〜7〜
控え室。しのぶは目を瞑ったままのつばさの左手を両手で握り締め、黙って見つめている。後から考えれば自分でも驚くほど取り乱していたしのぶだが、今はもうだいぶ落ち着いている。皆は試合を控えている為、ここはしのぶだけが残った。いや、休憩後に試合を組まれている選手達はこの場に残ろうとしたが、しのぶが断ったのだ。二人だけにしてくれ、と。
『頭部を強打した事による脳震盪だな。かなり危険な角度で落ちはしたけど、大きな怪我にはならずに済んだ。運が良かったよ。このまま休んでいれば、もうすぐ目を覚ますだろう。念の為、救急車は呼んでおくが』
この部屋に運び込まれてすぐ、改めて診察したドクターにそう声を掛けられた時も、しのぶは両手に残る嫌な感触を思い出し、信じ切れずにドクターにすがる様な目を向けた。
『彼女、かなり首回りの筋肉を鍛えていたようだな。それが功を奏したようだ。いや、あのような危険な落ち方も予想していて、鍛えておいたのかもしれないな』
眠るつばさの首筋に、そっと触れる。言われてみれば確かに、以前より筋肉がついている気がする。
「そんな事まで考えて、トレーニングできるようになったんだな……」
自分で発したそんな声も、どこか遠く感じられる。と、つばさのまつげがわずかに震える。それに気付いたしのぶが手を握る力を強めると、ゆっくりと、二つの瞼が開かれた。
「あ……れ……ここ、は……」
「つばさ……」
ホゥッ、としのぶは大きく息を吐いた。いくら大丈夫と口で言われても、実際につばさが目を開けなければ落ち着けるものではない。
「あ……試合、試合は……」
「バカ、じっとしてろっ」
起き上がろうとするつばさの肩を両手で押し止め、再び横たわらせる。
「あはは……負けちゃったんだ、あたし……それに気絶だなんて、カッコ悪いなぁ……」
「あまり喋るな……気分はどうだ。喉は渇いてないか」
しのぶがペットボトルを差し出すと、つばさはストローを口に咥えて少しだけ喉を潤す。
「頭がちょっとガンガンするけど、だいじょうぶ……しのぶ先輩、試合は……途中まで覚えてるんだけど、最後が思い出せなくって……」
「……お前は良く頑張った。強くなったよ。もうすっかり一人前のプロレスラーだな」
優しい目をして、つばさの前髪の辺りを軽く撫でてやる。つばさはちょっとくすぐったそうに笑った。
「えへへ、しのぶ先輩に褒められちゃった……あ、でも、そっか。思い出した。……失敗しちゃったんだ、フランケンシュタイナー」
つばさの呟きに、しのぶはピクンと肩を震わせる。
「う〜ん……タイミングバッチリだと思ったんだけどなあ……やっぱりしのぶ先輩はすごいなあ」
「……すごくなんかない」
無邪気にしのぶを褒めるつばさの言葉に胸が締めつけられる思いがして、しのぶは俯き膝の上の拳を握り締めながら、声を絞り出す。
「しのぶ先輩……?」
「あの時……私は、負けるのが怖くなったんだ……お前の技のタイミングは、完璧だった。だから私も、あれは受けるべきだったんだ。……それなのに私は……お前に負けた上で、それで遥に最後に挑戦だなんて、それじゃ勝てるわけないって……急に負けるのが凄く怖くなって、なりふり構っていられなくなって、あんなメチャクチャな落とし方を……私は……プロ失格だ……」
いつの間にか、しのぶの瞳から熱いモノが零れていた。それは頬を伝い、握り締めた拳に落ちて、キラキラと跳ね散る。そんなしのぶを一瞬唖然として見つめると、つばさはそっとしのぶの拳に右手を重ねた。再び零れ落ちた滴が、今度はつばさの手の甲で跳ねる。
「……しのぶ先輩の涙、初めて見ちゃった」
「…………」
