〜9〜
一番星プロレスの面々は、京都大会の翌日にはバスで本拠地の千葉に戻った。最終戦の秋田大会は一週間後の週末なので、一度本拠地に戻った方が選手達も楽だし、社の経費としても得である。一日検査入院したつばさと付き添いの那月は、翌日には新幹線で戻ってきた。幸い検査の結果は良好。最終戦にも出場するという。さすがにこれには難色を示した社長だが、つばさのたっての希望という事で、来月の試合出場を制限するという条件で渋々了承したとの事だ。
寮内は普段通りの空気に包まれている。しのぶの引退まであと数日、という事実は皆心のどこかに引っかかってはいるものの、だからといって何が出来るというわけでもなく。しのぶもそれを望んでいないのならば、平静に過ごした方が良い。リング上で色々あった美幸と千秋、八島と中森も、寮では特にそれを意識した行動は見られない。そのあたりの切り替えはさすがである。
唯一遥だけが、しのぶと話す時間を作りたかったのか、しのぶを見掛けるたびにそわそわしていたが、敢えてしのぶは接触を避けた。先日のつばさとの試合の一件などで遥もしのぶの事が気になって仕方ないのだろうが、この時期に馴れ合っては最後の試合で正面から向かい会えなくなってしまう。しのぶが避けるたびに、遥が落ち込んだ表情をしているのがわかってしのぶの胸もチクリと痛んだが、それでも心を鬼にするしのぶだった。
練習もしのぶはこれまで通りにこなせていた。千秋を殴ったのが効いたのかどうかはわからないが、スパーリングで相手と対峙しても気後れや変な悩みを抱える事はない。実際にリングに上がってどうかはわからないものの、そんな事に頭を悩ませている暇はなかった。泣いても笑ってもあと1試合。やるしかないのだ。そこでやれなければ、一生後悔するだろうから。
夜。しのぶが自室のベッドの上で天井をぼんやりと見上げていると、にわかにドアの向こうが騒がしくなる。
「…………ほら、早く…………」
「…………いいってば…………」
何やらこそこそ話し声が聞こえ、時折ノブがカチャリと音を立てては止まる。
「開いてるぞ」
しのぶがドアに向かって声を掛けると、ノブが回ってドアが開かれた。
「こんばんわ。しのぶ先輩」
「つばさか。何か用か」
ドアを開いたのはつばさだった。あんな事があったとは思えないほど、すっかり元気だ。この辺り、個人の差はあれどプロレスラーというのはすごい職業だなとしのぶは他人事のように関心してしまう。
「あ、用があるのは私じゃなくて、なっちゃんです。ほら、早くってば」
「ちょ、ちょっとつばさ、引っ張らないで……あ」
つばさに手を引っ張られて、廊下にいた那月が部屋に引きずり込まれる。しのぶと視線が合った瞬間、ジタバタと抵抗していた那月が動きを止め、視線を床に向けて固まる。
「それじゃなっちゃん、ごゆっくり〜」
「あ、ちょっとつばさっ」
つばさは那月の背中を両手で押して部屋の中央まで進ませると、自分はさっさとドアに向かい、しのぶにヘタクソなウィンクなどして見せて、一人出て行ってしまった。
「……あ……あの……」
「座るか?」
「いえ……」
しのぶがベッドの上をポンと叩くが、那月は首を振って俯く。椅子を勧めた方が良かったか、などと思案していると、那月は意を決したように顔を上げ、しのぶをまっすぐ見つめた。
「しのぶ先輩、この間はすみませんでしたっ」
そして、ギュッと目を閉じると勢い良く頭を下げる。しのぶは一瞬キョトンとしたが、合点がいくと立ち上がり、那月の肩に手を置いた。
「気にしてないよ。むしろお前の言う通りだったしな。ほら、座れ。今お茶を入れる。日本茶でいいか。お前は紅茶の方が好きだったかな」
「あ、いえ、日本茶で結構です。……て、あの、私すぐに失礼しますから、そんな」
「いいから。ちょうど私も暇を持て余していたんでな。話し相手になってくれ。今用意するから」
「は……はあ……」
折りたたみ式の丸テーブルと座布団を二つ用意すると、恐縮して固まっている那月を片方に座らせ、しのぶはポットの湯量を確かめる。
「少し足りないな。食堂で足してくるか。ついでに何かお茶請けでも持ってこよう。ちょっと待っててくれ」
「は、はい」
那月を残し、しのぶは部屋を出る。なぜそんな行動に出たのかはわからない。ただ何となく、那月とゆっくり話したい気分だった。
