フォークダンスで口説いて 7/9
あの光景を見て、今朝の感謝なぞ一気に吹っ飛んでしまった。いや、感謝は感謝でちゃんとしている。けれど、暫く清田には逢いたくない。しかも、一瞬とは言え、完全に自分は清田に無視されたと思う。彼女を優先されたのだ。ならば、何を言われるのかが、余計に怖い。聞いてしまうのが、恐ろしい。 かと言って、相談に乗ると言ってくれたからと、復縁を匂わされた相手の部屋に、即座に行くなんて、余りに軽々しい。しかも本当にその気も無いのに、愚痴を聞いてもらいたいから、衝動的に訪ねるだなんて、最低だ。 以前住んでいた名古屋になら、この程度の愚痴を気軽に言えるゲイの友人がいた。今の店の名古屋店にいる友人もそのうちの一人だ。秋野と同じデパートのフロアで勤めていて、ライバル店の店員ながらも、結構気が合ったのだ。今の店への再就職も、彼からの紹介によるものだった。 しかし地元には、以前清田に言った通り、カミングアウトすらしている相手はいない。当然、こんな相談の出来る相手など、いる訳がない。けれど、誰かに今の自分の状況を聞いて欲しかった。 大谷にならば安心して話せる。安全牌のような扱いをされれば、さぞかし気分が悪かろうと思う。 けれど多分大谷は、秋野のこの甘えに呆れはしても、怒りまではしないだろう。 いっそ、誘われて自分の気持ちがそちらに傾くのなら、それこそ、これもそういう縁か、と思いかけて、余りの勝手さに苦笑する。 「どんな尻軽とこじつけだよ、それ……。幾らヒデでもさすがに怒るって。バカみてえ」 思わず小さく、呟いてしまう。 しかし実際、自分はこうやって今、大谷のもとへと向かっている。ベッドに誘われる可能性は、当然、了解したも同然だと思われても仕方が無い。 その気になれるかどうかなんて、解らない。泣きを入れて断る羽目になるかもしれない。 ……清田とのセックスは、今までのものとは違う。焦がれるほどに好きな相手との接触があんなに甘く、激しく、離れがたいだなんて、知らなかった。そして、こんなにも狂おしい感情こそが、恋だと知った。 こんなに激しく、身を噛むような激情が自分にあるとは思わなかった。その深さや恐ろしさを、今まで知らずに来た自分が余りに薄っぺらい存在にしか思えない。狂気すら感じるほどの、この激しい想いが、時が経てば、本当に少しでも落ち着くと言うのだろうか。 感情のやり場を失った、巨大な喪失感に耐えられるとでも言うのか? この哀しさや空しさや、グダグダな気分を一瞬でも忘れてしまえるのなら何かに縋りたい。縋る相手は聞き上手で誘い上手な大谷だ。長年付き合ってきただけあり、彼は自分のツボをほぼ、知り尽くしていると言っていい。そして本当に、彼を受け入れられないと解った時。きちんと彼を断りきってしまえるだろうか? 自信は無い。けれど、余りにいたたまれなかった。とにかくただ、誰かに背を、撫でて欲しい。 エレベーターが12階へと到着し、乱高下する気分のまま、大谷の部屋の前に立つ。 そして一瞬の躊躇いの後、思い切って部屋のインターフォンを押した。 『はい、どちら様?』 「……秋野です」 『あ、悠樹。待ってたよ。今開けるね』 応えがあり、一瞬の間の後で、白い瀟洒な雰囲気のドアがスウッと静かに内側に開く。ドアの向こうの柔らかな照明越しに、大谷がにっこりと微笑んで出迎え、肩を抱かれるようにして部屋へと入る。踝まで埋まるかと思える毛足の長い柔らかい絨毯の、贅沢な感触は久しぶりだった。 今日の大谷のスーツは濃いグレイでサヴィル・ロウ仕立のパリッとしたものだ。中は淡いピンクの手縫いのシャツ。ネクタイは取ってボタンを開け、リラックスした雰囲気だった。誘われるがままに秋野は部屋の奥へと入っていく。彼の、柔らかい肌理の整った手を振り払う気力は、もう残っていなかった。 入ってすぐにビジネス仕様の重厚なデスクと、モダンな雰囲気のソファセットがある。 