〜10〜

 5月30日土曜日。秋田県総合文化体育館は、試合開始前からすでに会場を見回してみても空席が見られないほどの盛況ぶりである。今の一番星プロレス団体規模を考えれば、UVCのブロック最終戦となればそれだけで5000人クラスは満員にできるのだが、それに地元のスター越後しのぶの引退試合も重なれば、最終的には超満員札止めも確実だろう。
 やはりどこの地域にも熱心なファンはいるもので、大半の客がUVCの結果や越後の引退を見に来ている中、第一試合に出場予定となっている野村つばさが本当に出場するのかどうか、期待と不安の入り混じった顔をした客もチラホラ。週刊プロレス誌には京都大会の壮絶な決着シーンがカラーで掲載されており、その後一番星プロレスの公式サイトやスポーツ新聞で野村の無事と秋田大会の出場は発表されたものの、それでもファンからすると自分の目で確かめなければ不安なのであろう。

 そして始まった秋田大会。入場テーマが流れ野村つばさがいつものように元気に入場するとそれだけで大きな声援が上がり、大会自体を盛り上げるという第一試合の役目は果たした、とも言えた。だが、それだけでは終わらなかった。
『あーっとっ! 野村、掟破りのシャイニングウィザードーッ! ディスガイズマスクの得意技を、逆に顔面に強烈に叩き込んだーっ!』
 第一試合、AACの期待の若手、ディスガイアマスクとのシングルが組まれていた野村。序盤はディスガイズの打撃に押されていたが、見た目の華やかさを重視した彼女の技は芯に残るほどのダメージは蓄積せず、猛攻を耐え抜くと彼女の得意な膝を逆に叩き込んで見せた。ダウンしたディスガイズを引きずり起こすと改めてボディスラムでコーナー側のマットに叩きつけ、一気にポストに駆け上る。
「これでどうだーっ!」
『でたーっ! 野村の必殺技、オレンジスプラッシューッ! ディスガイズマスクのボディに強烈なオレンジの自由落下だっ! カウント、1、2、……スリーッ! 戦前の不安を吹き飛ばし、野村、AACの期待のホープを見事にマットに沈めて見せたーっ!』
 大方の予想を覆し、格上と思われていたディスガイズマスクを見事打ち破り、ファンに安心と共に感動を与えた野村だった。

