〜3〜

 引退までは普段通りにしていようと思っていたのに、周りがそれを許してくれない。そしていつの間にか、自分の中でもその事実が大きくなっていく。どうにも寝付けずに、しのぶはベッドを抜け木刀を手に部屋を出る。外で素振りでもして体が疲れれば、嫌でも眠気が襲ってくるだろう。
 庭に出ると、そこには先客がいた。地べたに腰を下ろし、壁に背を預けて、ぼんやりと夜空を見上げている。
「……風邪引くぞ、ユキ」
「しのぶ。……眠れないの?」
「そんなところだ」
 わずかに言葉をかわすと、しのぶは黙々と素振りを始める。その姿を、膝を抱えたまま、ユキはただ見つめている。
「……辞めちゃうのね」
「ああ」
「そんな気はしてた」
「そうか」
 お互い顔は見ないまま、短い言葉を交わしあう。
「……私ね。最初、アナタの事嫌いだった」
「だろうな」
「知ってたんだ」
「わかるさ」
 ごくごく短い会話ではあったが、それは二人にしのぶが入団した当時の事を思い出させるに十分だった。

〜〜〜

「新日本女子プロレスから我が団体に移籍した越後しのぶ君だ。彼女は君達と同じ年だが、新女で4月からデビューしている。練習メニュー等、皆の参考になる話も聞けるだろう。では、越後君、一言」
「はい。越後しのぶです。プロレスラーとしてのデビューは私が先ですがそれもわずか数ヶ月。皆、同い年という事で、同期として遠慮せず付き合っていければと思います。よろしくお願いします」
 しのぶの言葉に顔を見合わせる少女達。メジャー団体から移籍してきたという事で、さぞエリート風を吹かされるのだろうと思っていたが、『同期』を強調されたので、緊張も解けたようだ。
 その後、社長の解散の言葉で各々練習に移る、はずだったのだが、やはり年頃の少女達、新しい仲間が気になって仕方ないようで、数人が集まってきた。
「越後さんっ。自分、真田美幸ッス。よろしくっ」
 真田、と名乗った少女の差し出した手を握りながら、しのぶは言う。
「さっきも言ったように、同期なんだから遠慮しないで。『さん』はいらないわ。『しのぶ』でいい。私も美幸って呼ばせてもらう」
「わかった。よろしく、しのぶっ」
 痛いほどガッチリと手を握り返してくる美幸。その手にポンと重ねられる手が一つ。
「私は沢崎光。光でいいよ。よろしくね、しのぶ」
「ああ。よろしく」
 挨拶を交わすと、興味津々といった顔でしのぶに話しかけてくる光。
「ねえ、新女にいたってことは、あのマイティ祐希子さんと一緒に練習とかしてたんだよね。どうだった?」
「どうって……凄い人だよ、あの人は。普段は抜けてる所もあるけど、リングに上がると全然違う。多分近い内に、トップに駆け上がる人だ」
「だよねーっ。私、去年のアリーライオン杯で彼女の試合見てからファンになっちゃったんだ。飛び技がすごく躍動感があってさ。でもスープレックスも上手いんだよね。憧れちゃうな」
「自分はボンバー来島さんの方が好きだな。パワーファイトだから自分とはスタイルが違うけど、あのガーッと一直線に突っ込んでいくスタイルが、火の玉みたいでカッコいいっていうか」
「あの人は普段からあのまんまだよ。美幸に似てるかもな」
「いやー、そう? 照れちゃうな〜」
 ……本気で照れている。別に褒めたわけではなかったのだが。
 と、しのぶの前ににゅっと人影が現れた。
「越後さんっ。私、藤原和美です。よろしくっ」
「あ、ああ。しのぶでいいよ。よろしく、和美」
 少年のように瞳をキラキラさせた少女の勢いに圧倒され、思わずたじろぐしのぶ。
「はいっ。これから一緒に、正義の為に戦いましょうねっ」
 しのぶの両手を取り、ブンブン振る和美。
「は、正義? 何のこと」
「アハハ、こういう子なのよ。気にしないで」
 光がポンポンと和美の頭に手を置く。実際には和美の方が背が高いのだが、なぜかその光景がしっくりくる。
「あーっ、バカにしてるな光ちゃん。だって、しのぶちゃんは正義の使者なんだよ。社長が言ってたんだから」
