〜5〜
5月。世間ではゴールデンウィークという事で、一番星プロレスの日程も当然月の前半に偏る。それが、関西シリーズから最終戦のみ秋田開催という、無茶なスケジュールも強行できる一因となっていた。
シリーズ開幕戦、岡山大会。しのぶは長時間、捕まっていた。
「耐えろ、しのぶーっ!」
コーナーに控えた真田美幸が、大声でしのぶに呼びかける。トップロープを今にも引き千切らんばかりに、両手でがっちり握ってぶんぶん揺すっていた。今すぐ飛び出したくて堪らないのだろうが、レフェリーに制され、叫ぶしかない状況だ。
リング中央では、しのぶが幸のラッキークローバー(変形STF)に完璧に捉えられていた。
「言われるまでも……ないっ……」
「しのぶ、ギブアップしちゃいなさいよ。ここまで完璧に入ったら、もう逃さないわよ」
顔面のロックを緩める事無く、幸がしのぶに囁く。
「舐めるな……この程度で、誰がっ」
「あらそう。じゃ、イヤでも言わせてあげるっ」
幸はそういうと、しのぶの上体が反り浮き上がるほどに顔面を強烈に絞りあげた。
「んがあぁぁっ!」
それでもしのぶは、リングを掻き毟りながらも意地で耐える。
岡山大会第3戦、『沢崎光、ラッキー内田組 vs 越後しのぶ、真田美幸組』。数年前まではメインも務めたカードである。それが最近は、休憩前に組まれる事が多い。若手の成長により、若手vs外国人のカードが後ろに組まれるようになった事もあるが、この世代の力の衰えが要因である事も確かだろう。
しかし表面上はそれを感じさせる事は少ない。むしろラッキー内田の関節技のキレは年を経るごとに磨きがかかっていると言える。
この試合、しのぶは捕まりっぱなしだった。というのも、光も幸も完全にターゲットをしのぶに絞ったようだ。あと数度しか戦える機会がないという意識が、自然としのぶとの絡みを増やす。これから引退する者に対する遠慮など少しも見られない苛烈な攻め。もちろんしのぶにとってそれは望む所ではあったが、いかに受けとスタミナに自信のあるしのぶとはいえ、二人掛かりで攻められっぱなしでは息を吐く間もなく、幸の必殺技に捉えられるまで追い込まれてしまっていた。
「く……くそ……」
しのぶは自由な右手で顔にかかっている幸の右腕を掴み、なんとかロックを外そうとする。が、
「言ったでしょ、逃がさないって!」
「ぐああぁっ!」
幸の腕がしのぶの頬骨の上にさらに強烈に押し付けられ、思わず呻いたしのぶは右手を外してしまった。
「あーっ、もう! もー、もー、もーっ!」
エプロンサイドで美幸はジタバタしていた。二人がしのぶ狙いの為、ちっとも出番が回ってこない。しのぶの事だからまだ耐えられるとは思うが、このまま終わってしまっては不完全燃焼もいい所だ。
と、しのぶの悲鳴を耳にしたレフェリーが美幸に背を向けギブアップの確認に向かった。その瞬間、美幸の我慢も限界に達した。
「うぉっしゃーーーっ!」
「あっ、レフェリー、あっち!」
慌てて指摘する光だが、弾丸のように飛び出した美幸は制止に入ったレフェリーを吹っ飛ばすとリング中央まで一直線。そのままの勢いでしのぶを捉えていた幸の脇腹に強烈なサッカーボールキックを叩き込んだ。
「うおりゃーっ!」
「あぐっ」
たまらずロックが緩んだ隙に、しのぶも幸を強引に引き剥がして難を逃れる。
「ユキッ! て、うわっ」
美幸が幸を蹴り飛ばした勢いそのままに、今度はエプロンの光に突っかけてきた。強烈なランニングエルボーをぶち込まれ、リング下に落ちる光。
「だーーーーっ!」
これまでの鬱憤を晴らすかのように怒声を上げる美幸。会場のボルテージも一気にヒートアップ。
「くっ、あと少しの所でっ」
脇腹を押さえて立ち上がる幸に、美幸が猛然とラッシュをかける。レフェリーはまだリングの上を転がっており、本来試合の権利を持たない美幸だが、制止するものはいない。
「せい、せい、せいぃっ!」