その奥に、堂々たる雰囲気のキングサイズのベッドが見えた。ベッドカバーはかなり上質のシルクサテンだ。滑るような光をツヤツヤと誇示しているそれが酷く、生々しいものを予期させる。 これみよがしなほどに淫靡なムードの漂うそれに秋野は趣味が悪い、と内心で罵った。ビジネス仕様のこの部屋にはそぐわない程に、淫らな雰囲気だ。 とは言え、通された応接の向かいにあるオーク材のビジネスデスクの重厚さは独特の品を醸している。机の上にさりげなくおかれているキノコ型の照明器具は、エミール・ガレのもの。 単品は贅沢な品ばかりだが全体的な雰囲気が統一されておらず、バラバラな感覚は否めない。しかし、地方のビジネスユースも多いホテルのプチスイートなら、マシな部類だ。 勧められるままに、多分イタリア製であろう総皮張りのクリーム色のソファに腰をかける。多少バラつきがあったとしても、リッチ感の漂うこんな雰囲気は久々だった。しかし以前は見慣れていた光景が、もう、少しばかり、息苦しい。 もっと豪奢なホテルに何度も同行したのはたった一年前なのに。たかだか地方都市のちょっとしたスイートルームが、もう自分にはそぐわない気がして、妙に落ち着かない。 そんな秋野を見越したように、大谷が軽い口調で声をかけてくる。 「悠樹、いいタイミングだね。昨日連れてって貰ったお店のお弁当、お客様に頂いてさ。支店で配って余った分を、持って帰ったはいいんだけど一人じゃ多くて困ってたんだよ。でも二人にはちょっと足りないんだよね。だから、お酒と少し小皿っぽいもの、ルームサービスで取っといたから」 その言葉に無言で頷くと「お母様に連絡いれた?」と気がかりそうに声をかけてきた、それにも、ただ無言で頷いた。そんな秋野を見ても、大谷は微笑むだけで特に何も聞きだそうとしなかった。 「どうして来たか、聞かないの?」 ソファの前方に、浅くちょこん、と腰をかけ、俯き加減で掠れるような、惨めったらしい声で呟く。すると、大谷は軽く首を傾げた。 「聞いて欲しいの?」 その言葉にコクン、と首を振る。 「何があったの?」 そう、穏やかな口調で告げられる。 その言葉を聞いた途端、秋野はようやく顔を上げた。上品な卵形の輪郭の中に綺麗な一文字を描く眉。その下には色っぽく綺麗な切れ長で、大き目の一重瞼の目。黒々と濡れた瞳が秋野を穏やかに見つめている。 目の下には通った鼻筋と、その先には少しぽってりとした、キスをすれば気持ちの良い弾力の唇。清田とは正反対の顔立ち。全体にシャギーを入れて短めに整えられ、毛流れを出す雰囲気にセットをされた黒髪は、清田とは違ってサラサラな髪質なのも知っている。 そして、ん? と小首をかしげる、見慣れたその仕草。 それらを見た途端、自分でも驚くほど、堰を切ったように、言葉があふれ出した。 昨日からの自分サイドの話の流れを怒涛の勢いで話す秋野に、大谷はうんうん、と頷き、言い澱めば、絶妙な合いの手を入れる。 頭の良い男なのは知っていたが、こんな時には本当に頼りになる。でも自分が今欲しがっているのは、この人じゃない。思うようにならず、見苦しく、散々足掻かねばならない、清田顕二と言うたった一人の男。叶うのならば、彼だけが欲しい。 「悠樹の気持ちは、とっくに固まってるようにしか思えないけどね」 秋野が何とか話し終えた途端、大谷は軽く笑いながらぽつり、と告げた。途端、ルームサービスの呼び鈴が鳴り、一旦大谷が席を外す。ほぼ同時に秋野の携帯が震える。メールの振動だった。 チラッと見れば清田からのものだった。画面を開けてみればその前に、もう一通届いていた。気づかなかったらしい。でも中を見る気にはなれず、そのままポケットの中に携帯を仕舞い込む。 カラカラと木製のアンティーク調のワゴンが押され、大谷が楕円形の洒落た雰囲気のローテーブルの上に小皿を綺麗に並べていく。 そしてビジネス用のデスクに備え付けの椅子を秋野の正面に引っ張ってきた。