セクスマシン
(6)



 松木は最初の日から続けて八尋の眠るベッドへやってきた。セックスをする日もある。しない日もある。その気まぐれが八尋には居心地悪かった。まるで恋人同士のように、松木は肉体の快と精神の安寧を与えるように肌を撫でる。
 受け入れれば、楽になれるのだろうか。しかし、松木の意図は恐らく違うところにあるのだろうことくらい八尋には分かっていた。鈍った肉体と精神に人間味を与えようというのだろう。快楽の味を覚えた人間は弱い。頭と身体とがせめぎあった時、理性が負けるのは人の欲求への弱さ以外に由はないだろう。八尋自身、自分が松木と同じ立場にあったらそうするだろうと思えた。身一つで人間を支配するにはそれが手っ取り早い。……松木が望む帰着点がどこにあるのか分かりはしないが。
 初めてこの家を訪れた日は松木のベッドで眠った。翌日部屋を与えられ、それからずっとベッドへ寝転び天井を見詰めている。
 風呂とトイレはあるが台所はない。備え付けのクローゼットには元々八尋が住んでいた部屋から持ち出したのだろう見慣れた衣服がいくつか。テレビやオーディオの類はない。この部屋には一つの娯楽もなかった。セックスをするか、しないか。それしかない。せめてもの救いは身の置き所が松木の部屋でなかったころだろう。ひとりになれる部屋があるだけ救われる。
 開かない窓にかかるカーテンの隙間から昼日中の光線が差し込んでうるさい。伏目で遣り過ごす。
 身体を縮め、広げ、指先まで。八尋は己の身体の隅々まで意識が行き渡るのを感じていた。だいぶ人間になってきた。そんなことをチラと考え、感情のこもらない声で一言呟いた。
「しょうもねぇ」

 ドアノブが鳴る。嫌だなと思う。八尋がこの部屋にきて出来た習慣はそれだけだった。入ってきた人物を薄目で確認し、また目を伏せる。
「愛想ねぇなあ」
 笑う石崎の声音にも応えず、八尋は棺桶に横たわるように胸の上に手を置き目を閉じたままにする。
「またお遣いか? よくやるな」
「おかげさまで。どんな魅力的なピロートークだったんだかね」
 石崎はMの素性から洗い直しているらしい。そうなるだろうことは八尋にも予想できたことだ。
 思い出に脳がひたひた漬かっていく。ひとりの男への執着がアベコベに自分へ向かっている現状の滑稽を思わずにいられなかった。Mは過去を捨てた。八尋にだってそれは必要ないものだった。二人とも、その時目の前にある現実を遣り過ごすのに必死で過去を美しく飾り立てる余裕がなかっただけだ。それを不思議がって、謎といって、ありもしない姿を見て、実物以上に素晴らしい人間を見ている。
 節穴は快楽に処世を見出した男をセックスシンボルのようにいう。伝説の快楽主義者の後光は八尋にまで及びなんだかよく分からないセックス漬けの生活を強いられている。くだらない。言葉に出す。石崎は肩をすくめる。
「ヒント」
 捨て鉢に言って八尋はもう何年も口にしなかった町の名前を言葉にして吐き出す。
「その町の一番古い家だ」
「それが……?」
「家出した次男坊って言えば年寄りはみんな知ってる」
「それはMのことか? それともおまえか?」
「どっちも。以上。車に気をつけていってらしゃい」
 石崎は驚いたように目を瞬かせ一瞬無言、のちに静かな声で「ハラが決まったか」と呟いた。
「どうでもいいんだ、もう」
 第一、石崎の言う意味が八尋には分からなかった。

 古い家でかび臭い空気を吸って父親は今も厳格な面持ちであるだろう。八尋は思い出していた。父親は不肖の実弟を疎んじ、わが子が出来の悪い弟のように道を踏み外すことがないよう励んでいた。そのくせ末の息子に弟の面差しをみていた。
 古ぼけた町を逃げ出して叔父を頼りにしていった。叔父は八尋に実の兄の遺伝子ばかり見出し、何かにつけては八尋を閉口させた。
 ずっと誰かの身代わりだった。映し鏡だった。誰にでもなれた。これから先もきっと変わらないだろう。ひとは八尋に誰かの面影を託す。誰にでもなれる。何にでもなれる。手垢にまみれた予定調和。楽なものだ。己の人生を想像する必要がない。頭は空っぽのままを望まれる。
「どうでもいい。うんざりだ」
 石崎が去り、誰もいない部屋で八尋はカーテンから差し込む外光に背を向けた。


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(06.6.13)
置場