「待たせたな」
「あ、いえ」
しのぶがドアを開けると、那月が机の上の一点を見つめていた。その視線の先には、木作りの写真立て。
「ああ、それか。私が入団した年かな、会社でバカンスに行った時の写真だ。もう8年も前か」
急須から湯飲みに日本茶を注ぎながら、しのぶが話す。
「変わってませんね、皆さん」
「15の時と変わっていないと言われるのも複雑だな」
「あ、すみません。でも、8人ずっと、新人の頃から一緒だったんですね……」
中学卒業したての初々しい少女達が、南国の日差しの下笑顔で並んだ写真を見つめながら、那月が呟く。
「ああ。まあ、珍しい例だろうな。これだけ同期が多い世代も今までにないんじゃないか。……ま、社長がウチに無理矢理同世代を8人も揃えたから、というのが大きいだろうがな」
しのぶの言葉にクスッと笑みをこぼすと、那月がお茶を啜る。
「……すまなかったな」
「え?」
「つばさの事だ」
「私に謝るのは……変ですわ」
「……それもそうだ」
しのぶは手を伸ばすと、皿の上の煎餅を手に取り、バリッと齧る。すぐには口の中から消えてくれないそれは、次の言葉を選ぶのに丁度良い時間を与えてくれる。
「小早川……連絡、取ってるか」
「え……いえ。突然でしたから、連絡先も教えてもらってませんし」
「そうか……元気にやってるのかな、あいつ。WWCAだったか」
ここ数年、海外団体との交流が盛んになっている一番星プロレスだが、WWCAとはまだ提携した事はなく、小早川志保の情報も入ってこない。これまでタブーになっていた志保の名前をつい出してしまったのは、お互いにその事により深い傷を残したもの同士だからか。
「でも、彼女がいなくなったから、つばさと出会えたんです。そういうものなんじゃないですか」
「それをつばさに言ってやれ。喜ぶぞ」
「イヤです。すぐ調子に乗るんだもの、あの子」
そう言ってツンと澄ます那月を見て微笑むと、しのぶはお茶を啜った。
「あの、しのぶ先輩……この間の事ですけど……」
「さっきも言っただろう。気にしてないと」
「いえ。本当は、そんな事ないとわかってはいるんです。しのぶ先輩は、つばさも、私の事も、ちゃんと見ていてくれてるって。でも、あの時は、あんな事になって、気が動転してしまって、つい……」
俯く那月の頭に手を伸ばすと、そっと撫でてやるしのぶ。
「いや。本当に、お前に言われた通りだよ。あの流れであれば、私はあの技を受け止めてやるべきだった。その結果負けるとしても、つばさの成長を素直に認めてやるべきだったんだ。先輩としてな。……でも私は、目先の勝利にこだわってしまった。情けないな。もう十年近くリングに上がり続けているっていうのに」
溜息を吐き、湯飲みを見つめる。水面にしのぶの吐息が触れ、小さくさざなみが立つ。
「それはやっぱり……最後に遥先輩との試合が控えているから、つばさ相手につまずくわけにはいかなかった、という事ですか」
「……口ではつばさを認めているような事を言いながらも……そういう気持ちが私のどこかにあったんだろうな。結局私は、つばさの成長を見届ける事より、自分の事を優先したって事だ」
「あの時はカッとなってあんな事を言ってしまいましたけど……今は、しのぶ先輩の考えている事、よくわかります。遥先輩との引退試合は、単なるイベントじゃなくて……しのぶ先輩にとっては、タイトルマッチに等しいもの。だからこそ、格下のつばさに直前で負けてしまっては、挑戦権そのものを失ってしまう。それは、誰に奪われるというものではなく、しのぶ先輩の心の中での問題」
真っ直ぐに見つめてくる那月。
「つばさも、それがわかっていたから、しのぶ先輩を責める事もなかったんだと思います。私達にとってはコーチのような存在だけど、しのぶ先輩の本質は反骨心の塊で、最後の時まで頂上を狙い続ける、戦う人なんです」
「買いかぶり過ぎだ。そんなにカッコいいもんじゃない」
しのぶは苦笑すると、それぞれの湯飲みにお茶のおかわりを注いだ。
「私はただ、もう一度だけ……本気のあいつに勝ってみたい。それだけだ」
しのぶの視線が、写真立ての中、恥じらいながら控え目に微笑む少女に向けられた。
「しのぶ先輩にとって、遥先輩って、どんな存在なんですか」
