フォークダンスで口説いて 6/9
きくち 和

 眠れぬ夜を過ごした翌日、どうしても気になった事があり、店に早めに出勤をした。手早く掃除を済ませると、秋野はロッカーの二重ロックを開けて、清田の管理台帳を取り出した。それを見た途端、目を疑う。
「な……っ、ひゃ、ひゃく? 100万?」
 購入総額は100万を軽く越している。確かに秋野の薦めたものと、あのスーツを買ったのならそれだけで60万は下らない。それすらも解らなかった自分が歯がゆくなってくる。
(だって、今、ボーナス時期でもないでしょ、てーことは……いやそんな他人の財布だし、自由だよ。けど、でもでも。じゃあ、ひょっとしておれが薦めた方って矢張り、本当は必要じゃなかったとか……)
 不安を募らせながら、台帳を見てみる。販売担当は店長だ。購入日は秋野の休日である。曜日は平日だから清田は出勤をした帰路に立ち寄ったと言う事か。その日に昨日のスーツと、コートも纏めて購入しているのが解った。秋野の薦めたものはその日に引き取ってくれている。木曜には見当たらなかったので、どちらもクローゼットに仕舞っていたのだろう。
 間違いなく彼にしっくりくるものばかりなのには安心したが、腑に落ちない。そもそも、昨日もホテルで考えたように、今まで彼はこんな買い方は一度もしていない。自分の前で、少しずつ色々と選ぶのを愉しんでくれていたと、思っていた。一体どうして、と苦い気分を我慢して、台帳をじっと読み込んでいく。
 支払いはいつもの通りの即金で、店長が気を効かせたのか、秋野の名で売上がつけられている。
「店長までこんな、すみません、ありがとう」
 思わずそっと、呟いてしまう。
 ドキドキと胸の鼓動が高鳴るのを堪え、今度は清田の紹介者を見た。自分の記憶と記録の一致を辿っていく。こちらにも見覚えの無い名が増えていた。記録と自分の記憶との差に、また、秋野は頭を抱え込んだ。
 この辺りの管理を抜かった事など、未だかつて、無かった事だ。確かに客も多いので、全てを網羅しているとは思わない。けれど出来る限りチェックはしていた筈なのに。しかし一番大事な相手の事すらロクに管理が出来ていなかったではないか。ここ最近で、如何に自分が弛んでいたかを、見せ付けられる思いだ。
 結局清田の紹介者の数は、8人だった。清田を筆頭とし、6人は全員、190前後の高身長を誇っている。そしてやや年配の男性が二人。秋野が担当したのは、たまたま全員高身長で若い層の5人と、年配客一人だった。
 しかし、残りの二人は余り覚えていない。高身長の一人は初回から店長の担当となっていたが、ごく最近の日付で、商品の記録を見た途端に思い出した。それに台帳に記載があるのだから問題ない。もう一人の年配客はバイトが担当したらしく、単品を買ってくれている。彼からの報告はなかったが、紹介を聞きだして台帳につけているだけで、かなりの上出来だ、とこれは咎める気も起きない。
 要は自分がそこまで、しっかり管理していれば良かったのだ。二人の新規客の台帳を眺め、買って頂いた商品の映像の記憶を辿り、脳裏でイメージを組み合わせていく。じっとそれらを眺めるうちに段々、何とも言えない気分になってきた。
 清田の善意の口伝えと、誠意の輪が、くっきりと自分の目の前に繰り広げられている。これは自分の実力でも何でも無い。ひとえに、清田の人徳で繋いでくれた、客と店との縁だ。
 確かに体型の問題はあっても、紹介なぞ、精々3、4人程度が限界だ。それがこんなに、と思えば涙が滲んでくる。
 清田は多分、自分に対してこうやって、精一杯、力をつけてくれているのだ。
「清田……ごめん……ごめんね、ありがとう」
 小さく口の中で呟いて、目元に競りあがってきた涙をぐっと堪える。こうなったら、せめて礼ぐらいは言っておかねば気が済まない。それに、現金なようだが、自分から頭を下げて昨日の事情を聞いてみよう、とも思う。ふうっと大きく息をつくと、店長が姿を現した。
「おはようございまっす。今日寒いっすねぇ」
 鼻の頭を真っ赤にし、ぐるぐる巻きにしていたマフラーをバサバサと振り払ってからハッとした顔をする。
「あ。ご、ごめん。ごめんなさい」
 彼は、折角秋野が掃除をしたところに、いつもこの調子で埃を立て直してくれるのだ。しかし、そんな些細な事は今はどうでもいい。
「おはようございます。あの。店長。ちょっと伺っていいですか?」
 早速彼に聞いて見る事にする。
「ん? な、なあに?」
 ビクッとして、上目遣い気味の店長は悪戯を叱られる子供のような表情をしている。
