〜11〜

 ゴッ!
「ぐあっ」
 遥のエルボーが側頭部にヒットし、しのぶの顔が苦痛に歪む。だが、反撃の手が出ない。2発、3発と貰った所で、ようやく反撃のヘッドバット。だが次に繋がらず、アームホイップで投げ捨てられるとすかさずドロップキックを胸板に叩き込まれ、よろめいてロープにもたれる。悠然と近づいてくる遥に逆水平チョップを放つが、遥の胸板に当たる前に左腕でブロックされ、逆に右肘が再び頭部を襲いしのぶが苦痛の呻きを漏らす。
 ゴング開始直後は盛り上がっていた会場内が、試合が進むにつれ温度が下がっていくのがはっきりとわかる。地元の英雄・越後しのぶが最後にチャンピオンと渡り合う。勝利とまではいかずとも、引退試合という事もありあわよくばというシーンを見せてくれるのでは、と期待していた観客達の顔が、一方的に追い詰められていくしのぶの姿を前に次第に青ざめてゆく。
 それはリング下の同期の仲間達も同じだった。青コーナー側など、遥のセコンドのはずだというのに、美幸は物凄い形相でマットを叩きながらしのぶに激を飛ばし、和美は泣きそうな顔になりながら、しのぶの名を呼んで声援を飛ばしている。まるで、子供がテレビの中のヒーローを応援するように。通常の放送であれば、最後は必殺技で逆転するのがパターンだが、しかし日本で一番有名な特撮ヒーローは、最終回に敗れているのだ。それを知りながらも、しのぶが苦痛に顔を歪ませるたびリング下の和美もまた目を背けそうになるが、それでもリング上の奇跡を信じて目を離さない。そんな和美の肩を背後から抱きながら、光もまた、ただ黙ってリング上を見つめている。
「なんだよ……この試合はっ……」
 赤コーナー側、リング下で試合の行方を苦々しい表情で見つめていた真琴が、握り締めていた拳をマットの淵に叩きつけて叫んだ。
「何をやってるんだ、しのぶっ! 散々カッコつけてその程度かっ! お前の意地は、覚悟はそんなものなのかっ!」
 真琴の言葉に反応したのか、しのぶが掌底を繰り出す。だが全盛期のキレのないそれは簡単に遥に捌かれ、逆に胴にローリングソバットをもらい前屈みになったしのぶを遥がショルダータックルで吹き飛ばした。
「くそっ!」
 しのぶがマットに倒れると同時に観客席から悲鳴が上がる。しかししのぶはすぐに立ち上がり、遥に向かっていく。その姿を観客が声援と拍手で送り出すが、すぐにまた遥の打撃にしのぶの動きが止まり、観客席が凍りつく。
「くそっ、なんだよこれはっ! 遥も遥だ、受け止めてやる気はないのかっ」
 どうしようもない歯痒さに、真琴は両手でマットの淵を叩いた。
「……あれが、アイツが望んだ幕引きなんだろ。死にたいんだろ、アイツ」
「な、なにっ!? ど、どういう事だっ」
 千秋が呟いた言葉に、驚きの表情で真琴が振り返る。
「落ち着きなさいよ。プロレスラーとして、って事でしょ」
「へえ。さすが誰かさんと違って察しがいいな、アンタは」
「……見てればわかるわよ」
 千秋のからかいにも幸は視線をリング上のしのぶから外さぬまま、無表情に呟く。
「アイツもバカだよな。地元に凱旋して、最後の最後にこれかよ。もっとマシな締め方、いくらでもあるのにさ。わざわざ恥を掻こうってんだからな」
「未練を残したくないんでしょ、リングに。完膚なきまでに叩きのめされてマットに這いつくばれば、二度とマットに立とうとは思えなくなる。これからの成長が期待できる若手じゃないもの。後は衰えるだけなら、次があったとしても今よりひどい出来になるだけ。ファンもそんな姿を見せつけられては、復帰を望むなんてできなくなるでしょうし」
