〜6〜

 5月半ば。前半に大型連休があった為、今月の興行8大会の内、6大会はすでに終了している。団体としては、前半はEWA、AACのトップ陣と星プロの主力のシングル戦がメインであった。さすがに星取りの歩は悪いが、それでもなかなかの頑張りを見せ、時には番狂わせも起こす。
 エースの伊達遥はといえば、基本的には対外国人には開幕戦以来加わらず、REKIやミネルヴァといった伸びしろのある若手達にシングルで胸を貸している。元々は遥自身の申し出だという。それを社長が許可した裏には、若手に経験を積ませようという目的も当然あるが、彼女達が伊達を喰って王者の権威を揺るがす事はまだないだろうという読みもあったのだろう。事実、若手達も善戦はしているものの、やはり王者に土をつけるまでには至らない。それでも現役王者との試合は大きな経験になっているようで、それが傍目にもはっきりとわかる。社長の判断は間違ってはいなかったようだ。
 6日目には一番星プロレス最大のイベントと言っていい、UVCが始まった。初戦は戦前の予想通り北条、イージスがそれぞれ白星を挙げた。やはり最終日の直接対決が鍵となりそうである。
 しのぶはと言うと、ここまでは全てタッグ戦だった。通常のシリーズであればまず千秋か美幸と組む事が多かったが、遥を除く同期は皆しのぶとの戦いを欲していた。社長もそれをわかってカードを組んだ為、昨日のパートナーが今日の対戦相手、の繰り返しである。そして対戦相手は徹底的にしのぶを狙ってきた。実際、今シリーズしのぶは3度ほど3カウントを奪われていた。しのぶにしては異例の多さだ。それでもシリーズ中盤にはパートナーの力を借りて白星も挙げており、まだやれるのではないか、と一部のファンは名残惜しげに呟くのだった。
 しのぶの今シリーズの対戦相手及びパートナーと言えば、同期以外では真壁那月も数試合絡んだ。元々打撃技の素質はかなり高いものを持っていた彼女だが、やはり体格の不利による体力面の弱さがトップ戦線に絡む事への妨げとなっていた。それでも地道な努力が実を結び、ここ数年で着実に体力をつけ、今では旗上げ世代と堂々と渡り合うだけの力を見せている。事実ここ1〜2年で遥を除く旗上げ世代全員からシングルで勝利を収めており、デビュー当時のひ弱な印象はかなり影を潜めていた。
 しかし、常に体格差のある相手に挑み続けるというのは、本人の予想以上にレスラー生命を削り取るようで、那月の動きにわずかながら早くもその兆候が見られ始めた事に、同じくそれを痛いほど感じているしのぶは嫌でも気付いてしまうのだった。

 京都大会の前日。宿泊しているホテルの部屋で、しのぶは眠れぬまま天井を眺めていた。プロレスラーとしての残り試合は、あと二つ。最強の敵と……おそらくは、今の団体内でもっとも戦い易い相手であろう。
 しのぶは、その明日の対戦相手である小さな少女……いや、もう少女という年ではないのだが、しのぶにとってはいつまでも子供みたいなものだ……野村つばさの入団当初の事を、思い返していた。


