〜4〜

 一番星プロレスは所属選手全員が寮で生活している。最初は6人しか住んでいなかった小さな建物も、今では16人もの選手達が生活する大所帯になった。皆が同じ所に住んでいる分、情報伝達もしやすい。何かあれば、寮の食堂の掲示板に張り出されることになっている。各選手が練習を終えて道場から寮に戻ってくると(といっても距離的には目と鼻の先だが)今月のシリーズのマッチメイク表が張り出されていた。もちろん後で、個々に興行ごとのプログラムは別々に渡される。
(今日も……話せなかったな……)
 遥は小さく溜息を吐き、肩を落とす。しのぶの引退が発表されてから数日。話をしたいと思いつつも、タイミングが合わずにすれ違いになる事が多い。今日も練習を終えると、声を掛ける間もなくしのぶはさっさとシャワーを浴び着替えて寮に戻ってしまった。
(……このままお別れになっちゃうの……嫌だな……)
 そうは思っても、これだけタイミングが合わないと避けられているのではないかと思ってしまい、根がネガティブな遥はますます自分から動けなくなってしまう。こんな時、同期の屈託のない仲間達が羨ましい。
 寮の玄関を開くと、脇の食堂に掲げてある大きな掲示板に何人もの選手達が群がっている。寮の構造上、入り口すぐ横の食堂を通り抜けてから各自の部屋へ向かう事になるのだが、何か新しい情報が貼り出されると、皆まずはここで立ち止まってしまう。
「お、遥、来た来た。遥、今シリーズは大変だね」
 同期の沢崎光がニコニコしながら話しかけてくる。まあいつも彼女はニコニコしているのだが。
「……大変って……何が?」
 UVC(アルティメットヴィーナスカップ)はAブロックでの出場だったので先月終えたばかりだし、タイトルマッチはいつもの間隔であれば6月だろう。今月は大きな試合は特になかったと思うのだが。
「ほら、見てみなよ。岡山のメイン」
 光に指を指された先を見ると、そこには確かに自分の名前と、対戦相手の、ここで目にするのは初めてだが、おそらく女子プロレスラーの中で最も有名な部類に入るであろう名前が書かれていた。
「……チョチョカラス……って、あの……AACのチャンピオンの?」
「そう! あの『リングの貴婦人』チョチョカラスだよ。この間まで新女と提携してたのに、社長がなんとか話をつけたんだって。やるね〜社長も。しかもいきなりウチのチャンピオンとシングルか。思い切ったよね。先月のナスターシャ・ハンとのシングルもそうだったけどさ」
「……社長が……」
 3月にメガライトとのTWWAヘビータイトルマッチを行い、結果敗れた遥だが、一息吐く間もなく先月はEWAの王者と、そして今月はAACの王者との試合となった。社長が自分の願いを聞き入れて、団体の権威が落ちる事も厭わずに組んでくれた試合だ。先月はハンにギブアップ負けという情けない敗戦を喫してしまったが、世界王者相手とはいえそう簡単に敗戦を繰り返すわけにはいかない。社長の為にも、仲間の為にも。
 決意を新たにそっと拳を握り締めた遥の鼻先に、フワッと良い香りが漂う。これは、バラの香り。香りの先を目で追うと、そこには予想通りの人物が立っていた。
「とうとうAACの王者、チョチョカラスが来日ですか。仮面の貴婦人と呼ばれる彼女のその華麗なる戦いぶり、ぜひ私もこの目で見てみたいものです」
「……翔子ちゃん」
 そこには後輩の、滝翔子がポーズを決めて立っていた。左手で自分の肩を抱き、右手に持った一輪のバラを顔の前に掲げている。別に気どっているわけではない。彼女は普段からこうなのだ。
「彼女の華麗さに、いかな遥先輩とは言え、幻惑され敗北を喫してしまうかもしれない……」