単品のソファでは確かにちょっと食事はしにくいし、隣に座るのも不自然だった。 秋野は腰を浮かして、手伝おうとしたが、大谷に軽く手を上げて、止められた。 「グラスでも割ったら危ないし、座ってて」 確かにバカラの瀟洒な雰囲気のワイングラスを割っては大変だ。大谷は手際よく皿を並べた後、ワインの栓を開けて、グラスに注いでくれる。白ワイン独自のフルーティーな香りが華やかにその場に広がった。 「とりあえず、お疲れ様の乾杯でもしようか」 と大谷が言うのに頷き、軽くグラスを触れ合わせた。ジリーン、と高級なグラス特有の重みのある音が、部屋に余韻を残して響く。 「悠樹、悪いけど、俺、腹ペコだからさ、小腹が落ち着くまでは食べさせて。いい?」 そう言って、大谷は弁当類から箸をつけ始めた。そう言えば昨日もこんな流れだったな、と思いつつ、秋野も無意識に箸に手を伸ばす。 木の芽の柚子味噌和えを摘んで、どんなに思い悩んでいても、人間の食欲は簡単には失くならないのかと、可笑しい様な気分になる。 「そう言えば、昨日もこんなノリだったね」 初めて秋野から話しかければ、大谷がふわっと笑う。 「あは。そうか。俺、毎度毎度がっついてんね。わー。結構本気で、悠樹奪おうと思ってんのに、めっちゃカッコ悪い」 肩を竦めて言う軽口に、少しだけ気分が軽くなる。出汁巻卵を口に入れると、ふんわりとした歯ごたえで、甘みを感じない好みの味付けだ。卵には多分牛乳が入っている。あとは塩と出汁だけ。僅かに甘みがあるが、多分これは卵自体の滋味だろう。中心に巻かれた鰹節が香り高く口の中に広がっていく。 「さっきの話聞いてて俺が感じた事言っていい?」 そう言いながら大谷は、豆腐の田楽を口に入れ、軽く目を見開く。 「へえ。田楽に麦味噌。こっちはこれ多いの? 確か悠樹のお味噌汁、こんな味だったよね。昨日のお昼もそうだっけ。懐かしい。これ、結構美味しいね……って、ごめん脱線して。もう、ダメダメだね、俺」 慌てて謝る大谷に、秋野はふと頬を緩めた。名古屋育ちの大谷は、味噌と言えば赤味噌が普通だから、珍しいのだろう。 「いいよ、落ち着くまで食べて」 そう言う秋野の言葉に、じゃ、と言うや、次々と箸をつけ始めた。秋野も大谷の食べっぷりに刺激され、少しずつおかずを摘み、口当たりの良いワインを干していく。よく冷えた白はキリリとした辛口でとても美味しい。 一通り箸をつけ終え、小腹が満足したのか、箸を置いた大谷が、一口、ワインを含んでから、おもむろに居住まいを正した。 この行儀のよさも、清田と似ている、と、無意識に彼と比較する自分が歯がゆい。 「お待たせ。で、まあ、矢っ張り、清田君に聞いて見なきゃわかんないね。騙し討ちは気の毒だと思うよ。確かに君が言う通り、彼女が一番気の毒。でもさ」 一旦会話を区切り、大谷は少し考え込んでから話し続けた。 「俺ならって想定なんだけど。もし、昨日、見合いって解った時点でその気が無いんだったら、その場でまず、断るね。ま、でも、清田君にも立場や事情があるだろうね。でも、悠樹が気にした通り、メールに見合いの結果は、入れるかな。直接話しゃいいかもだけど、先に相手、安心させるのも思いやりでしょ」 その言葉が耳に痛い。 「……だよね……」 小さく呟く秋野に、大谷は言葉を続ける。 「それとさ。ま、これは悠樹が俺を頼って来てくれたって風に受け取るし、実際そうなんだろうけど。君もそんなに彼が気になるんなら、相手とぶつかるのを恐れてちゃ、何にもならないよ。そこまで踏み込めないのは、俺の昨日の言葉が、君にも残ってるのかなって。ちょっとは、期待しちゃってるよ」 はっきりと一番気になっていた事を告げられ、秋野は困惑してしまう。 「でも、話を聞く限りじゃ、悠樹は、清田君に相当気を取られてるよね。それに自分の感情が全然今までと違うのは、間違いないみたいだし。