 3年目の秋。団体内は重苦しい雰囲気に包まれていた。入団半年を迎えた新人、小早川志保の突然の海外移籍が原因であった。旗上げ世代の面々にとっては初の後輩であった小早川の、挨拶もなしの突然の退団。皆大なり小なり衝撃を受けていたが、特に唯一の同期を失った那月の動揺は大きく、育成担当に指名されていたしのぶもまた表には出さずにいたが強いショックを受けていた。
 春先に社長に新人の面倒を見て欲しいと頼まれた時には、なんでそんな面倒な事を、と正直思ったものだ。同世代から一歩実力で抜け出した感のある遥になんとか追いつき追い越さねばという時に、他人の事になど構っていられない、と。しかし、他に頼める人がいないんだ、と社長に頭まで下げられては、無下に断るわけにもいかない。事実同期を見回せば、人に物を教えるタイプと言えばせいぜい光くらいのものだろう。幸や真琴は黙って背中を見せるタイプだろうし、和美や美幸ではいきなり自分と同等の練習を与えてパンクさせかねない。渋々ながらも頷くしかないしのぶであった。
 しかしいざ引き受けてみれば、意外とやりがいのある役目であった。人に教える事により気付く事も多く、また新人達の初々しい反応はしのぶに初心を呼び起こさせた。リングに立てるだけで嬉しくて仕方なかった、あの頃の気持ちを。
 そんな中、志保は那月よりも早く頭角を現した。デビュー五ヶ月で千秋にシングルで土を付け、シングルトーナメントでは敗れはしたものの真っ向からしのぶにぶつかり、その試合は高い評価を受けていた。今後の成長が楽しみだ。そう思っていた矢先の、突然の退団、海外移籍である。
 自分が厳しく接しすぎたのか。彼女が出していたサインをどうして気づいてやれなかったのか。表面上は変わらず自己の修練と那月の指導を行っていたものの、数日は眠れぬ日々を過ごしていた。
 そんな折、社長が突然新人テストをやると言い出した。秋も終わりに近づいた、この時期にである。こんな中途半端な時期に新人獲得など、通常では考えられない。だが、社長はあれ以来常に不安げな表情を浮かべている那月が気になっていたのであろう。旗上げ世代は一人一部屋を与えられていたが、急な宿舎拡張の為、それ以降の世代は二人一部屋だった。部屋の半分が突如無人になった事が、プロとは言え弱冠15歳の少女に与える心理的な重圧は想像に難くない。事実しのぶも、志保がいなくなって以来那月が夜中に突如悲鳴を上げたり落ち着かない表情で廊下をウロウロしたりしているのを何度か見かけていた。しかししのぶが話し掛けても、彼女は気丈に振舞ってみせ、弱った心の内を晒そうとはしない。那月の心の支えになれる同世代の誰かが、必要なのかもしれなかった。
 そうしてテストで入団したのは、那月と同じくらいの身長の、明るい少女であった。後で社長秘書の井上さんに聞いたところ、もう一人体格も素質もありそうな少女が合格ラインに上がっていたとの事だが、社長が頑として譲らなかったそうだ。実の所社長もまた、志保の予期せぬ退団に傷を負っていたのかもしれない。

「今日からウチに入団した野村つばさ君だ。皆、よろしく頼む」
「の、野村つばさ、15歳ですっ。よろしくおねがい、しますっ」
 たどたどしい敬語で挨拶する少女。しのぶは初め、小学生かと思ってしまったほどだ。事実、精神的にもまだかなり子供のようだった。
「ありゃー、ちっちゃいッスね〜」
「も〜、子供扱いしないでっ……くださいっ」
 美幸に頭をグリグリ撫で付けられ、両手を上げてプンプン怒る姿はどう見ても子供だった。
「ねえ那月。那月とどっちが背が高いかな」
 無邪気に笑いながら、光が輪の中から外れて一人スニーカーの紐などをいじっていた那月に声を掛ける。小さいと言われるのを人一倍嫌う那月だったが、光の毒のない笑みの前では面と向かって歯向かう気持ちは起きなくなるようだった。
「さあ、どうですかしらね」
 いかにも興味がない、といった感じで編みこんだ長い髪をかき上げチラリと一瞥すると、また視線を靴に戻す。すると、少女が輪の中から抜け出して那月の前に進み出て、ペコンと頭を下げた。
「あ、野村ですっ。よろしくおねがいしますっ」
「……真壁那月よ。別に同い年なんだから、敬語はいらないわ」
 努めてクールに振舞う那月に、少女はホッと胸を撫で下ろす。
「あ、なーんだ、同い年だったんだ。大きな人ばかりだからみんな先輩かと思っちゃった。じゃ、なっちゃんでいいよね。よろしくね、なっちゃん」
 屈託のない笑みを浮かべ、右手を差し出す少女。その言葉に眉をひそめ、那月は立ち上がり正面から少女と向かいあった。
「馴れ馴れしい呼び方しないでちょうだい。初対面なのに」
「えー。今、敬語はいらないって自分で言ったんじゃない」
 ぷくーっと少女の頬が膨れる。
「だからって、私は貴方より半年先輩なのよ。少しは敬いなさいよ」
「半年なんて変わんないよ。学校だって4月生まれも3月生まれも同じ学年だったもん」
 そりゃそうだ、と和美と美幸が横で頷く。納得してどうする。
「屁理屈言わないでっ。まったく、小学生みたいな顔して、頭の中もお子ちゃまみたいね」
「おこちゃまーっ? 自分だってちっちゃいくせにっ」
「な、なんですって? 少なくとも貴方よりは背は高いわよ」
「どーだか。そのスニーカー、厚底なんじゃないの。やたら紐を気にしてたし」
「まーっ、いい加減に黙らないと許さないわよっ」
「そっちこそバカにしないでよーっ」
 カッとなって殴り合いを始める、などという事はなく、お互いのほっぺたを引っ張り合っている姿はどう見ても子供のケンカだった。まったく、いつからここは小学校になったんだ。思わず竦めたしのぶの肩に、社長がポンと手をかける。
「じゃあ越後君。二人の事、よろしく頼むよ」
「……本気ですか」
 人の良い笑みを浮かべる社長に、しのぶは精一杯渋面を作ったつもりだった。しかし、なんだか嬉しそうだった、と後に遥に言われてしまったのだった。