 二人の言葉を聞きながら、真琴は呆然とリング上を見上げていた。しのぶの裏拳が空を切り、遥のフロントスープレックスでマットに叩きつけられる。
「じゃあ、遥はわざとしのぶの技を受けずに、潰しにいってるって言うのか」
 ボソリと呟いた真琴に、千秋が視線を前に向けたまま答える。
「完全に潰そうとしてるわけじゃねえだろうさ。よく見てみろよ。伊達は攻撃の後、一瞬間を置いてる。アイツの反撃を待ってんだよ。でもそれは、全盛期のアイツなら反撃に転じられた、ていう微妙な間だ。ダメージやら衰えやらでその瞬間に仕掛けられないから、待つのを諦めた伊達が次を叩き込む。気づけば積み重なって、一方的にボコボコだ」
 遥が重いエルボーを打ち下ろし、うずくまるしのぶを見下ろす。しのぶは拳を握り締め、顔を上げるが、待ち構える遥の胸に逆襲の水平チョップは飛んでこない。だから、遥はさらに打ち下ろす。ニ発、三発。倒れはしないが反撃もできないしのぶに、焦れたようにロープに走って勢いをつけてのジャンピングニーを叩き込み、マットに薙ぎ倒す。仰向けに倒れたしのぶは、リング中央で大きく息を吸い、そしてまたよろよろと立ち上がる。
「遥もこの試合をどうするか最初は決めあぐねていたはずよ。しのぶの全てを受け止めた方が、試合としては良いに決まってる。でも試合前のしのぶのビンタで、しのぶが何を望んでいるのかがわかってしまった。だから、こんな試合になった。……でも、私は認めないわ、こんな試合。観客を無視してる。こんなのプロレスじゃない」
「ああ。ズルいんだよアイツ。プロレスラーとは、なんて今まで散々偉そうな事言っといて、最後は自己満足の塩試合だ。社長も当てが外れたんじゃねえか。付き合わされる伊達もいい迷惑だろ」
「……社長はこうなる事はわかっていたかもしれないわね。今のあの二人をシングルでぶつけたんだから」
 すでにしのぶの打撃は、全盛期のキレ味はない。相手が打撃の防御に長けた遥であれば、尚更だ。しのぶはこだわりを捨て、パワーで勝負に出る。だがそれだけで事態が打開できるほど遥は甘い相手ではなく、しのぶのヘッドバットが遥を捉えても、怯むことなく逆にエルボーが打ち込まれた。
「アンタらもよく見ておいた方がいいぜ。アタシらにだって、そう遠い話じゃないんだ、最後ってのは。最後までてっぺんにこだわるのか。それでどうなるか、見せたいのかもしれないな、アイツ。とことんお節介だからな。……ま、アタシはあんな最後はご免だけどな。ガラじゃねえ」
「…………」
 真琴は呆然と、リング上のしのぶを見つめた。今の自分がリングに上がり遥と対峙したとしても、同じ展開になっていたかもしれない。だが。
「しのぶは……」
「ん?」
「しのぶは、最初から諦めてリングに上がるようなヤツじゃない。お前達の言う通り、中途半端ないい試合よりも全力で叩き潰される方を望んだのは、確かだろうけど……でも、だからと言って負けるつもりでリングに上がるようなヤツじゃない、絶対に」
 何度倒されても立ち上がるしのぶをいつの間にか力のこもった眼差しで見つめながら、真琴は拳を握り締め、きっぱりと言い切った。
「……ま、そうかもな。往生際が悪いからな、アイツは。性格も、スタミナも。実際、まだ目が死んでねえ。伊達の攻め疲れでも狙ってるかもな」
 千秋は口端に笑みを浮かべた。その往生際の悪さで何度も試合の流れをひっくり返してきたのを、目の当たりにしていたから。圧倒的に劣勢でも、最後の最後まであがき続け、何かを期待させるのが越後しのぶというプロレスラーだった。
