〜3〜

 翌日。
「いたっ、いたたたたっ」
 幸に足を極められ、礼子は悲鳴を上げていた。
「バカね。素直に狙いすぎよ」
 足を極めたまま幸が言う。
 普段グラウンドの練習は幸と中森が二人きりで行うことが多い。それは二人の高度な技術に割って入れる者がなかなかいないせいもあるが、最近はそこに礼子も混じっている。まだまだ技術的には数段劣る礼子であったが、関節技を主だった武器にしたいという礼子の希望で混ぜてもらっていた。
「でも、狙いは良かったですよ」
 中森がポンと礼子の肩に手を置いて薄く微笑む。しかしいまだ極められ続けて悲鳴を上げている礼子を助けるつもりはないらしい。
 真剣勝負ではまるで歯が立たないので、幸がわざと一つ隙を作り、そこを正確につけるかどうかが礼子のグラウンドスパーリングでのメインになっている。しかし、素直にそこを狙いすぎると、時折このようにそれを誘いに逆に極められてしまう。
「ひ〜、ユキ先輩、ギ、ギブアップです〜っ」
 耐えかねた礼子が床をバンバン叩くと、ようやく満足気に幸はロックを外した。
「ま、そうね。だいぶポイントも掴めてきたんじゃない。私達相手はともかく、グラウンドの苦手な相手なら有利に戦えるでしょ」
「本当ですかっ」
 今まで極められていた足を擦りながらも、珍しく褒められて礼子は嬉くなる。
「もっともアナタがグラウンドまで持ち込めれば、だけどね。試合では簡単にその状況は作れないわよ。何かもう一つ武器が欲しいわね」
「武器、ですか」
 う〜ん、と悩む礼子。ちょうどその時。
「ユキ。ちょっとそいつ、借りていいか」
 真琴が近づいてきた。
「私は別に構わないわよ。その子が良ければね」
 そう言って、幸は礼子をチラリと見る。
「どうだ、富沢」
「あ、は、はい。おねがいしますっ」
 元より断れるはずもないが、今日の真琴にはいつもの威圧感がなかった。礼子は素直に頷く。
「よし。じゃあリングに上がれ」
 真琴は親指を立てて背後のリングを指すと、すぐに背を向けて自分もリングに上がる。慌てて続こうとする礼子の肩を、中森がまたポンと叩いた。
「もう一つの武器、盗んでくるといい」
「あずみ先輩……」
 中森の言葉の意味がわからず、礼子はあいまいに頷いて、真琴の背中を追った。