 正直に言って、つばさは素質には乏しかった。練習もさほど好きな方ではなく、ことあるごとに何か理由をつけては逃げようとする。が、それを許すしのぶではなく、結局はやらされるのである。なら最初からやればいいようなものだが、それでもやはり毎回口を尖らせるのがつばさであった。
 最初はケンカばかりしているように見えた那月との仲も、その実じゃれ合いだったようでいつの間にかいつも二人で一緒に行動していた。志保の退団以降沈みがちだった那月の表情も見違えるほど明るくなっていた。
 なかなか成長が目に見えずにしのぶも常に頭を悩ませていたつばさだったが、それでも那月よりさらにゆっくりとしたスピードではあったが徐々に体力もつき、今では海外のジュニア戦士と互角に渡り合うようになっている。その明瞭なファイトスタイルと明るい性格から、ほぼ前座というポジションながらもファンからには愛される存在となっていた。


「つばさ、か……」
 自分が退団した後、あの子はどうするのだろう。もう6年目、だいぶプロとしての自覚は出たと思うし、今は北河コーチもついている。自分が心配するまでもない、とは思うものの、それでも気になってしまうのは、むしろ子離れできない親の心境なのか。
「明日は、私を安心させてくれよ……」
 明日の試合、つばさがどういったファイトを見せるのか。そんな事を考えていると、しのぶの瞼は自然と下りていった……。



 京都大会、当日。客席もまだ完全には埋まっていない、第一試合。しのぶはつばさとリングの上で向かい合っていた。
 かつてはメインも務めたしのぶが前座の第一試合に出る。その姿に溜息を吐くファンもいたが、当のしのぶ自身はこの空気を楽しんでいた。入団当初は選手数も試合数も少なく、日替わりでメインも前座も務めたものだ。もっともその頃はこれほど大会場ではなかったが。
 向かい合うつばさは、いつになく緊張した面持ちだ。こうしてシングルで戦うなど、どれくらいぶりだろう。胸を貸してやる、いつの間にかそんな気持ちになっている事に気づいて、しのぶは気を引き締めた。自分はあと数試合で引退する人間、彼女はこれからもプロとして戦っていく人間だ。全力で戦わなければ失礼だし、自分が全力を出さずに済むようでは、彼女があまりに情けない。
(がっかりさせるなよ、私を)
 つばさを見つめる瞳が、後輩を見守る先輩の目から対等の対戦相手を見る目に変わった時、ゴングの音が甲高く打ち鳴らされた。