「遥か。……変なヤツだよ。普段はおどおどして、まるでプロレスラーに向かないような性格で。体だって、一見きつく抱きしめればポッキリ折れそうな細い腰してるくせに、リングに立てば別人だ。私も打たれ強さには自信がある方だが、あいつはさらにそれが飛び抜けていて、技のキレも防御のテクニックも並外れてる。……ああいうのを、素質の塊って言うんだろうな。いつの間にか、同期の私達の誰も手の届かない所に行ってしまった」
しのぶは湯飲みに視線を落とす。ゆらゆら揺れる水面に映る自分の顔には、色々な感情が混ざったような表情が浮かべている。悔しさ、寂しさ、愛しさ。
「それでも那月たちが入団してくる頃までは、それなりに互角に戦っていたんだ。それが、いつの間にか……。今ではあいつは、5年も防衛を続けている無敵のチャンピオンだ。私なりに、追いつく為に必死でやってきたつもりなんだがな。笑ってしまうよ」
自虐的に笑うしのぶに、那月はポツリと呟く。
「……しのぶ先輩が思っているほど、遥先輩自身には余裕はなかったと思います」
「ん?」
「遥先輩の口癖です。『しのぶが頑張ってるから、私も頑張らないと』っていうの。少しでも気を抜けば、すぐに追いつかれるって分かっていたから、遥先輩も必死に前を見て走り続けていたんじゃないですか」
「どうだかな」
「そうなんです。一番しのぶ先輩の事を気にしているのは遥先輩なんです。つばさとの試合の後だって、つばさの具合以上にしのぶ先輩の事を気にしてました。しのぶ先輩が気になって仕方ないのに、しのぶ先輩が避けるから、今月に入って遥先輩ずっと浮かない顔で……」
「あいつが気にしてくれているのはわかるよ。だが、私なりに、最後の試合に賭けてるんだ。最高の試合をしたいと思っているし、もちろんやるからには勝つつもりだ。今の時期に馴れ合っていて、リングに上がって即切り替えられるほど私は器用ではないし、あいつにだって余計な感情は持ち込んで欲しくない」
「それは……そうかもしれませんけど……」
口ごもる那月に向かって手を伸ばし、もう一度頭を撫でてやるしのぶ。
「本当に、優しい子だなお前は」
「わ、私は別にっ」
「遥に言っておいてくれ。私は万全の状態でリングに上がるから、余計な事は考えないで全力で私を潰しに来いって。ボヤボヤしてると、叩き潰すってな。現役チャンピオンが、これから引退する選手に負けてちゃ話にならないだろう。そんな奴にこれまでベルトを独占されていたかと思うと情けなくて、おちおち安心して引退もできやしない」
「じゃあ、しのぶ先輩が勝ったら引退撤回ですか」
「言葉のアヤだ。つばさみたいな反応するな」
「あ、あの子と一緒にしないでくださいっ」
頬を膨らませてプイと顔を背ける那月の反応が面白くて、思わず笑ってしまうしのぶだった。
「さて。悪かったな、時間を取らせて。しかし、ガラにもない話をしてしまった。こんな事ならアルコールでも用意した方が良かったか」
「そうですね。次はワインでも持参しますわ」
「ああ。まあお前は匂いだけで酔えるからな。昨年の忘年会でも」
「もう、その話はいいですからっ」
昨年の忘年会、ようやく二十歳を迎えた那月とつばさにもアルコールが解禁となったのだが、格好をつけてワインを頼んだ那月がグラス半分も空けずにグダグダになりつばさに絡みついていたのを皆が目撃していた。本人はその時の事を覚えていないらしいが、その後しばらく散々からかいの種になっていた。
「では、お邪魔しました。失礼します」
「ああ。……そうだ、那月」
「はい?」
「体のケアは、しっかりしておけよ。それと、あまり無茶な戦い方はするな。ガタがきはじめると、あっという間だからな」
「……やっぱり、しのぶ先輩は良く見てくれています、私達の事」
微笑むと、那月は部屋を後にした。湯飲みに残ったお茶を一気に呷ると、しのぶは後片付けを始めた。
翌日。那月から話を聞いたのか、遥は少し落ち着きを取り戻したようだった。しのぶと目が合っても、近づいては来ず、はにかんだように微笑むだけ。だからしのぶも、安心して練習に打ち込んだ。今は言葉は要らない。会話はリングの上で、お互いの肉体を通してすればいいのだから。
そして、いよいよ最終日を向かえた。
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