痴漢は恋のキューピッド?! **3/4**

きくち 和

 空港からは私服のまま、本社に直行して顔を出す。今回の帰省に尽力してくれた課長には帰社の挨拶と礼をせねばならなかった。
「おう、帰ったか。仕事はたっぷり溜めてあるぞ、連日残業の覚悟は出来てるんだろうな」
 にこやかに課長が手を挙げて迎えてくれる。
 フロアに残っていた同僚が軽くアイコンタクトを取って表情を崩したり、頭を下げてくれる雰囲気も、結構嬉しい。まだ、この部署に自分の居場所が残っているようで、ホッとする。
「長らく留守をしてご迷惑をお掛けしまして……坂本所長からも宜しく伝えて欲しいとの事でした」
 軽く頭を下げて通り一遍の挨拶をする。
「ああ、さっき電話があった。『先生を取り上げられたき、まぁだモタついちゅう』ってさ。あんま、アテにしないで、いい加減自立してくれっつっといたがな。ご苦労さん。それはそうと、お前、まだずいぶんいい色が残ってんな。確かアッチは熱いだろう」
 もともと色白な方ではないが、初冬の今も日焼けが残るのを指摘された。出向先だった南国、高知の日差しの強さは尋常では無い。

 山野は身長が182センチと比較的高く、目鼻立ちはクッキリとして彫りが深いタイプだ。 
 太目の釣り上がった眉にハッキリした二重、瞳は髪と同様の漆黒で、通った鼻筋にやや大きな口。唇はさほど厚くない。シャープに削げた頬のラインをしっかりとした顎が纏め、正に男顔そのものだ。雑誌モデル出身の、10歳程年上の俳優に似ている、とよく言われる。
 その上、現地で気の合った得意先の舟釣りに付き合う事も多く、余計、日焼けを重ねた。
 しかし美味いカツオ料理の秘訣も教わったし、魚料理や目利きに関しては俄然腕が上がったと思う。きっと魚の大好きな慧にも色々目新しい物を食べさせてやれるだろう。
 後日届く様に手配をした地酒や、刀鍛冶出身の名工に誂えを頼み、慧の名入れをして貰った包丁もきっと喜ぶに違いない。正直寂しく辛かった事も多いが、1年を地方で費やした余禄は、それなりに仕入れてきたつもりだ。
 
 職場での顔合わせを終え、ビルを出ると、ホッとする。これで間違いなく帰省は叶ったのだ。
 後の気がかりは、ただ一つである。急くような心境のままに帰宅し、打ち合わせ通り、13時に引越し屋と合流する。平日の午後ならば慧はまだ学校だろう。
 様子を伺えば矢張り隣室からは物音一つせず、フロア自体が深閑としている。単身者の入居が多いアパートでもあり、日中はいつも静かなのだ。
 なるべく荷物は増やさないように気を配ってはいたものの、それでも何かと増えている。帰省を機に奮発し、ベッドも慧の好みそうな和のテイストで、質の高いダブルの物に買い換えた。出来れば近いうちに本腰を入れて口説き、気持ちを告白しようと決めた山野なりの決意表明の証だった。
 一つ何かを変えれば色々と触りたくなるのは仕方がない。結局あれこれと包装や荷を解き、何とか生活が出来るレベルに片付いたのは、20時を回った頃だ。
 時計を見て、そろそろ帰っているかと隣を見れば、まだ部屋は暗い。携帯を見れば、着信もメールも入っていない。
 文字数は減っても、毎日の様にメールが入っていたのに……と不審に思う。しかし引越作業の後の空腹には耐えかねた。施錠をしてから、山野は近所のラーメン屋に駆け込み、胃袋の要求するまま、久々の東京の味わいを満喫した。