「確かに、遥次第でこの試合、流れが変わるかもしれないわね。攻め疲れもそうだけど、最後まで非情に攻めきれるかどうか。もしその仮面が外れたら、しのぶは一太刀浴びせる事もできるかもしれない。……でも、いくらしのぶとはいえ、あんなペースで攻撃され続けたら、長くはもたないわよ」
 皆が見つめる中、しのぶは遥のジャンピングニーでロープ際まで吹っ飛ばされていた。それでもロープを掴んでダウンを堪えると、ゆっくりと近づいてくる遥を睨みつける。
(強いな……本当にすごいよ、お前)
 しのぶはロープで反動をつけると、助走をつけてドロップキックを叩き込む。さしもの遥もこれには一瞬揺らぐが、倒れはせず立ち上がったしのぶに肘を連続で打ち込んでくる。
(お前みたいな倒し甲斐のある奴がずっと目の前にいたから、私はここまでやってこれたんだろうな。尊敬するよ、遥。お前の事)
 動きの止まったしのぶのどてっ腹に遥が強烈な膝を叩き込むと、しのぶの体がくの字に折れ曲がり、マットに突っ伏す。
 しのぶの髪を掴んで起き上がらせる遥だが、しのぶはその手を払うと眉間に頭突きを喰らわせた。
(私は今、すごく楽しいんだ。こうやって、お前にぶつかっていくのがさ。いつまでも、この時間が続けばいい、なんてガラにもない事考えてるよ)
 続けて二発目を叩き込もうとしたが、遥は素早くしのぶの懐に潜り込んで組みつくと、ブリッジを決めフロントスープレックスで投げ飛ばした。
「んぐっ……まだまだぁっ」
 衝撃の走った背中を押さえながら、しのぶはよろよろと立ち上がる。
(けど……お前はそうじゃないのか。そんな、辛そうな顔、するなよ)
 無表情だった遥の顔が一瞬崩れたのに気づいたのは、リング内で向かい合っていたしのぶと、リングサイドにいた同期達だけだっただろう。試合は6分を過ぎた所。
「遥……決めに行く気ね」
「ああ。伊達の気持ちの方が、もたなかったみたいだな」
「だが、これを耐え凌げれば、しのぶにも糸口が見つかる……はずだ」
 幸や千秋が気づいたように、遥が試合を終わらせようとしている事を感じ取ったしのぶは、痛む体に気合を入れると、ロープで反動をつけて遥に向かってダッシュした。私はまだまだ戦える、そう遥に向かって訴えかえるように。だが、唸りを上げた右腕から繰り出されたラリアットは、寸前で対象を見失い空を切る。身を屈めてしのぶのラリアットをかわした遥はしのぶのバックに回り、背後から遥の両腕を抱え込んだ。
「ぐはっ!」
 タイガースープレックスでマットに頭から叩きつけられ、しのぶは呻く。レフェリーがカウントを取り始めるも、なんとか体をよじってカウント2.5でブリッジを崩す。
(まだ……終われないんだっ)
 しのぶが震える膝を押さえながら立ち上がる。が、顔を上げた先に遥の姿はなく。
「なにっ」
 次の瞬間、遥の長い脚がしのぶの頭を左右から挟みこんだ。あまりの完璧なタイミング、そしてこれまでのダメージの蓄積で、パワーボムに切り返すことも出来ず、真っ逆さまに脳天からマットに叩きつけられる。
「うぐぁっ!」
 そのまま両肩に遥がガッチリ乗り上げ、しのぶを押さえ込む。
『ああーっ! 完璧に決まった、伊達のフランケンシュタイナーッ! 越後、これで万事休すかあーっ』
 観客の悲鳴と実況アナの絶叫。客席の誰もが、これで終わりだと思っただろう。だが。
「うおあぁぁっ」
 しのぶが吼えると、体を捻って遥の体を乗せたまま肩を浮かせた。レフェリーの右手は、2度しかマットに打ちつけられていない。
『か、カウント2.8ぃーっ! 越後、ギリギリで伊達の体を跳ね上げたあっ! これぞ越後しのぶの真骨頂、驚異の粘り腰ぃーっ!』
 ワアアアアァァッ!