「はぁっ? どういう事、それ」
 いったいどういう紹介をしたんだろう、あの社長は。
「え、だって、しのぶちゃんウチに来てから、本名じゃなくてリングネームつけるんでしょ。『ジャスティス越後』って」
「はっ? 何それ、聞いてないわよ」
「いいなージャスティス。私もジャスティスが良かったなー。でも、社長が私には『ペガサス藤原』が良いって言ってくれたんだよ。えへへ、ペガサスも綺麗でカッコいいよね」
 よっぽど気に入っているのか、もじもじしながら照れている。これ以上和美に聞いても埒が明かなさそうなので、社長へと向き直る。
「ちょっと社長、聞いてませんよリングネームなんて」
「ああ、いや、あくまでもし付けるならって話だよ、ハハハ」
「アハハじゃありません。イヤですよ、恥ずかしい」
「えーっ、しのぶちゃん、ジャスティス越後にならないの? やろうよジャスティスレンジャー、一緒にっ」
「何よそのジャスティスレンジャーって」
「え、私達の戦隊の名前」
「……あのね」
 しのぶは思わず頭を抱えた。なんなんだここは。私はプロレスをしに来たんじゃなかったのか?
 とりあえず、和美にちゃんと断らないと後を引きそうだと口を開きかけたが、美幸の大声に遮られてしまった。
「社長っ。自分、自分はどんな名前ッスかね?」
「うん? ん〜、『バーニング真田』とかどうだ」
「バーニング? バーニングっすか! くぅー、燃えるっ」
「え〜、いいなあ美幸。私もバーニングが良かったな」
「光は、そうだな……『エンジェル光』とか」
「え? エンジェル……ハハ、ちょっと恥ずかしいかも」
「そんな事ないよ。かわいいよ光ちゃんっ」
 いつの間にか自分から社長の周りに人だかりが移り、リングネーム名づけ大会になっている。
「じゃあ社長っ。真琴はっ?」
「い、いいよあたしは」
 黙々と準備運動を繰り返していたポニーテールの少女を引っ張って、社長の前に連れて行く美幸。
「そうだな。『サイクロン近藤』でどうだ」
「おおーっ。激しいッスね、真琴」
「サイクロン……サイクロンか……」
 最初は遠慮していたが、まんざらでもない様子の少女。すると今度は、和美が長身ながらどこかおどおどした少女を引っ張ってくる。
「じゃあじゃあ社長。遥ちゃんはっ?」
「ん〜……『フェニックス遥』かな」
「……フェニックス……」
「不死鳥か〜。遥はどれだけやられても立ち上がってくるから、確かにピッタリかもね」
 頷く光の横で、遥の両手をキュッと握る和美。
「カッコいいなあ遥ちゃん。フェニックスだよっ。中盤に出てくる謎のヒーローみたい」
「……中盤?」
「そうっ。最初は主人公達のピンチを助けてくれるんだけど、ラストには仲間になって合体ロボに乗るんだよ」
「……合体……」
 和美の話の内容はいまいちよくわかっていないようだが、名付けられたリングネームは気に入ったようで、小さく口にしてははにかんでいる。
「それじゃあ、ユキちゃん……は、そっか、もう『ラッキー内田』だった。じゃあ、ちあきちゃ」
「…………いい加減にしろっ!!」
 突如、怒声を上げたしのぶ。その場にいた全員が、思わずしのぶの顔を見つめる。
「もう練習時間は始まっているんだぞ。いつまでくっちゃべってるんだっ! さっさと練習に……」
 しまったという表情を浮かべ、思わず語尾が小さくなるしのぶ。いつまで経っても締まらない雰囲気に、思わず堪忍袋の緒が切れて怒鳴ってしまったが、入団したばかりの自分が口にする事ではなかったのではないか。気まずい表情を浮かべる皆、一瞬の沈黙、そして。
「すみませんでした、リーダーッ」
 突然、和美がペコリと頭を下げた。
「……へ?」
「私、浮わついてましたっ。すぐに練習を始めます、リーダー」
 バッと頭を上げると、しのぶにビシッと敬礼してみせる。
「ちょっと、なんだその、リーダーって」
「え? ……あ、今の怒り方、なんかリーダーっぽかったから」