 先日までいた四国の高知と言う土地は実に色々な料理が美味く、しかも驚くほどに物価も安い。しかし、矢張り長らく馴染んだ街が一番良い。
 塩味と醤油の色の濃い黒いようなスープに油ぎったチャーシュー。入った煮卵が茶色く染んでいるのすらも慕わしく思える。何と言ってもテンポが早く滑舌の良い、慣れ親しんだ言葉が耳に入るのが、心地いい。
「800円になりまぁす、ありがとうございましたーっ、またお越し下さいませえっ」
 昨日の昼に食べた物よりは幾分味の落ちるラーメンに、倍近い価格を払う。それでも空しさでなく、むしろ、やっと東京に戻ったと言う実感が増した。
 店の外に出ると、排気ガスの異臭が鼻を刺し、身に染みる低い気温と、独特の重いような湿気が澱んでいる。郷愁、と言う言葉が山野の脳裏を過ぎった。
 以前ならば感じなかった心境かもしれない。近くのコンビニでビールや雑貨類を求め、部屋に戻る。隣室はまだ明かりが灯っていない。
 特に合宿などがあるサークルや学部だとは聞いていなかった。若しくはタマには実家に帰っているのかもしれない、と山野は溜息を落とした。会えなかったのは残念だが、間違いなく慧は隣の部屋にいる。 
 それが解るだけで自分の気持ちにも、少しばかり、余裕が出来ている。
 風呂を使い、新品のベッドで一休みをするつもりが、昼間の疲れのせいか、そのまま眠りの国へとダイブしていた。

 翌日は引越しの残りを片付け、役所巡りをする予定だった。特に急ぎの仕事はないらしく、会社に出る必要はなかったが、課長の口ぶりで少し気になった物件もある。
 なので、午前中に少し顔を出して流れを掴んでおいた方が良い、と言う話になっていた。その後は、繁忙期の師走前に叩き込んだ代休を合わせれば、4連休だった。
 携帯のアラームに飛び起きれば、まだ6時前だった。昨日、早めに設定したままだったらしい。熟睡感はあったので、欠伸を噛み殺しながら起き上がり、シャワーを浴びて、軽く出社が出来る程度の身支度を整える。
 
 そういえば、慧は帰宅してきたのだろうか?
 一応、土産の大きな紙袋を手に、玄関のドアを開けてみる。慧は若者には珍しく、早起きが苦にならない体質らしい。この位の時間にならば既に起きている事がある。
 袋の中は慧の好物である水晶文旦だ。高知名物の柑橘で果実の女王と呼ばれており、秋からの収穫物である。
 早く渡したくて、かさ張るのをモノともせず、手荷物と一緒に持ち帰ったのだ。
 このマンションは2階まではテナントで、3階からが居住部になる。昨日のうちに上の階と、管理人兼務の大家にはきちんと挨拶をしてあった。片方の隣は、空室のままだ。
 初冬の夜明けは遅く、辺りはまだ暗い。刺すような冷たい空気に身を竦めながら、そっと隣室を伺う。すると玄関のドアがうっすらと開いているのが見えた。在宅時には時折こうやって換気をするのが慧の悪い癖なのだ。
 間違いなく人の気配もする。早くも起きているのだろうか?
 誰か知り合いでも訪問しているのかと山野は呑気に
「おいおい、慧、また玄関、あけっぱで。無用心だぞ、おーい、おはよう、慧!」
 軽くノックをして中に声をかけた。いつもなら即座に返るはずの応答がなく、不審に思いながら玄関に入り込む。靴箱の横に一旦、袋を置いていると、室内から聞きなれぬ声がする。悪趣味だと思いながらも、つい、耳をそばだてた。
「君のそれ、ヘタしたら多分マジに流血とかしそう。初めてにしてもキツイ方だね。自分でローターとかで慣らしてからの方がいいよ。訓練してみたら? 俺でいいならまた、店で声かけて……ん? ね、お客さんみたい」
 見慣れぬ若い、華奢な体型の青年が、慧の寝室から頬を撫でながら出てきた。見れば少し赤く腫れている上に薄い引っ掻き傷が2筋ほどついている。
 彼は山野の姿を認めて、奥に声をかけ、どうもー、と言いながらこれみよがしな流し目を送ってくる。しかしそれ以外には特に目立ったアクションもなく、スタスタと部屋を立ち去って行った。
 山野は、ボンヤリとその後姿を見送り、首を傾げてハッと気づいた。彼のあの露骨な視線には記憶がある。