 その瞬間、これまで静まり返っていた会場内が沸きかえった。自然と沸き起こった越後コールに支えられるように、しのぶがよろめきながらも立ち上がる。これまでなら、ここで耐えてきた力を爆発させてしのぶが攻勢に出るはずだった。遥もそれに備え、身構える。
(くそっ、動けよ、私の足っ。ここで出ないでどうするんだっ)
 だが、しのぶの足は出てこない。目は遥をしっかりと捉えているのに、しのぶの体は前に出ない。だから。
「……もう、終わりにしよう、しのぶ」
 遥は正面から腕ごと抱えるようにしのぶに組みつき、呟くと。目一杯体を伸ばしながらブリッジを決め、しのぶの体をマットに叩きつけた。
『うああーっ、動けない越後に、伊達が物凄い反りのノーザンライトスープレックスーッ! こ、これは、さすがに……』
 実況アナが言葉を濁し、越後コールも鳴り止んだ。レフェリーがカウントを取るため、マットを叩く。1、2、……。
「ぅるあああぁぁっ!」
 どこにそんな力が残っていたのか、しのぶが強引に右手を遥のロックから切ると胴を殴りつけてブリッジを崩した。
『か、返したっ! またも2.8−っ! 一方的に伊達に攻め続けられた越後、これでもまだ返すっ! いったいなにがその折れない心を支えているのかーっ!』
「くっ……しのぶ……」
 殴りつけられた腹を押さえ、遥が驚きに目を見開きしのぶを見る。
「……勝手に、終わりにするなよ……私はまだ、動けるぞ……まだ、戦える……まだ、プロレスができるんだ……」
 顔を上げる事も出来ず、しのぶはうな垂れたまま呟き。それでも、震える体を引き起こす。今にもくず折れてしまいそうに、ガクガクと震える膝。何度もマットにへたりこみそうになりながらも、それでもしのぶは立ち上がろうとする。後から立ち上がった遥がすでに真っ直ぐ立っている前で、しのぶはまだ、完全に立ち上がることが出来ず。それでも、腿を何度も手で叩きながら、しのぶはゆっくり、ゆっくりと膝を伸ばす。
「……しのぶ……」
 遥の顔は、すっかりレスラーのそれではなかった。震えながら立ち上がろうとするしのぶを見ていると、目の奥が熱くなり、顔がくしゃくしゃに歪む。まだ、しのぶは立ち上がれそうにない。このまま黙って見ていては、手を差し出してしまいそうで。
 遥はきつく目を閉じると、両手でパンパンと自分の頬を思いっきり叩く。そして、再び開かれた目は、鬼のように釣りあがっていた。
「……ぅぁああああああああっっ!!」
 遥は自分の迷いを断ち切るように、これまで出した事がないほどの大声を腹の底から搾り出すと、その長い脚を限界まで振り上げ、真っ直ぐに叩き下ろした。
 ゴシャアッ!