「そんな事言わないでください。あたしも、パワーボムで切り返されるんじゃないかって思ってたし。しのぶ先輩得意だから。それでも大丈夫なように首回り頑張って鍛えたんだけど、足りなかったかなあ」
「……いや、ドクターが褒めてたよ。しっかり首回りを鍛えてたお陰で、無事だったって。もし、そうしていなかったらっ」
悪い方へとばかり考えてしまうしのぶ。そんなしのぶの顔を見て、つばさが重ねた手をキュッと握る。
「そうしてなかったら、あたしも仕掛けないですよ。……だって、怖いもん。大丈夫だと思ったから仕掛けたんで、だから結果、あたしは無事だったんですよ。しのぶ先輩は何も悪くないです」
「つばさ……」
しのぶは思わず、つばさの首にすがりついていた。急に抱きしめられ、つばさは戸惑う。
「わわっ、しのぶ先輩」
「……ごめん……ごめんな……」
「先輩……」
首にすがりついて涙を流しているしのぶの頭を、手を伸ばしてそっと撫でてやる。いつも子ども扱いされているしのぶにそうしてやる事で、少しだけお姉さんになったような気がして、つばさは嬉しかった。
「でも、決めたかったな、フランケンシュタイナー。勝てなくても、しっかり決められれば、しのぶ先輩も安心して引退できると思ったんだけど……かえって心配かけちゃいました。ごめんなさい」
「え……」
わずかに顔を離し、しのぶがつばさの瞳を覗き込む。
「あれ、覚えてないですか? ほら、昔、一緒に練習したじゃないですか」
「あ……」
つばさの言葉に、しのぶは過去の記憶を探る。そして、ようやく悟った。なぜあのタイミングで、フランケンシュタイナーを繰り出したのかを。そして改めて、つばさは自分が考えているよりずっと大人なのだと、気付かされたのだった。
〜〜〜
「フランケンシュタイナー?」
その技の名を聞いた瞬間、しのぶは怪訝な表情をした。それはつばさが入団して一年ほど経ったある日の練習中。
「はいっ。覚えたいんです、フランケンシュタイナー。カッコイイし、あれなら大きい選手にも効果的かな〜って」
道場のマットの上に寝転びながら、つばさが言う。
「……ファントムローズの試合か」
「そうっ。そうなの。あの、バッと飛びついてクルンッって決めちゃうのが凄くカッコ良くてっ」
ちょうど一番星プロレスがその時期に提携していた外国人選手が、ファントムローズ1号だった。その華麗な飛び技には定評があり、実際団体内の何人もの選手が彼女の必殺技であるフランケンシュタイナーでマットに沈められている。自分が全く歯が立たない先輩達を華麗な空中殺法で次々に倒していく姿に、自分のスタイルとも合致してつばさは魅せられたのだろう。もっとも彼女はつばさより10cm以上身長も高いのだが。
「しかしな。難しいぞ、あれ。タイミングもシビアだし。ある程度の技なら私も教えられるが、あれはな……」
この時期、一番星プロレスは社長の方針もありまだコーチを雇っていなかった。当然選手達は独学で練習していくのだが、基本的な技ならまだしも高度な技の習得となると、自身で創意工夫していく必要がある。この時点で飛び技を得意とする選手は団体内におらず、当然フランケンシュタイナーを使いこなせる者もいない。それ故にファントムローズ1号の来日は、選手達にとって衝撃であり脅威となったわけだが。
「え〜。でも、覚えたいのに〜」
つばさがプ〜ッと頬を膨らます。彼女の癖だ。こうなると、見かけによらずなかなか頑固でしのぶも手を焼いている。
「う〜ん……わかったよ。とりあえず、後でビデオでも見てみるか」
「やったぁっ」
「ただし、通常のメニューはこなした上でだぞ。ほら、練習再開」