「……プッ。何よそれぇ」
 思わず噴き出した光に、つられて笑い出す皆。
「ハハ、よーしみんな、練習始めるぞ。越後君に一番星プロレスは怠け者の集まりだって思われるわけにはいかないからな」
『ハイッ』
 社長の一声で、それぞれ道場内に散っていく選手達。
「アハハ、ゴメンね。みんな、新しい人が来るって楽しみにしてたからさ」
 呆然としているしのぶに、目尻に浮かんだ滴を指で拭いながら光が話し掛ける。
「いや、私の方こそすまなかった。新参者が言う事じゃなかったな」
「ううん。私達みんな同い年だからさ、みんな真面目ではあるんだけど、どうしても空気が緩みがちな所があったんだよね。社長もあんなだから、あまりキツイ事言わなくて」
「そうか」
「……私、わかっちゃった気がする。どうして社長がしのぶにこだわったのか」
 しのぶの背中をポンと叩いて、光がウェイト器具の方に走っていく。しのぶもまた、自分で言い出した手前もあり、その場でストレッチを開始した。

「……ふぅ」
 練習を開始して2時間ほど。しのぶが道場の端に腰を下ろし軽い休憩を取っていると、同じく休憩に入った和美が近寄ってくる。
「おつかれ、リーダー」
「……リーダーはやめてくれ」
「え〜。いいじゃんリーダー。カッコイイよ。私も呼ばれたいな」
「なら、呼んでやろうか? リーダーって」
「ホントッ?」
「……冗談だ」
「な〜んだ。残念」
 ぷ〜とほっぺたを膨らましながら、しのぶの横に腰を下ろす和美。どこまで本気で喋っているのかわかりにくいが、光の言っていた通り、根っからこういう子なのだろう。クセの強い人間が集まる新女にもいなかったタイプだ。
「私も今月から入団したんだけど、今はまだ練習についていくだけで大変だよ。ここの練習って新女に比べてどうなのかな」
「そうだな……練習場の規模は段違いだな。ま、あっちは抱えている人数が違うから。旗上げ直後の団体でこれだけの道場を持っているのはかえって凄いんじゃないか。社長がしっかり考えて準備したって事だろうな」
「ふむふむ」
 大げさに頷く和美。いちいちリアクションが大きい。
「あとは、コーチか。人数が多い分、新女は何人もコーチがいたけど、ここは……見た所、社長だけか。その社長も基礎トレしかメニュー組んでないし、忙しいのか一時間ほどでどこかに出て行っちゃったしな」
「社長はいつもあんな感じだよ。『自分で考えて自分で動けるレスラーになれ』っていつも言ってる」
「一理あるとは思うけど、新人だけで構成された団体にそれを求めるってのも、結構無茶な人だな。まあ今の人数なら、目が行き届くからだろうけれど」
「ふ〜む。やっぱり、師匠の元で修行を積むのもいいけど、オリジナル必殺技は自分一人で秘密特訓で編み出さなきゃってことだよね」
「……なんでそうなる」
 独自の論理で勝手に納得してしまった和美に思わず苦笑するしのぶ。と、二人の前に人影が落ちる。
「よう、新入り」
 しのぶが顔を上げると、ショートカットの目つきの鋭い少女がしのぶを見下ろしていた。
「あ、千秋ちゃんおつかれっ。千秋ちゃんも休憩?」
「うるせえな。名前で呼ぶなって言ってんだろ。だいたいオマエに話してんじゃないんだよアタシは」
「え〜」
 邪険にされてまた頬を膨らます和美に構わず、少女……村上千秋はしのぶの脇にしゃがみこみ、馴れ馴れしく肩に腕を回す。
「なあ、コーラ買ってきてくれよ。先輩の言う事は聞くモンだよな」
「練習中に炭酸飲んだら後がキツイよ?」
「うるせえって言ってんだろ。オマエは黙ってろよ。……な、行ってこいよ。もちろんオマエの金でな」
 和美をにらみつけると、しのぶに向き直りニヤニヤと笑みを浮かべながら肩を撫でる千秋。
「……ククッ」
「ああっ? 何笑ってんだよオマエ」
 思わず笑いを漏らしてしまったしのぶに、カチンと来たのか立ち上がって凄んでみせる千秋。しのぶも立ち上がり、正面から向かい合う。こうして見ると、千秋の方が5cmほど背が低い。所属選手の中では一番低いのではないだろうか。