 ゴングと同時に、つばさが勢い良くコーナーを飛び出した。その勢いのまま、先制のドロップキック。これはしのぶも予想しており、胸で受け止める。ほとんどダメージなく跳ね返されたつばさだが、ここまでもつばさは予想していたようで、ひるまず2発3発と打ち込んでいく。しのぶもただ受けているだけではない。合間合間でチョップやヘッドバットで反撃していく。
 引退を決意したしのぶではあるが、それも技術的な微妙な反応が原因であって、基礎体力はさほど落ちてはいない。手数はスピードのあるつばさが上回ってはいるが、しのぶの一発一発に逆につばさの方が追い込まれていくように見える。
 試合が動いたのは5分過ぎ。重いエルボーでつばさの動きを止めたしのぶが、つばさをロープに振ると、自らもロープに走りラリアットの体勢に入る。しかし寸での所でつばさが身を屈めると、
「てぇーいっ」
 ロープの反動を利用しスピードを増すと、すれ違い様に高速のJネックブリーカー、つばさの得意技であるアプリコットカッターを決める。たまらずダウンするしのぶをチラリと横目で確認すると、素早くコーナーポストに駆け上がり、しのぶの起き上がり様に胸へミサイルキックを叩き込む。ダウンこそしなかったものの、反対側のコーナーまで吹っ飛ばされるしのぶ。
「どうだあっ」
 つばさが客席を煽ると歓声が湧き起こる。
「まだまだぁっ」
 今度はしのぶが、助走をつけてヒップアタックを決めると、ダウンしたつばさの頭を腿に挟むと胴を抱えこみ、一気に持ち上げてマットに叩きつける。しのぶの得意技、維新ドライバー(変形パイルドライバー)だ。そしてそのままフォールに入る。しかしレフェリーがカウントを取り始める前に、つばさはフォールを跳ね除けた。
「こ、こんなんじゃ終わらないんだからっ」
 痛む頭を振りながらも目は死んでいない。それを見て笑みを浮かべたしのぶは、前に出て掌底のラッシュをかける。つばさも那月との幾度にも及ぶ対戦で慣れているのか、冷静にガードすると、
「えいっ」
 攻撃の合間になんと頭を突き出した。
「つっ」
 一瞬怯んだしのぶだが、ならばと頭突きを打ち返す。数度に渡るゴツゴツとした頭突きの打ち合いに、先に根を上げたのはつばさの方だった。
「あう〜」
 頭を抱えてうずくまる。
「どうした野村ぁっ」
 しのぶはつばさを無理矢理引き起こし、ブレーンバスターで引っこ抜くとマットに叩きつけた。しかしそこまでがつばさのポーズだった。背中を強烈に打ちつけたにも関わらず、つばさはスクッと立ち上がるとロープに走り、しのぶが起き上がり向き直る寸前に、ジャンプして膝を叩き込む。
「がっ」
 勢いのついたジャンピングニーパットに思わず後退したしのぶ。ここをチャンスと素早くしのぶの体を抱え上げるとボディスラムでマットに叩きつけ、コーナーポストを駆け上がる。
「必殺技、いっくよーっ!」
 拳を突き上げると、体を思い切り屈めてから限界まで伸び上がり、大きくジャンプし空中を舞い、勢いそのままに落下する。つばさの必殺のボディプレス、オレンジスプラッシュ。滝のような優雅さはないが、その分全身のバネを使い威力を増している。
「ぐはっ!」
 いくら軽いとはいえ重力に勢いが加わり、しのぶの体にかなりの衝撃が走る。
『1、2、っ』
「まだだっ!」
 しかし、しのぶは2でつばさの体を跳ね除ける。この程度で終わるわけにはいかない。だがその瞬間、しのぶは妙な違和感を感じた。本気でフォールに来たにしては、跳ね飛ばしたつばさの体が飛びすぎだ。
 悪い予感は当たった。しのぶが立て膝をつき起き上がりかけた所で、すでにつばさは次の攻撃態勢に入っていたのだ。
「そりゃあーっ!」
「ぐあっ!」
 遥のサイレントウィッチを見よう見まねで習得した、つばさの隠し玉、シャイニングウィザード。さすがに遥程のキレも重さもないが、それを気迫とスピードで補いしのぶの顎をかち上げた。
「終わりーッ!」
 そのまましのぶを片エビに抱え、全体重と全ての力を込めて押さえ込む。
『1、2、…………オオーッ』
 しかし、カウント2.8でしのぶが肩を上げる。
「そんなあっ」
 今の一撃に全てを賭けていたのだろう。返され、思わず動揺が走る。そこを見逃すしのぶではなかった。
「ふんっ」
 一瞬動きを止めたつばさの首を腕で抱え込むと、そのまま自分の体ごと後ろに倒れる。DDT。つばさの脳天がマットに打ち付けられた。
「あぐっ」
 一回転するつばさの体。ここでしのぶが見得を切る。
「さあっ、覚悟はいいかっ!」
 頭を振りながら立ち上がるつばさのサイドに素早く回ると、ジャンプ一番、延髄に蹴りを叩き込む。しのぶの必殺技、サムライスライサーが完璧に決まった。そのままつばさの体を押さえ込むしのぶ。
『1、2、……』
(強くなったな、つばさ……)
 つばさを押さえ込みながら、しのぶは目を閉じ、ほんのわずかな時間、感慨に浸る。しかし。
「わあああぁーっ!」
「なっ!?」
 つばさが声を上げると、しのぶのフォールが解け、わずかに肩が上がった。
 ウオオォォォーーッ!
 前座の試合とは思えない歓声が巻き起こる。カウント2.9。誰もが決まったと思った瞬間、寸での所でつばさが気力を振り絞ったのだ。
「……ま、まだ……負けないん……だもん……」
 すでに膝が笑っている。それでも、懸命に立ち上がろうとするつばさ。
(大したもんだよ、お前)
 しのぶは立ち上がると、すでに周囲も見えていないであろうつばさの横に立ち、再びジャンプする。今度こそ眠らせてやる、そう心に決めて、もう一度サムライスライサーを放ったしのぶ。だが。
「なにっ?」
 しのぶの脚が宙を凪ぐ。ヒット寸前、つばさの膝が落ち、頭の位置が下がったのだ。その瞬間はつばさがバランスを崩したのかと思ったしのぶだったが。
「まずいっ!」
 それが明確な意思をもっての回避だと気付き、しのぶは慌てて立ち上がる。その瞬間、つばさはマットを蹴って飛び上がっていた。
「しまっ!」
 つばさの両腿が、しのぶの首を挟む。そのままエビ反りになり、その勢いと脚力でしのぶをマットに叩きつけようとするつばさの動き。
(いかんっ!)
 これを喰らったら、負ける。しのぶの本能が、危険信号をかき鳴らす。その瞬間、しのぶの戦士としてのスイッチが入る。プロとして先輩として、つばさの技を受け止めるのではなく、なんとしてでもこの危機を回避する、そのスイッチが、つばさの胴に両腕を回す。そして。
「っらああぁっ!」
 ズドンッ!
 次の瞬間。つばさの体は、垂直にマットに突き刺さっていた。