「え〜、キツイよ〜」
「嫌なのか? じゃあ新技も無しだな。今月はみっちり体力作りを」
「あわわっ、やる、やりますっ。さ、練習練習〜」
「……まったく」
素早く起き上がって屈伸など始めたつばさの現金な姿に、思わずしのぶは苦笑した。
そして、ファントムローズや過去の空中殺法を得意としたスーパースター達のビデオをしのぶと共にチェックし、なんとか身につけようと必死だったつばさだが、なかなかうまくいかず。2週間ほど経過しても、どうにも形にならなかった。
「うう〜」
朝食時。つばさは箸を歯で咥えたまま首を捻っていた。
「下品ね。箸は置きなさいよ。……まだ悩んでるの」
向かいの席で共に朝食を取っていた那月が眉をひそめて言う。
「うん。なーんか違うんだよね〜。もうちょっとだと思うんだけど」
「センスの問題でしょ、センスの。貴方には無理なのね、きっと」
そっけない那月の物言いにカチンときたつばさ。
「ムッカ〜ッ。何よ、なっちゃん飛び技あんまりうまくないじゃないっ」
「私の専門は打撃だからいいのよ。それにその気になれば飛び技だって使いこなせるわ」
「どうだか。この間ようやくヒップアタック覚えたばっかりのくせに。お尻のお肉が少なくて固いなっちゃんにはピッタリだよねっ」
「な、なんですってっ! 私は貴方みたいにぷよぷよしてないだけよっ」
「ぷよぷよじゃないもんっ。ふーんだ。ヒップアタックなんてお尻の固い人かおっきな人しか使わないんだからっ。私はもっと華麗に戦うのっ」
毎度の光景であり、誰も仲裁に入るものはいない二人のやりとり。だが、今日は違った。つばさの頭の上に、ポンと手が置かれる。
「もーっ、子供扱いしないでっていつも言って、ひゃあぁっ!?」
振り向いた先のその人の顔を見て、つばさは思わず悲鳴を上げた。
「私のお尻は大きいか。ん?」
「いえ、あの、違うんですっ」
「しのぶ先輩、ひどいんですよつばさったら。『ヒップアタックなんて筋肉尻のデカ尻女しか使わない』なんて言って」
「ちょ、そんな言い方してないじゃないっ。あ、あわわわわ、いたいいたい〜」
背後には、ヒップアタックを得意としているしのぶが立っていた。しのぶがグリグリとつばさのつむじの辺りに手のひらを押し付けると、つばさは悲鳴を上げる。
「……ふん、まあいい。つばさ、今日は予定あるか」
「えっ、いえ、特にないです、けど……」
久しぶりのオフに、まさか特訓なんて言い出すんじゃあ、でもしのぶ先輩ならあり得るな、と不安気に上目遣いでしのぶを見つめるつばさ。
「そんな顔をするな。別にこれからしごいてやるって訳じゃない。ただ、用事がないなら私に付き合わないか。損はしないと思うが」
「え……はあ……」
本当は買い物にでも行こうと思っていたのだが、これで断ると明日からが怖そうだ。つばさは渋々頷いたのだった。
「お、来た来た。ヤッホーッ、しのぶっ」
「バカ、目立つ事をするな。何のためのその格好なんだ」
「あ、そうだった。アハハッ、ゴメンゴメン」
先輩と一緒とはいえ、いつもの練習着ではなく私服でのお出かけは嬉しいものだ。はしゃぎながら駅に到着すると、駅前広場の妙な形のオブジェにもたれかかっていたショートカットの女性がしのぶに向かって手を上げた。背丈は自分とそう変わらないようだ。ベレー帽と色の濃いサングラスは、変装のつもりなんだろうか。
「悪かったな、呼び出して」
「ううん、いいよ、久しぶりに会いたかったし。で、その子が例の新人さん?」
「ああ」
「は、初めましてっ。野村つばさですっ」
つばさがペコンと頭を下げると、その女性がサングラスを外してニコリと微笑んだ。