「いや。おれが謝らなきゃいけない事です。清田さんの管理、友達なのをいい事に、おれ、すっかり抜かってました。すみません。あんなに紹介もしてくれてたなんて把握してなくて。紹介の照合、本人にして下さったんでしょう? それにこないだの売上も本来なら店長のものなのに、気を遣わせてすみません」
 そう言うと店長は、ああ、と言いながら頷いている。
「何かね。自分が欲しいと思っても秋野さんが気ぃ遣って思い切りは言えないだろうからって、夕方来てドバッと。ボーナス時期でもないのに即金でビックリしちゃった。あの人関係、そう言う思い切りいい人、多いよね」
「うわー、そうだったんですか。ありがとうございます」
 店長の言葉に、自分が二点を纏めて薦めなかったのが清田のプライドに障ってしまったのだろうか、と新たな疑問が沸いて来る。
「でもそれ、秋野さんだけが悪いんじゃないよ。結局それ全部、俺も報告してなかったっしょ。後からのは急ぎで必要っつってたから直しとかでバタついて忘れてた。すんません」
「ああ、いや、おれこそ、台帳もつけ漏れがあったのまでフォローさせて、本当にすみませんでした」
「いいのいいの。清田さんだけだったよ。他はちゃんとしてあったし。そんなの言ってたら俺なんかしょっちゅうじゃん、って自慢出来ませんよね」
 開店の準備をしながら店長の話を聞く。
 すると台帳と不揃いな点を感じていたらしい彼が、清田に、紹介客を逐一照合してくれたらしい。
何故か、と問う清田に、秋野はこう言う所も几帳面に把握したいタイプだから念の為に、と言えば、納得して教えてくれたそうだ。
「ありがとうございます。助かりました」
 心底感謝する思いで店長に頭を下げると、しきりに照れている。自分一人で仕事を頑張っているつもりは毛頭なかったが、こんな風に支えられているのが解ると、胸が熱くなる。
 当然清田に対する感謝もある。そして、店長のその何気ない対応に、何か自分の中で忘れかけていたものを教えられた気がした。
 カウンターの側の電話が鳴り、店長が、かなりの大声で出た途端「うげっ、す、すいませ……」と、いきなり謝っている。多分マネージャーだろう。暫くうえっ、だの、ええっだのと不満そうな声を上げたり、慌てて謝ったりしていたが、すぐに名を呼ばれる。
「あ、秋野さーん、交替。錦織さん」
 本部の統括マネージャーだった。
「はい、おはようございます。秋野です」
『おはようございます。電話口だってのに無駄にでっかい声だね、あの馬鹿。鼓膜破れるかと思ったよ。今度やったら罰ゲームやらせるっつっといて。あ、出張の件ね。秋野さんは、二箇所に変更。名古屋と銀座。後は勉強も兼ねて、社長直々の提案でそこにいる伊吹さんメインで動く事になっちまってさ。社長もその甥っ子が可愛くて仕方ないみたいで。急な変更でごめんね』
 見れば店長はオドオドとした表情で秋野の様子を伺っている。それが可笑しくて彼に背を向けながら返事をする。
「承知しました、じゃ、日程はまたメールで連絡ですね? それと主には私の担当顧客なんですが、一名、台帳に相当な管理の抜け落ちがありました。申し訳ありません。店長のフォローのお陰で、大体記録も揃いましたので、それもお詫びがてら、ご報告します」
『あ、そう。どっちも珍しい。じゃ、新しいデータ送っといて。今後気をつけてくれたらいいし、よく頑張ってくれてるみたいで有難うね。出張も同行宜しくね。じゃ、変更の件はすぐメールしますから。今日も宜しくね』
 マネージャーの言葉にも、ズシン、と胸に熱いものが滲んでくる。本当に色々な人に支えられ、助けられて仕事をしているのだと、感謝の気持ちがジワジワと沸いて来る。
 最後に、罰ゲームは本気だから店長に伝えるように、と、念を押され、通話は切れた。
「あの、電話口では声は、抑える様にってご注意がありました。今度やったら罰ゲームだそうです。それと、出張変更だったんですね。いきなりで大変ですね」
 店長にマネージャーの伝言を伝えれば、店長は、うげっ、と眉を顰めていた。
「あ、出張。そうそう、昨日、急に伯父ちゃ……いや、社長に言われてね。それも言おうと思ってたんだった。すみませんけど留守、お願いします。てか、あーあ、マネージャーとホテル同室だったらどうしよう、俺、緊張しちゃうよ、ねえ、秋野さん、どうしたらいい? それに罰ゲーム? 何、それ、何やらされんの? ねえ、どうしよう?」
 頭を抱えてウンウンと唸る店長に、思わず失笑を噛み殺していれば、早番担当のバイトがやってくる。
