TimeLag 番外 〜3年目の風景〜*リライト前*
「どうも有難う御座いました、是非ご検討下さいませ」 係員の声に軽い会釈をしながら、利明は不動産屋の自動ドアを出た。ビュン、と痛いほどの風が頬を叩くのに軽く目を眇め、フッと軽く息をつく。無意識に緊張していたらしい。 すうっ、と目の前に吐いた息が白く凝って闇の中を流れていく。 昨日はバレンタインデーだった。恋人達の甘い雰囲気の覚めやらぬ翌日、金曜日の19時。冬でも寒気の一番厳しいこの時期が、利明のお気に入りだった。 街には既に闇が広がり、車のヘッドライトとテールランプの暖色の帯が車道に並んでいる。通り沿いに、早くもホワイトデー用のディスプレイが華やいだ雰囲気を醸していた。 クリスマスから正月用に切り替わるときも見事だが、この時期もまた、たった一日で雰囲気が変わってしまう。バレンタインに多い赤系統の派手さより、もう少し淡いような優しい色合いがこちらには用いられている。チカチカと瞬くイルミネーションも穏やかな色をチョイスされている。 不動産屋から地下鉄駅までの短い距離を歩きながら、ホワイトデーのディスプレイの方が好みだな、と利明は思う。 カツカツとヒールの澄んだ足音を立てた美女が、颯爽と利明の横を通り過ぎて行く。ふわり、と甘い残り香が鼻を擽った。身につけているもののグレードが高く、派手やかな雰囲気なのを見ると、OLではなさそうだし、ヒルズ族とも思えない。近隣の店に出勤するタイプの女性だろうか。 24時間眠らない街、六本木はゆったりと夜の表情へと、趣を変えて行きつつある。 利明は通いなれた地下鉄駅の構内へと入ると、軽い足取りで階段を駆け下りた。今宵は自宅のある武蔵小杉までは帰らない。恋人の家が恵比寿の為、途中下車をするのだ。 今年はバレンタイン当日が、木曜日だった。 当日にお泊りは無理でも、アフターバレンタインの雰囲気くらいは味わいたい。せめて週末には自宅に来て欲しいと言うのが、恋人のリクスエトだった。 当然、プレゼントは既に準備済でブリーフケースの中だ。欲しいけどどうしようかな、と呟いていた最新版のiPodtouch。 そして、利明の胸中には、これこそ真打と言える、もう一つのプレゼントが潜んでいた。随分以前から永木に相談されたり、強請られていたに近い事柄ではあったのだが。 店の中に居た時に微かに振動していた為、ホームで電車を待つ間に携帯を確認する。 案の定、そろそろ来られそうか、と言う催促兼確認のメールだった。今から向かう旨を返信すれば瞬く間に返事が返ってきた。 駅の改札まで迎えに出ると言ういつもの文面が照れ臭い。毎度毎度で、子供じゃあるまいし、とも思うのに。けれど、だらしなく頬がニヤけてしまう。だれが見咎めるでもない顔を、慌てて引き締めながら電車に乗り込んだ。弾むような嬉しさが喉の奥からぐっ、とこみ上げてきてしまうのが、何だか少し、恥ずかしい。 永木は駅の出迎えを始めとして、案外ベタだったり、気障な言動が多い。職場での愛想の無さや傲慢ぶりを知る人が見たら、耳目を疑う事は間違いないだろう。 そして付き合い始めて早くも三年が経過すると言うのに、彼の情熱的なアピールは未だ一向に、衰えを見せない。最初はそのギャップに驚きもしたし、むず痒いような気がしたものだった。しかし、今はすっかり馴らされてしまった。 どころか……相手に感化されたのか……最近の自分は、惜しみなく与えられるそれを、もっと欲しいとすら願ってしまうのが、うすら寒い程で。 (俺もいい加減、ベタだよなあ。もう三十にもなってんのに、恥ずかし……) ソッと自虐気味な台詞を心に思い浮かべても、どこか裏腹に、酷く甘ったるいような、頭に霞がかかったような感覚は、中々失せそうもない。 甘い気分のまま、車両に響く心地よい振動に身を任せ、先ほど見た新居候補の間取りや立地を脳内で反芻していく。 場所は永木のリクエストにより荻窪である。霞ヶ関方面になら、中央線の始発駅で新宿から丸の内線に乗換え。高井戸や三鷹の勤務なら、自転車、バイクと言った交通手段も取れる。 