〜8〜

 後ろ手に、扉を閉じる。背後から聞こえていた那月のすすり泣く声も、もう聞こえない。けれどその耳には、まだその悲しげな音が木霊している様で。ふと見つめた己の右手は、まだ細かく震えていた。
「なんて顔してんだよ」
 突然声を掛けられ、しのぶは弾かれた様に顔を上げる。そこには、廊下の壁に腕組みをして寄り掛かっている千秋がいた。
「大丈夫か」
「ああ。つばさなら、さっき目を覚ましたところだ」
「あのガキんちょじゃない。アンタの事だよ」
「……私は……別に、なんともない」
 そうは言いながらも、自然と顔を俯かせてしまうしのぶ。
「ふうん」
 千秋は壁から背中を離すと、しのぶの傍らに歩み寄り、そして。
 ボスッ!
「ぐふっ」
 いきなり、しのぶの腹に拳を入れた。
「おいおい、何まともに喰らってんだよ。いつものアンタなら気づくだろ」
 うずくまり咳き込むしのぶを、千秋が冷めた目で見下ろす。
「う、かはっ……お、お前、何のつもりだ」
 完全に不意を突かれたしのぶは、両手で腹を押さえながら顔を上げて睨みつける。
「へえ。まだそんな顔はできんのか」
 千秋はしゃがみこむと、しのぶの肩に手を回す。
「なあ。今さらブルッちまってる、なんて事はないよなあ。もう十年近くリングに上がってんのにさ」
「……何の事だ」
「かわいい後輩を半殺しにしてしまって、怖くてリングに上がれない〜、なんて情けない事思ってんじゃないのかって聞いてんだよ」
 言いながら、肩を抱いたまま頭をゴツンとしのぶの頭にぶつけてくる。
「つっ……誰が、そんな事」
「へえ、そうかい。ならなんで、そんな真っ青な顔でガタガタ震えてるんだよ」
 千秋の言葉にハッとする。自分はそんなに傍目からもはっきりわかるほど動揺を隠せずにいたのかと。
「アンタ、いつも言ってたよな。リングに上がるなら、覚悟を決めて上がれって。例え死んだとしても後悔しないように、ってさ。青臭い事言ってやがるとは思ったけど、アタシもそれなりにそんなアンタの事、買ってたんだぜ。それがなんだよ。いざ自分がやっちまったら、ブルッてもう手が出せません〜、ってか。情けねえなあオイ」
 顔をしかめるしのぶに構わず、ゴチゴチと頭をぶつけ続ける千秋。
「そんなハンパだから、何度やっても伊達に勝てねえんじゃねえのか」
「……なんだと」
 千秋の言葉に、しのぶの肩がピクリと反応する。
「このまま最後の試合に上がったって、伊達を一発も殴れずに終わっちまうだろうな、今のアンタならさ。そしたら伊達も、付き合って手が出せなくなるかもな。引退試合に60分間リングの上でお見合いってか。ハハ、ヘタレのアンタにゃいい幕引きだろうさ」
「うるさい……」
 小さく呟き、しのぶは思わず拳を握り締める。それを知ってか知らずか、千秋はなおも続ける。
「なあ。今からでも遅くないからさ、引退試合の相手、アタシが伊達と代わってやろうか。アタシならそんなハンパな手加減しねえ。血ダルマにして、気持ちよくリングで散らせてやるよ。……いっその事、リングでマジで死んじまうってのはどうだ? 情けねえ腑抜けレスラーのオマエにはお似合いの最期かもなあ。アタシがトドメ刺してやるからさ。もう生きててもしょうがねえだろ。腐っちまったレスラーはそのままリングの上で死んじまえよ、ヒャハハハハッ、んがっ!」
「うるさいって言ってるんだっ」
 耳障りに笑う千秋の顔面に、しのぶが無意識に頭突きを叩き込んでいた。仰向けで倒れる千秋に、馬乗りになるしのぶ。
「……その汚い口を閉じろっ。誰が腑抜けだと? お前などに私がむざむざやられるかっ!」
 しのぶが怒りに燃えた目で、千秋を睨みつけ、拳を振り上げる。だが、その拳は下りてこない。振り上げたまま下ろすことも出来ず、その姿勢のまま固まるしのぶ。額には汗が噴き出す。
「どうしたよ。殴れよ。殴ってみろよ。できないなら、アンタはやっぱりただの腑抜けだよ。人に偉そうに説教垂れといてそのザマかよ。オマエこそプロレス舐めてんじゃねえのかよっ!」
「千秋イィっ!」
 バキィッ! その瞬間しのぶの体の硬直が解け、右拳が千秋の左頬を打つ。刹那、拳から、萎縮しきっていたしのぶの体とそして心に、熱い電流が流れた。
「あ……」