「いいか、富沢。お前は身長もそれなりにあるし、手足も長い。関節もいいが、打撃にも向いていると思う。これを持って構えてろ」
 いきなりミットを放られて、慌てて礼子はキャッチする。おずおずと顔の前で構えると、いきなり何かが物凄いスピードでミットを弾いた。
「ひゃあっ」
「バカ、目を閉じるヤツがあるか」
 思わず閉じてしまった目を開けると、真琴が構えを取っている。
「大丈夫。当てはしない。ミットは動かさなくていいから、じっと構えているんだ。いくぞ」
 言うと、真琴が拳を繰り出した。あまりのスピードと勢いに、再び目を閉じそうになる。
「閉じるなっ。よく見るんだ」
 そう叫ぶと、真琴は尚も拳を繰り出し続ける。そのまま数十発放つと、一息吐いて手を休めた。
「どうだ」
「え、あの……早かったです。あと、手が痛い……」
 ミットを外して両手を振りながら、礼子は間の抜けた返事をする。真琴は思わず天を仰いだ。
「お前な。試合ではあれが顔に飛んで来るんだぞ」
「え、でも拳は反則じゃ」
「5カウント以内なら反則にはならないだろ。それに」
 真琴は礼子の顔めがけていきなり拳を放った。
「キャッ」
 礼子は思わず目を閉じる。しかし、衝撃は訪れない。おずおずと目を開けると。
「拳じゃないだろ」
 顔の前には、真琴の手のひらが突きつけられていた。
「掌底、ですか」
「そうだ。これなら立派な武器になる。お前は手が長い分リーチがあるからな。こいつを身につけて簡単に懐に入らせなければ、有利に試合を運べる」
「はあ」
「何も今すぐマスターしろとは言わない。まずは、目で慣れろ。ただでさえEWAにはこいつを使う選手も多いからな。ある程度見えるようになれば、そう簡単に負けはしない。さ、もう一度構えろ。いくぞっ」
 礼子が再びミットを構えると、再び嵐のような掌底が襲う。しかしその狙いは正確で、礼子の手が多少ブレようともその中心を射抜き続ける。お陰で礼子の恐怖心もだいぶ和らぎ、純粋にそのスピードを目で計れるようになってきた。
「ふう」
 真琴がようやく手を休める。それと同時に、礼子も大きく溜息を吐いた。ミットに当たると分かっているとは言え、このスピードの打撃を受け続けると言うのは想像以上にプレッシャーがかかった。
「まあ、こんな感じだ。気が向けば言うといい。基本的な打ち方くらいなら教えてやれる」
「は、はい。ありがとうございますっ」
 礼子はペコンと頭を下げた。ようやく一休み、と思ったのだが。
「よし、ついでにキックも受けてみるか。誰か、キックミット取ってくれないか」
 礼子がゲンナリした表情を浮かべているのにも気づかず、真琴は礼子に背を向けてリング下に呼びかける。つばさがキックミットを手に取り、真琴に手渡す。真琴のあまりの熱の入れように、いつの間にか皆が遠巻きにリングの上を眺めている。そんな中、那月だけがブスッとしながらサンドバックに掌底を叩き込み続けていた。
「お前、今のところドラゴンスクリューが得意技だったよな」
「は、はい、一応」
「ただ、先シリーズを見た限りだと、自分から足を取りにいっているだろう。相手の蹴り足を捕まえることができれば、かなり応用が利く。あたしや美幸も、ユキや中森に随分それで手を焼かされたからな。これから何発か打つから、自分でタイミングを計ってみるといい。いくぞ」
 礼子が両手でミットを構えると、真琴は短く気合を入れ、右足を振り抜いた。
「せいっ!」
 ズバンッ!
「ひゃあーっ」
 その一撃で礼子はロープ際まで吹っ飛ばされた。
「何をやってる。もっと腰を入れて構えろ。続けていくぞっ」
 言うと、真琴の右足が唸りを上げる。礼子は吹き飛ばされないように、両足をしっかり踏ん張ってなんとか受け止める。だが、マシンガンのようなミドルキックの連打、しかも一発一発は大砲並の威力だ。段々両手が痺れてくる。逆に真琴はエンジンがかかってきたのか、その蹴りはますます鋭さを増していく。とてもじゃないがこの蹴りを捕らえてドラゴンスクリューになど持ち込めそうもない。
「よし、ラスト、コンビネーションいくぞっ。ロー、ミドル、ハイだ。いいなっ」
「え、は、はいっ」
 真琴の突然の宣言を受け、礼子はミットの位置を下げる。そこを鞭のような真琴のローキックが打つ。ミットを上げると、今度はミドル。そして最後に頭の横で構えると。
「せいぃやっ!」
 気合一閃、真琴のハイキックが礼子の側頭部付近を襲う。あらかじめミットを構えていたとはいえ、それは礼子の想像を遥かに超える威力だった。あまりの衝撃に礼子は後ろにバランスを崩して吹き飛び、
「あうっ!」
 ロープに後頭部を強打。そのまま反動で前のめりに倒れた。
「ぎゃんっ」
「お、おい、大丈夫か富沢」
 礼子はピクリとも動かない。素人が見ればゴムのように柔らかそうに見えるロープも、実は中にワイヤーが入っておりかなり硬い。それにまともに頭をぶつけてしまい、礼子は気を失っていた。
「ちょっと真琴、何やってるのっ。レイ、大丈夫っ」
 幸が慌ててリングに入り、礼子を抱き起こす。
「あ、あたしは最初からコンビネーションで行くって言ったじゃないか」
 真琴がおろおろと礼子と幸を交互に見る。
「バカッ、この子にいきなりそんなの受け止められるわけないでしょ。ちょっとは加減を考えなさいよっ。……ダメ。完全に気を失ってる。誰か、この子運ぶの手伝って」
 礼子は気を失ったまま、リングから運び出されたのだった。


「……ん〜……あ、いたた……」
 意識が戻った瞬間、後頭部がズキンと痛んだ。思わず呻く礼子を覗き込む顔が一つ。
「目が覚めたか。大丈夫か」
「ひっ……あ、真琴先輩……」
 一瞬その顔に恐怖を覚えたものの、よく見るとそれが真琴だと気づく。
「さっき医者が来て見ていったが、軽い脳震盪だそうだ。とりあえず今日はもう練習は休んで寝てるんだ」
「はい……」
 礼子はようやく、自分が自室のベッドで寝ている事に気づく。誰が着替えさせたのか、いつの間にか練習着ではなくパジャマを身につけていた。
「富沢……」
「はい?」
「……すまなかったっ」
 いきなり勢いよく真琴に頭を下げられ、礼子は面食らった。
「や、やめてくださいよ真琴先輩。私がしっかり受け止められなかったのが悪いんですから」
「いや、あたしが急ぎすきたのが悪かったんだ。お前なら大丈夫だと思ったんだが……」
 その言葉に、礼子の胸は逆にズキンと締めつけられた。昨日中森に言われた言葉が思い出される。結局、真琴の見立てに自分の才能が遠く及んでいないという事だろうか。
 黙りこくってしまった礼子に、どう言葉を掛けてよいか分からず真琴は頭を掻く。
「じゃ、じゃあ私はもう行くから。あとでつばさ達が来るから、何か必要な物があったら言うといい。それじゃな」
「はい。すみませんでした」
 真琴が去った後、礼子は目を閉じてみる。しかし、真琴が気を使ってかけた言葉に逆に責められているような気がして、それを遮断するように頭から布団を被った。