     え? 今、俺、値踏みされた? って事は……あれ、ゲイか?
 そう思った途端、山野の頭の中は、一瞬真っ白になった。奥から慧が鼻を啜りながら、ふらり、と部屋から姿を覗かせた。
「はい……どなた様ですか……少しお待ち下さい」
 非常識な時間の訪問者にも丁寧に応対をする無用心さと、品のよさは相変わらずだ。
 僅かに見えたその姿は厚手のシャツを羽織っただけのものだった。すんなりと延びた綺麗な白い素足が、目の端を掠める。
 山野の頭の中に血流が一気に流れ込んだ。そのまま無言で身を翻し、自宅に走りこむ。大急ぎで携帯と財布と部屋の鍵を引っ掴むや、震える手で必死に施錠し、再び慧の部屋へと取って返す。
 勝手知ったる他人の部屋の内鍵を閉め、そのままドアチェーンまでしっかりとかけた。部屋の主の許可を得ず、靴を脱ぎ飛ばし、そのまま慧の寝室に駆け込む。
 見れば腰を庇うようにしながらスウェットの下に足を通している所だった。
「慧、慧! 何された? まさか怪我してないだろうな? っとに……何やってんだ、お前は、このバカ野郎!」
 華奢な腕を掴み、揺さぶるようにして聞けば、呆然と慧が山野を見上げてくる。下着はかろうじて身につけているが、上半身は裸にシャツを羽織るだけと言う実に悩ましい姿だ。
 山野が腕を掴んだ勢いで、足元に履きかけていたスウェットがストン、と落ちてしまう。 
 見れば目は真っ赤になり、透けるほどに白い頬には涙の跡が見える。
「あ、あっ! 山……野……さん? 何で……ここにいるの?」
 裸眼のままらしく、目を細めて確認するようにしながら、小さな声で呟かれ、山野は、ハッとした。
 もし、これが合意だったのならば。慧が選んだ相手が今の彼なのならば……。
 最悪の事態を想定してしまい、掴んでいた掌の力を緩め、慧から軽く身を離す。
「ごめん。勝手に上がりこんで。こっちに復帰の辞令出たから……昨日から引っ越して帰ってきたんだ。部屋、隣が借りられたから……いきなり黙って帰って、驚かそうと思って。それで返事も……わざと、しなかった。ひょっとして、迷惑だったか?」
 必死に気持ちを落ち着けながらなるべく冷静に、事実を告げた。
「帰ってきたんですか? それに……本当に隣に? 僕、嫌われたんじゃなかったの?」
 とんでもない言葉が出てきたのに今度は山野が驚く。
「おい。何で俺がお前を嫌うんだよ」
「だって……あんなに返事がなかったの初めてで……段々返事とか短くなってるし。忙しいのかなとは……でももう僕とか構ってられないのかなとか……。今まで電話したら絶対に返してくれてたけど、それも……ないから。邪魔しちゃいけないって我慢してたけど……ごめんなさい」
 しゅん、としょげてしまう慧に山野は我慢が出来ず、さらさらの、少し長くなった明るい色の髪を掻き乱す。
「バカ。お前みたいな可愛い奴、誰が嫌いになるんだ。それはそれとしてだ。慧。さっきのありゃ、何だ。しかもそれ……まさかとは思うけど。ヤラせてねえだろうな」
 途端、慧の顔が真っ赤に染まる。ボクサーショーツの上にシャツ一枚。しかも太腿にはふき取り損ねたのが明らかなローションが僅かにショーツから零れ、艶かしく筋を引いて光っている。悩ましい事この上なしで、しかも言い逃れのしようがない格好だ。
 先ほど聞こえた彼の台詞を信じるならば、まだ、未遂だろう。そして男性相手に破瓜を図ったと言うのならば、もう迷う余地は無い。
 これを逃して慧を手に入れる機会は、無い。
「……ごめんなさい」
 詫びる慧に吐息をつきながら、ベッドへと腰掛けさせる。