『あ、あああーっ! 伊達、懸命に起き上がりかけていた越後に対し、魂の咆哮から非情な踵落としぃーーっっ! 越後の体が、地面に再び打ち伏せられたあぁっ! 伊達、フォールに行かず。レフェリーそのままカウントを取るっ。10カウントで越後のKO負けだがっ!?』
 静まり返った会場内。遥はうつ伏せに横たわるしのぶを見続ける事が出来ず、目を閉じる。レフェリーのカウントだけがその空間に響く。だが、カウント5を数えたレフェリーの声に戸惑いが混じったのを感じとり、遥は目を開く。横たわるしのぶの指先が、ピクリと動いた。
「……う、そ……」
 カウント6で右手が動き、カウント7で、這いずった右手が遥の足首を掴む。カウント8で左手を地面につき、カウント9で、遥の足にしがみついて……カウントは、そこで止まった。
「……レフェリー……カウントはっ」
 遥が慌ててレフェリーを見る。当のレフェリーは、当惑した表情で遥としのぶを交互に見ている。
「…………まだ…………わたし、は…………」
「……レフェリー、止めてっ……構える事もできてないっ……もう、無理よっ……」
 遥の言葉に、レフェリーは挙げた手を下ろすべきか逡巡する。他の格闘技であれば、迷わず振り下ろされるであろう。いや、もっと前に試合は止められていたかもしれない。だが、これはプロレスだ。レフェリーの判断次第では試合続行が可能なのだ。そして、レフェリーは。
「……勝手に……決める、なよ…………まだ……終わってない…………」
 しのぶの意志を取った。
「レフェリーッ!」
「……遥……私は、まだ、やれるぞ……やろうぜ、プロレスを、さ……」
 しのぶは遥にしがみつき、わずかずつ体を起こす。その手は遥の腰にかかり、膝立ちにまで体を起こした。
「……しのぶ……もういい……もういいよ……」
「……何が、いいんだよ……私はまだ、動けるんだ……まだ、試合は終わってない……」
「しのぶっ」
「……終わらせたかったら……3カウント、とってみろ……体が動く限り……私は立つぞ……」
「……でもっ」
「……どうして、お前を最後の相手に選んだと、思ってるんだよ……やれるもんなら、やってみろ……私が、二度とリングに立とうと思わなくなるくらい……完璧な3カウント、とってみろよ……プロレスラー、越後しのぶの息の根……お前が、止めてみろっ」
 会場中の皆が、しのぶの動きを固唾を呑んで見守っていた。右足がゆっくりと動き、足の裏がリングを踏みしめる。その両手が、遥の肩にかかる。後は左膝さえ上がれば、立ち上がれる。立ち上がったからどうなるというものではない。ここから逆転勝ちを収めるなど、どう考えても不可能だ。ただ、会場中の誰もが、しのぶの立ち上がる姿を、見たいと思っていた。
 だが。
「……しのぶ……いくよっ」
 遥は起き上がりかけているしのぶの首に手を回し、そのまま体を後ろに倒した。
『あ……ああーっ……だ、伊達の、DDTっ……起き上がりかけていた越後をそのまま自分の体重ごと引きずり倒し、マットに突き刺したあっ』
「がっ……」
 通常のDDTであればそのまま頭を支点に一回転してマットに仰向けに倒れる所だが、しのぶの首はただマットに突き刺さり、四つん這いの体勢になっていた。遥はそのまましのぶの体を横に押して仰向けに倒し、腿と首の後ろに手を通すとガッチリと両手をロックし、片エビに捉えた。しのぶがどれだけの底力を見せても、決して外れないように。
『ワンッ』
 レフェリーがマットを叩く。
(効いたな……これは)
『ツーッ』
(だが、まだだ)
 2.5、
(まだ、私は動ける)
 2.8、
(これを返して)
 2.9、
(立ち上がるんだっ)
 2.99。その瞬間、しのぶの肩がピクリと動いた。通常の体固めであれば、あるいはフォールの体勢も崩れていたかもしれない。だが、遥は。しのぶがまだこの状況でもフォールを返そうとするだろうとわかっていたから。しのぶの肩に全ての体重を預け、渾身の力でロックを極め続けた。
『スリィーーーッ!』
(あ……)
 レフェリーが3度目にマットを叩く音。そして、打ち鳴らされるゴング。しのぶの肩はとうとう、遥の体に阻まれて、上がる事はなかった。