 翔子はスルスルと遥の前に歩み寄ると、手にしたバラを遥の髪に挿す。
「ちょっと翔子。縁起でもない事言わないの」
 光にたしなめられる翔子だが、彼女のペースは崩れない。
「いえ、美しさの前に人は無力なもの。それは例え、不死鳥と呼ばれる遥先輩とて同じかもしれない……」
 翔子は慣れた手つきで遥の腰に手を回し、その顎に手を掛ける。
「……あ……あの……」
 思わず赤くなる遥。しかし翔子はすでに自分の世界に入り込んでおり、遥の戸惑いを他所に熱く語り続ける。
「しかしご安心を。例え遥先輩が不覚を取ったとしても、その後ろには私が控えているのです」
「あ、ホントだ。翔子の地元の兵庫で、翔子とチョチョカラスのシングルも組まれてる」
 光が掲示板に目線を移し確認する。
「そう。メキシコの女王に、この私が真の美しさというものを教えて差し上げなければ。そしてその時こそ、愛しのバンビーノ達と共に遠く離れたメキシコの少女達も、感動に打ち震える事でしょう。ああっ、なんと罪作りな私」
 遥を抱いたまま、翔子は額を押さえて悩めるポーズを取る。そのあまりの決まり具合と、至近距離で見る端正な横顔に、遥も思わず見惚れてしまう。
「何をやっているんだ、翔子」
 凛とした声に、自分に酔っていた翔子は我に帰り、遥の手を取り真っ直ぐに立たせてから声のした方に顔を向ける。声の主は、翔子の同期で次期エースと言われている北条沙希だった。
「沙希。いや、遥先輩をリラックスさせてあげようとね。この細い体に、すぐに全てを自分で背負い込んでしまう人だから」
 翔子は先程まで遥が拳を握りしめていた手を取ると、ニコリと微笑む。思った以上に自分は見られているようだ。少し気恥ずかしくなり、遥は顔を赤くする。
「当然だ。それが王者というものなのだから。だいたい、君は先月のUVCで遥先輩に負けているだろう」
「うぐっ、嫌な事を言うな、沙希は」
「アハハ、こりゃ翔子も一本取られたね」
 沙希は遥の前に進み出ると、真っ直ぐ瞳を見つめて宣言した。
「遥先輩。私も今シリーズ、チョチョカラスとのシングルが組まれています。……ですが、はっきり言って今はそれはどうでもいい。UVCのBブロック、私は完全な形で勝ち上がり、貴方への挑戦権を手にして見せます。そして、今度こそ完全に貴方を超えてみせる」
「沙希ちゃん……」
 その真剣な眼差しに、遥も視線を逸らせない。しばし見つめ合う二人。
「……それは、どうですかね」
 ふと、横から漏れた呟きに二人の視線が向けられる。そこには、掲示板を見つめながら佇む、イージス中森がいた。
「中森か。言っておくが、君にも邪魔はさせない」
「……私は、やるからには完璧を目指します。UVCも、出るからには全勝を目指しますよ」
「目指すのは構わない。ただ、完璧を手にできるのは一人だけだ」
 中森が、鋭い視線を沙希に向ける。それを真っ向から受け止める沙希。
「……あ……あの……」
「あらら……どうしたもんだろ、この空気」
 一触即発の展開にオロオロする遥と、蚊帳の外になってしまい肩を竦める光。と、突然。
「なんだいなんだい、デカいのが何人も固まって! ジャマだったらありゃしないよ」
 大声で割って入ってきたのはアドミラル八島だった。その豪快な大声に、その場に高まっていた緊張感が霧散する。
「八島か……言っておくが、君にも」
「ああ、わかってるよ。負けないってんだろ。アタシだってそうさ。そんなのみんなそう思ってる。思ってないのは涼美くらいのもんだろ」
 八島は沙希より入団は一年遅いのだが、年が同じという事と持ち前の性格で敬語は使わない。それを咎める空気が選手間にないのも、彼女が彼女でいられる大きな要因だろう。
