、飽きるどころか、もっともっとと、貪欲になるばかりだ。清田ばかりが納まりのつかない気分でいる訳では無い。
 結局はお互い様だと、秋野は失笑を隠せない。
「ん、月曜は休み。嬉しい。ありがとう。急いで行くから」
『急がなくていいから。こけるなよ。じゃ、後でな』
 笑いと軽いからかいを含んだ声に、頬の火照るまま、後でね、と告げて通話を切る。前に逢ったのは土曜だから5日ぶりだった。歩幅を広げながら母に今日は外泊をする旨のメールを入れた。 秋野に相手が出来たのを察している筈の母は、特には何も言わない。
 返って来た返信は、いつもの通り。
「はい、お疲れ様。食事はちゃんと済ませましたよ。治武煮、美味しかった。くれぐれも明日には支障が無い様に。オヤスミ」
 彼女は連絡さえきっちりと入れ、仕事さえ支障なく果たせば、文句どころか、詮索すらもしない。その徹底したスタンスは学生時代からで、救われる思いだ。
 足取りも軽く近くのコンビニに入り、軽いアルコールを手土産にする。ビニールをカサカサと言わせながら、秋野は恋人の待つ、通いなれた部屋へと急いだ。
 そして結局、久しぶりに一人での休日を過ごす事になった真冬の土曜日。木曜は予測通り、水炊きの後で結構な展開となってしまい、昨日の勤務は久々にちょっと、口には出せない後遺症の憂き目に悩まされた。
『秋野さん何か運動でもしたんすか? 腰、庇ってますよね』
 店長にそう尋ねられて、夜中に急に思いついた部屋の模様替えという言い逃れを使った。
『へえ。なんか前もそう言ってましたよね。ま、でも俺もよくやりますけどね』
 案外鋭いツッコミを受けてしまい、慌ててしまう。確か以前に一度、同じ事を聞かれた時も、そう言ったっけ、と思い出した。しかし、何に対しても余り頓着しない性格の店長は、当然それ以上の追及もしなかったので、ホッとする。今後は、色々なバリエーションを考えておく必要がありそうだった。
 実のところ、金曜に悩まされたのは、奥の入口の、甘いような疼きと痺れの方だった。少し度を越した翌日にはそうなってしまう。大抵半日もあれば納まるので、今も秋野はテキパキとした動きで掃除機を各部屋にかけていく。
 明日一日を頑張れば、また月曜は休みだ。日曜から泊まりがけで行き、火曜の朝は相手の家から出勤する事も母に告げてある。清田も代休と言っていたので結局はタイミングが合った事になる。
 だらしなく頬を緩めながら、ふと目に付いたカレンダーを見れば早くも1月下旬である。
「あーあ。バレンタインかぁ……」
 深いため息を落としながら、そっと呟くと益々空しい。折角イベント事を楽しめそうな相手がいると言うのに、仕事に忙殺されるというのは、仕方無いが、少しばかり切ない。
 来月早々からバレンタイン当日にかけて、ブランドでは大型フェアを組んでいる。
 秋野は統括本部から、全国13箇所にある、このデパートの支店で、販売指導の支援出張を命ぜられた。名古屋の店もあるので、そこでは一日有給を入れても良い事になっている。久々に友人連中に会えるのは楽しみだ。
 しかし今は他店となった前の職場の元同僚には商売敵としての再会になる。それを思うと心中は結構複雑だ。
 多分、出張の間は、休みらしい休みは無いも同然だし、名古屋以外では結構なハードスケジュールになるのは、確実だ。今回は、入社の時に面接を担当してくれて、今の店の業務指導者である、統括マネージャーのヘルプ役としての同行だった。だから行った先では、さしてバタつく事は無い。しかしまる一ヶ月、清田とロクに逢えないと思うと、かなりやるせない。
 とは言っても矢張り、仕事は最優先だ。秋野は雑念を振り払うように、黙々と掃除に集中した。
 結局、相手が平日勤務だと、このすれ違いが大きなネックになる事が多い。理解をしてくれる相手も、いるにはいるが、稀である。
「仕事と俺とどっちが大事」なんて台詞を何度言わせてしまった事だろう。
 当然仕事だ、と言うのが今までの秋野の回答だったし、今もそれに変わりは無い。働いて収入を得なければ、即、食っていけなくなる。それに矢張り、この仕事は好きなのだ。
 もし清田が長期出張を命ぜられても、諦めるつもりだが、今の部署では、技術研修以外に、そのような可能性はないらしい。その代わり、休日の呼び出しは多い。初デートの喫茶店以降は一度、その呼び出しに遭遇した。しかし仕事の範囲も県内に限られており、工事は即日完了と言うのが大半なので今の部署に居る限りでは転勤は、無いのだそうだ。他部署に移れば、近県への転勤の可能性が出るそうなのだが、ほぼ採用地域を離れないのが社内の通例となっているらしい。