「慧。こっち向け」
 ベッドの上に胡坐をかいて向かい合う。
 下着を隠すように正座をする慧の膝に手を置き、山野は慧の目を見つめた。
「正直に言うぞ。初めて見た時からお前が好きだった。すぐにでも欲しくてたまんなかった。俺ぁな、ゲイなんだよ、慧。でも……お前は直接ではないけど、恩師の息子さんだし。それにお前の事、知れば知るほど……簡単に身体目当てで口説くような真似だけはしたくなくなった。本気で惚れちまったから」
 山野の手に、慧がそっ、と自分の掌をかぶせる。
「ほんと……? これ夢じゃないよね?」
 呟くように漏らされた、愛らしい問いに、力強く山野は頷いた。慧の瞳は潤み、涙がじわり、と零れ始めている。それに力を得た山野は、最後まで一気に喋った。
「年の差も気にしてたし、臆病にもなってた。モタモタしてて……お前の気持ちが有る程度解ってから話そうと思って愚図ついてた。でもこうやって面と向かって聞くのも怖くて。こんな女々しいオヤジなんか、迷惑か? さっきの奴が好きなら仕方ない。お前が選んだ相手だし、俺は諦める」
 それを聞いた慧が、激しく首を横に振り、小さいが、しっかりとした声で告げる。
「山野さんが好きです。ずっと……電車で助けて貰った時から、ドキドキして……。僕……女の子に、そう言う気持ちとか、持てなくて。多分、男の人の方がいいのかなとは思ってたけど、好きになった事は……なかったし。それに、電車の中で山野さんがあの人と話してたの聞いたり……キスもして貰ったから。ひょっとして両想いかもって勝手に舞い上がって、調子に乗って。安心しきってた」
 今回の件以外は、どんなに多忙でもメールはきちんと返信したし、電話は滅多にかからないからこそ、必ず折り返していた。それを、慧も解ってくれていたのが、山野には嬉しい。

 けれど、慧は、返事が滞り始めた時点で、すぐに煮詰まってしまったらしい。言わばこれは山野にも原因がある。今まで散々過剰なほどに構い、甘やかしていたせいで、普段は冷静な慧も、不測の事態にどう対処して良いか解らなくなったのだろう。
 電話もメールも返事が返らない以上、会いに行くのも躊躇われる。どうしたら良いかもわからず、話が話である以上、そこまで相談出来る相手もいない。
 そこでふと、思い出したのが電車で出会ったママの存在らしい。抜け目のない彼は慧のいつも手持ちにしているバッグにちゃっかりと店の名刺を突っ込んでいたそうだ。
 開店は酷く遅く、24時オープン朝6時閉店と言う完全な宵っ張りの為の店だ。しかし慧は兎に角ママと話してみたいと思ったそうだ。
 翌日の午前に余裕がある日でなければ無理なため、昨夜が決行日だったらしい。授業の後、食事を済ませ、出先で適当に時間を調整して、2丁目へと出かけたそうだ。
 しかし残念ながらママは急用で休み、との事で、店にはいなかった。折角だからとママの代理を務めている青年に薦められ、余り人目に立たぬ角のコーナーに案内された。
 慧は、山野との約束通り、ノンアルコールドリンクを一杯飲むだけで、すぐに帰る予定だったそうだ。
 そこにわざわざ声をかけてきたのが先刻の男だ。どうやら何度か店に顔を出した事もあるらしく、カウンターの中の青年とも親しげだったと言う。
 そして実に優しく気軽に話しかけてくれたそうだ。初対面にも関わらず、巧みに慧の話を引き出してフンフンと気長に聞き、
「ゲイかどうかを試すってんなら簡単。オレとしてみる? バージンなら慣れてるし」
 と言われたそうだ。当然、断ろうとしたが、彼は実に説得力のある台詞を告げてきた。
「もしその人と両想いで付き合うにしてもさ。その歳ならかなり遊び慣れてると思うんだよね。バージンとかも食い飽きてんだろし。それに初めてだと、後々気持ち引き摺る奴多いし。結局、割り切れないからって面倒くさがられる事も多いんだよ。それに最初はさ、あんま好きな相手じゃない方が俺の経験的には、オススメ」
 事に及んだは良いものの、行為には異性愛者とは違う、とんでもない箇所を使う事もあるのは事実だ。どんなハプニングが起きるか解らない。
 そこまでを望むならば、むしろ割り切った相手の方が気が楽だと、自分の苦い体験を踏まえて教えてくれたそうだ。本番まではしないにしても、雰囲気は試せる。本当に無理だとかイヤだと言うのなら、無理強いはしないとも言う。
「ま、一種のお試し体験? 擬似本番でまあ、流れによればそりゃ、アリかもだけど」
 こう畳み掛けられると、慧も思わず考え込んだらしい。彼が初めての相手に手痛い失敗と失恋をしたと言う話は、相当身につまされたと言う。貰い泣きをするほど切ない失恋話につい引き込まれていれば、早くも4時を過ぎており、結局タクシーで帰宅したそうだ。
 