「いや、悪かった。そっくりだなと思ってさ」
「あ? 何言ってんだオマエ」
 訝しがる千秋の胸を、いきなりしのぶが腕を伸ばしむんずと掴んだ。
「て、テメ、何すんだっ」
「キャッ」
 勘違いして赤くした顔を両手で覆っている和美は無視し、しのぶが手の中の感触を確かめると……そこには、四角く固い何かがあった。
「やっぱりな。本当にそっくりだ。……それ、タバコの箱だろ」
「なっ」
「えーっ、千秋ちゃんタバコ吸ってるの? ダメだよ、私達まだ未成年なんだし、体にも良くないよ」
「だからオマエは黙ってろって言ってんだろっ。……テメエ、何モンだ?」
 ジャージの胸の内ポケットを押さえながら、訝しげな視線をしのぶに向ける千秋。
「最初に言わなかったか? 私は新女から移籍したんだってな。お前とそっくりなヤツをよく知ってるんだよ。しかし、タバコの仕舞い方も一緒だとはな」
 しのぶの言葉に、ハッとする千秋。
「あっ……千春姉ちゃん……」
「千春に頼まれてるんでな。くれぐれも妹をよろしく、って。これからよろしくな、千秋」
 今年になって新女に入った新人に、村上千春という名の少女がいた。双子の妹がいるという話は聞いていたが、なるほどそっくりだ。事前に聞いていなければ、確実に勘違いしたことだろう。
「……名前で呼ぶんじゃねえよ」
「村上だとごっちゃになってわかりにくいんだ、悪いが名前で呼ばせてくれ。ああ、一つ教えておくよ。千春は今、酒もタバコも止めてるぞ。新女の練習はキツイからな」
「姉ちゃんが……」
「ツッパるのもいいが、千春と再会した時に情けないことにならないようにしておいた方がいいぞ」
「チッ」
 バツが悪いのか、背を向けてこの場を離れようとする千秋。
「あれっ、千秋ちゃんコーラいらないの?」
「いらねえよっ! ……たく、空気読めっつーの」
「あっあっ、ちょっと待って千秋ちゃん。さっき社長に聞いておいたんだ、千秋ちゃんにリングネーム付けるならどんなのがいいかって」
「知るかよ。どうせロクなもんじゃねえんだろ」
「そんな事ないよ。『マーメイド千秋』だって。この間水泳トレをやった時に、泳ぐ姿が人魚みたいに綺麗だったからだって言ってたよ、社長」
「なっ……」
 予期せぬ言葉に思わず真っ赤になる千秋。
「マーメイドも素敵だよね。昔の戦隊モノにマーメイドの名前がついてるヒロインがいてねっ」
「ど、どうでもいいよんな事っ」
 千秋は赤面した顔を隠すように、背中を向けると肩を怒らせて行ってしまった。
「あっ、千秋ちゃーんっ。あれ〜、なんで怒っちゃったのかな」
「ハハッ、いや、怒ってないよあれは。気にするな」
「そう? ならいいけど」
 それにしても、しのぶは意外だった。和美のようなタイプは千秋のようなタイプを避けるものかと思っていたが。
「まあいっつも千秋ちゃんプリプリしてるから、いつも通りって言えばそうなのかなあ」
「和美はいいのか、ああいうのは」
「え? なにが?」
「だってほら、正義なんだろ、お前」
 小首を傾げて考える和美。
「でも、千秋ちゃん悪い子じゃないんだよ。みんなの前ではああだけど、練習も一人でちゃんとやってるし」
「そうなのか」
「うん。それに、最初は反発してても、必ずわかってくれて、最後は一緒に戦ってくれるんだよ。お約束だよ、お約束」
「そうか……」
 相変わらず理屈はよくわからないが、千秋がああいう性格でも孤立しないですむのは、和美の存在も大きいのかもしれない。もっとも本人はそんな意識もないのであろう、屈託のない笑顔を変わらず浮かべていた。

 昼食を挟み、午後の練習に入る。器具を使ったウェイトを行っていると、一人の背の高い少女が隣の器具に座り、同じように練習を始める。しばらく並んでトレーニングを行っていたが、どうにも気が散る。というのも、なんだかチラチラ見られている気がするのだ。かと言って、こちらが隣に視線を送ると、途端に下を向いてしまう。再び前を向いてトレーニングを始めると、相手の視線で首の辺りがチリチリする。いい加減我慢が出来なくなったしのぶは、立ち上がると隣の少女の前に仁王立ちした。