 出張の事を清田に話せば、彼は仕事なら仕方がない、とあっさりしたものだった。
『お前、もともと休みが少ないのに大変だな。ま、でも一ヶ月って長いようで働いてたら案外アッと言う間だし。まあ本音を言うと寂しいけど、頑張れな。あ、メールは今まで通り適当な時間に入れても大丈夫なのか?』
 逆に、気を遣われてしまったのが面映い。
 一日の仕事が終わって携帯を見れば恋人からのメールが入っている。内容は些細でも、これほど嬉しい励みは無いだろう。
 その後に繰り広げられた甘い痴態を思い出しかけて、秋野は頭をブンブンと振った。
「もー、っとに。朝っぱらから色ボケしてる場合かっての。久々に一人でウロウロすんのもいいじゃん、散歩いこ、散歩」
 掃除機を片付けながら自分に言い聞かせると、秋野は久しぶりに、一人での散策に街中へと出かけた。


 曇り空の下でも、街は近づいたバレンタインに合わせ、赤やピンクを中心とした、華やかな雰囲気を醸している。ふと思いついて、勤め先に隣接している、地元では最大規模のホテル内にある喫茶店でランチを摂ろうと自動ドアを潜った。
 ランチに出るバタールがとても美味しいと評判の店なのだ。小売もしてくれるので、朝食用にハーフサイズを一本買って帰ろうか、と思いつつ、ゆっくりとロビーを歩む。
 ゆったりとした一階のラウンジ兼ロビーには外国人客や、華やかに着飾った女性たちが笑いさざめいている。ロビーの向かって左側にある喫茶店に入ろうとした秋野は、店内のあるコーナーに、ふと目を止めた。
 秋野からは彼らの横顔が全て見えるアングルの席に、見覚えのある顔がある。間違いなく清田だった。
(え? あれ? 仕事って言ってなかったっけ? 確か苦情処理……には見えないけど)
 咄嗟に彼からは死角になる場所に座り、ウェイターには紅茶のみを頼む。そのままホテルに入って脱いでいた帽子を目深に被り直し、持っていたサングラスをかける。
 手に携帯を持ち、時々視線をそれに落としながら彼らに見つからぬよう、そっと様子を伺う。
 清田の表情は余り芳しくなく、固い。珍しくむっつりとして見えるのは気のせいだろうか?
 彼を取り囲む周囲を観察すると、年配の男性の横に年配の女性、そして一番奥に清田と言う並びで座っている。
 その向かいに年配の女性が二人。一番奥に、華やかで派手な雰囲気の若い女性が清田と向かい合うようにして座っていた。
 若い女性の隣にいる年配の女性は、彼女に良く似ているから、母親だろう。若い美女は僅かに頬を上気させ、清田を今にも蕩けてしまいそうな眼差しで、見詰めている。
(だよねえ、カッコいいよね。解るよ、俺だって惚れ惚れしちゃうもん。しかしこりゃ、完全にお見合いだよね)
 秋野は、ひっそりと思う。苦情処理とは到底考えられないし、この取り合わせとシチュエーションで、それ以外は有り得ない。
 職場の上司にでも薦められ、断れなかったのだろうか。しかし清田は、自分には仕事だと告げていた。
 まさか見合いだとは言い難いだろうが、嘘はついて欲しくなかった。そう思った途端、キリキリと胃の奥が締め付けられるように感じる。その痛みを加速させるのは、清田の着ている、濃紺のスーツだ。
 年明けにちらっとそれを目にした清田は「あのスーツ、いいな」とは漏らしていた。
 清田以外にも、それに目をつけている客は何人もいた。しかし、スタイルや雰囲気的にも清田が一番似合うのは、間違いなかった。
 秋野は、そのスーツをこっそりと、清田が本当に買うと言い出すまでは、と、取置き扱いでバックヤードに仕舞っていた。よく有る事だし、清田は支払い状況も常に即金で綺麗なので、店長も了解してくれている。
 それに、もし清田が買えなくても、代わりは他に沢山いる。しかし清田は間違いなく買ってくれるだろうと、それは信じていたのだ。
 事実目の前で着ているのだから、買ってくれたに違いは無い。深い濃紺のそれは自分の見立てどおり、酷く良く似合ってもいる。
 見合いの席だと言うのに、チラチラと周囲の女性のみならず男性までもが気がかりそうに振り返って見ているほどなのだ。