「しのぶ先輩っ!」
 控え室の扉を開けるなり、つばさはしのぶに飛びついてきた。
「私、やったよっ、……じゃなかった、やりましたっ」
 満面の笑みを浮かべてしのぶの顔を見上げるつばさの頭を、しのぶは撫でてやる。
「ああ、モニターで見てたよ。よくやったな、つばさ。なかなか相手の打撃も鋭かったが、よく耐えた」
 しのぶに褒められ、テレ笑いを浮かべるつばさ。
「あのくらい大丈夫ですよ。だって私、しのぶ先輩と戦って、攻撃耐え抜いたんだもん。それに比べればあのくらいの重さの打撃なら、軽い軽いっ」
「そうか。ところで、具合はどうだ。頭に響いたりしてないか」
「大丈夫ですよ。……ちょっと、フラフラするけど」
「バカ、座ってろ」
 つばさを座らせ、再びモニターに視線を移す。そこでは、突如リング上である事を忘れてしまうほど優雅な回転を見せた那月が、その動きに一瞬魅せられたイレーヌ・シウバの顎先に強烈な裏拳を叩き込んだ姿が映っていた。
 ほどなくして控え室の扉が開かれ、那月が入ってきた。
「やったね、なっちゃん」
「ええ、やったわっ! ……、ま、あのくらいの相手なら、当然の結果よね」
 爆発しかけた喜びを押し殺しながら、務めてクール&エレガントに、編みこんだ髪をかき上げてみせる那月。その頬を冷やかすようにつばさがつっつく。
「またまた〜。勝った瞬間リングで飛び跳ねてるところ、モニターにばっちり映ってたよ。めちゃくちゃ嬉しかったくせに」
「……人が良い気分でいる時に、どうしてそういう事を言うのかしら、この子は」
「あひゃひゃ、ひたひーっ」
 いつものようにほっぺたを引っ張り合い始めた二人に苦笑しながら、しのぶは那月の肩に手を置く。
「良い試合だったな、那月」
「しのぶ先輩、ありがとうございますっ」
「フィニッシュのエレガントブローは、タイミングもフォームも完璧だったな。真琴も褒めていたぞ」
「本当ですかっ? 真琴先輩が……」
 真琴に褒められた、と聞いて、いつものオーバーリアクションではなく、喜びを噛み締めている那月。打撃中心、決め技も裏拳と、スタイルが似ている真琴は那月の密かな憧れであった。その様子を茶化す事無く、つばさもそんな那月を見て微笑んでいる。
「さて。後輩二人にこんな試合を見せられたんじゃ、私も無様な試合を見せるわけにはいかないな」
 そう言うと、しのぶは体をほぐし始める。まだ試合まではかなり早いが、体を動かさないと何となく落ち着かないので、軽いアップだ。ある意味で今日のメインであるしのぶは、雑用からは解放されている。
「しのぶ先輩……」
「ほら、つばさはそろそろ涼美の手伝いに行ってやれ。あいつも今日は大事な試合を控えているのに、仕事が多くててんてこ舞いだろう。那月はとりあえず座って休め。勝ったとはいえ楽な試合じゃなかったんだ。後々体に響くと大変だからな」
『は、はいっ』
 一瞬複雑な表情を浮かべた二人も、しのぶの言葉にそれぞれのやるべき事を思い出す。しのぶが足の筋を伸ばしながらモニターに目をやると、第4試合にタッグで出場する真琴がちょうどコールを受けている所だった。


