残り香


 目覚めた時、既に日は中天に差しかかろうとしていた。
 うだるような暑さの中、いつの間にかタイマーが切れていたエアコンのスイッチを、つける。
 朝方までシーツの中で共に楽しんでいた相手は背を向けて、健やかな眠りを貪っている。
 この暑さと、蝉の合唱の中で目を覚まさない、と言う事はかなり熟睡しているのだろう。
 おだやかな吐息が、普段は好きなのに、暑さゆえの苛立ちで、それすらも、うざったい。
 今年は聞くのが遅かった蝉の大合唱が…マンション10階のここまでジリジリと響いてくる。
 蝉に罪はないのだが、シャーシャーと喧しいクマゼミの声だけは嫌いだ。
 しかも奴らは不必要なくらいに図体がデカいところも、気に入らない。

 初秋に控えめに鳴く、ひぐらしや、つくつくほうしの泣き声には風情があるが…、単に摩擦音としか聞こえないクマゼミのこの音だけは、命を満喫している彼らに申し訳ないが。
……火炎放射器ででも一撫でしたくなると……思うくらいは許して欲しい。

 身じろぎをする度に匂う、互いの汗と…行為を思わせるもう一つの独特の臭気に少し眉を潜め、そろり、とベッドから抜け出した。
 冬なら気にならないのに、夏になれば腐臭すら感じるのは、単に夏が嫌いゆえの八つ当たり、とも言えなくは、ないだろうか。


 眠っている相手に気遣い、カーテンは閉めたまま、ベランダの窓を雨戸にして、部屋を換気する。
 エアコンをつけてこれでは、不経済この上ないが、換気をするには仕方ない。
 

 風呂場に入ると、湯が出るのも待ちきれず、水のまま頭からシャワーを被った。
 ムワッ、と臭気が広がる。
 タバコと精液と…汗の臭い…自分と相手の……残り香。
 生殖をなさない情事のあとの…どこか切ない、ツンとした青いような…夏以外になら愛情すら感じるこの香りが…今は無性にたまらなかった。
 そのくせ…身体は昨夜の快楽を思い出し…背筋に微妙な戦慄が通る。
 

 ここ数年、夏になると決まって買い込むルベルの黄色いトニックシャンプーを手にとり、髪をあわ立てると、少しホッとする気がする。
 少し懐かしいオレンジの中にミントが入った清涼な香りに、やっとささくれ立った気持ちが緩むのだ。
 地肌に染みる僅かなメントールがヒートアップしかけの血液を慰めるように、かかる熱い湯に流す汗と、反比例して血液を冷やしていく。
 このルベルのシャンプーと、シーブリーズのボディーソープがなければ、夏を乗り切れない気がする。
 タバコもメントールでなければ……吸う気が起きない。
 冬生まれのせいなのか、それとも単に熱さが嫌いなのか。
 子供の頃はそれでも…夏は楽しみで、そんなに苦痛でもなかったのに、社会人になってからこっち、様々な小道具に頼らねば夏が乗り切れない自分が情けない気がする。
 夏バテはしないのに…心がバテてしまいそうになるのだ。
 特に夏にイヤな思い出が有る訳ではない。
 単に、東京の湿気のこもった逃げ場の無いような暑さが…嫌いなだけだ。

 今の恋人は愛しているのに。
 共にいる時間は好きなのに。
 交わす情事も…際限がないくらいに、溺れ込みたいのに。
 夏だけはイヤだ。
 気候上、なくてはならない季節だと理性でわかっていても、年ごとに夏がイヤになる。


 熱めのシャワーを段々ぬるく切り替え、ボディソープで丹念に身体を拭うと、利明は、やっと深い吐息をついた。
 と、風呂場の入り口が開く。
「……夏の匂いだな」
 起きたらしい。
 付き合い始めて2年目の夏。
 けれど、知り合ってからは4年目。
 相手の意外な言葉に、利明は驚いた。
 気づいているとは思わなかった。
 永木は小さく笑うと、俺も夏はコレにしよっかなー…ペアルックとかは寒いけど、と呟き、バスタブを跨ぎながら、利明の唇を吸い取った。
 

 夏は…嫌いだが…2人で快楽をわかちあう熱が、暑さの中でも不快でなくなったのは、いつ頃からだったろうか。
 思い出す暇もなく、ぬるいシャワーの中、永木の熱に、再び身を委ねる。
 オレンジとミントの…爽やかな、そして、嗅ぎなれた、永木の汗の…自分の一番好きな匂いの中で利明は、ゆったりと目を閉じた。
 口元に、微かな満足の笑みと、齎され始めた感覚に、甘い吐息を、刷きながら……。


END
                      

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