 清田の担当は自分だと解っていた店長かバイトが、バックヤードから出して売ってくれたのに違いない。しかしその商品が消えていた事に気付きもしなかった自分の迂闊さが、まず悔しい。
 その時のやりとりがうっすらと脳裏に甦る。


『そりゃ、これ、買ってくれると嬉しいし、清田には凄く良く似合うよ。けど、おれ個人としてはもうちょい、オフにも着回せて遊びのあるタイプの方がお薦めなんだけどな』
 そう言って、もう一方の組み合わせを提案した秋野に、清田は成る程、と頷いていた。
『じゃ、秋野のお薦めの方にしとこうかな』
 清田もそう納得して、その場は裾やウエストの直しを引き受けて、お仕舞いだった。しかし濃紺のものも、相当気になっていたらしいのは解っていたので、後から欲しくなったのかもしれない。
 そう言えばその時の品も、清田が引き取ったかどうかすら、チェックしていないのに気付き、秋野は唇を噛んだ。余りに迂闊だった。そして今、彼は目の前で濃紺のスーツを堂々と着こなしている。
 それが酷く良く似合うからこそ、心中はとても複雑だ。そもそも清田は、あの店では自分の目の前で買ってくれるのが当たり前だと、思い込んでいた。
『秋野がいるなら大丈夫だな』
『秋野の見立てなら間違いないな』
 幾度も告げられた、その台詞。そもそも清田はブランドには全く興味がないし、服装は清潔であれば良い、と言うタイプだ。けれど時々店に顔を出してくれるのは、彼の言葉通り、自分がいるからだと思っていた。
 彼に直接、そう言われた訳ではないけれど、店で品物を買ってくれる時、清田はいつもどこか、嬉しそうだった。秋野としても、清田が自分の薦めたコーディネイトを見事に着こなし、益々彼の魅力が引き立つ様を一番に見られるのが、誇らしく、嬉しかった。なのに、濃紺のそれを、わざわざ自分に黙って買ったと言う事は、一体どう言う事なんだろう、と秋野は苦々しくて堪らない。
 どうせなら自分の目の前で買って欲しかった。一番にその濃紺のスーツを着て見せて欲しかった。今まで自分を避けるような、そんな真似をされた事なんて、一度も無かったのに。
 自分の薦めた方の組み合わせは、必要なかったのだろうか。最近は少し、清田も見る目が肥えて来ていたし、本当は余り気に入らなかったのだろうか?


 少し上擦り気味で逆上せたような、そしてどこか微かに媚を含んだ甘ったるい笑い声が響いてくる。その甘い声が、悶々と悩む秋野の耳をグサグサと突き刺した。
 年配の紳士が何か言って笑わせたらしく、笑い声は明らかに清田の向かいにいる女性が漏らしている。しかし、相当に笑い上戸な筈の清田の表情は、固いままだ。気遣わしげに女性が清田に何か話しかけると、僅かに表情を緩めて、何か返事をしている。
 上司には何か含みがあっても、女性には明らかに気を遣っている。美人だし、実は気に入っているのかもしれない。そう思うだけで、秋野の腹の底が沸々と煮え滾ってくる。
 彼女は、清田を堂々と求められる。女性と言う生まれ持った性だけで。そう思うだけで、胸がはち切れそうだ。
 ドロドロと胸に渦巻くような気分を、少しでも収めようと、目前の紅茶を一気に飲む。いつもならば、その香りと味の芳醇さを愉しむものを、優雅に味わう余裕など無かった。
 かと言って、わざわざ清田らに話しかける程の勇気は、全く無い。第一、清田を困らせたくないし、自分だってそんな恥知らずな真似は嫌だ。結局こうやって、自分の心に沸いて来る明らかな嫉妬と、彼に対する疑念を飲み込むかのように、目の前の茶を干すしか無い。酷く、惨めだった。


 そっと席を立ち、彼らの眼につかぬよう、会計を済ませてホテルを出ようとした途端。
 ポン、と軽く背を叩く者がいる。
 まさか。
 いや、しかし、と思い、期待半分で後ろを振り返れば、自分の思った人物ではなかった。
「あ。やっぱり。お久しぶり」
「あ、あれっ? うわ、どうしたの? まさか会うとは思わなかった。元気だった?」
 名古屋を引き揚げる前に付き合っていた相手の、大谷秀紀(おおたに ひでき)だった。
 ダークスーツ姿でかしこまった出で立ちだが、どこか洒落ていて、余裕を感じさせる。独特のおっとりとした品のある佇まいは相変わらずだ。
 イタリア製の手縫いのドレスシャツに同じく手縫いの靴。世界でも屈指と言われる銀座の老舗テーラーに特注されたオーダーのダブルスーツは明るい紺のチョークストライプ。襟元と胸を飾る各々のタイはこれも自分に合わせての特注品だ。密着するほどに近づくと、仄かに香るのは、ジャギュア。