 しのぶは呆然と、己の右拳を見つめた。すでに震えは止まっている。代わりに、拳と心臓が、燃える様に熱くなっている。
「……んだよ。やればできるじゃねえかよ」
 千秋が手で口を拭う。殴られた頬は腫れ、口端は少し切れて血が滲んでいた。
「……当たり前だ。私を誰だと思っている」
 千秋を見下ろすしのぶの瞳からは怒りの炎は消え、なぜだか笑みが浮かんでいた。
「どうだかな。またリングに上がればブルッちまうんじゃねえのか」
 言い返す千秋の口元にも笑みが浮かぶ。
「フン。ならこれからリングに上がってやろうか。そこでお前を半殺しにすればはっきりするだろう」
「ヘッ、面白え。いいぜ、やって見せてくれよ。ま、最後にリングに転がってるのはアンタの方だろうけどな」
 そして、二人はお互いの頬を張り合う。だがそれは、憎しみのこもったものではない。その証拠に、二人はお互いの片頬を赤くしながらも、笑いあっていたのだから。
「ちょっと、何やってんだい二人ともっ」
 突如、千秋に馬乗りになっていたしのぶの体がフワリと浮く。振り返ると、そこには驚きに目を丸くしている八島の顔があった。
「んだよ、邪魔すんなよ静香」
 千秋が頭を掻きながら起き上がる。八島はしのぶを下ろして立たせると、額を押さえて首を振った。
「まったく、姐さんのやる事は相変わらずメチャクチャだねえ。あれだけ荒れ試合やっておきながら、まだ暴れ足りないのかい」
「荒れ試合?」
「ああ、しのぶさんは見てなかったんだっけ。ただでさえ第一試合があんな幕切れだったから会場が妙な空気になってたってのに、次の試合で姐さんが凶器を振り回して大暴れだからね。真田さんは額カチ割られて血塗れだし、もう会場ドン引きだよ」
 しのぶは千秋の全身を改めて見る。リングコスチュームの所々に、まだ新しい血の染みが付いていた。
「そうか? けっこう盛り上がってたじゃねえか」
「それは姐さんやアタシのファンの血の気の多い奴らだけだろ。沙希や翔子のファンの子達は真っ青な顔で震えてたよ」
「プロレスなんてそんなもんだろうが。派手なショーが見たけりゃ宝塚でも行けってんだよ」
 それもそうだ、と二人は笑い合う。そして、千秋はゴソゴソとシューズの辺りを探ると、何かを取り出してしのぶに握らせた。
「コレ、やるよ」
「ん?」
 意外とズッシリ重さのある手の中の物体に目を移す。それは、メリケンサックだった。
「また随分とクラシカルなものを」
「派手さはないけど結構効くんだぜ。さっき真田の頭カチ割ったばっかだしさ」
 千秋の言葉通り、そこにはベッタリと真新しい血がこびりついていた。
「凶器はいらんと前にも言っただろう」
 そう言って、しのぶは千秋の胸にメリケンサックを突き返す。だが千秋は受け取らない。
「別に使う使わないはアンタの好きにすればいい。でも、勝ちてえんだろ伊達に。今のままで勝てるのかよ」
「…………」
「ま、餞別だと思ってとっとけよ。お守りみたいなもんだ」
「ロクな事が起きなさそうだな」
「うるせえよ」
 千秋は笑いながら、しのぶの胸をトンと叩くとそのまま廊下の向こうへ歩いていく。
「あ、ドコ行くんだい姐さん」
「うがいだよ。さっき誰かさんに思いっきり殴られて、奥歯がおかしいんだよ。口の中は血の味がしやがるし」
 千秋は振り返らず、片手を上げてそのまま歩いていった。
「まったく、面白い人だよ」
 その姿を見ながら、八島は肩を竦めて苦笑した。
「姐さんに何か言われたのかい」
「ん、ああ。大した事じゃない」
 八島に問われて、しのぶは小さく首を振る。
「あれでも結構心配してたんだよ、しのぶさんの事。口には出さないけどね。さっきの試合だって、さっさと終わらそうってのが見え見えだったし。他の3人の動きが悪かった分、尚更姐さんの暴れっぷりが目を引いちゃったけどさ」
「よくわかってるんだな、千秋の事」
「まあ、しょっちゅう側にいるからね」
 ハハハ、と豪快に笑う八島。
「でも、いいのか。こんな所をウロウロしていて。今日は大事な試合だろう」
 八島はセミファイナルのUVC・Bブロック予選を控えていた。1戦目で優勝候補の北条沙希に敗れている為、決勝トーナメントに進むためには今日のイージス中森戦が鍵となる。