「うぃーす、おはよーございまっす!」
 元気に挨拶をしながら入ってきた彼にしがみつき、ワーワーと騒がしい店長は、彼にまで、邪険にされていた。
 秋野はじゃれあう二人を目の端に入れながら自分の考えに戻る。出張が減ったのは幸いだが、清田との関係修復が上手く行くかどうかは、不安だった。
 昨日はあれから終日携帯の電源を切っていたので、昼休みにメールの読み出しをすれば、大谷と清田からメールが入っていた。
先着だった大谷のものは、昨日の軽い詫びと一週間ほどの滞在予定が記されている。相談にも乗るし、気が向いたらおいで、と、あった。その後に在室の時間帯やホテルの部屋の号数も添えられていた。
 清田からは、見合いの話をしなくて悪かったと言う詫びがまず書いてあった。難物相手の苦情処理だと聞いていたので、仕事だと思い込んでホテルに行けば、不意打ちだったらしい。
 確かに憮然とした顔つきだったな、と秋野も思い出す。それに、どう考えてもあのスーツはビジネス向きだ。見合い用では無い。
 そう思った途端、頭に水をかけられた気分になった。自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
 黙って買った事にばかり気が向いていて気付かなかった。散々ビジネス用だとも思った。なのにあの服装がその場に相応しいかどうかすら思いつかなかった。
 清田が追いかけてきてくれた時に、彼の言い分を、立ち話ででも聞けば良かった、と思う。そんな事を、今、思いつく辺りが間抜けで情けない。恥ずかしくていたたまれない。
 末尾にメールでは限度があるので、とにかく逢いたい、逢って直接話がしたい、と書いてあった。
 秋野は軽く目を閉じ、深いため息を落とした。今朝の台帳の記録が鮮やかに瞼の裏に蘇る。そして喫茶店から飛び出してきた時の清田の、あの力強い腕の力。低く甘いかすれた声。ベッドで、車の助手席で、映画館の暗闇の中や、初めての喫茶店で。何度も漏らされた好きだ、可愛いと言う言葉や、甘く巧みなキス。
 たった一度の見合いだ。それくらいで彼を諦めたり、離れたりなんて、出来るわけが無い。離れてくれと言われて、離れられないと足掻くのは自分の方ではないか。
 しかも清田も仕事だと思い込んでいたのなら、本意じゃなかったのは明らかだ。ならば諦めたくない。嫌われたくもない。
 まず、大谷には昨日の食事の礼のみを告げたメールを先にいれる。そして、こみ上げる感情を必死に堪えながら、清田に宛てて、メールの文章を打ちこんでいく。
 勝手な勘違いをして、不快な思いをさせた事に詫びたい事。それと今朝、職場の台帳を見て、紹介の数に驚いた事。清田の大量のお買い上げに気付きもしなかった事への詫びと礼。
 昨日の男は名古屋で長く付き合っていた相手で、自然消滅のつもりだったが、復縁を匂わされた事。今の自分はその気がない事。
 最後に、良ければ、今夜仕事が終わってから逢えないでしょうか、と言う言葉を入れた。
 時計を見れば交替の十分前だった。ふうっと大きく息を吐き、軽く深呼吸をすると、秋野はピン、と背を伸ばし、再び職場に引き返した。
 今日ほど、仕事中にメールの返事が気にかかった事はなかった。日曜の割に客足も少なく、店長も欠伸を噛み殺している。
 秋野も気は引き締めつつも、夕方の休憩が待ち遠しくてならない。焦れる思いで時を過ごし、やっと入れた休憩で携帯を見れば清田からメールの着信が入っていた。
 メールの着信がこんなに嬉しくて、怖かったのは初めてだ。震える指先で急いで開けば十九時半頃に、昨日のホテルの一階ロビーで待っていると、書かれていた。
(変だな、 今日、休みのはずだけど。昨日、お見合いって事は月曜は出勤だろうし、家でゆっくりしたらいいのに)
 そう思いながら、夕食に出かける気かもしれない、とも考え、19時半前後になりますが伺います、と返信する。それから終業までの時間はアッと言う間だった。
 デパートの終業と共に、本部への報告書をメールで送る。売上もさほど悪くは無いが、日曜にしては渋った方だった。
 秋野は明日の月曜が休みのため、火曜が休みの店長と互いに引継ぎ確認をし、19時ちょっと過ぎに店を出た。まだかろうじて開いていたデパート側の通用口から、隣接する大型ホテルへの連絡通路に飛び込むように入る。
 ホテル内部の店は20時までの営業らしく、店舗の中にまだちらほらと人がいた。日曜にしては人出が少ないのは、こちらも同様のようだ。秋野の店より、桁の一つ多い商品の居並ぶ高級ブランドのブロックを通り抜け、ホテル内部のエスカレーターから一階のロビーへと降りていく。