「……あ……あの……」
 真正面から見下ろすと、少女は視線を合わせないようにキョロキョロ泳がせる。
「何か言いたい事でもあるのか」
「……いえ……あの……」
 もごもごとはっきりしない少女に、焦れたしのぶは両肩をガッチリ掴むとグイと顔を近づけた。
「ひゃっ」
「なんだ! 言いたい事があるならはっきり言えっ!」
 真正面からグッと見つめる。さすがにこの距離では視線を逃がすこともできないのか、しのぶの目を見ながら少女がポツポツと言葉を紡ぎ始める。
「あ……私……伊達、遥です……その……よろしく……」
「ああ」
「…………」
「……それだけか?」
「え……うん……」
 しのぶは拍子抜けした。たったそれだけの事を言うのに、なぜこんなに時間と手間が掛かるのか。本当にこの少女もプロレスラーなのか?
「ああ。よろしくな」
 しのぶは遥を放すと、再びウェイトを始める。するとまた、チリチリと視線を感じる。
「……まだ何かあるのか」
「え……うん……あの……越後さんは……」
「しのぶでいい」
「え……?」
「しのぶでいいよ。最初に言っただろう、同期なんだから遠慮するなって。私も遥って呼ばせてもらう。それでいいか」
「あ……うんっ……」
 口の中で小さく、しのぶ……と繰り返し、感触を確かめる遥。
「えと、あの……しのぶは……」
「おーい、遥ー。こっちに来てくれー」
「あ……」
 いざ話しかけようとしたタイミングで別の方向から声を掛けられ、遥は思わずしのぶを見る。
「行ってこいよ。話なら後で聞くから」
「……あ、うん……ありがとう……」
 遥は控え目に微笑むと、呼びかけられた方へ走っていく。
「……変なヤツだな」
 ウェイトを続けながら、目線をなんとなく遥の向かった先へ向ける。ポニーテールの少女……近藤真琴と言ったか……と話した後、ミットを持つ遥。打撃練習だろうか。遥の構えたミットに、小気味良くパンチを繰り出す。プロレスラーとは違う、打撃の動き。おそらくボクシングか、またはキックボクシングの経験があるのだろう。しばらくすると、遥がミットを置き、真琴がキックミットを持つ。すると、遥の周りの空気が張り詰める。
「ん?」
 しのぶの視線の先、表情を引き締めた遥が、シャープな足技を繰り出していく。膝、回し蹴り、ハイキック。
「あれは……そうか、あの時の」
 思い出した。しのぶが見に行った旗上げ戦、メインで勝利を奪った選手だ。リング上とはあまりに雰囲気が違い、まったく気づけなかったが、どうやらスイッチの切り替えが必要なタイプのようだ。
「……なるほどな」
 しのぶは笑みを漏らすと、表情を引き締めてウェイトに没頭していく。その耳には、しばらくミットを叩く打撃音が心地よく響いていた。

 夕方。皆、そろそろ練習を終えたそうな空気を出しているが、ここの所退団から入団と落ち着いて練習ができていなかったしのぶは、ついつい練習に没頭していた。
「越後さん、ちょっといいかしら」
 器具を使ったトレーニングに没頭するしのぶに、一人の少女が声を掛ける。
「ん? ええと……」
「私は内田幸。リングにはラッキー内田って名前で上がっているけれど」
「ああ、よろしく。私の事はしのぶでいいよ」
「そうね。それで、越後さん」
 あえて名字で呼ぶ少女。そこには、簡単には貴方を認めない、という意思表示が感じられる。これまでの人懐っこい少女達とは違った反応に、しのぶは顔を上げて彼女の顔をまじまじと見る。そこにはクールに自分を分析している、二つの瞳があった。
「よければ、私に付き合ってもらえないかしら。私はグラウンドが得意なんだけど、ここの皆はあまり得意じゃないの。よければ、新女にいたという貴方に胸を貸してもらいたいの。どう?」