今の勤め先は霞ヶ関だ。だから直行便である日比谷線沿いの今の部屋が便利ではあった。しかし今後自分は高井戸や三鷹への配属が多いであろう。ならば、荻窪に引っ越した方が、後々は有利だ。だからその場所を永木から聞いた途端に、成る程、と思ったものだ。 しかし霞ヶ関への勤務が多くなるであろうキャリア組の永木には、今の場所の方が便利な筈だ。中央線の始発駅ではあるが、新宿で一度乗り換えねばならない。直行の上に、 たった4駅で到着していた今の場所より俄然リスクは大きい。その上、南阿佐ヶ谷から新宿方面だなんて、モロにリーマン臭い路線である。 利明は自分の思いついた疑問を挙げて、永木に聞いてみた。すると多少時間がかかるリスクを冒しても、実家に近く、土地勘のある吉祥寺や荻窪、三鷹の方面に戻りたいのだそうだ。 確かに吉祥寺から荻窪までは2駅の差である。吉祥寺だと実家の干渉が煩いだろうし、土地勘があってそこそこの場所と言う事で、荻窪が永木のイチオシらしい。 吉祥寺が近い、と言うのは永木にとってリスクが有りながらも、大事なポイントでもあるらしい。 どうやらショッピングデートに出かける事なども画策している気配が、言外にプンプンと匂っていたのだ。恥ずかしいながらも、ベタだ、と思ってしまう所以だ。 ともあれ、永木のたっての希望ならば、利明としては支障が無い。吉祥寺よりは、間取りが広くて安い部屋がある筈だと言う意見には、同意である。利明も同じ理由で、もし引っ越す事が有れば、荻窪は、最有力候補地の一つだったのだから。 永木の今の住まいである恵比寿のマンションは大学を出た当初に、知人の紹介で入ったそうだ。実家から通う事も出来たが、一人暮らしに憧れていたらしい。今は勤め先が霞ヶ関だし、生活にも便利だ。ただ、場所柄、家賃は似たような間取りの利明の部屋の倍に近い。金銭的にはさほど苦しくないが、住み慣れている雰囲気の方が良かった、失敗だった、とよくボヤいていたものだ。 ともあれ事あるごとに、一緒に住みたい、部屋を探そう、と言う永木の呪文に近い言葉を暫くは聞き流していたのである。 しかしある日、何気なくネットで賃貸情報を調べていた所、まさしくその荻窪に、良さそうなコーポがあるではないか。間取りもよさげだし、立地も申し分ない。早速不動産屋へ電話をして予約を取り、その部屋を見せて貰う事にしたのである。 周りの施設や立地は勿論、住みやすそうな雰囲気が、酷く利明の気に入った。男性同士の同居は嫌がられる事が多いのに、聞けば案外すんなりと了承が得られたのもラッキーだ。 自分にも便利で、永木の希望通りの場所に好物件を見つけられたのは嬉しい。その満足感を反芻し、再び頬を緩めた所に、車内のアナウンスが恵比寿への到着を告げた。 駅の改札を抜ければ、見慣れた長身が軽く片手を上げている。精悍な顔立ちが微笑の形に甘く綻ぶのを見た途端、ドクン、と胸が弾んだ。 ほぼ毎日見ている顔なのに……どうしてこんなに飽きないものか。いっそ悔しさを覚えるほどだ。なのに、小走りに駆け寄ってしまうのは、矢張り好きになってしまった弱みと言うものだろうか。 不自然でない程度に軽く腰に触れる相手と肩を並べるようにして、駅から彼の部屋へと歩き出す。 「寒かっただろ。用事、片付いた?」 何気ない問いかけに、ああ、と頷く。 今日は昼から半休を取っていた。物件確認の予約日が今日だった為、職場から一旦自宅に帰り、その足で現地へ出かけていたのだ。近くのよく似た間取りを持つ物件を何軒か見せて貰ったものの、矢張り最初に見つけたコーポが一番だった。家賃が少し高めなのもあり、すぐに決まる物件ではない。返事は一週間以内なら多分、大丈夫でしょう、と不動産屋の係員は言っていた。 当然、内緒の行動であるから、永木にそれは告げていない。彼の部屋についてからの報告にしようと思っていた。けれども永木がよく口にしていた、希望通りの物件が見つかったと言う嬉しさは抑えがたい。 ついつい、我慢が出来かねて、ぽろりと秘密の一端を漏らしてしまう。 「そろそろさ。