「だからって、こんなトコでごちゃごちゃ言ってたってしょうがないだろ。やるならリングの上でやりな! って、ヒールのアタシがこんな事言っても説得力ないか、アッハッハ」
 豪快に笑う八島。それで皆の緊張が解けたか、中森は小さく笑うと背を向け、部屋の方へ廊下を歩いていく。
「……そうだな。でも、遥先輩。覚えておいてください。私は本気ですから」
「……う、うん……」
「では、私達も部屋へ戻ります。行こう、翔子」
「では先輩達、ごきげんよう」
 ペコリと頭を下げて、二人も部屋へ戻る。スラリと背の高い二人が並んで歩いていると、まるで少女漫画の中の一コマのようだ。二人がその場を去ると、緊張が解けたのか遥は大きく息を吐いた。
「まったく、遥さんも遥さんだよ。先輩らしくビシッと言ってやりゃあいいんだよ」
 そう言って、遥のお尻を平手で豪快にバンと叩く八島。
「ひゃっ」
「遥が先輩らしかったら、静香だってそんな態度とれないでしょ」
「アッハハ、そりゃそうかもね。ま、ともかく。これでようやくゆっくり見えるだろ、二人共」
 八島が振り返ると、背後に小さな少女が二人隠れていた。つばさと那月だった。
「うんっ、ありがとう静香ちゃん」
「ちゃん付けはよしとくれよ、くすぐったい。んじゃ、アタシは行くよ」
「あら、八島さんは見ないの?」
「ああ、アタシはいいよ。誰が相手だって、前にいるヤツをぶっ倒すだけさ。それに、アタシはさっき隙間からだいたい見ちゃったからねえ。二人は見えなかったかもしれないけどさ」
「ムッ、それは私達が小さいって言ってるのかしらっ」
「おっといけない。先輩を怒らせたとなっちゃ大変だ。さっさと退散させてもらうよ」
「こらっ、静香ちゃーんっ」
 両手を挙げて怒る小さな先輩二人から、八島は笑いながら退散した。

「さてと、それじゃ私も部屋に戻ろうかな」
 光が軽く伸びをして背を向けようとする。
「あっ……待って、光ちゃん……」
「ん? なに、遥」
「……あの、さっき……私の事、今シリーズは大変だって、言ってたでしょ……確かにチョチョカラスさんは、強敵だろうけど……それだけ?」
「ああ、その事か。チョチョカラス戦もそうだけど、最終戦の秋田の話をしようと思ってたんだった」
「……最終戦?」
「うん。見てみなよ、ほら」
 光の指差す方向に視線を向けた、その時。
「ひゃ〜、京都で私、しのぶ先輩とシングルだって。あうう、どうしよ〜」
 掲示板を覗き込んでいたつばさが、情けない声を上げた。思わず視線がそちらに移ってしまう遥。
「どうするって、やるしかないじゃない」
「だって、しのぶ先輩だよ? 全然倒れてくれないし、技はゴツゴツして痛いし。う〜」
「だーいじょうぶよ、もう引退間際の人なんだから、なんとかなるわよ。私は去年何回かシングルで勝ってるし」
 フフン、と自慢げに小さな胸を張る那月。
「ほほう、余裕だな、那月。じゃあ社長に頼んで、最後にもう一回シングルやってみるか」
「ヒィッ」
 おそるおそる振り向く那月。そこには、腕組みをしたしのぶが仁王立ちしていた。
「オ、オホホ、イヤだわしのぶ先輩ったら。そ、それじゃつばさ、先に部屋に戻ってるわよっ」
 ピューッと逃げ出す那月。
「あわっ、待ってよなっちゃんっ! ……うう、行っちゃった」
 走り去る那月の背中を悲しげに見つめるつばさ。その頭に、しのぶがポンと手を置くとグリグリ撫で回す。
「そんな情けない顔をするな。お前だってウチで育ったプロのレスラーなんだ。全力でぶつかってこい」
「もー、しのぶ先輩っ。子ども扱いしないで……くださいっ」
「ハハ、その意気だ。……私が最後にお前とシングルを組んでもらったわけ、わかるな」