「悪いけど、グラウンドは専門分野じゃないんでな。期待には沿えそうもない」
「でも、新女にいたなら一通りの事はやってきたんでしょう」
 これは、相手をしないと収まりそうにない。それに、そうしなければ彼女もしのぶを認めようとはしないだろう。別にみんな仲良く、なんてガラではないが、人数が少ないだけに変なしこりを残すのも後々良くないだろう。
「……わかったよ」
「ありがとう。じゃあ、リングに上がりましょう」
 練習場のリングに上がると、向かい合って腰を落とす二人。他の選手達も、自分の練習を続けながらも、目線はチラチラとリングの上に釘付けになっている。
(……これは、下手な事はできないな)
 幸に言った通り、どちらかと言えばグラウンドは苦手なだけに、自ら得意であると豪語する彼女相手にどこまでやれるかはわからないが、あまりみっともない姿を晒すのも、皆が見ているだけに体裁が悪い。
「それじゃ……いくわよっ」
「……っ!」
(速いっ)
 低姿勢からいきなり飛び出した幸のタックルに驚きつつも、しのぶも冷静に切る。尚もバックを狙う幸をなんとかいなすが、幸の素早い動きに次第に追い詰められ、一瞬の隙に足を掛けられダウンを取られる。
「ほら、どうしたのっ。こんなものなの?」
「チッ」
 足を取りに来る幸の動きをなんとか凌ぐも、一瞬の気も抜けない緊張感がしのぶの背筋をゾクゾクと走り抜ける。
(あの社長、さすがだな……こんな小さい団体に、これだけのテクニックを持ったヤツがいたとはっ)
 自分から仕掛けるのは苦手とはいえ、先輩達の相手をよくさせられていてある程度のグラウンドテクニックは身についているしのぶ。その自分が、ここまで追い込まれるとは。
「ユキちゃんさすがだね。しのぶちゃんに何もさせてないよ」
「そうか? あたしはグラウンドの事はいまいちわからない。どうだ、光?」
 いつの間にか手を止めてリング上の二人の動きに集中する選手達。真琴は、幸ほどではないもののグラウンドもそこそここなす光に尋ねる。
「うん。さすがに攻めはユキが断然上だけど、しのぶのディフェンスも凄いよ。ポイントをずらして、完全には決めさせないもの」
 光の言葉通り、有利なポジションを取ってはいるものの極めきれない状況に幸は若干焦りを感じていた。
(さすが、という所かしら……でもっ)
「もらったっ」
 わずかな隙に得意のアキレス腱固めの体勢に入りかけた幸。だが、
「させるかっ」
 しのぶは体を裏返すと足に力を溜め、マットを蹴りつけると反動で一気に幸の手から足を引っこ抜いた。
「なっ」
 そのまま距離を取り、一息吐くしのぶを思わず呆然と見つめる幸。
「……やるわね、アナタ」
「……お前もな。新女にもこれだけの関節技の使い手は、数えるほどしかいない」
「そう。誰もいない、とは言ってくれないのね」
「それはな。先輩の中には、私程度数秒あれば極めてしまう人もいるからね」
「ふうん。……なら、私もやってみせるわっ」
「チッ!」
 再び幸がタックルの体勢に入り、しのぶが身構えた、その瞬間。
「コラッ、お前達。練習熱心なのもいいが、オーバーワークは体を壊すぞ」
 パンパンと両手を叩きながら、社長が道場に入ってきた。
「あっ、社長。お疲れ様ですっ」
 いの一番にペコンと頭を下げる和美に習い、皆口々に挨拶する。幸は立ち上がるとしのぶに背を向け、呟いた。
「……リングの上では、逃がさないわよ」
「ああ。その時は遠慮なく、タックルに入られる前に打撃で潰させてもらうさ」
「フンッ」
 先にリングを下りると、タオルを持った光が声を掛けてきた。
「お疲れ様っ。どうだった、しのぶは」
「……物足りないわ。仕掛けてこないんだもの」
「言葉通り、苦手なんでしょ。でも、よく防いでたね。あのアキレス腱固めは、私も決まったと思ったもん」
「私の入りが甘かったのよ」
 リングに背を向けたまま、練習終わりのストレッチに入る幸。リングでは、下りかけたしのぶに社長が話し掛けている所だった。