 金属製の重い扉越しにも、会場の熱気が漏れ伝わってくる。場内に伊達遥の入場曲が鳴り響き始めると、会場内に一際大きな歓声が上がり、床が地鳴りのように震えだす。
「そろそろか……」
 閉じていた瞳を開き、しのぶは拳を握り締めた。
「相変わらずすごい人気ね、遥は。さすがにチャンピオン。地方でも顔が売れてるわ」
 幸がわずかに扉を開いて会場を覗き込み、歓声に圧倒されたように慌てて扉を閉める。
「これからしのぶの入場が始まれば、今よりさらに盛り上がるだろう。なんと言っても地元の英雄だからな」
 越後しのぶの地元への凱旋、さらに引退試合という事で、ここ最近では珍しく、遥が先に青コーナーへ入場、しのぶは満を持しての赤コーナーへの入場となる。今より沸くだろう、という真琴の読みも、もっともだ。
「少し羨ましいわね。東京出身なんて珍しくもないし、どこの団体も大きな大会を持ってくる分格闘技イベント自体への物珍しさもない。凱旋って感じがないもの」
「私は都会出身だから田舎者の気持ちはわかりません〜、てか」
「……そんな事言ってるんじゃないでしょう」
「ハッ、どうだかな」
 いがみ合いを始めた幸と千秋を、片手を上げてしのぶが制する。
「お前達は私のセコンドなのか邪魔しに来たのか、どっちなんだ。まったく、社長も何を考えてこんな人選にしたんだか」
 同期メンバーの初の引退という事で、社長が遥としのぶに皆でセコンドに付く事を決めた。遥側には、光、美幸、和美。しのぶ側には、真琴、幸、千秋。
「……最後まで私に面倒をかけたいんだな、あの社長は」
「アタシだって社長命令じゃなきゃこんな面倒な事しねえっつーんだ。ったくあの社長、この間の流血試合の責任を取れ、なんて言いやがって」
 ぶつぶつ文句を言ってはいる千秋だが、無理矢理という形を装いながらしのぶのセコンドにつけられた事に、満更でもない顔をしていたのは皆知っていた。
「情けない試合はしてくれるなって事だろう。せいぜい遥に秒殺されないようにしろよ。まあそうなったら、あたしが代わりにリングに上がって遥を仕留めて、来月のタイトル挑戦権をいただくが」
「それは良いわね。背中にも気をつけなさいよ、しのぶ。あんまりだらしない試合してると、リングから引きずり下ろすからね」
「そりゃいいや。珍しく意見が合うな」
「お前らな……」
 妙な所でまとまりを見せる3人に、しのぶは思わず苦笑する。と、遥の入場曲が止み、耳慣れた曲が流れてくる。
「さ、お喋りはここまでね」
「ああ。しのぶ、準備はいいか」
 真琴が扉に手をかけしのぶを見つめる。しのぶは無言で力強く頷いた。先頭に真琴、次に幸、その後ろにしのぶ。しんがりを務める千秋は、しのぶが長ラン風のガウンのポケットに手を突っ込むと、何かを取り出して手に填めたのを見て慌てて問いかけた。
「お、おい。アンタ、それマジで使う気かよ」
 既に真琴が扉を開き、割れんばかりの歓声と地響きが廊下にもビリビリと漏れ伝わってくる。しのぶは後ろを振り返ると、拳を千秋に見せながらニヤリと笑った。