引越ししようかって言ってただろ? それ見に行って来た。亘の言ってた荻窪でいいの見つけてさ。駅にも近いし、間取りも2SDKで丁度よくってさ」 唐突な話に驚いたらしい永木はエントランスを潜った所で立ち止まり、目を見開いて利明を見つめる。 その大きな瞳を見つめ、恥ずかしさを堪えながら 「それと、男同士の同居でもいいって」 そう告げた途端。 「……えっ?!」 頓狂なほどの声を永木があげた。自分の大声に驚いたらしく、慌てて口を掌で塞ぎながら、軽く咳払いをする。 「ごめん。ビックリして……」 声を潜めながら、利明に軽く詫びると永木は「とにかく続きは部屋で」と言いながら、幾分早足で部屋へと向かう。 今まで軽い口調でかわしていた会話は、途端に重い程の沈黙に変わった。共有部のシンとした廊下に二人の足音だけがコツコツと響く。その足音が利明の胸に重くのしかかった。 (ええっ? それこそ、えっ、て何だよ、それ……そんな驚かれるとは……。てーか、おれ、ひょっとしてマズった? 調子のりすぎた?) ドキドキと、鼓動が今度は嫌な速さで高鳴り始める。永木がこんなに驚くとは思わなかった。 だってつい、先週のいつだかも 『なあ、いい加減同居しねえ? 時間あいたら一緒に部屋、探そうよ』 ベッドの中で、しつこいほどにそう漏らしていたではないか。 しかし自分が独断で動いたのは不味かったか、とも思う。そう言えば永木は一緒に探そう、と言っていたのに……。余りの自分の浮かれぶりが苦々しい。利明はギュッと唇を噛みしめ、眉間にも、きつく皺を寄せた。 (マズったなあ。バカみたい、おれ。そうだよね。おれだって勝手に部屋探されたら……まあ別におれはいいけど、でも亘の性格なら独断はダメっぽいかも。うーわー。どうしよう。一人ではしゃいでバッカみたい……怒って……るよね?) 口を閉ざしたままの永木の表情を伺おうにも、部屋の前に到着してしまった。鍵が開き、つい、惰性で部屋の中へとついて行く。ベッドの近くにある炬燵の上には暖かそうなキジ鍋の準備が整っていた。 それでも何となく居心地は悪い。コートは脱いだものの、そのまま炬燵に入る気にはなれそうもない。さっさと自分の定位置に腰を降ろしていた永木は、そんな利明を見咎めた。 「どしたの? 中、あったまってるよ、寒かったろう? 座って話、聞かせて?」 柔らかい口調でそう声をかけてくる。しかしいつもの永木ならば、さっさとビールなり酒なりを冷蔵庫から取り出し、まず一杯と言うのが……決まりきったパターンなのに。 そのパターンを無視して話を先行で聞こうと言うその態度が……酷く怖いものの予兆のようで。先ほどから動揺の余り、鼓動が早まるどころか、微かに息すら上がっているのが情けない。 とは言え、このまま帰るわけにもいかない。薦められるままコートを畳んで炬燵の側へと置くと、無言で腰を降ろし、足を入れた。電気を点けっぱなしにしていたらしく、永木の言葉通り暖かい。 「……ごめん。勝手な事して」 俯き気味に、利明は小さく呟いた。 「えっ? えっ? ちょ、ちょっと。ちょっと何? 何で謝るの?」 驚いたような永木の顔がまともに見られない。余りに先走りすぎた自分の行動が恥ずかしい。 「だって……おれ……一人で勝手に独走して……」 「待って待って。ちょっとタンマ。トシ、独走なら今してるよ? 荻窪にいい物件あったんだろ? どしてそれで、ごめんな訳?」 泡を食った様子で言い募る永木に、利明は目をパチパチと瞬いた。 「えっ? えーと……怒って……ないの?」 じっ、と永木の瞳を見つめて、聞いてみる。 「何で怒るんだよ? いい物件見つけてくれたんじゃん。同居OKなら言う事ないし、荻窪なんて本命だし最高じゃん。もうそれに決めたらいいんじゃない? しかしラッキーだな、それ。いつ引っ越す? てーか、よし、祝杯祝杯」 永木は嬉しそうにソワソワとした動作で立ち上がるや、冷蔵庫からビールを取り出してきた。500ml入りのプルタブを開けてビールをコップに注ぐ様子は、どう見ても上機嫌そのものだ。