「うん、初めまして。私は」
「あーっ! し、新女の、きく、モガガッ」
「バカッ、デカイ声を出すなっ。と、とりあえずどこか喫茶店にでも入るか」
「もー、心配性だなしのぶは。誰も見てないってば」
「見られて困るのはお前の方だろう。ほら、行くぞ」
しのぶに口を押さえられながら引きずられていくつばさ。だが目はその女性に釘付けだった。そこにいたのは現在の新日本女子プロレスのナンバー2、菊池理宇だったのだ。
「どうだ、そっちは」
駅から少し歩いた、静かな雰囲気の喫茶店。席の埋まり具合も3割くらいだろうか。その一番奥の席に、3人は腰掛けていた。しのぶの前にはコーヒーが、理宇とつばさの前には大きなフルーツパフェが並んでいる。つばさがメニューを選んだ瞬間は渋い顔をしたしのぶだが、即座に理宇が同じ物を注文してくれたお陰で小言を言われずに済んだ。その瞬間、理宇がウィンクをしてくれた事で、つばさはこの女性が一気に好きになっていた。
「大変だよー。なんだか最近、ウチもかわいい子ばっかり入ってくるようになってさ。これがストロングスタイルを掲げてた新女なのかなーって、ちょっと思う。もちろん、悪い子達じゃないんだけどね」
「そうか」
「理沙子さんはもうフロント兼任みたいなものだから、私とひかるで面倒を見てる感じで。瞳も千春もあの調子だしね。しのぶがいてくれればなーって思うよ」
その言葉に、しのぶの表情が少し暗くなる。
「……すまなかったな」
「やだ、ちょっと冗談だよ。もう随分前の話だし、何回も謝ってくれたじゃない。気にしてないってば。まったく、マジメなんだから。いつもこうなの?」
理宇に話を向けられ、スプーンを咥えたままつばさは答える。
「しのぶ先輩はいつもマジメですよ。好き嫌いするなとか、ちゃんとストレッチしろとか。お母さんみたい」
「誰がお母さんだ」
ポカリとつばさの頭をしのぶが軽く叩く。
「あははっ。でも、本当。昔は女子プロと言えば新女だったのに、今は一番星プロレスに追いかけられてるし。祐希子さんも来島さんも、アメリカ行っちゃったし。あーあ、私もそっちに移籍か、アメリカに祐希子さん追いかけて行っちゃおうかなあ」
「バカ、迂闊な事を言うな。誰に聞かれてるかわかったものじゃないぞ」
「だから冗談だってば。私だってちゃんと新女に愛着あるもの。そう簡単に捨てられないわ。……それで、つばさちゃん、だっけ。フランケンシュタイナーを覚えたいんだって?」
「あっ、はい。えっ、しのぶ先輩、まさかその為に?」
驚いてしのぶを見つめると、少し頬を赤くしてコーヒーカップに口をつけるしのぶ。
「そういうわけじゃない。たまたま理宇と会う事になって、ふとお前の事が頭に浮かんだだけだ。ついでだ、ついで」
「またまた〜。突然電話してきていやに真剣な声だったから何かと思えば、『後輩に話を聞かせてやってくれ』だもん。何事かと思っちゃったよ」
「う、うるさいなっ」
理宇にからかわれ、ますます顔が赤くなるしのぶ。つばさは嬉しくなって、しのぶの腕にしがみついた。
「しのぶ先輩っ」
「わ、バカ、こぼれるだろ。ほら、いいから聞きたい事があったら聞いてみろ。そんなに時間もないんだから」
「本当なら実際に見本を見せてあげたいんだけどね。さすがに新女の選手がそっちの道場に行くわけにも、逆もねえ。表向きは敵対関係って事になってるし。あ、でも殴りこみって形ならアリかな」
「バカを言うな。ま、仮にそうなっても返り討ちだけどな」
「あらま、言ってくれちゃって」