(終わった、のか……)
 天井を見上げれば、眩いばかりに降り注ぐ照明。耳にはどよめきや歓声が届く。しのぶはマットに横たわったまま、ただ黙ってそれを聞いていた。起き上がろうにも、体がうまく動かない。いまだ上に乗り続けているそれを除けられるほど、体力はまだ回復していない。
「……おい」
 すでに片エビ固めは解かれている為、気の抜けた体固めのように。遥はただ、しのぶに覆い被さっている。
「……ヒッ……ウッ……グスッ……」
 そして、涙を流していた。しのぶは水着に汗とは違う熱い液体が染み込んでくるのを感じた。
「……なんで、お前が泣くんだよ……私が泣く所だろう、ここは」
「……だって……ヒック……うう……」
 試合が終わった瞬間、自分はどんな姿を晒すのだろうと思っていた。みっともなくボロボロ泣き崩れるなんて、似合わない姿を見せてしまうのではないか、そう思っていたが。
「……お前に先に泣かれたら、私はどうしたらいいんだよ」
「……ヒッ……ごめん……なさい……うくっ……」
 しのぶの性格上、こうして先に泣かれてしまっては、自分も釣られて涙するなどということはなく。自分はしっかりしなければと、涙はどこかに引っ込んでしまった。
「ほら、チャンピオン、しっかりしろ。……こんな泣き虫に負けたとあっちゃ、安心して引退できないだろ」
 そう言って、ぽんぽんと遥の頭を優しく叩く。
「……うん……ごめんなさい」
 遥はしのぶの胸で涙を拭うと、ようやく体を起こした。
「しのぶっ!」
 遥という重しがなくなったのでしのぶが体を起こそうとしていると、同期の仲間達がしのぶの回りを取り囲んだ。差し伸べようとする手を制し、しのぶは自分の力だけでゆっくりと半身を起こす。
「しのぶ、大丈夫」
「ああ……まだ頭はグラグラするが、大丈夫だ」
 和美が複雑な表情でしのぶと遥を交互に見ているのに気づき、しのぶは言う。
「……遥を責めるなよ。むしろ私は、感謝してるんだ。ここまで徹底的にやってくれてな。何も出来ないまま、完全に負けたよ。かえって未練を残さずに済む」
 プロレスラーというのは不思議なもので。あれだけのダメージを体に受けても、数分立てば自力で立ち上がることができる。しのぶもまた、半身を起こした状態で少し休むと、自分の足で立ち上がって見せた。
 しのぶが立ち上がると、仲間達も囲みを解く。そこでようやく客席にもしのぶの様子が見える。離れて様子を見ていたレフェリーが近づいてきて、遥の右腕を上げる。そんな遥を、観客達は複雑な視線で見つめている。それを察して……いや、そうではなく。しのぶは素直な気持ちで、ゆっくりと遥に歩み寄ると、その左手を握って上に上げた。
『越後しのぶ、伊達遥の左腕を上げたっ。長年ライバルとして戦ってきた二人。最後の最後に、越後がその力を認め、伊達を称えていますっ』
 その姿と、しのぶのすっきりとした表情を見て、観客の一人が拍手を送る。それはたちまち会場中に伝わり、リングは割れんばかりの拍手に包まれる。
『9分50秒、DDTから片エビ固めで伊達遥が越後しのぶを下しましたっ。しかし、その結果以上に、越後はこの最後の試合で、私達の胸に大きな感動を残してくれました。ありがとう、越後! 今はただ、ゆっくり休んで欲しいっ』
 感動屋の実況アナウンサーが、泣きながら絶叫する。鳴り止む事のない拍手。そして沸き起こる越後コール。その中で、しのぶは遥と、そして同期の仲間達一人一人と握手を交わし、リングの真ん中で四方に向かって礼をする。リングを後にする時も誰の力も借りず、ゆっくりとではあったが一歩一歩、自分の足で通路を歩き、ファンの声援に応える。扉の前まで来ると、後ろを振り返り、眩い光に照らされたリングを目を細めて見つめる。
(もう、試合の為に上がる事は、ないんだな。……ありがとう)
 しのぶは、リングに向かって深々と頭を下げる。それが、プロレスラー越後しのぶ、最後の瞬間であった。


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