「観光じゃなさそうだね。出張?」
 軽い口調で聞いてみる。
「うん。こっちに支店が出来たから顔見せに来てたんだよ。さっき話が終わって引き上げてきたトコ。今からはオフなんだけど。時間あいてんなら、ランチでも一緒にどう? 何なら夜も。久々だし、ご馳走させてよ」
 相変わらずのにこやかな態度ですっ、と何気なく腰に手を回してくる。確かに相手が嫌いになって別れた訳では無い。過ぎた時間を感じさせずスマートな誘い方をする辺りは、変わらぬ余裕を感じさせる。
「日中の案内はいいよ。夜はごめん。店は紹介出来るけど、おれ、用事あるし、もうそのつもり、無いからさ」
 相手は回しかけた手を悪びれもせずあっさりと引いた。
「そ。残念。じゃ、まずランチにしよう。悠樹のお薦めの店に連れてってよ。和食がいいな。どう、元気でやってんの?」
 今度は早くもちゃっかりと秋野の背に手を当てて、ホテルの外へ軽く押し出すようにして、歩き出す。この抜け目の無いところも相変わらずだ。
 つい一年前までは、このどこか余裕があるくせに、ちゃっかりしていて、なのにガツガツしない所が好きだと思っていた。今ではその余裕ぶりに何処か胡散臭さを感じてしまう辺りが、自分でも可笑しくて仕方が無い。
 要は相手と自分の都合のいい部分が、好きだっただけだ。
 清田に少しばかり、後ろ髪を引かれる思いはある。どっぷり落ち込んでグルグル考えたい気もしている。しかし成り行き任せの気晴らしもしたくて、思わず歩調を合わせ、繁華街の方向へと歩いていく。ほどなく市内にしては豪壮な雰囲気の割烹に到着した。
 店に向かいながら携帯で予約を入れれば、上手い具合に空きがあった。予約すら難しい店に、飛びこみ同然で入れたのはラッキーだ。
 店の暖簾を潜り、畳の廊下をくねくねと曲がって突き当たりの、藤とつけられた個室に通される。この店は全室個室で、全て入り口が少し低くなっている茶室の様な作りである。
 部屋に入って秋野は二人のコート類を作りつけのクローゼットに仕舞う。店全体に、微かな琴の音色が流れている。大谷は床の間の掛け軸に興味を惹かれたらしく、座椅子に腰掛けてそれをじっ、と眺めていた。
 当然こんな店だからランチにしては法外な金額だが、その辺りは大谷の事だからお構いなしだ。席はどの座敷も見事な欅の一枚板のテーブルで、掘りごたつ仕様になっている。 
 秋野は自分のコートを仕舞ってから、漆の塗りも艶やかな座椅子に腰をかけた。壁にくりぬかれた丸窓から、苔むした灯篭と獅子脅しが見える。部屋の一部を横長のL字に切り取ってガラス張りにしてある方の窓からは、店の四方にある庭や遣り水が眺められる。
 地面の上に絨毯の様に落ちた落葉は赤や黄のものも残っていたが大半は、既に茶黒くなっていた。ほどなく仲居が注文を取りに来て、ランチの中でもちょっとしたコースのものを頼み、それらが来る間に軽く近況のやりとりをする。
「お母様は? 調子は、どうなの?」
 少し高めの甘いテノールが鼓膜に気持ちよく響く。その丁寧で品の良い、そして柔らかな言葉遣いも久しぶりだ。
「うん。癌の一歩手前をまだウロウロしてる。でも食事も管理出来てるから、本人的には大分いいみたい。咳もしなくなったし。禁煙も最初はキツかったみたいだけど何とか出来てるよ。太ったって文句言われるけど」
 そう告げると、大谷はふわっと柔らかく微笑んだ。
「そう。良かったじゃない」
 言いながら、軽く手の甲を指先でトントンと叩かれる。
 その温かい体温と共に過ごしたのは多分五年もの期間に及んだと思う。
 しかし母の体調の不良をきっかけに、この街に戻る、と言い出した秋野に対しても、大谷は全く引きとめなかった。
『確か悠樹、母一人子一人だったよね。それに肺ならお母さんはまだ若いみたいだし、進行も早いかもしれない。一日も早く帰って見てあげたほうがいいよ』
 むしろ、そう強く勧め、引越しの手配すら色々と世話をしてくれたのだ。目立った別れの挨拶もなしだった。時節毎くらいのメールでのやりとりはしているし、完全に切れたと言う感覚は、確かになかったかもしれない。
 清田には別れたと言ったし、自分も別れたつもりだった。しかしさようなら、とは告げていない。ならば大谷は、切れたつもりはなかったのかもしれない。