まあそりゃ、今はしんどいだろうな」 大谷の立て続けの言葉に、最早、頷くしか出来ない。 「しんどいし、変だとも思うよ。それに順調な時も浮かれっぱなしでさ。自分でも何浮ついてんだって思うぐらいだった。今はたったあれだけの事すら流せないし、仕事まで滅茶苦茶でさ。でも聞かなきゃって思うのに竦んじゃって聞けない。もう好きなのか嫌いなのか、怖いのか、ぐちゃぐちゃ。わかんない」 ぽつん、と呟いた言葉に大谷は苦笑をし、コトン、とワインボトルを傾ける。 「それを恋って言うんでしょ、世間じゃ」 大谷のおだやかな口調は、内容の割には秋野を追い込まない。この男との方が、ずっと穏やかで、安寧の中にいられるのは、確実だ。秋野の心の波風を、そよそよとたなびく風の様に安らげてくれる。 なのに、今の自分の心の中では清田が欲しいと、激しい嵐が荒れ狂い、焦がれる程の欲を制御しきれない。 「うん……そうかもね。でもやっぱり怖い。このまま足踏みしてたってどうしようも無いのも解るし、ヒデにこんな話するのも筋違いなのも解ってる。身動き出来なくて、ガチガチになっちゃってる自分が一番、やだ」 ふうっ、と大谷が軽く息をついた。 「ま、そんな弱虫悠樹君に提案が二つ。一旦、清田君と時間をおいてみる。もしくは甘えついでに今から俺と寝てみる」 ズバリ、と切り出された大谷の提案に、秋野は矢張り、と思う。大谷だって昨日、あんなにきちんと自分に意志を伝えてくれたのだ。愚痴を聞くだけで帰すだなんて、そこまでお人よしでも無いだろう。 「……ごめんね、昨日あんなにヒデ、言ってくれてたのに。おれ、甘えまくってるね」 小さく詫びると、大谷は苦笑を浮かべてワイングラスを煽っている。それが、いつもほどゆったりとしたピッチではないのに、秋野は気付いた。大谷も、自分の言葉の一つ一つに、揺れているのだ。それが解った途端、秋野の胸の中がざわり、と騒ぐ。 珍しく、この男が本気になっているのだ。それが痛いほどに解る。追い詰めたくないと言いながら、こんなに性急に口説き落としてくるのは、この人らしくない。多分、彼は、本気で自分を選んで欲しいと、全身で訴えている。それが、ストン、と解ってしまった。 自分も本気の恋をしなければ、今の彼の気持ちは解らなかっただろう。新たな問題に、秋野の視線が揺らいでしまう。甘えるどころの話ではない。八方塞がりだった。 そんな秋野を見詰めながら、大谷はさりげなく語りかけてきた。 「ごめん。こんなに追い詰める気、なかったんだよ。でも今、悠樹を手に入れなきゃ、これ以上のチャンスは無いのが俺の事情。俺は俺の事情が最優先だよ。それに俺なら、悠樹に今みたいな、辛そうな顔はさせない。俺との居心地は、悪かった?」 その言葉に、秋野はううん、と首を横に振る。これ以上ない位に、良かったと思う。金銭感覚は別として、他の事では、これほど自分と波長や相性の合う人は、多分もういない。 しかし、ジリジリと巧みに退路を断たれて行くのが解る。清田の話どころではない。頭を冷やしたい。そう思った秋野はふと、思いついた。 「ヒデ。シャワー借りていい? ちょっと頭、整理したいから。これ、その。ヒデとエッチするの、了承したってんじゃなく、本当に言葉通りで申し訳ないんだけど」 断られたら、そのまま帰るだけだ。果たして驚いた表情の大谷は、それでも苦笑をしながらこっくりと頷いてくれた。 「俺がしてるのは、頭じゃなくてハートの話だよ、悠樹。困った子だね。でもいいよ。頭、冷やしておいで」 たしなめる様な口調で言いながらも、許してくれる。ホッとして、ゆっくり立ち上がろうとすれば、ふらり、と足元が揺れた。 「おっとっと、危ない!」 テーブル越しに、大谷が慌てて秋野を抱き止める。口当たりの良さで無意識に杯を重ねていたが、テーブルの上ではボトルの二本目が空いていた。軽く弁当や小皿を突っついてはいたものの、空腹には効いたらしい。 