火の出るようなキックのラッシュに、追い込まれていく幸。たまらず片膝をつきかけた所で、再び吼えた美幸が顔面めがけて鋭いキックを放つ。だが、勢いのつきすぎた美幸はあまりに一本調子過ぎた。
「甘いのよっ」
幸は両腕で蹴りをブロックすると、下りかけの足を素早く掴み、自分の体を捻るとその勢いに美幸の足を巻き込んだ。ドラゴンスクリュー。強烈な足殺しだ。下手に堪えると足が捻じ切れる、経験でそれは分かっているため美幸も逆らわずに回転したが、だからと言ってダメージを完全に殺せるわけでもない。
「んがあっ」
膝に走る激痛にリング上で思わずうずくまる美幸。その隙を逃さず、幸はリングを走るとロープで反動をつけ、スライディングキックの体勢に入ると美幸をリング下に蹴落とした。
「光っ」
そのままエプロンに戻っていた光にタッチする。
「もう一回私に代わりなさいよ。しのぶを仕留めるのは私なんだからっ」
「ダメダメ。ここで決めちゃうからねっ」
幸は光にタッチすると、リング下の美幸を追って自らもリングを下りる。光もリング内に飛び出したが。
「でえぇぇいっ!」
息を吹き返したしのぶが、リングに入ったばかりの光に突っかけいきなりのラリアット。ダウンこそしなかったものの光の顎が跳ね上がる。
「んがっ」
「舐めるなよっ、この程度で私を仕留められるなどっ」
しのぶは再度ロープに走り、もう一度ラリアットを決めて光をなぎ倒すと、起き上がりかけの光の胴に両手を回して、そのまま光の体を持ち上げた。
「でりやあぁぁぁっ!」
そして勢い良くマットに叩きつける。サムライパワーボム。しのぶの得意技の一つだ。
「どうだっ!」
エビに固めたまま、しのぶは右拳を突き上げる。沸き上がる歓声。いつの間にか起き上がっていたレフェリーが、素早くカウントを取る。
『1、2、……オオーッ!』
カウント2.8。光の体が跳ね、エビ固めを崩す。
「ちいっ!」
決めそこなったしのぶは再びロープに走り、ラリアットを決めるべくロープで反動をつける。が、光はしのぶの予想以上にしのぶに接近していた。リング中央に留まる事無く、しのぶに向かって突進していたのだ。
「しまっ」
「よいしょーっ!」
慌てて受けの体勢を取るしのぶだが、間に合わず光の臀部が顔面に直撃。ロープの反動も利用し威力が倍化したカウンターのヒップアタックに、たまらずダウン。
「ぐうっ」
「ひかるっ、完・全・燃・焼ーっ!」
両拳を握り締め、吼える光。ここからフィニッシュムーブに入るという意思表示だ。頭を押さえて立ち上がりかけるしのぶに、光はロープに走り反動をつける。
(……ここだっ!)
光がロープに背を預けたその瞬間、しのぶは気力を振り絞るとスクッと立ち上がり、体を捻る。戻ってきた所にカウンターの裏拳。これを決めれば、流れは完全にこちらに来る。
「せいぃぃぃぃやあぁっ!」
胴抜き居合いの要領で、しのぶの拳が空気を凪ぐ。完璧なタイミング。これで決まった、としのぶは確信した。が。
ブンッ。
「なっ!?」
しのぶの拳は何もない空間を切り裂いた。コンマ数秒、しのぶの意識と拳の速度にズレが出た。身を屈めてなんとか裏拳をかわした光自身も、ロープの反動も加えたあのスピードの中でかわせた事に驚きつつ、ここが好機と素早くしのぶのバックに回る。
「くっ」
「そうりゃあぁっ」
そして得意の高速ジャーマンスープレックス。しのぶの後頭部をマットに叩きつける。
「んぐぅっ」
強烈な衝撃。それでも、しのぶにはこれを返せる自信はあった。
『1、2、……っ』
レフェリーのカウントが途中で止まる。2.8で肩を上げようとしたしのぶだが、自分の意思に関係なく肩が浮いた。光がブリッジを崩して解いたのだ。しかし両手は胴に回されたまま、体を転がして再び体勢に入ると、今度は自身も伸び上がりながらの高角度の人間橋を描く。光の必殺技、バーニングジャーマンだ。
「なああぁぁっ!」
ズドンッ!