 この男との出会いは確か、何かのパーティーだったと思う。当時付き合っていた相手と大谷がちょっとした顔見知りと言う事だった。別れ話がちらほらと出ていた相手と別れた直後に、あるバーで大谷とばったりと出くわした。そしてその場で誘われた。確かパーティーの時に、大谷にも相手がいたように思ったのでそれを聞いてみた。
『話が合わないんだって。あの後すぐに振られちゃった』
 軽く微笑んでそう返され、結局その日のうちにベッドインと言う実に軽いノリで始まった付き合いだった。二股三股は当たり前のお調子者かと思いきや、大谷は全くそれを気取らせなかった。多分何人かはいたのだろうと思うし、そんな話もちらほらと耳に入った。
 だが、自分の目の前では見事に隠しおおせてもいたし、秋野としてもその距離感が心地よく、深追いをする気にならなかった。
 時折電話が繋がらない事があったが、それ以外では必ず素早いレスポンスを返してくれた。その見事さに大谷なりの誠意を感じたし、好意を持たれているのも解って、嬉しかったからだ。
 何よりリッチな彼は惜しみなく秋野に、程よい程度の、受け取るに困らぬ贅沢なプレゼントをそれこそ雨あられと贈ってもくれた。
 殆ど高級品ばかりだったが、秋野は名古屋を発つ時にそれらを全て処分してしまった。贈られたは良いが、大谷と同行する時以外には身につけられなかったり、自分の身にはそぐわないと思っていたものばかりだった。だから始末をする時にも、さほど迷わずに済んだ。過去の男達から貰った品々も、同様に始末をしてきていた。
 ともあれ大谷とは、好き嫌いと言う感情よりは、主に同調や共感と、ベッドの相性でずるずると続いた関係だったと思う。


 懐かしい出来事を軽く脳裏にフィードバックさせ、感慨に耽っていた所に、大谷が話しかけてきた。
「悠樹、君、ちょっと痩せた? それに好きな人でも、出来たんじゃない? 何か凄く色っぽくなってる」
 いきなり、ズバリと核心に切り込んで来られた。秋野は、驚きの余り、水の入ったグラスを倒してしまった。
「わっ!」
「あらら、はいはい慌てない。大丈夫大丈夫」
 変わらぬ落ち着いた物腰で、大谷がさっとおしぼりで水を取り、テーブルに平穏が戻る。
「図星だったね」
 くすっと大谷が笑って肩を竦めている。
「ヒデは趣味、悪くなったんじゃない」
 憮然としながらツッケンドンな返事をすれば、秋野の態度に大谷は軽く一重の瞼を見開いた。そして、その涼しい目元をふわっと笑みの形に、たわめている。
「へえ。悠樹がそんな顔するなんて。余程夢中なんだねえ。でも余り良い関係じゃなさそうだよね。彼氏放ったらかして女と逢うようじゃダメでしょ」
 軽く言われた言葉に、秋野はギョッと目を見開く。
「えっ? な、何でそれ……」
 秋野の表情を見て、くっくっと肩をゆすりながら大谷が笑っている所に食事が運ばれた。
「おお。美味そう。ま、まずは頂きます」
 華やかな彩の揃った、バランスの良い膳に、さっさと手を合わせ、大谷は箸をつけ始める。秋野も諦めの吐息を落とし、目の前の膳に少しずつ箸を伸ばした。
 さっきまでの落ち込みは心の奥底で燻っている。食事なんてする気は、さらさら無かった。なのに膳が置かれた途端、その仄かな香りに惹かれ、つい箸を取っている。
 そしてえびいも饅頭にかけられた、とろりとした餡が口の中でふわり、と解けると、美味しいと感じる。無いはずの食欲さえ沸いてくるのが心中では苦々しい。なのに口に入る食べ物は、間違いなく美味だった。
 この地域ではモイカと呼ばれる烏賊の新鮮な刺身の甘さに目を細めた大谷は、そこで箸を軽く休めた。そしていつもの読み取り難い表情で説明をしてくれた。
「実はさ。さっき、俺、悠樹の斜め前の席にいたんだよ。何度手でブロックサインしても気付きもしないんだもん。で、見たら君の視線の先で物凄い男前がお見合いしてるでしょ。もう露骨だし。読めるって」
 余りにあっけない謎解きに、秋野は最早、ため息しか吐けなかった。かなり人の目を気にする性分なのに。目の前に昔の男がいたのすら気付かず、清田を物欲しげに眺めていたのを見られただなんて。
 恥ずかしいと言うよりは、いっそ情けない。けれど大谷が相手でよかった、とも思う。
 この男は大人だ。決して自分の利にもならぬ人の事情に嘴を差し挟み、突っつきまわして愉しむタイプでは無い。その点だけは安心出来る。
「全然わかんなかった。見られたのがヒデでよかったよ。でも、これも失礼な言葉かも。ごめんね」