「やあ、どうだった越後君。初日の練習は」
「ええ。問題ありません」
「ウチの選手達はどうだい?」
「まだまだ、基礎から足りないと思いますよ」
「ハハ、これは手厳しい」
「でも……」
「でも?」
「なかなか、面白くはなりそうですね」
 それぞれストレッチをしている選手達を見ながら、しのぶが呟く。その表情を見て、満足げに頷く社長であった。

〜〜〜

「最初は、新女からわざわざ移籍してくるなんて、何を考えているんだろう、って思ったわ。入りたくても入れない子だって多いのに」
「私が逆の立場でも、そう思っただろうな」
 膝に頬を押し付けながらポツポツと話す幸に、素振りを続けながら返すしのぶ。
「コネでもあるのかと思ってた。エース待遇とかね。……でも、アナタは私達に混じって、誰よりも練習して、前座の日でも文句一つ言わずにこなしてた。訳が分からなかった」
「…………」
 顔を上げて、星を見上げる幸。その瞳は、星よりも遠い場所を見つめているようにも見える。
「そして、いつの間にかそんなアナタに引っ張られてる私達がいた。なあなあにならずに、常に誰にも負けたくない、って。試合だけじゃなく、練習でも。あの子が100やったのなら、私は110やってみせる。だって、負けたくないもの。……その内に気づいたわ。社長が何で、わざわざ引き抜いてまでアナタを入団させたのか」
「……昔、光にもそんな事を言われた気がするな。自分ではよくわからない。私はただ、自分のすべき事をしていただけだ」
 幸が腰を上げ、しのぶの肩に手を置く。そこでようやく、しのぶの動きも止まる。
「私、そろそろ部屋に戻るわ。アナタもその辺にしておいたら。オーバーワークは体に毒よ。もう、若くないんだから」
「年寄りみたいに言うな」
「同じようなものよ。……最後、やるんでしょう? その前に体を壊しても、仕方ないじゃない」
「お前……」
「知ってたのか、なんてヤボな事言わないでね。何年一緒にいると思ってるのよ。……ま、あの脳天気コンビは気づいてなさそうだけど。あと、当の本人もね」
「だろうな」
 笑い合う二人。笑いながら、幸がスルスルと首に手を回す。完全に入る前に、木刀を持った左手とは逆の、右手を腕と首の間に差し込むしのぶ。
「……残念。最後に極めようと思ったのに」
「たった今、人の体を気遣ったヤツとは思えない言葉だな」
「だって、もうリングでは機会がないんだもの。もう一度、アナタのギブアップって声が聞きたかったわ」
「サディストめ」
 幸は首に回した手を下ろすとしのぶの腰に回し、背中に顔を押し付ける。
「……ねえ。遥がアナタと話したがってたわよ」
「ああ、知ってる。あれだけチラチラ見られていればな。昔から変わらないな、あいつも」
「わかってたんだ。……なら、話してあげればいいじゃない」
「今は、駄目だ。私は、もう一度本気のあいつとやりたい。そうじゃなきゃ意味がないんだ。……あいつに、余計な気持ちを持ってリングに上がって欲しくない」
「不器用だものね、あの子」
「ああ」
「アナタもね」
「……かもな」
 そのまましばらく、無言で佇む二人。やがて、幸はしのぶから体を離すと、背を向けた。
「じゃ、戻るわ」
「ああ」
「今シリーズ、シングルはないけど、タッグでは何回か当たるでしょ。その時は、覚悟しておいてね」
「お前もな。今の私に負けたら、もう仕返しの機会はやってこないぞ」
「負けないわよ。……おやすみなさい、しのぶ」
 幸が去った後も、しのぶは木刀を握りしめたまま、ぼんやりと夜空を見上げていた。そこには北斗七星と、その脇に一つの星が輝いている。一般的には、七つで一まとめという認識だろう。だがしのぶの目には、その七つの星からから脇の一つの星へと引かれた線が、はっきりと映っていたのだった。


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