「ぐがぁっ!」
先程以上の強烈な一撃。飛びかける意識。
「しのぶぅっ!」
場外では美幸がなんとかリングによじ登ろうとロープに手をかけていたが、幸が背後からスリーパーで捉えそれを阻んでいる。助けはない。ならば、気力で意識をなんとか繋ぎ止め、フォールを跳ね返す為に、体内に残されたわずかな力を肩付近に集める。しかし。
『1、2、…………3ィーーーっ!』
しのぶの肩が上がったのは、レフェリーが3度マットを叩いた、そのコンマ数秒後だった。
「私に残しときなさいって言ったじゃない。ギブアップ取りたかったのに」
「シングルならともかく、タッグじゃ今のしのぶは死んだってギブアップしないよ。意識を刈り取るか体を動けなくするかしなきゃ」
「フンッ。なら次はチョークで意識でも飛ばすわよ」
レフェリーにそれぞれ手を掲げられ勝ち名乗りを受けながら、軽口を叩き合う幸と光。リング下では、しのぶが美幸の肩を駆りながらリングを降りていた。
「くそっ」
「あーっ、もーっ、燃えたりないーっ」
ズキズキする後頭部を押さえながら歩く。隣では不完全燃焼だったのか、美幸が歯噛みして物凄い表情をしている。
「……すまん」
「あ、別にしのぶを責めてるんじゃないッスよ。ただ、もっとリングで暴れたかったのに、あの二人しのぶばっかり狙って〜っ」
気にするな、と言われて「はいそうですか」と安心できるような表情とは間違っても言えない美幸だったが、彼女は熱くなりすぎると眉間に皺が寄っておそろしく怒り顔になるというのをしのぶは知っていたから、心の中は言葉通りなのだろう。
「……でも、今までのしのぶならあのくらい返せてた……あ、ごめん」
美幸が慌てて口を閉じる。
「いや、お前の言う通りだ。直前の裏拳も、あのフォールも、頭と体の反応がずれてしまっていた……情けないな」
「…………」
美幸は押し黙る。その辺りのわずかなズレが、しのぶをして引退を決意させたのだろう。しのぶほどではないのだろうが、美幸にも心当たりは少しある。もし、それがひどくなったら……美幸も、決意しなければいけない時がくるのかもしれない。
「……次だ」
「へ?」
「次、やり返すぞ。このまま終わっていられるものか」
しのぶがニヤリと笑みを浮かべる。つられて、美幸も笑顔を浮かべた。
「そッスね、次! ……あ、でも、次はしのぶと戦うんだった」
「そうだったか?」
「そう! 真琴と組んで、しのぶと千秋のタッグと。今日の燃えたりなかった分、爆発するッスよ。うふ、うふふふふ……」
「……お手柔らかにな」
今シリーズ、しのぶに安息の時はないようだ。頭が痛い。だが、それこそ望む所なのだ。しのぶは自然と笑顔を浮かべていた。
岡山大会、メインイベント直前。会場内に伊達遥のテーマソングが流れ始める。
「準備はいいか」
無言でコクリと頷く遥。しのぶは会場への扉を開き、先に一歩進み出る。その瞬間、歓声とともに一部でどよめきが起こる。コアなファンはその見慣れない光景に驚いたのだろう。ジャージ姿の越後しのぶが、伊達遥の入場の為に先導し道を作る。しのぶ自身、いつ以来だったか覚えていない。むしろ初めてかもしれない。
リングサイドに上がりセカンドロープに腰掛けてトップロープを肩の上に乗せ、隙間を作ると遥はその間を素早く潜り、リング内へ。遥が静かに右手を突き上げると、いつの間にかどよめきも全て歓声に変わっていた。
遥のテーマソングが止まると、今度は一転ゆったりと大空を舞うような雄大な曲が流れる。プロレスにさほど詳しくない観客でも、この曲は聴き覚えがあるだろう。反対側の通路の扉が開かれると、会場の歓声が一際高まる。『仮面の貴婦人』チョチョカラスの入場だ。
「うわ、すごい人気」
共にセコンドに付いた光が、会場を見回して感嘆の声を上げる。最強の外敵の来日だというのに、会場は歓迎ムード一色である。チョチョカラスはどこに行ってもリンピオ(善玉)だという事か。
「遥、飲まれるなよ」
「……うん」
相変わらず言葉は少ないが、すでに遥の表情は、いつもの自信なさげな顔ではなく、戦う女の表情になっていた。