 高い天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリアは優美な光をロビーに散りばめている。
 ふと目をやれば、先日の喫茶店とは反対側にあるティーラウンジから目立つ男女のカップルが歩いてきた。清田と、昨日の見合い相手の女性だ。清田は秋野の薦めた、少しカジュアルなスーツを着ていた。ならば不要ではなかったのか、と、それを見てホッとする反面、妙な胸騒ぎと、胃から湧き上がるような嫉妬が込み上げてくる。
 何故、わざわざ彼女に、自分の薦めたコーディネイトを一番に見せるんだろう。昨日の濃紺のスーツだって、本当は自分が一番最初に見てみたかった。今まではそれを当然の権利として……甘んじていられたのに。理不尽な言い草だと解っていても、自分の居場所や存在を否定された気分になってしまう。
 続いて清田のメールの文章が、頭の中をぐるぐると回り始め、ふと、気付く。見合いの件を断ったとは、ホンの一言も書かれていなかった。騙し討ちだったとは書かれていても、それは無かった。断ったのなら、そして相手を安心させるのならば、その事はまず入れるだろう、と思いつく。
 それを敢えて、直接会って話すと言うのは、ひょっとして。服の事と言い、最近の清田の僅かな行動のズレを考える。これは、最悪の事態なのではないだろうか?
 清田を信じたい。けれど、嫌な話は聞きたくない。怖い。
 エレベーター越しに硬直した視線で凝視している秋野に、ふと女性の方が気付いた。清田の腕には、しっかりと彼女の華奢な腕が絡められている。自分を見覚えていたらしく、にっこりと微笑んで、軽く目礼をしてくれる。
 美人だし、とても性格の良さそうな人だ、と思う。しかし滾るような憎悪も喉の奥から突き上げて来るのは、止められない。
 秋野も必死に笑顔を取り繕い、軽く頭を下げた。清田は、自分の方に目線をくれたように思ったのに、何の反応もなく、タクシー乗り場のある正面玄関の方向に顔を向けた。
 ひょっとして自分に気付かなかったのだろうか? いや。このシチュエーションだ。ただですら目の良い清田が、真正面にいる自分に気付かないとは、ちょっと、考え難い。秋野は硬直した表情を上手く隠せなかった。
 それに、こうも見事に無視されるとは、思わなかった。女性が頬に微笑を湛えて秋野に目を当てたまま、清田の耳元に何かを囁きかけたのを見た途端、ザッ、と音を立てて血の気が引く。彼女に悪意がないのは解っている。けれど、これみよがしなその態度に、もう耐えられない、と思った瞬間だった。ポケットの内部で携帯が震えた。大谷の着信だった。
「……もしもし」
『あ、悠樹? お仕事、もうヒケたかな?』
 清田ら二人から必死に目を反らし、俯き加減に、携帯越しの音声に集中する。
「ヒデ。今からそっち行ってもいい?」
 上手く回らぬ舌を必死に動かし、相手の用件も聞かず、いきなり部屋への訪問を取り付ける。驚いた様子ではあったが、大谷は即座に了承をしてくれた。
『いいよ、おいで。俺も丁度部屋に戻ったところだし。ルームサービスでも取っとくよ』
「ありがとう。じゃ、今から行くね」
 そう言って、通話を切り、躊躇いなく、正面玄関とは逆方向の、客室行きのエレベーター乗り場へ向かう。丁度来ていたものに乗り込み、客室最上階の12階のボタンを押した。
そこのクラウンスイートに大谷は、いる。誰かがエレベーターのボタンを押したように感じ、慌てて開く、のボタンを押したが、間に合わなかった。すっ、と音もなく、エレベーターは12階へと昇って行く。
 深く重い吐息を落として携帯を開き、母に外泊する旨のメールを送り、ジャケットのポケットに携帯を滑り込ませた。母とのホットラインはこの携帯一本だ。昨日のように、携帯が繋がらなくても、連絡先の明らかな場所にいる場合にしか、電源は落とさない。
 でも本当は落としてしまいたい。清田からの着信が無いのが、一番怖い。何度も繰り返してかかって来るなら、出る事になるだろうが、話を聞くのも、また、怖い。それくらい、あの女性は、嬉しそうだった。振られてあの表情や態度は、無いんじゃないかと思う。
 ならば、予測される回答は、一つ。
 恋愛の勝者は、常に一人でしかない。特に婚姻となれば、答えは自明の理だ。女性がこんなにも羨ましく、憎く、妬ましかった事は無かった。

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