「……あ……」
 手に残る嫌な感触。それを振り払うように、しのぶは両手を離す。それでもつばさの体は逆さまにマットに垂直に立っており、わずかに間をおいて、仰向けにマットに倒れた。
 先程まで盛り上がっていた客席が、水を打ったように静まり返っている。呆然とするしのぶ。ピクリとも動かないつばさ。
「う……うぁ…………つばさあぁーっ!」
 しのぶの悲痛な声に、止まっていた時が動き出す。レフェリーが慌てて両手を振り試合続行不可能を告げると、けたたましくゴングが打ち鳴らされる。その瞬間、リング脇に控えていたドクターが慌しくリング内に駆け込んできた。
「つばさっ! おい、つばさぁっ!」
「バカッ、揺するなしのぶっ! ドクターに任せておけっ!」
 混乱してつばさの肩をメチャクチャに揺するしのぶを、駆け込んできた真琴が取り押さえる。
「つばさっ、目を開けろっ、つばさぁーっ!」
 つばさに教えてきた、プロとしての佇まいも心構えも、何もかもを捨て去ってしのぶは泣き叫んでいた。同僚に押さえ込まれ、ドクターに大丈夫だと諭されても、動転したしのぶは勝ち名乗りすら受けず、タンカで運ばれていくつばさの横にピッタリついて呼び掛け続ける。京都大会は第一試合から、言い様のない空気に包まれてしまっていた。


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