双方リングインし、リングアナウンサーがコールすると、一番星プロレスのエースである遥に対するものと同じくらいの歓声が、チョチョカラスの際にも沸きあがる。ファンもこのカードに相当の期待をしていたという事だろう。
青コーナーにもたれ、試合開始のゴングを待つ遥。しのぶは再びエプロンサイドに上がり、遥の背中をパンと叩いた。
「よし。行ってこい!」
その声と同時に、会場にゴングの甲高い音が鳴り響く。
「はいっ!」
表情を引き締めた遥が、コーナーを飛び出した。
試合序盤は完全にチョチョカラスのペースだった。優雅でありながらも恐るべきスピードで、縦横無尽に6メートル四方のリングを動き回り、遥の死角から次々と攻撃を仕掛けていく。
「なんてスピード。あれじゃ動けないよ」
光も思わず唖然としている。しのぶもまた驚いていた。これが世界トップクラスのスピードなのか。
すでに何連発ドロップキックを貰ったかわからない。遥はリング中央で蜂の巣になっていた。
「遥、間合いを詰めろっ。そのままじゃジリ貧だ。一発当てれば止まるはずだっ」
叫ぶしのぶ。その声が届いたのか、それともずっと狙っていたのか。何発目かのドロップキックを胸で受けダメージを最小限に抑えると、一気に間合いを詰めてエルボーを叩き込んだ。
「アウッ」
「効いたか?」
しかしそこはさすがに試合巧者のチョチョカラス、その一撃で寸断されるほど甘くはなく、さらにギアを上げて遥を撹乱する。
「ああっ、ダメなの?」
「いや、少なからず今の一撃は応えたはずだ。それに、遥には無尽蔵のスタミナがある。凌いでいれば、必ずチャンスはくる」
しのぶの読みと、遥の考えは一致していたようだ。チョチョカラスが数度攻撃を仕掛ければ、遥が思い一撃をガツンと決める。そのまま進めば確かに遥の分は悪かったろうが、遥の攻撃のダメージが蓄積していくにつれ、チョチョカラスの攻撃頻度が減り、逆に遥の仕掛ける場面が増えていく。
焦れたチョチョがロープの反動をつけ攻撃の威力を倍化させようとした所で、遥が素早く動いた。
「せいっ!」
ロープ際のチョチョに突進し間合いを詰めると、反動で戻ってきたチョチョにカウンターのフロントスープレックス。
ズダンッ!
「ハウッ」
衝撃に背中を押さえ一瞬動きが止まると、遥の切れ長の目がスウッと細められた。
「……これで……決めますっ!」
立ち上がりかけたチョチョに向かい猛然とダッシュ。左足で膝に乗り上げるとそのまま右膝で相手の顎を打ち砕く。遥の必殺技、サイレントウィッチが完璧に炸裂した。
「決まったっ!」
横でガッツポーズを決める光。しのぶも思わず拳を握る。
その名通り、多くのレスラーがこの技で沈黙させられてきたが、それでも世界王者は震える膝を押さえて立ち上がる。
「まだだ、遥っ! 一気に畳み掛けろっ!」
しのぶの声と同時に遥も前に出て、チョチョカラスのどてっ腹に助走をつけて威力を増したニーリフトを叩き込む。
「グホァッ!」
悶絶するチョチョ。完全に流れは遥のものになった。遥はさらに追い打ちをかけるべくロープに向かって走る。が、戻って来た所に体を低くして間合いを詰めたチョチョカラスが、低空ドロップキックを放つ。
「あぐっ!」
正確に右膝を打ち抜かれ、もんどりうってマットに転がる遥。次の瞬間には、世界王者は遥の死角となったコーナーポストの上に立っていた。
「遥、後ろーっ!」
光の声に振り向く間もなく、痛む膝を押さえて立ち上がりかけた遥の延髄にチョチョのミサイルキックが突き刺さる。
「あぐあぁっ!」
その衝撃に反対側のコーナーポストまで吹っ飛ばされる遥。チョチョが悠々と歩いて近づいてくる。
「う……うぐ……」
うつ伏せになった体をなんとか起こそうとする遥だが、力が入らない。チョチョは遥を抱え上げ、ボディスラムでマットに叩きつけると、トップロープに飛び乗り悠然と観客を見回し、長い髪をかき上げた。
「くるぞ! 堪えろっ!」
しのぶの声とほぼ同時に、世界王者が足場の悪さも物ともせずふわりと飛び上がると、体を翻らせ自らの体を無重力弾と化し、遥の上に飛来する。
ズンッ!