 小さく謝れば、軽く肩を竦め、食べよう、と食事の再開を誘われた。静かに着々と運ばれるメニューは、久しぶりに美味だった。
 ランチも三千円以上と結構高価な為、中々来られる店ではない。一度本部の統括マネージャーが来た時に接待に同行したのだが、その時の美味さが忘れられず、思いついたのだ。本当は清田と来てみたくて、秘密にしていた店だった。
 大谷は、珍しくデザートのシャーベットまで平らげて、満足そうな気配で店を出る。
 あれこれと食べなれている大谷の舌を満足させたのなら味も間違いないだろう。案内して良かった、と思う。
「ああ美味しかった。あの百合根のえびいも饅頭、お店でも人気みたいだけど確かに絶品。多分素材が違うと思う。餡かけの餡も本当にいい葛使ってるし。それにあのモイカ。俺アオリイカって習ったけど。とろけるくらい甘くてビックリ。ランチであれなら、値段も安いし。夜も行ってみたいな」
 大谷はそう言って顔を緩めている。今度は食後の珈琲に連れて行って、と催促され、少し考えた秋野は、清田と通いなれた茜亭ではなく、職場近くの店に連れて行く事にした。そこまではゆっくりと歩いて十分程だし、腹ごなしに丁度いい。
 清田も時折行くと言ったサイホン式の店だ。多分記憶違いでなければ、大谷はサイホンの方が好みだった筈だ。ぽつぽつと話をしながら歩いているうちに、店に到着する。
 半地下になっている階段をトントンと降り、席につく。目の前でサイホンを点ててくれる店員のパフォーマンスを断り、大谷は自ら秋野と自分のものを淹れてくれた。
「サイホン好きなの、覚えてくれてたんだ。悠樹、ドリップ党だもんね。でもこのパフォーマンスは珍しいし、いいよね。面白い。やっぱ悠樹、こういうの見つけるのが上手いね」
 嬉しそうな大谷に、秋野は軽く頬だけで笑みを返す。
 けれど、自分が今取った行動は、以前の大谷に対する態度とは、また意味合いが変わってしまった。同意しつつ、受け流しているのであって、与えられた言葉に対する喜びは、もう既に無い。
 静かにカップに珈琲を移し、冷ましながらそっと一口を含む。少し熱いが、この店のブラジルはほんのりと甘く、いつもの店と遜色が無い。カップをソーサーに戻した所で、大谷が静かに語りかけてくる。
「もう今更だろうけど、俺としては切れたつもりはなかったんだよ。悠樹が落ち着いた頃にこっちに引越してもいいぐらいには思ってたし。どこに本拠地置いたって俺はいいし、それが出来るしね。結構未練たらたらでさ。ああいう事する相手でも悠樹は、いいの?」
 その質問に、秋野の目頭がじわり、と緩む。大谷の言葉には、驚きと言うよりは、ああそうだったのか、と納得出来た。それに別れを告げずに相手を見つけた事については、何一つ責めたりしないのが、この男の寛容さだ。
 確かにさようならは互いに言っていない。
 しかし今、零れたのは、その大谷の優しい言葉が嬉しいと言う質の涙では無い。みっともない。 こんなにとっちらかった感情を人前で見せて泣くだなんて、余りに恥ずかしい。
 けれど、目の前にいる男はそんな自分の甘えをも許してくれるような、大人の男だ。
 ちょっとばかりその胸を借りたって、清田のした事を思えばおあいこなのかもしれない。
 けれど、そんなのは嫌だ。余りに情けないし、惨めすぎる。そんな惨めな自分は認めたく無い。
 けれど……ああも、目の前に現実を突きつけられてしまえば、もう、涙しか出ない。彼女は清田と堂々と付き合う事も出来るし、結婚だって出来る。子供だって産んであげられる。比べても仕方の無い、現実。
 そんな事は解っていた筈だった。いつかこういう事がありはしないかと、腹を括った付き合いだった筈だ。
 不意打ちを受けた位でこうも動揺してしまう自分の弱さが、酷く情けない。自分に対する悔しさの涙は見せたくない。
 なのに、零れ出したその体液は、簡単には止まらない。つるつると瞼をすべり、テーブルの上に水溜りを作っていく。
 静かに涙を零す秋野の頭を軽く、大谷が撫でてくれる。ベッドでも普段でも繰り返されたその仕草は堂に入っていて、一年の時間差すらも感じさせない。
「今、結構とっちらかってるだろうから追い詰めるつもりは無いよ。でもさ。君、詮索しなかったし聞かなかったから言わなかったけど。あの時、俺、付き合ってた相手全員切ってたんだよ。まあ、今はセフレぐらいはいるよ。ちょっと俺も身内の事でバタバタしてたし、一年もあいたから、こりゃもうダメかもって思ってた。でも悠樹は俺にとって、まだ一番大事な本命のままなんだよね」