久々の甘いジャギュアの香りと体温に包まれると、無意識にホッとする。そっと優しく項を撫でられ、背をトントンと赤ん坊にするかのように叩かれる。それがとても気持ち良くて、彼の背に腕を回してしまう。 大谷にこうやって抱かれるのが大好きだったな、と思った。清田のものとはまた違う、格段に触り心地の良い、ジャケットの風合い。 「こんなにぐちゃぐちゃになっちゃって。でも凄く綺麗にもなった。目が離せないくらいにね。そして一杯傷もついてる。可哀想に」 小さな声で、甘やかす様に囁かれる言葉。まるで父親の様な言葉遣いが、安心感を呼ぶ。彼は時折、時節のメールを送る程度に抑えながら、多分、じっと待ってくれていたのだ。自分がこうやって彼に甘える事を。そして自分には、大谷の方が合うのだろうか。 恋を知るのは一度でいい。けれど、長く時間を過ごす伴侶やパートナーは、大谷の方がいいんだろうか。いつしか情から、愛に変化する事もあるんだろうか? 確かなのは、こんなに自分を想ってくれる人には、もう、多分二度と、出会えはしないという事だ。 抱きしめられたまま、くったりと身を預け、動かない秋野に、そっと大谷が告げる。 「悠樹? シャワー、するんだろ? それとも、このままベッドに行く?」 チュッと耳元に軽いキスを落として聞かれ、シャワー、と呟く。残念、と苦笑しながら、秋野を抱くようにして、大谷が広いバスルームへと連れて行ってくれる。性的なものを微かに含んだそのキスは、嫌じゃなかった。 入り口のドアと一緒の白い扉の向こうに出て行こうとする大谷に、秋野は声をかける。 「ヒデ、待って、お願い」 首を傾げて、近寄る大谷の背にそっと手を伸ばす。 「もっかい、ぎゅってして」 この男の方がいい。こんな荒れ狂うような激情を持て余すのは、もう嫌だ。苦しみたくない。清田の事を忘れたら……もうそれでいいのかもしれない。 「キスして、悠樹」 言われた言葉に頷き、ほんの僅か、自分より背の高い位置のそれに唇を重ねる。不思議と嫌悪感はなかった。ついばむような優しいキスを何度か繰り返し、そっと互いに身を離す。そのタイミングすらも計ったようにぴったりだった。 「時間はある。ゆっくり考えなさい」 そう言って大谷はバスルームを出て行った。 服を脱いで、磨きたてられたアンティーク調の金色の蛇口を捻って適温に調整し、身体を湯に打たせる。大理石で出来た、オフホワイトのマーブル模様のタイルで囲まれた浴槽は珍しいホーロー引きだ。シャワーヘッドも工夫がしてあるらしく、当たる湯の感触がとても柔らかい。 側にあったイスラエル製の高級石鹸で身体を流す。肌理細やかで独特のぬめりのある泡で身体を流してから、水流を上げ、浴槽に湯をためていく。近くに置いてあるヴェレダのバスミルクを僅かに湯船に入れた。どちらも大谷の私物だ。こういったものにまで拘りのある大谷はホテルのアメニティを使いたがらず、自分好みのものに切り替えてしまう。 バスルームに懐かしくも芳醇な薔薇の香りが、優しく広がっていく。秋野や清田の好みはサッパリとしたシトラス系のものだが、大谷はこう言う、甘い香りを以前から好む。 白濁した湯がたまる中で、秋野は膝を抱え、両肩を抱きしめるようにして身体を縮めた。彼好みの香りに包まれながら、今夜は、大谷と寝てしまうのだろうか、とぼんやり思う。大谷の方がいいのだ。内心で自分にそう言い聞かせながら、呟く言葉は清田との事ばかり。 「3ヶ月か。随分早かったよな……」 清田に別れを告げるのは怖い。けれど、付き合い続け、翻弄され続ける事を思うと、それだけで、押し潰されそうな不安がある。 自分は一体、清田の何がそんなに好きだったんだろう、と、ふと思う。そして思いつく限りの箇所を、指折り数えてみた。 あの朴訥で純情なところ。自分や小さな子供、お年寄りたちに向けられるその慈しみに満ちた優しい瞳や気持ち。そして実際の優しさと労わり。意外に気弱な部分。