「ああ、いいんだよ。控え室に閉じこもってるなんてガラじゃないしさ。それに、今日は会場の空気が荒れてるだろ。こういう日はアタシに風が向いてるのさ。マジメちゃんのあずみよりもね」
 八島がニヤリと笑う。と、その時。
「八島あぁぁぁっ!」
 大声と共に誰かが走ってくると、八島の襟に猛然と掴みかかった。
「うわっ、な、なんだいっ」
「八島っ! 千秋、千秋はどこ行ったっ!」
 それは、美幸だった。般若のような表情をして、八島の襟首をグイグイと絞めている。
「ちょ、ちょっと、落ち着いとくれよ。知らないよアタシ」
「嘘つけぇっ! あんのヤロー、許さねえーっ!」
 八島の静止も聞かず、美幸は八島の首をブンブン揺すっている。
「あーっ、ダメだよ美幸ちゃんっ。また血が止まらなくなっちゃうよ」
 後から駆けて来た和美が、美幸の胴に後ろからしがみついて引き剥がそうとするも、美幸は八島を放そうとしない。
「いったいどうしたんだ」
「それが、千秋ちゃんに凶器で殴られて訳の分からないまま3カウント奪われたもんだから、試合の後も荒れちゃってて。それでも一旦は落ち着いて治療を受けてたんだけど、また思い出してカーッと来たみたいで飛び出してって、先生に連れ戻してって言われたの」
 しのぶの問いに美幸にしがみつきながらも答える和美。美幸に視線を移せば、額にはトレードマークのハチマキの代わりに、白い包帯が巻かれていた。
「もう、そんなに暴れたらまた傷口開いちゃうよ」
「こんなもん平気だって! それより千秋だ、あのヤローっ、次の試合でぶっちめてやるっ!」
 言いながら包帯を外して見せる美幸。だが、頭に血が昇り過ぎていたのか。
「……あ」
 ピューッと噴水のように額から血が噴き出し、そのままバッタリと倒れこんでしまった。
「ああっ、美幸ちゃんっ」
「な、何やってんだい真田さんっ」
 どうやらこの団体にいる限り、一人でゆっくり考える時間も与えてもらえないらしい。苦笑しながらも美幸に駆け寄るしのぶだった。


 開始からいつもと違った展開の連続でざわついていた会場内だが、それでも試合数が進むにつれいつもの空気を取り戻していった、かに思えた。だが。
「おうらあっ!」
 ズムッ!
「ぐっ」
 セミファイナルに波乱が起きた。桁違いのパワーでアドミラル八島がイージス中森を圧倒。
『入った、3カウントーッ! アドミラル八島、優勝候補のイージス中森をニーリフトで沈め、一気に決勝トーナメント進出を引き寄せたーっ! 逆に、イージス中森は痛い1敗! 最終戦の北条沙希からの勝利が絶対条件となってしまった! リングの仕事人、予選で消えてしまうのかーっ!?』
「よっしゃあっ!」
「……くっ」
 自らの言葉通り風が彼女に向いていたのか、ペースを中森に握らせる事なく八島が見事に番狂わせを起こして見せたのだった。

 一見、中森の態度に変化はなかった。試合後の記者インタビューにも、「北条に勝てば可能性は残る」と優等生的なコメントを残していたのだが。
「くっ!」
 次のメインの取材に向かった記者達から囲みを解かれると通路に一人残された中森は、壁に向かって拳を振り上げ。しかし、叩きつける事もなく、そのまま拳を下ろし握り締めた。
「いいんだぞ、たまには壁にくらいあたっても」
「しのぶさん……」
 声のした方に顔を向けると、そこにはしのぶが立っていた。
「いえ。まだ可能性がなくなったわけではありませんし。こんな所で壁を叩いて、ケガでもした方が損ですから」
「相変わらずだな。真面目というか、何というか」
 しのぶはそのまま、中森の隣で壁に寄り掛かると、視線は合わせずに向かい側の壁をぼんやりと見た。
「……ショックだったか」
「えっ」
「八島に負けた事」
「……いえ。八島さんは強いですよ。そういつもいつも勝てるほど、甘い相手じゃない」
「でも、勝てると思っていた。だから負けた事が悔しくてたまらない。冷静なお前が壁にあたるくらいに。……だろう?」
「……何が、言いたいんです?」
 中森はしのぶを見た。睨みつけるでもなく、ただ冷静に。しのぶの言いたい事が測りかねているのだろう。
「いや。ただ、お前が感じている以上に、八島も今まで悔しさを感じていたんだろう。一つ年上の同期入団で、入った時は八島の方が遥かに評価は高かった。でも、お前の急激な成長に、いつの間にか立場は逆転していた。悔しくないわけはない」