 今も傷を引き摺る雰囲気の彼を何となくそのままは帰しがたく、せめてお茶でもと部屋に上げて話を続けていたらしい。その内に、つい、そういう雰囲気になったと言う。
 傷の舐め合いは惨めさを増すだけだと解っていても、手近な人肌や慰めが欲しい事は、誰しもあるものだ。
 しかし、どんなに慣らしても彼の細い指にすら恐れが勝り、中々思うようには運ばなかった。
 急に遮二無二、分身の挿入を図ろうとした相手に怯え、手が出てしまったらしい。先程の彼の負傷はその跡だ。ひたすら詫びる慧に、彼は
「やっぱどんなに痛くても、みっともなくてもさ。ホントは好きな人とがいいよね。話、凄く親身に聞いてくれたし、いいよ」
 と苦笑しながら、あの台詞を告げていたらしい。

 経緯をポツポツと慧が話すのを聞き、山野は思わず片手で目を覆い、天を仰いだ。
 確かにあの店は、常連も人柄を選別しているし、比較的安全な部類だ。店でのハントも当人同士の合意が無ければ基本はご法度だ。
 素人相手だったのは間違いないらしく、こうやって無事でいるが……。
「慧……それは、お持ち帰りって言ってな……。相手にまだ聞く耳があったからいいけど。無用心にも程がある」
 柔らかな口調でたしなめれば「ごめんなさい」と小さな声で詫びてくる。
 しかし、そこまで慧を追い詰めてしまったのは、自分だ。
 とは言え、相変わらずの慧の大胆さには驚かされる。相手次第では、今頃、とっくに、どこの誰とも知らぬ男に陵辱されていただろう。それを考えるだけでもゾッとしてしまう。

 山野の見立てでは、先ほどの彼は、多分ネコこと、受身のタイプだ。多分本気で慧を犯す気は無かったと思う。あるいは、余りに無垢で世間知らずな雰囲気の慧を、少しいたぶってやろうと言う悪意が僅かにならば、有ったかもしれない。
 だとしても、余りに真摯な慧の誠意にほだ絆されたか、肩すかしを食らったのは間違いなさそうだ。ともあれ頭の良い、人柄もさほどは悪くない男だったのには感謝だ。
 しかしどこまで許したのかは後で、追及しておかねばなるまい。

 ふと目をやればベッドヘッドにローションとスキンがこれみよがしに揃えられている。鼻を啜り上げる慧を軽く抱き締めながら ローションを手に取れば、合法でも有り、微かにだが、催淫効果の含まれている物だった。
 そういえば部屋にも何だか悩ましい香りが満ちている。サイドテーブルにこれも、ムードを盛り上げる為のルームフレグランスが鎮座していた。
 余りに準備万端なセッティングに山野は思わず失笑を漏らしてしまう。
「確かになあ……努力の跡は認めるよ。でもな。慧。好きな相手となら、ちょっとした事だけで凄く気持ちいいと思うぞ。なら、俺とした方がいいって思わないか?」
 見れば慧は少しばかり頬を赤らめ、足をもじもじさせている。ローションが効き始めたのかもしれない。ふと思い出して、山野は慧の耳に囁いた。
「慧……俺とはあんなキスだけで満足か?」
 その台詞を聞いた途端に慧の顔がうっすらと朱に染まった。矢張りあの時、寝た振りをしていたのは慧の言葉通りなのだろう。余りに間抜けな自分が悔しい。しかし、山野の胸の中に、暖かいものがジワジワと満ちてくる。
 腕の中にいる彼が、酷く愛おしい。
「俺も迂闊だったけど。ママとの話、聞いてたんだろう? あのキスするのだけでも、結構、根性出したんだけどな」
「ごめ……」
 謝ろうとした慧の口に、山野はそっ、と指を当てた。そのまま掌で頬を支え、慧に唇を近づけて、視線だけで続きを促す。躊躇う気配の後、そろり、と柔らかな感触が触れた。

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