笑い合う二人。こうして団体が分かれても、たまに会って談笑しあえる、そんな関係がつばさには羨ましかった。しのぶ達の世代は俗に黄金世代と言われており、新女も一番星プロレスも、今のトップクラスの選手はこの世代が大半を占めている。純粋な同期はいないつばさだが、それでも同い年の那月との関係は大事にしていきたいな、改めてそう思ったつばさだった。
実際に使いこなしている理宇の説明はわかりやすく、つばさはだいぶ自分の中のイメージが固まってきた気がした。他にも飛び技を繰り出す際の心構えや、二人の新人の頃の思い出など、つばさにとって為になる話や楽しい話が沢山聞けた。いつもは真面目な表情が多いしのぶ先輩もなんだか今日は笑顔が多かった、そんな事を帰り際に話したら、ポコンと頭を叩かれた。頬が赤かったのは、照れていたのか夕日のせいなのか、つばさにはよくわからなかった。
それから2週間ほど。理宇の助言もあり、つばさのフランケンシュタイナーの完成度は日に日に高まり、これなら近い内に実戦でも使えるようになる、つばさ自身も、練習を見ているしのぶもそう思っていたある日。つばさ自身に慢心からなる油断があったのかもしれない。練習中にタイミングを間違え、つばさは頭からマットに落ち、気を失った。練習用の柔らかいマットとは言え、かなりの衝撃だった。
「あはは……失敗しちゃった……」
病院のベットの上で目が覚めた時、つばさの顔を覗き込んでいたしのぶの表情は、これまで見た事がないものだった。
「ごめんなさい、しのぶ先輩……次は、きちんと成功させてみせますから」
「……いや。ダメだ。フランケンシュタイナーはもう禁止だ。試合でも練習でも使うんじゃない」
「え? でも、もう少しで」
「ダメだっ! ……わかったな」
「……は、はい」
つばさ自身、こんな事で諦めたくはなかった。もう少し練習すれば、絶対マスターできる、その手応えはあったのだ。だが、あんな悲痛な表情をしたしのぶにそう言われては、つばさは何も言い返すことはできなかった。
翌月、つばさはフライングボディプレスを覚える事にした。幸い、この技は団体内でラッキー内田が使いこなしていた。彼女の協力も得て、それ自身つばさに合っていたのか、ほどなくして習得し、自身でアレンジを加えて今の必殺技、オレンジスプラッシュとなった。
その頃、つばさの練習に付き合ってくれていた伊達遥が、自らもフランケンシュタイナーを隠し玉として実戦投入。タイトルマッチや大一番で3カウントを奪えるだけの決め技になっていったのは、皮肉な結果であった。それがセンスというものなのだろうか。
〜〜〜
「お前……あの時からずっと……」
「最初はしのぶ先輩の言う通り、諦めようと思ってたんですよ。でもやっぱり気になってて。遥先輩やREKIちゃんにコツを教えてもらったり、コーチに見てもらったりしながら、いつかきちんとマスターして、しのぶ先輩をびっくりさせようと思ってたんだけど……」
つばさがテヘヘと笑って舌を出す。
「違う意味でビックリさせちゃいましたね。ごめんなさい」
「……ああ、驚いたよ。お前は、本当に立派なプロレスラーになった。もう、私がいなくても、大丈夫だな」
「しのぶ先輩……そんな言い方、やだ……」
「いや。これで安心したよ。残った私の仕事は、最後の一試合、力を尽くす事だけだ」
しのぶはつばさから体を離すと、目尻を拭う。つばさが大好きで、だけどちょっとだけ苦手な、凛々しいいつもの表情に戻っていた。
「しのぶ先輩。最後の試合、頑張ってね。私、遥先輩も大好きだけど、しのぶ先輩も大好きだから」
「……ああ」
しのぶは手を伸ばし、つばさの頭をクシャッと撫でる。つばさはくすぐったそうに、首をすくめた。
バタンッ!