 ゆっくりした口調で漏らされる言葉が、甘く優しい。長く続く相手には、清田に対するような激しい感情はいらないのかもしれない。
 大谷の言うような本命だとか、伴侶と言う事を考えるのなら、こちらの方が、断然、自分には合う相手だとも思う。
 多分今でも彼とセックスは出来るし、感じる事も出来てしまうだろう。むしろ前より深く。それに彼も応えてはくれるかもしれない。いつも優しく甘い、3つ年上の彼の申し出は、酷く魅力的だ。
 でも、もう清田じゃなきゃ、嫌だ。清田がいいのだ。しかしどんなに自分が執着して、彼もそれなりに報いてくれたとしても、世間の目は厳しいままだ。そもそも清田は異性愛者でもある。だからこそ、今後もあのような場を設けられてしまう可能性は、高いだろう。
 そして結局、清田も見合いに応じていると言う事は、心の何処かに普通の婚姻に対する未練があるのではないか、とも思える。それは当然の事だろう。
 結局、清田は自分から離れていく存在なのかもしれない。そう思っただけで、身体の芯からぐらぐらと揺すられるような感覚が襲ってくる。
 でも、今ここで、大谷に甘えるのだけは嫌だった。やっと止まった涙にホッとしながら「ありがとう。でも……」と、顔を上げて言いよどんだ途端。
 視界に今、一番見たくないものが飛び込んできた。余りに驚愕した様子の秋野の表情を見て、大谷もそっと店の入り口を振り返る。
 清田と、見合い相手の女性だった。自分たちが座っている席が入り口からは死角になっていて、彼らは全く気付かない。清田の後ろにいる女性は、とても嬉しそうな表情だ。
 秋野らの座る席とは反対側の、店の奥へと二人は入っていく。
「出よう、悠樹」
 大谷がすっ、と横に立ち、秋野の腕を取るようにして立たせてくれる。
「会計済ませてから行くから。店、出たとこで待ってて」
 そう囁かれ、何とか頷いて、とぼとぼと歩き、店のドアに手をかける。
 見ちゃいけない。見たくない。そう思っても、目はどうしても清田が行った方向を追いかけるように見てしまう。ドアに首を振り向けようとした途端だった。
「あ、秋野! え、ええっ?」
 通路側を向いて座っていた清田が驚きの声をあげた。その声に思わず振り返ってしまい、バッチリと目が合った。どう反応して良いかわからず、秋野は夢中でドアを押し、店を出た。半地下になっている階段を小走りに駈け上がりながら、鼓動の激しい胸を、そっと押さえる。悪い夢なら醒めて欲しい。階段を上がりきったところで足を止め、必死に息を整える。
 会計を済ませるだけにしては、中々出てこない大谷に焦れてくる。もういっそ帰ってしまおうかと思った瞬間、店の扉が開いた。トントンと軽い足取りで階段を上がってくる大谷の姿を見て、半分ガッカリしながらも、ホッとする。
「お待たせ。ビックリだね。とりあえず、部屋に行こうか」
 そっと腰に回された手を、今度は振り払えなかった。甘えたくなくても、ああやって現実を目前に突きつけられれば、まともに立っているのすら辛い。腰を抱かれるまま、大谷に寄り添うようにして凭れる。流れる車の列が途切れるのを待って、渡り始めた時だった。
 ぐいっ、と急に後ろから肩を掴まれた。そのままズンズンと凄い勢いで腕を引っ張られ、驚いて振り返れば、清田だった。
「頼む、秋野」
 小さな声で、懇願するように告げてくる。
「聞いてくれ。俺も騙されたんだ。相手もそれを知らなかった」
 それを聞いた途端に、妙にすっ、と血の気が引いていく。
「なに? 何の話してるの?」
 酷く掠れて情けない声。けれど知らない振りをするくらいしか出来ない。
「見合いしてるとこ、見てたんだろ?」
 手を離さず、そのまま凄い勢いで歩き続ける清田が、舌打ちをしかねない口調で苛立っているのが解る。途端に背筋がゾッとした。あの温厚な彼がこんな仕草をするなんて信じられない。余りの勢いに逆らえず黙って歩くうちに、信号にひっかかり、漸く立ち止まって、清田が話を続ける。
「店を出るとき、あの人が。悠樹は全部見ちゃってますよって。それと……お前を引き受けるとか言ってた。あれ、誰?」
「え? まさか彼女の前でそんな事言ったの、あいつ? ごめん」
「あ、いや。俺にだけ……こそっと。耳に手、あててたし。聞こえてない」
「ああ、さすがヒデ。で、それ聞いて、どうするの? おれとゲイ婚でもしてくれるっての? 人のものになると惜しくなる?」