自分をもしのぐ笑い上戸なところ。 手先は器用なのに、無器用な所もある。絶品のキスに、甘く深い悦びをくれるセックス。偶然にも二人ともが好んで身につけていた柑橘のコロン。その精悍で、彫りの深い、幾ら見ても見飽きない美貌。なのに驕った所の無い、堅実かつ誠実で、地味ですらある性格。 散々羅列してから、ふと思いつく。一緒にいて苦しかっただろうか? 不快な事があっただろうか? いや、とても楽しかった。弾むように嬉しかった。不快だと思った事すらも喜びや笑いにすり替えられ、哀しい時には同調も出来る。 清田を心底好きになったと自覚したのは、初めて一緒に映画に出かけた夜だった。人気のある映画の為、結構な混雑に遭い、チケットを買うために二人で列に並んでいた時の事だ。不意に横合いからドン、と年配の男性が秋野にぶつかるようにして割り込んできた。ムッとした秋野は軽くその男性を睨んだのだが、自分達の前には、彼の連れがいた。先に列に並んでいたらしい。 ならば割り込みではないし、仕方ない。そう諦めはしたものの、ぶつかった事くらい、謝っても良さそうなものだ、とは思っていた。 館内に入り、席にかけた後で清田が耳元に囁きかけてきた。 『さっき並んでた時、秋野にぶつかったオジさんさ、解りにくかったかもだけど、謝ってたみたいだぞ』 『え? そうだっけ? おれ、そんなの聞こえなかった。うわ、無視しちゃったかな?』 清田の言葉に驚きつつも、謝られた記憶はないんだが、と思っていれば、いやいや、と清田が説明をしてくれる。 『ゴメンとは言ってない。本当にチョコッとだけど指、上げて謝るみたいな素振り、してたのが見えてさ。それ、多分秋野は気付いてないだろうなって。どうせなら振り向いて、ちゃんと謝れよって俺も思ったけどな。でも、一応、悪かった、とは思ってたみたいだぞ』 その言葉を聞いて、何て物を良く見ている男だろう、と驚いた。確かに清田は目が早く、観察眼も鋭い。なのに、彼の物の捉え方は、どこか、とてものびやかで、率直かつ、素直だった。この件のように、ちょっとした言葉にも、常に余裕や優しさ、労わりなどが、含まれている。逢う度にそう感じる事が増えて、益々惹かれていったのだ。 それ以外にも清田の色んな部分を知って、自分は随分変わったように感じる。二人でいて感じたのは、多分、大谷とは異質のものだ。今まではドライで割り切っていて何者にも縛られたくないし、飄々としているのが好きだった。 清田といると、自分を大事に出来るし、好きになれるような気がする。それに自分の感情の幅が大きくなったのがハッキリと解る。まるで乾いていた砂地に潤いを与えられ、豊かなものになる様な気分だ。言い換えれば重く湿っぽい部分も多いかもしれない。しかし光が眩しければ闇は濃いものだ。 コントラストがくっきりとした方が、哀しみや辛さは強い。けれど、喜びも深く濃く、蕩けるほどに甘美なのだと、最近知った。何より、今後、ずっと一人でいられる自信や強さが無くなってしまったようにも、感じる。 ふうっと吐息を漏らして足を伸ばし、湯船に身を横たえる。自分自身の感情がこんなにも思う様にならず、自身のみならず、他人を振り回してしまうとは、思ってもみなかった。大谷もこんな相談を受けて迷惑だろうに、と苦笑が浮かぶ。ふと、相談、と言う言葉が頭にひっかかった。 自分も恋愛や付き合う男に関しての相談は結構、受けてきた。そう言う時、大抵は大谷と同様、相手に気持ちを聞いて確認したら、と返事をしたものだ。迷ったり悩んでいるぐらいなら、相手の言葉を聞いたら、と。 他人には、散々そう言って来た。苦しい、嫌な結果になったら、と、自身の問題から逃げるのは卑怯だとも。 なのに、自分が今、大谷や、清田に対してしようとしているのは、最大級の卑怯な事だ。自分に対して彼らは、可能な事を、出来る限りで試そうとしてくれている。自分はそれから目を反らし、楽になる方法ばかり考えてはいなかっただろうか? 