 コンコン。
「レイちゃーん。起きてるー?」
「あ、はい」
 布団を被っても眠れず悶々としていた所、ノックが聞こえてきて返事をする。扉を開けてつばさと那月が入ってきた。
「具合どうかな。結構硬いんだよねロープって。はいこれ、お水。喉渇いたでしょ」
「ありがとうございます」
 布団から這い出ると上半身を起こし、手渡されたグラスを受け取って口をつける。
「しっかり踏ん張ってないからあんな事になるのよ。真琴先輩のキックを甘く見てたんじゃないの」
「もう、またなっちゃんはそんな言い方して」
 ツンと澄まして横を向く那月につばさは苦笑する。
「あの、つばさ先輩……」
 思いつめた表情で、礼子がつばさに尋ねる。
「ん、なあに」
「……私、才能ないんでしょうか」
 才能、という単語に、つばさと那月がピクンと反応する。しかしそれに気づかず、礼子は俯いて話し続ける。
「真琴先輩の練習に全然ついていけてないし……あずみ先輩は、真琴先輩はちゃんと見ている人だって言ってたけど、結局真琴先輩が思っているより私が全然ダメって事で……」
「……そうね。才能ないわね、貴方」
 那月にズバッと言い放たれて、礼子は弾かれるように顔を上げた。
「今からそんな事言ってるようじゃ、とてもじゃないけど続かないわね。さっさと辞めちゃえばいいんじゃない」
「ちょっとなっちゃん、そんな言い方」
「本当の事よ。辞めるなら早い方がいいじゃない。早く荷物をまとめて出て行ってね。二度と私の前に顔を見せないで頂戴。さようなら」
 那月は好き放題言うと、扉を乱暴に閉めて出て行ってしまった。
「なっちゃんてばっ! ご、ゴメンねレイちゃん。なっちゃんが言った事、気にしないでね」
「…………」
 つばさのフォローも耳に入らず、礼子はショックのあまり呆然としていた。つばさも立ち上がると、那月を追うためドアのノブに手をかける。
「レイちゃん、一つだけ言っておくけど……才能なんて言葉、簡単に口にしないで。……それじゃ」
 つばさも部屋を出て、一人だけ残された室内。気づけば二つの瞳から、ボロボロと涙が零れていた。礼子はただ、たった一言、「そんなことない」と言って欲しかっただけだった。弱った心を、少しだけ慰めてもらえればそれで良かった。それだけなのに。
 礼子は布団を握り締め、声を上げて泣いた。彼女は今、一人だった。

「ちょっと、なっちゃんてばっ」
 先をズンズン歩いていく那月に追いつくと、つばさは慌てて背後からその肩に手をかけた。
「なんであんな事言うのっ。レイちゃん、ちょっと悩んでただけじゃない。今あんな事言ったら、本当に辞めちゃうよ」
「……いいじゃない、辞めれば」
「なっちゃんっ」
 バンッ!
 那月は握っていた拳を、廊下の壁に叩きつけた。その手は細かく震えている。
「……才能、ですって? あれだけの身長があって、真琴先輩にも目を掛けてもらって、いったい何が不満なのよっ! 甘えるのもいい加減にしてほしいわ」
「なっちゃん……」
 つばさは那月を後ろから抱きしめた。
「……不安なんだよ、レイちゃん。周りは年上の凄い人ばっかりで、同期もいなくて。自分が何も出来なくて、すごく情けなく感じてると思う。心細くて仕方なくて、だから私達に弱音を吐いちゃうんだよ。わかるでしょう」
「……わからないわよ。なら、練習すればいいじゃない。才能だけで強くなれるほど、この世界は甘くない。そんな事もわからずに今からあんな事言ってるようじゃ、どうせ長続きするわけないわ。さっさと辞めた方が身のためよ」
「…………」
 那月はつばさを振り解くと、走って行ってしまった。つばさは一つ溜息を吐くと、パンパンと手を叩いて後輩の名を呼んだ。
「REKIちゃ〜ん。いる〜?」
 一瞬の後、突然REKIがつばさの目の前に現れ、シュタッとひざまずいた。
「…………何か」
「うわっ、び、びっくりした。相変わらずだなあ。あのね、お願いがあるんだけど」
 つばさはREKIに近づくと、コソコソと何事か耳打ちした。
「…………御意」
 それだけ言うと、パッと姿をくらました。呆気に取られつつ、後ろを、礼子の部屋のある方を振り返る。
「思い過ごしだといいんだけどな」
 どこか寂しげに、つばさはそう呟いた。


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