 一番言いたくなかった、根性悪な台詞が口から滑り出してくる。
「手、痛い。離して」
 人目も気になり、振り払うようにすれば、清田がすっ、と手を離してくれる。
 ふと振り返れば、見合い相手の女性が店を出た所で、清田を探しているのが見えた。彼女は何一つ悪く無い。妬ましいけれど、無条件に傷をつけて良い相手では無い。大谷の姿は見えないから、ホテルに引き上げたのだろう。
 何も知らぬ女性に恥をかかせてはいけない。それは清田自身の為にもならない筈だ。伸び上がるようにして秋野は彼女に手を振った。清田が横にいるのが解ったらしく、それに応え、ホッと肩をおろした彼女が軽く手を振り返してくれる。
「店に戻って。ほら、早く! 何も知らなかったんなら彼女が一番気の毒じゃない。ちゃんとフォローしなきゃ」
 清田の背をグイグイと両手で押すようにして店へと足を向ける。
「ちょっ、秋野。こ、こらっ、話が……」
 慌てた口調で清田が言うのに、構わず背を押し続ける。
「後で幾らでも出来るでしょ。今はムカついてるよ。腹も立ってる。理由もありそうだし、ちゃんと聞くよ。でも今はこっちフォローしないと。じゃなきゃ余計にこじれる。いい年した大人なんだからそれくらい解るでしょ」
 聞く耳を持たず、ピシャリ、と言い切れば清田はぐっ、と言葉を飲んでいる。騙されたと言うのなら、見合いの話を聞いていなかったのだろう。遠慮なくモノが言える相手であれば、あの場で話が違うと抗議が出来た筈だ。
 清田はそれをするタイプだ。しかし、何も言えず、相手にお茶まで飲ませに連れて出ねばならない程ならば、紹介者は、かなり気を張る相手なのかもしれない。
 ならば、それをまず円満に解決させねばならない。その後の話を聞けるかどうか、今は全く自信が無いが、とにかく清田に社会的な傷をつけたくはない。
「すみませーん、お前、彼女ほったらかして店出たりすんなよ。幾ら懐かしいからってさ」
 ポンポンと肩を叩き、彼女のもとに、トン、と軽く押し出す。
「ごめんな。デート中に。10年ぶりに会ったからって追っかけてくれちゃったみてえ。高校の同級なんですよ。ビックリしたっしょ」
「あ、ああ、そうなんですか。そうよ、ビックリしちゃったわ。何も言わずに出ちゃうんですもの」
 女性は甘えるようにして、清田にすっ、としなだれかかり、腕さえ組んで見せる。焦った清田の表情が解るが、紳士的な性格の彼は、彼女の腕を振りほどきまではしない。それを傍目に見て、またムカついてしまう。
「めっちゃ懐かしかった。また連絡して。飲み、行こうな。美人の彼女、驚かせてんじゃねーよ」
 清田の目は見られなかった。紺地に錐で突いたような細かなドット柄のエレガントなネクタイに目を当て、女性には必死に、とっておきの営業スマイルを向ける。そして清田の肩をポン、と叩き、じゃあな、と男性的な口調で告げるや、秋野は自宅に向かって歩き出した。乱暴な言い方をしたのは、怪しまれぬ為と、同級生と言うのを強調したかったからだ。
 背中越しに清田がじっ、と自分を見ているのが解った。しかし、こうする以上の事は何も思いつかなかった。暫く歩いてから振り返れば、二人は寄り添うようにして喫茶店へ戻っていく。その姿を少し立ち止まって見送ったが、空しさが募るばかりだ。
 ふうっと大きなため息を落とし、今度こそ遠慮なく肩を落として、トボトボと自宅に向かう。大谷とは妙な別れ方になってしまったが、彼なら大丈夫だろう。そう思った矢先に携帯が微かに震え、着信が入る。
「……はい。ごめんね」
 大谷の着信だった。電話に出て、先ほどの詫びを告げる。
『や、こっちこそ余計な真似かとは思ったけどね。ま、あそこで追っかけてくるってのならまだ脈あるんじゃない? どうする?』
 笑いを含んだ口調で告げられ、秋野は苦い吐息を落とした。どうする、と言うのは秋野を本命だと言ってくれた後に続く言葉なのが、すぐに解った。
「……少し考えさせて。それと、彼にもうこれ以上の手出しはしないでね。色々ありがと」
 小さく告げれば、わかった、と言って通話は切れた。今日一日の出来事に脳内はもう完全にパンク寸前だった。秋野はそっと携帯の電源を落とし、通りかかったタクシーを拾うと、自宅にまっすぐ帰宅した。

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