と、突然背後から大きな音がして、二人は振り返る。大きく開かれた扉の前に、リングコスチュームのままの、汗だくの那月が立っていた。
「那月」
「あ、なっちゃん。試合終わったの?」
那月は答えずズンズンと部屋に入ってくると、つばさの手を取りギュッと握り締めた。開かれた扉が勢いよく戻り、再びバタンと音を立てる。
「つばさっ。だいじょうぶなの? 意識はしっかりしてる? 痛いところはない?」
那月の勢いに気圧されながらも、つばさは答える。
「え、あ、うん。大丈夫だって。まだちょっと頭は痛いけど」
「よ、良かった……」
その返事を聞いて、那月はそのままへなへなとへたりこんだ。目にはうっすらと滴が浮かんでいる。
「あはは、なっちゃんてば大げさなんだから」
「バカッ! どれだけ心配したと思ってるのっ!」
「わ、お、怒らないでよぅ」
那月が本気で涙し怒っているのを見て、つばさはたじろいだ。確か那月は今日は第2試合でタッグマッチを組まれていた。試合が終わってすぐさま、ここまで駆けつけてきたのだろう。
「ありがとう。心配かけてごめんね、なっちゃん」
「ううん、いいのよ。貴方が無事ならそれで」
つばさにそう言って微笑んで見せると、那月は立ち上がり、しのぶに向き直った。
「しのぶ先輩……どうしてあんな、無茶な落とし方をしたんですか」
そこには、しのぶが今まで見た事がないほどの、鋭い目をした那月が立っていた。
「……すまん」
「すまんじゃないわっ! あんな落とし方をしたらどうなるか、わかってたはずでしょうっ! しのぶ先輩なら、受け止められたはずじゃないっ! なのになんであんなっ!」
「ちょっ、やめてよなっちゃん」
物凄い剣幕でしのぶに怒鳴りだした那月に、つばさは慌てて手を伸ばす。だが、火のついた那月は止まらない。つばさの手を払うと、しのぶの両肩を掴み大きく揺さぶる。
「つばさがこの試合、どれだけ楽しみにしていたか知らないわけじゃないでしょうっ! 成長した所を見てもらうんだって、あんな大怪我をしたフランケンシュタイナーなのに、怖くないはずないのに、隠れて一生懸命練習しててっ!」
実際はそれほどの大怪我ではなく、検査も含めて一週間ほどで退院したつばさであったが、まだ志保を失った傷が完全に癒えていなかった那月には途方もなく長く感じたのだろう。
「完璧なタイミングだったじゃない。受け止めてあげればいいじゃない。最後に負けたっていいじゃないっ! それなのにあんな、あんなっ! つばさの事をちゃんと見てあげてないから、遥先輩の事しか見てないから、あんな事になるのよっ!」
「なっちゃんっ!! あ、いたっ」
「っ!? つ、つばさ、大丈夫っ」
つばさが小さく呻くと、弾かれたように那月はつばさに向き直り、その顔を覗き込む。しかし、しのぶは動けなかった。
『遥の事しか見ていないから』
その胸に、那月の言葉が鋭く突き刺さっていたから。
「もう、いいよ。しのぶ先輩、あたしの事、ちゃんと考えてくれてるよ。たまたま、運とタイミングが悪かっただけだから。あたしも受けそこなっちゃったし」
「だって……だってぇ……」
那月が大粒の涙を零しながら、つばさの頬を両手で包む。つばさが手を伸ばすと、那月はつばさの首にすがりついてきた。抱きしめられながら、那月の頭をそっと撫でる。こうして頭を撫でるのは今日で二人目だ。いつもは撫でられてばかりなのに。なんだかしのぶとの試合で急に大人になったのかな、などと思って、つばさは少し楽しくなった。
「お願いよ、つばさ……貴方まで、私の前から勝手にいなくならないで……」
「バカだなあ、なっちゃん。いなくなったりしないよ、あたし」
「バカじゃ、ないわよ……」
那月の頭を撫でながら、つばさはしのぶに視線を向ける。そこには放心したように俯き座り込んでいる、しのぶの姿があった。
「しのぶ先輩」
「ん、ああ。それじゃ、那月。つばさの事、よろしくな」
返事はない。しのぶは腰を上げ、扉のノブに手をかける。その手は、震えていた。しのぶは震える右手を左手で押さえつけると、なんとかノブを回す。部屋を出るまで、那月のすすり泣く声が、しのぶを責め立てるように耳の奥で鳴り響いていた。
前へ
次へ
リプレイへ戻る
|