「くふぅっ!」
AACヘビーを幾度も守り続けてきた、チョチョカラスの必殺技ムーンサルトプレス。そのあまりの衝撃に覆いかぶさったチョチョの体ごとマットの上の遥の体がバウンドする。さしもの遥もここまでか、と思わず目を瞑ったしのぶだったが。
「1、2、……オオォーーーッ!」
カウント2.8、遥の肩が跳ね上がった。カバーしていたチョチョも驚きに目を見開き、上から遥を見つめている。彼女自身完璧な手ごたえだったのだろう。
「……ま、まだ……終われない……」
何度も膝から崩れ落ちそうになりながら、それでも懸命に立ち上がる遥。マスクに隠されていはいたが、チョチョの顔色が青ざめる。彼女自身日本に幾度も来日している為、身に染みているのだ。日本人レスラーの、折れない心というものを。
まだ体に力の入りきらない遥に素早く近づくとダウンを取り、両脚を掴むとその間に足を入れ、ロックしてそのままステップオーバー。リング中央で、ガッチリとチョチョのサソリ固めが決まる。
「くああぁぁっ!」
思わず呻く遥。先シリーズのハンとの試合をビデオで見ていたのだろうか、ここに来てギブアップ狙いに切り替えたチョチョ。ロープまでまだかなり距離がある。激痛に足が悲鳴を上げ、脂汗が滴り落ちる。
「……く……くぅ……」
それでも堪え、上半身に力を溜めると反動と脚力でなんとか振り解こうと試みた遥だったが。
「ぐっ、うあぁぁぁーっ!」
チョチョがさらに腰を落とし、絡めた足ごと胴を反り返らせる。体を真っ二つに引き裂かんばかりの強烈な反りだ。客席から悲鳴が上がる。
「……くっ……ああ……」
あまりの激痛に意識が混濁してくる。何の為に堪えているのか、わからなくなっていく。耳に入る、レフェリーのギブアップを確認する声。その声に導かれ、次第に唇が綻び始める。
バンッ!