ホッ、と利明は胸を撫で下ろした。どうやら本心から喜んでくれているらしい。 よかった、と安堵の息が漏れた。 「よーし、同居決定と新居発見にカンパーイ!」 グラスを互いに軽く交わし、永木は見る間に杯を空にする。利明も軽く口を湿して台に自分のグラスを置き、永木のものにビールを注ぎ足した。 「サンキュ」 言いながら、永木がガスコンロに点火し、手際よく具材を入れていく。既にあらかた準備は整っていたらしく、すぐにフツフツと暖かい汁が煮え立っていく。出汁と醤油の煮える芳香が、瞬く間に部屋に広がった。 「ごめんな。勝手に独走しちゃってさ。余りにお誂え向きで理想どおりの上に、トントン拍子だったから、つい嬉しくって……」 もう一度謝ると、永木は軽く目を見開いた。 「同居考えてくれた上に、物件までさっさと探して貰ってさ。怒る訳ないじゃん。つーか、かーなり舞い上がるじゃん、フツーさ」 余りに当然のような口調で返されると、いっそこちらが恥ずかしくなってしまいそうだ。 「いや……おれこそ、舞い上がっちゃって……」 小さく呟けば、永木がぐい、と肩をつけるようにして身を寄せ、瞳を覗き込んでくる。 「……なあ。何でそんな舞い上がってくれた訳? 俺はいいよ。正直、マジに滅茶苦茶、嬉しい。でもトシは? 本当にムリしてない?」 意外な質問に利明はじっ、と永木の瞳を見つめた。どこか不安げな様子を隠せない漆黒の瞳が自分を見つめ返している。澄んだ水色の中に浮かぶ力強いその眼が、実はかなりお気に入りなのは内緒だった。 「好きな相手と一緒に住みたいとは思っても、ムリしてるとは思わないな。てーか……毎日一緒に暮らす訳だろ? お互い良い日ばっかじゃないのは当たり前だし、飽きられちゃうかなとか。不安はあるかな」 考えながらぽつぽつ、と零したその言葉に、永木は無言で立ち上がる。そして利明の背中ごしに、ぎゅっ、と抱きついてきた。 「……なあ、トシ。今、初めて言ったね」 「え?」 永木の囁きに首を傾げれば 「最中でもなくて素面で。初めて……好きって。言ってくれた」 そう返ってきた言葉にハッとする。確かに永木は自分に好きと言う言葉を何度もかけてくれていた。それに頷きはしても……返しはしていなかったと思う。しかしまさか、一度も言っていないとまでは解らなかった。 恋人同士ならば大切な筈の、たった二文字のその単語。永木からは溢れるほどに与えて貰った、気持ちを現すその言葉。 三年もの間その大事な言葉を、永木に一度も、告げていなかっただなんて。 彼の言う通り、行為の最中にうわ言の様に何度も漏らした事は……ある筈だ。 確かに始まりは永木の一方的な告白からだった。当時自分には想っている相手がいて……でも到底叶わぬ相手ではあった。永木は利明のその気持ちに、気付いていたらしい。 それを知りながら、失恋を決定付ける、結婚相手との橋渡し役を永木が受け持ったと言う話を聞いた時には、憎悪すら憶えた。幾ら自分を好きだと言ってくれても、何故そんな余計な事をと、恨めしかった。 けれども気持ちが繋がらないはずの、身体の相性だけは抜群で……。 せめて肉体的な飢えを紛らわせられる相手としてでも、いいと。永木のその縋るほどの言葉に甘え、酷い態度から始まった付き合いだった。 プライドの低くない永木の事だ。苦しい事もあっただろうに、彼なりの誠意を出し惜しみせず、自分を口説き続けてくれた。 そんな相手の情熱と誠意に絆されるのはアッと言う間で。余りに軽々しいと気が引けて、その気持ちを中々認められずにいた時に、彼に求愛をする女性の言葉を聞いた。激しいほどの嫉妬を覚え、初めて気付いた永木への執着と、生まれ始めた僅かな好意。 そして今はすっかり無くてはならない、大事な存在にまでなったと言うのに。 なのに、相手に好きだとすら、言っていなかっただなんて。それに気付きもしなかった自分の傲慢さが恥ずかしくて、情けない。 どんなに不安にさせた事だろう。いつまで経っても出ない言葉に、苛々した事だってあっただろう。