 つばさがハッと顔を上げる。そこには愛しげにつばさを見つめる、しのぶの顔があった。
「わ、わたしっ。精一杯、がんばりますからっ。それで、最後にしのぶ先輩に、勝ってみせますからっ」
「ああ、そのつもりで来い。私も全力で受け止めてやる」
「で、でも、あんまり痛いのはイヤだな……頭突きとか、拳とか」
「それは試合の流れ次第だな」
「あう……それじゃ、失礼しますっ」
 ペコンと頭を下げて、つばさも廊下を走っていった。その後ろ姿を満足気に見つめるしのぶの肩に、光がポンと手を置く。
「良い先輩だよね、しのぶは。コーチとしてウチに残ったら?」
「そういう訳にもいかないさ。確かにあいつらの事は気になるけど、引退したら道場を継ぐって言うのが祖父との約束だからな」
「そっか、残念。それじゃ、私戻るわ」
 歩き出す光に、遥は慌てて声を掛ける。
「あ、待って……あの、話の続き……」
「ああ、さっきの。まあでも、本人が来たし、直接話しなよ。それじゃ」
 光は片手を上げて、そのまま行ってしまった。あれだけ騒がしかった食堂も、今は遥としのぶの二人だけ。また避けられてしまうのかと思ったが、しのぶは掲示板をじっと見つめている。しかし、いざチャンスが訪れても、どう口にしていいのかわからず遥は呆然と佇んでいた。
「……最後、よろしくな」
「……えっ……あの、最後って……」
 唐突に切り出したしのぶに、遥は意味が分からず問い返す。
「なんだ、まだ見てなかったのか。これだよ」
 しのぶの指先は、先ほど光が指差した所、最終戦の秋田大会の試合表を指し示した。メインはUVCのBブロック最終戦『北条 vs イージス』、セミは同じく『アドミラル vs ミネルヴァ』、そして、その上には。
「……あ」
 そこには、『越後しのぶ引退試合 60分1本勝負 越後しのぶ vs 伊達遥』と、書かれてあった。
「そういう事だ。よろしくな、遥」
 それだけ言うと、しのぶは遥に背を向ける。
「あ……ま、待って!」
 遥かにしては珍しく、思わず大声を上げる。振り返るしのぶ。
「……わ、私で……いいの?……」
「お前じゃなきゃダメなんだよ。言ったろ。私は最後の最後まで、プロのレスラーなんだ。なら、チャンピオンの首を狙うのは当然だろう」
「……うん……」
「……最後だから華を持たせよう、なんてくだらない事は絶対考えるなよ。そんな事をしたら」
「しないよっ!……しないよ、そんな事……絶対、しない……」
 俯き、拳を握り締める遥、色々な想いが湧き上がってきて、気持ちに整理がつかない。
「……そうだったな」
 しのぶは向き直ると、拳を突き出し遥の胸にトンと置く。
「私は、勝ちにいくぞ。タイトルマッチでもなんでもない、ただのシングルマッチだが……私が本気でお前と戦える、最後の機会だからな」
「……私も……負けない……自分の為にも……しのぶの為にも……」
「ああ。……じゃあな」
 再び背を向けるしのぶ。と、思い出したように呟いた。
「そうだ。岡山のメイン、私がお前のセコンドにつくから」
「え……しのぶが……?」
 しのぶが直接セコンドにつくのは珍しい。どちらかと言うと、遥の立つリングの向かい側にいる事がほとんどであったのに。
「勝てよ、チョチョカラス戦。お前はFSPの、私達のチャンピオンなんだからな」
「……うん……頑張る」
「よし」
 しのぶは頷くと、遥に背を向け廊下を歩いていった。一人残された遥は、貼り出された用紙の『越後しのぶ』の文字を、そっと指でなぞり、瞳を閉じた。


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