と、その時。遥の体にどこからか微弱な振動が伝わった。そしてそれは、次第に断続的にマットを揺らす。
ぼんやり霞む視界の中、振動の起こる方向に視線を向けると、そこには必死の形相でマットを両手で叩き続けるしのぶの姿があった。
「遥っ! 耐えろっ! ここまで戻って来いっ!」
バンッ、バンッ! しのぶは何度もマットを叩く。
「しのぶ……」
「遥、お前は私達のチャンピオンだろうっ! その程度で根を上げるなっ! ここまで戻って来いっ!」
何度も何度も、マットを叩きながら声を枯らして叫ぶしのぶ。唖然としてその様子を見ていた光も、弾かれたように、しのぶと共にマットを叩き始める。
「そうだよ遥、頑張ってっ! 手を伸ばして、ロープはこっちだよっ!」
「遥っ! 来い、こっちだっ! 這ってでもなんでもいい、ここまで戻って来いっ!」
二人のマットを叩く振動。それが、遥の体を伝わり、心を揺り動かす。失われかけていた、何かを呼び起こしていく。
「くっ……うう……」
拳に力を込め、右腕を伸ばす。ロープにはまだ届かない。その右腕を下ろすと、マットに肘を押し付け、わずかばかり上体をロープ際に引き寄せながらまた左手を伸ばす。右手が届かなければ左手、左手が届かなければ右手。数ミリずつではあったが、匍匐前進の要領で遥の体が徐々にロープに近づいていく。
「そうだ、遥! こっちだ!」
「頑張って遥っ、もうちょっとだからっ。手を伸ばしてっ!」
マットを叩き続ける二人と、わずかずつでもロープに近づいていく遥。会場もいつの間にか、その姿にあてられたように、遥コールが響き渡る。
『はーるーかっ! はーるーかっ!』
「オウッ……」
チョチョカラスは驚いていた。完璧に決まったサソリ固め、これでギブアップが取れるはずだった。しかしいつの間にか会場は対戦相手のこの東洋のチャンピオンへの声援一色になっており、それに応える様にどこにそんな力が残っているのか、自分の体を乗せたまま彼女はロープへ向かい這い続けている。腰を落とし、反りを強めても、その瞬間は苦痛の呻きを上げるものの、それでも彼女は這い続け、会場の歓声は大きくなる。根っからのリンピオである彼女にとって、メキシコでは体験した事のない空気。その初めての体験に、言い様のない恐怖を覚え、それが彼女のロックを、ほんのわずかばかり緩ませた。
「遥ぁぁっ!」
「うああぁぁぁーっ!」
その瞬間、しのぶの絶叫と同時に遥も声を上げ、上体の力だけで一気にロープまで這いずった。
『ワアアァァーーーッ!』
遥がロープを手にした瞬間、会場が大歓声に満ち、足踏みに大きく揺れた。あの強烈な締めを凌いだ。これで流れが変わる。ここからだ。遥も、しのぶも、光も、超満員の観客達も、この場にいる誰もがそう思った。ただ一人、遥と対峙している世界王者を除いて。
「遥っ!」
「!?」
セカンドロープに手をかけ体を起こそうとしていた遥の天地が、突如逆転した。
(……えっ?)
丸め込まれた体、のしかかる体重、マットに押し付けられた両肩。一瞬の戸惑いが、遥の反応をわずかに遅らせる。
『1、2、……』
耳に響く、レフェリーの声とマットを叩く音。動転しながらも、レスラーの本能で肩を上げようとする遥。だが王者のテクニックが、それをコンマ数秒遅らせる。そして。
『スリィーーーーーッ!』
遥の体がのしかかるチョチョを跳ね飛ばしたのは、そのほんの数瞬、後だった……。
「レフェリー、今の2.9だろうっ!」
思わずリングに駆け上がり、レフェリーの襟首を掴んで揺するしのぶ。そんな事をしても判定が覆らないのはわかっている。だが、そうせずにはいられなかった。そして予想通り、首を横に振るレフェリー。
「しのぶ、やめなってっ」
光がしのぶを後ろから羽交い絞めにして、レフェリーから引き剥がそうとする。
「放せ、光っ! こんな、こんな終わり方、あるわけないだろうっ!」
納得できるわけがなかった。あの攻めを耐えて、これから反撃だという時に、こんな幕切れなんて。
「しのぶっ! 私達、プロだよっ! ギブアップも、3カウントも、そういうルールの中で戦うのが、プロなんだよっ!」
しのぶを押さえながらも、悲痛な声で叫ぶ光。
「わかってるよっ! だからって、こんな……こんなっ!」
身動き一つ取れない程完全に打ち倒されれば、嫌でも負けを認めざるを得ない。だが、まだ体は動くのに、これからなのに……。それは、まだ体を動かせるのに、引退を決意せざるを得なかった、しのぶの今の状況に似ていたのかもしれない。
当の3カウントを取られた遥は、マットにへたりこみ呆然としていた。自分でも整理がついていないのだろう。身じろぎ一つせず、ただうなだれて、青いマットを見つめている。
会場の空気も、微妙な判定に膨れ上がっている。何かきっかけがあれば、弾けてとんでもない事が起こるかもしれない。
と、へたりこむ遥の視界に、スッと白い手が差し出された。それは、世界王者のものだった。勝利を収めた直後だというのに、その表情には驚く程余裕がない。彼女自身、AAC初見参となる王者同士の試合で、丸め込み決着になどという不透明な形で終わらせるつもりなど欠片も持ち合わせていなかっただろう。勝つのなら、完全な形でその力を見せつける。そのつもりだった。だが、彼女はその瞬間、それを選択せざるを得なかった。この東洋の王者を押さえ込むには、あの瞬間しかないと本能で悟ったのだ。
差し出されたその手を、呆然と見つめる遥。もし払いのければ、AACとの全面抗争は必至だろう。観客達も、暴動を起こすかもしれない。
だが、遥の頭にはそんな先の事は浮かびもしなかった。ただ、目の前の手と、マットの青さ、そしてわずかに顔を上げ、その偉大な女性のマスクの中の青い瞳を見つめ……その手を、ガッチリと両手で掴んだ。
ウワアアアァァァァァーーーーッ!