携帯のメール着信の振動が、再びバスルームに響き渡った。湯船から上がり、備え付けのバスローブを羽織りながら画面を見る。母からだった。清田からのものは一時間以上も前になっている。そんなに話しこんでいたのか、と思い、ふと気が向いて、届いたものから順にメールを開けてみた。母からはいつもの如くの定型文だった。 清田のものの一通目は、どこにいるのか、頼むから話を聞いて欲しい、と言う懇願調のものだった。見合い相手の女性が、昨日の友達がいたと気付いて教えてくれたので、追いかけたが間に合わない。頼むからメールを見て出てきて欲しい、話を聞いて欲しいと綴ってある。あれほど目の早い清田が気付かなかったのは、とても珍しい。しかし彼の集中力の凄さも知っている。目の前のタクシーに気を取られていたら秋野の存在が目に入らなかった可能性は、確かにある。 「そっか、無視されたんじゃなかったんだ。……良かった……」 そう呟きながら励まされるようにして、二通目を開く。 フロアだけが解ったから、出てくるまでエレベーターホールで待っている、とあった。 そう言えば、と締まりかけたドアを思い出す。あれは清田だったのか。そしてエレベーターは確か途中停止をしなかった。これは清田の運の強さだろうか。それとも自分と彼の縁がまだ切れていないと言う事だろうか? ストーカーじみていて迷惑かもしれないが、待っているから、と続けられ、そして、末尾の文章を見た。途端に秋野の目から、ぶわっ、と、涙が噴き出してくる。 「……電話も考えましたが、敢えて言葉を残したくて、メールを送ります。電源を切らないのは知っているので、見てくれる事を祈ります。今更かもですけど、俺は秋野の側にいたい。秋野の事が好きなのです、どうしようもないほどに」 昨日のものとは比較にならぬほどの勢いで、涙が次々と流れ落ちてくる。しゃくるような呼吸が突き上げてくるのを必死に堪えながら携帯を握り締め、冷たい大理石の床に、寒さも構わず突っ伏した。 清田が自分にくれたこの気持ちに、どうして応えずにいられるだろう。迷う余地などありはしない。自分の側にいたい、好きだと言ってくれる清田に、自分はイエスとしか言えやしない。差し伸べられたその腕を、拒める訳が無いではないか。 ひとしきり声を殺して泣いた後、慌てて立ち上がる。こうしてはいられない。今すぐに逢いたかった。浴槽の湯を抜いてシャワーで身体を洗い流す。髪をしっかり乾かして、震える手に苛々しながら、全ての服を急いで身につける。 大谷には謝るしか出来ない。そして、こんなに情けなく、だらしない自分でも大事に思い、受け入れようとしてくれた事には、礼を言うしか出来ない。 バスルームから出てきた秋野を見た大谷は、ふうっと大きな息を吐いた。秋野が服を全て着ている事だけで、察したようだ。 「ごめんね、ヒデ。おれ、馬鹿だったね。本当にありがとう。ごめんなさい」 すっ、と綺麗な形の指が、涙の滲む秋野の目を優しく拭う。 「そう。残念だけど仕方ないね。別れたり嫌になったらすぐに連絡するんだよ、いいね?」 憎まれ口を言う彼にぎゅっ、と抱きしめられ、抱き返す。甘いジャギュアの香り。これとも、もうお別れだ。 彼にはそれだけで、全て通じるだろう。先ほどのキスは結果的に、別れのキスになってしまった。今度は言葉を告げる番だ。 「本当に今までありがとう。気持ちに応えられなくてごめんね。さよなら、ヒデ」 そう告げると、秋野はきびすを返し、ドアを開けた。 やや照明の落とされたエレベーターホールで頭を抱えるようにして椅子に座り込んでいる清田の影らしきものが見えた。早く彼の所に行きたい。声を聞きたい。もどかしい思いを落ち着ける様に、わざとゆっくり、廊下の絨毯を踏みしめ、歩いていく。
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