 真琴の言葉通り、しのぶが会場に足を踏み入れると、遥の入場を凌ぐほどの地鳴りのような物凄い声援が飛び交った。自分の為だけの声援を全身に浴びながら、しのぶは一歩一歩、踏みしめるように歩く。
『さあ、入場してまいりました、越後しのぶ。引退試合の相手は星プロのエースにして無敵のチャンピオン、伊達遥。維新の志士は最後の最後まで、己の尊厳を賭け頂上に挑みます!』
 真琴が開けたロープの隙間を潜り、場内を見渡す。残された人生、これだけの大歓声を浴びる瞬間など、もうないだろう。眩い証明を感慨深げに見上げて目を細めると、赤コーナーにもたれかかり、目を閉じる。いつもは見つめる側のコーナーを背にし、自分が立っていた青コーナーに遥がいるというのは、不思議な感覚だ。その遥は、どことなく落ち着かない顔でしのぶと宙に交互に視線を彷徨わせている。
(あいつ……まだスイッチが入っていないのか)
 そうこうしている内にリングアナのコールが始まる。先にコールされた遥が軽く手を上げて客に応える姿は一見いつも通りだが、普段はその瞬間遥の周辺の空気がピリッと引き締まるというのに、今日はそれがない。
 その様子に眉を顰めていると、しのぶのコールが始まった。
『赤コーナー、165cm……越後〜、しの〜ぶ〜っ!』
 ドワアァァァァッ!
 湧き上がる歓声の中、しのぶは数歩進み出て、右拳を天に突き上げた。
『さあ越後しのぶ、最後のコールを受けて右拳を突き上げたぁっ! ……あ、ああっ! 越後の右拳が鈍く光を放っているが、あれは、メリケンサックッ!?』
 テレビ用の実況アナウンサーが、リング上のしのぶを見つめながら思わず素っ頓狂な声を上げる。その動揺は最前列の客から最後尾へ雪崩のように伝わってゆき、大歓声がどよめきに変わる。いくら引退試合とはいえ、立場上凶器を持ったままの試合開始など認めるわけにはいかず、レフェリーが困惑した表情でしのぶに近寄ってくる。
『おおーっと、越後、この最後の試合への絶対に負けられないという意気込み故か、右手に凶器を填めての入場だあっ! しかしこれはいけません。当然レフェリーも注意を与えますが……おっと、近藤が放送席のマイクを掴み、リングに投げ入れたあっ!』
 しのぶがレフェリーを左手で制しながらリング下の真琴に顎をしゃくると、困惑しながらも真琴はしのぶの求めに察しがついた様で、放送席から奪ったマイクをリングに放り込む。しのぶがマイクを拾い上げると、対戦相手の遥、セコンドとしてリング下に控える同期達、そして満員の観客、全てがしのぶの次の言葉を待ち、あれだけ騒がしかった会場が水を打ったように静まり返る。
『千秋っ』
「へっ?」
 しのぶは青コーナーの遥を見つめたまま、千秋の名を呼んだ。いきなりマイクで名指しされ、思わず気の抜けた声を漏らす千秋。
『お前の気持ちは嬉しかったよ。だが、お前に貰ったコイツは、今、返させてもらう』
 言うと、しのぶは右手からメリケンサックを抜き取り、リング下の千秋に放り投げる。突然の行動に意表を突かれながらも、千秋は慌てて両手でキャッチした。
「お、おいっ、いいのかよっ」
 マイクを通さずとも、千秋の声はしのぶの耳のみならず静まりかえった会場中に響き渡る。しのぶは千秋へ向き直る。
『ああ。いつも言っているだろう。プロレスラーはその肉体こそ凶器なんだ。私の凶器は』
 しのぶは長ランを脱ぎ捨てると、右腕を曲げて力こぶを作り、それを左手でパンと叩いた。
『ここにある!』
 そして、拳を天に突き上げる。その瞬間、会場中が弾ける様に沸いた。
『ああーっと! 越後、やはり最後まで自らの体一つで王者に挑む事を選択したあっ! これが最後の維新志士、越後しのぶの心意気だあーっ!』
 ワアアァァァァッ!
「ちっ……カッコつけやがって」
 悪態をつきながらも、千秋は嬉しそうにポケットにメリケンサックを突っ込んだ。千秋だけでなく、リング下から見上げる同期達、皆が同じ気持ちだった。越後しのぶは最後まで、越後しのぶだったのだ。
 しのぶは拳を下ろすと、マイクを投げ捨てて真っ直ぐ進み出る。そして青コーナーの前にいた遥の真正面に立ちはだかった。
『さあ、越後が伊達と正面から向かい合う。ここでガッチリ握手を交わすのかっ』
「遥」
「しのぶ……」
 しのぶの差し出した右手を握り返そうと、遥も右手を出す。だが、二人の手が触れ合う瞬間に遥の右手は空を切る。そして。
 パンッ!
『あ……ああーっ! え、越後、いきなり伊達の横っ面を張り飛ばしたあーっ!?』
 実況アナだけでなく、会場中が驚きの声を上げた。今まで遥の握手を待ち構えていたしのぶの右手が、強烈に遥の左頬を打ったのだ。何が起こったのかわからず、呆然と頬を押さえてしのぶを見つめ立ち尽くす遥。
「いい加減、スイッチは入ったか」
「え……」
「いつまで腑抜けた顔をしてそこに突っ立ってるんだって聞いてるんだよっ! それとも何か。今の私相手じゃやる気も起きないか。舐めたマネしてると、この場で叩き潰すぞっ!」
 そう言って、しのぶが再び右手を振り上げる。しかし、それを振り下ろすより早く、しのぶの左頬が鋭く打たれた。
「……本気で……行くから!」
 その瞬間、しのぶの背筋にゾクリと戦慄が走った。垂れ気味の遥の目が鋭く細められ、周囲の空気がピリッと張り詰める。しのぶは打たれた頬を押さえもせず、口端を歪めて笑った。
「ハハ……そうこなくちゃな!」
 そして、その場でエルボーを側頭部に叩き込む。遥もすかさず反撃。その瞬間、試合開始のゴングが打ち鳴らされ会場中に甲高い音が響き渡る。
『し、試合開始っ! 越後しのぶの最後の試合は、そのレスラー人生同様波乱の幕開けとなったあーっ!』
 実況アナの絶叫をもかき消す大声援の中、二人の打撃の応酬が鈍い音を響かせていた。


前へ
次へ

リプレイへ戻る