なのにそれを告げていない事すら気付かぬどころか、もっともっとと相手の気持ちを求め続けている貪欲な自分。余りに恋人に申し訳なくて居たたまれない。 「……ごめん、亘。ごめん」 抱きついた腕をやんわりと外し、永木の方を振り返りながら謝れば、その力強い筈の瞳が僅かに潤んでいる。もの言いたげなその瞳の意志は、言葉がなくとも解る。炬燵から出ると、永木と向かい合うように座り直し、利明はハッキリともう一度口にした。 「好きだよ、亘の事。ちょっとおかしいかもって思うぐらい、好きだ。まさか今まで言ってないとは思ってなかった。長い間待たせて……本当に遅くなって、ごめんなさい」 そっと頬に掌をあて、瞳を見つめながらもう一度、浮かされたように、好きだよ、と呟いていれば、ゆっくりと永木が覆い被さってくる。 柔らかく触れた口付けは瞬く間に深くなり、荒々しいほどの勢いで喉の奥までを舐めしゃぶられる。求められ、求め返す内に着衣は乱され、永木の暖かい指先が自分の胸の敏感な飾りを摘んだ。 「っ……あっ……ん」 甘い感触に、微かな喘ぎを漏らせば 「鍋より先に別のもんであったまりたいな……」 耳元に蕩けそうな声で淫靡な台詞を囁かれる。 「……っ、いいっ……けど……」 キュッと強く乳首を摘まれネットリと弱い耳の外側を舐られたら、拒める訳がない。 早くも蕩け始めた身体を、どうにかして欲しいのは利明も同様だ。 そっと身を離し、永木がガスコンロの火を消そうとした途端だった。 ぐーっ、きゅるきゅるるーっ、ぐぐーっ! 異音が部屋に響き渡る。 音の主は利明の腹の虫だった。余りの空腹に耐えかねたのだろう。主人の意志を裏切り、まずはこちらを満たせと激しく主張をしてしまったようだ。 永木の目が大きく見開かれ、利明を見詰めている。 「………………っ、ご、ごめ……ごめん! ひ……昼食べてなかったか……ら」 カーッと顔に血が集まるのが解る。半分ボタンの外れたシャツを掴み、慌てて身を起こしながら、利明は必死に謝った。今まででも多少の生理現象の不具合はあった。しかし本日のこの腹の虫の反逆は余りに……強烈だった。 必死に顔を逸らしながら、乱れた着衣を整える。まさに本能むき出しの自分が余りに恥ずかしくて、永木の顔を見られない。 「ふ、ふふふっ、ふっ、あは、あははは、そう、昼ヌキで探してくれたのか。そりゃ腹減るって、あっははは……」 永木は可笑しそうに背後で笑いながら、慰めてくれる。再びガスコンロに火を点けたらしく、カチン、ゴーッと言う音が聞こえ、鍋がクツクツと音を立て始めた。 そっと背後に回りこんできた永木は、耳と頬に唇を這わせ、チュッ、チュッと可憐な音を立てて、慰めるような口付けを落としてくれた。 「昼ヌキでまで探してくれるなんて、感激だよ。さ。食おうぜ。まず胃袋満足させてから……さっきの続き、しよ? な?」 恋人は蕩けそうに甘い声でそっ、と自分の顔を覗きこむようにしながら、チュッと再び唇を啄ばむ。 「かえすがえす……ごめんなさい……」 一向にひかない赤面に困惑しながら、ようやく上目遣いに永木の瞳を覗き込めば、いつものヤンチャっぽい悪戯な表情ではなかった。それこそ溶けてしまいそうな、甘い笑顔を顔に滲ませている。そんな甘い表情を見た途端に益々、頬が火照ってしまう。そっと抱き寄せられた恋人の背に掌を当て、それでも羞恥の火照りは中々消えそうもない。 「とんでもない。こちらこそ、ふつつか者ですが。末永く宜しく」 額をかきわけるようにして頬をそっと掌で撫で下ろしながら、とんでもない台詞を零され、思わず利明も噴き出してしまう。 「……こちらこそ。末永く……よろしく」 ふわり、と笑みの形に緩んだ瞳を見つめ、そっと利明は永木の耳に囁いた。 「……愛してる」 アフターバレンタインの金曜夜20時。 恋人達の部屋には、土鍋からクツクツと煮立つ暖かい香りが、平穏に満ちて行くのであった。
実験素材にしてしまってすみません。宜しければリライト前&後をお楽しみ下さい。
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