『ああーっと、伊達遥、差し出された世界王者のその手をガッチリ握ったーっ! 18分44秒、スモールパッケージホールドで、AACの王者チョチョカラスが、一番星プロレスのエース伊達遥を辛くも下しましたあーーーっ!』
会場を揺るがす大歓声の中、実況アナウンサーの絶叫がこだまする。いつの間にかしのぶはレフェリーから手を離し、呆然と遥を見つめていた。
チョチョカラスが何事か呟くと、遥も両手を握ったまま頷き、そして手を放す。チョチョカラスは遥に背を向けるとマットの中央に立ち、レフェリーに右手を掲げられた。
ワアアァァーーーーーッ!
「遥っ」
まだへたりこんでいる遥に駆け寄り、光と二人掛かりで体を抱え起こす。
「チョチョカラス、なんだって?」
呆然としたままの遥に、光が問いかける」
「……え……うんと……わかんない……」
「わかんないって、お前……じゃあなんで頷いたんだよ」
呆れて問うしのぶに、遥はわずかに表情を緩める。
「うん……わかんないんだけど……悪意は感じられないっていうか……良い試合だった、なのか、またやろう、なのか……なんだか、そんな感じ……多分、だけど……」
「……そうか」
しのぶは、これ以上詮索するのは止めておいた。戦った当人同士にしかわからない何かが、二人の間を満たしたのだろう。
「……ごめんね、しのぶ……」
二人の肩を借りて階段を下りながら、遥が呟く。
「……あの時……確かにしのぶの声、私の耳に、届いてた……それから、光ちゃんの声も、お客さん達の声も……だから、頑張れた……頑張れたんだけど…………でも……」
顔を下ろし、俯く遥。
「バカ。顔を上げてよく見ろ」
階段を下りきったしのぶは、肩に回していた遥の腕をどけると、その尻をパンと叩いた。
「……え……?」
しのぶの言葉に、顔を上げる遥。そこには、拳を突き上げながら遥に声を掛ける、観客達の姿があった。
「凄いよ、遥。みんな、遥の試合を見て、これだけ喜んでるんだよ」
言いながら、光も貸していた肩をどかし、遥を一人で立たせる。
「ほら。観客に応えてやれ」
『はーるーかっ』
『はーるーかっ』
湧き起こる遥コールの中、しかし敗者の為どう反応して良いのかわからず、はるかはとりあえずペコリと頭を下げた。
ウワアアアァァァァァーーーーーッ!
その瞬間、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
「バカ。なんだそりゃ」
控え目に手を挙げて観客に応えながら通路を進む遥に、しのぶは苦笑して問い掛ける。
「……だって……負けちゃったのに、ガッツポーズとか……おかしいでしょ……?」
『……まあ、確かにな」
遥が会場の外に出ても、客席の盛り上がりはまだ当分止みそうにない。扉を閉める瞬間、しのぶはそっと観客席と、マットの上を見渡す。それに近いものは、しのぶも知っている。しかし、王者として、団体のトップエースとして浴びる歓声は、また一味違うのではないだろうか。ほんのわずかな間だけ、リングの中央でベルトを腰に巻いて一心に声援を受ける自分の姿を、目を閉じ想像する。
「……フッ。新人じゃあるまいし」
そんな自分を小さく笑ってみせると、しのぶは静かに、その扉を閉じた。
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