「だから、今日私が負けても、仕方がないと?」
「ああ、いや、そうじゃない」
 しのぶは頭を掻きながら、中森に顔を向ける。
「お前の気持ちもわかるんだ。皆、北条とお前でBブロックは決まりだと思っていただろう。それがこの大一番で、八島にひっくり返されるとはな」
「…………」
「八島が言ってたよ。『今日の会場の荒れた空気はアタシに味方する』って」
「……まさかしのぶさん。第一試合があんな事になったのが原因で、私の試合に影響したと?」
「いや、そうじゃないんだが」
 口ごもるしのぶに、中森は小さく笑ってみせる。
「しのぶさんが気にする事ではないですよ。仮にそうだとしても、平静に戦えなかった自分、あの展開で八島さんに向いた風向きを変えられなかった自分が未熟だっただけです。……それより、しのぶさんは」
「私は、別に……ハハ、私がお前に心配されてどうする。これじゃ何の為に声を掛けたのかわからないな」
 しのぶもまた小さく笑うと、中森の肩にポンと手を置いた。
「でも、いいんだぞ。こういう時くらい、感情を表に出しても。お前はいつも、感情を押し殺しているような所があるからな。同い年の同期もいないし」
「いえ。これは性格ですから」
「そうか。ま、私よりも話しやすいヤツもいるだろうからな。聞いてもらうといい。話せば少しはスッキリするだろうから。……まだ終わったわけじゃないんだ。リーグ戦、頑張れよ」
「ありがとうございます」
 頭を下げる中森の肩を軽く叩くと、しのぶは背を向け通路を歩きだす。十字路を右に折れ、中森の死角に入った所で、足を止めた。
「私の出る幕じゃなかったな」
 壁にもたれて立っていた人物に、ボソリと話し掛ける。
「……貴方もとことんお節介ね。自分の事で手一杯のくせに」
 呆れたように呟く女性。
「うるさいな。早く行ってやれよ、ユキ」
「あの子は強い子よ。少なくとも、今の貴方よりはよっぽどね」
 そこにいたのは、ラッキー内田だった。冷静に、しのぶの顔色を窺う。
「ま、それでもだいぶ落ち着いたようだけど。……大丈夫なの、最後の試合。遥と本気でやれるの」
「私を誰だと思ってるんだ。お節介ばかりだな、ここは」
「貴方がその代表じゃない。みんなにうつしたのよ、貴方が」
 クスッと小さく笑うと、幸はしのぶの横に並び、小さく呟く。
「なんなら引退試合の相手、私が務めて上げてもいいわよ。最期に気持ちよく眠らせてあげる」
「……さすが元タッグパートナーってやつか。千秋も同じ事を言っていたぞ」
「……一緒にしないでほしいわね」
 そう言うと、幸は左に曲がって歩いていく。なんだかんだ言いつつ、中森の事が気になっていたのだろう。
「……本当に、お節介ばかりだ」
 そう呟くと、しのぶもまた幸とは逆方向に歩みを進めた。


 その夜。ベッドに横になりながら、しのぶは天井を見上げていた。色んな事があった一日だった。つばさはしのぶが思っていたよりもずっと成長しており、仲間達はお節介ばかりだ。そして、今さらながらに自分の未熟さに気づかされた。自分に残された時間は、あと一試合しかないというのに。
「最後、か……」
 寝転んだまま、顔の前に持ってきた手のひらを見つめる。震えはない。
「……やれるのか、私は」
 あの後、つばさは那月に付き添われて救急車で病院に向かった。一晩安静にした後、明日念の為に検査を行うという。
 寝返りを打つと、視界に月明かりに照らされて鈍く光る鉄の塊が入った。テーブルの上に無造作に置かれた、千秋に手渡されたメリケンサックだ。
「……やってみせるさ。勝つんだ、私は。どんな事をしてでも」
 どんな事をしてでも。自分で呟いたその言葉が、しのぶの心に引っかかる。浮かんでくるつばさの顔と、目に入る鈍い光。そして、追い続けた女の顔と、胸に突き刺さったままの那月の言葉。
 様々な想いを抱えたまま、しのぶは目を閉じる。今夜は眠れないのではないか、そう思っていたが、体はしのぶが思っているよりずっと休息を欲しがっていたらしい。わずかな間を置いて、しのぶは寝息を立て始めた。

 越後しのぶ、最後の試合まで、あと一週間。


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