〜4〜

「んーっ……入んない」
 鞄に押し込んだ荷物を上からギューッと押し込んではみたものの、手を放した瞬間にブワッと溢れてしまう。入寮時は少し余裕があった鞄も、オフのたびに手に入れたグッズやら何やらを詰め込めば途端に入りきらなくなってしまった。
「入らない分は置いてくしかないか。送ってくれる……ワケないよね。捨てられちゃうだろうなあ」
 溜息を吐いて礼子は部屋を見回した。あれだけ壁に貼られていたポスターも今はすっかり剥がされ、まとめてクルクルと巻かれ一本の筒になっている。元々物が少ない中森のスペースとは違う、祭りの後のような喪失感が礼子のスペースに漂っていた。
 ガチャ。
「うわっ。あ、あずみ先輩」
 突然部屋のドアが開かれ、礼子は慌てて鞄を背中に隠した。風呂上がりの中森が微かに頬を火照らせて入ってくる。ドアを閉めると、違和感に首を巡らせた。
「片付けたんだな、部屋」
「あ、はい。ちょっとゴチャゴチャしてたから、たまにはあずみ先輩を見習って整理しようかな〜って。アハハ」
 明らかに不自然な態度の礼子を、あずみがじっと見つめる。礼子は少し腕を広げて、背中の鞄が隠れるようにした。実際にはまったく隠れていないのだが。背中に冷や汗が流れる。
「……明日も早い。あまり夜更かししすぎないようにな。今日は特に、頭を打っているんだから」
「は、はい。おやすみなさい」
 そう言うと、あずみは礼子に背を向けてさっさとベッドに潜り込んでしまった。ホッと胸を撫で下ろすと同時に、一抹の寂しさが礼子を襲う。
「……気付いて、くれないんだ」
 入りきらなかった荷物をいくつか摘まみ出して机の上に置き、パンパンの鞄のチャックをジーッと閉める。これで準備は整った。携帯の目覚ましを夜中にセットし、部屋の電気を消すと礼子も自分のベッドに潜り込んだ。

 目覚ましのバイブ機能がなる前に、礼子は目を覚ました。いや、実際にはちゃんと眠れていたわけではない。頭の中では自問自答を繰り返していた。礼子は半身を起こし、部屋の反対側を見る。暗くて表情は見えないが、規則正しい静かな寝息から、中森が眠っているのがわかる。
 本当にこれでいいのか。何度答えを出しても浮かび上がる疑問を頭を振って追いやると、礼子は静かにベッドから抜け出す。いつものパジャマ姿ではないジャージ姿。パンパンの鞄を手に取ると、ドアノブをそっと回す。どんなにゆっくり回しても鳴ってしまうカチャリという音にビクリとしたが、中森が起きだす気配はない。
「……お世話に、なりました」
 礼子は小声で呟くと、中森と、そして3ヶ月を過ごした部屋に頭を下げ。部屋を出ると、振り返らずにドアを閉めた。
「…………」
 一人残された部屋。いつの間にか目を開いていた中森はベッドの中で、ただ黙ってジッと天井を見上げていた。

 深夜、と言ってもそこまで遅い時間ではないのだが、朝早く夜も早い一番星プロレスは皆すでに寝静まっていたようで、幸いというべきか廊下で誰にもすれ違う事無く寮を出ることができた。
 玄関を出て、もう一度寮を見上げる。わずか3ヶ月とはいえ、色々な事があった。ほとんどが苦しかった練習の想い出だったが、いくつか大切な想い出もできた。先輩に優しくしてもらった事や、デビュー前だというのにバカンスに連れて行ってもらった事。そして、一生忘れられないであろう、リングの上の眩い光と大きな声援。
『本当にこれでいいの』
 頭の中に響くその声を、礼子は首を振って振り払う。もう、決めたのだから。礼子は鞄を地面に下ろすと、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございましたっ」
 そのまま数秒頭を下げ続け、ようやく頭を上げる。もう一度見上げた大きな寮は、なんだか滲んで見えた。潤んだ瞳をジャージの袖で拭うと、寮に背を向ける。時間が時間だけに電車は動いていない。とりあえず駅前の漫画喫茶で一晩明かそう。そんな事をぼんやりと考えていた時、突然礼子の前に黒い影が舞い降りた。
「えっ」
 するとその影はあっという間に礼子を抱え上げ、その場を常人とは思えないジャンプ力で飛び去った。
「い……いやーっ、人さらいーっ!」
 礼子の叫びが、虚しくその場に木霊した。

 礼子を抱えた黒い影は何度か大きなジャンプを繰り返すと、寮の裏庭に着地し礼子を無造作に下ろした。
「きゃんっ。あいたた……」
 突然地面に落とされていささか打ちつけた尻を撫でていると、黒い影は隅で丸まっている何かに近づいて屈みこむ。
「え……涼美、先輩……?」
 そこには膝を抱えて丸くなっている石川がいた。だが眠ってしまっているようで、小さな寝息が聞こえてくる。黒い影が指先でツンツンとその頬をつつく。
「ん……もう食べられないです〜……むにゃ……」
 だが、起きる気配がない。一瞬の間の後、黒い影は指で石川の鼻を摘まんだ。1、2、3……。
「ぷはっ。ひゃ、ひゃに〜?」
 息苦しくなったのか石川は目を覚ますと、口をパクパクさせた。黒い影もようやく摘まんでいた指を離す。
「も〜、ひどいよREKIちゃん〜」
「えっ。レ、REKI先輩?」
 あまりに闇と同化していて、その黒い影がREKIだと礼子には全く気づけなかった。改めて目を凝らしてみてもよくわからない。いつものTシャツやリングコスチュームとも違う、本格的な漆黒の忍装束のよう。忍者だという噂は本当だったのだろうか。
 それを一発で見破った石川はと言えば、仕返しにとREKIの腕をポコポコと叩いている。
「…………」
「え、寝てる私が悪いって? そんな事言っても、もうこんな時間なんだもの。眠くなっちゃうわよ。ふわわ〜」
 礼子にはREKIが口を開いたのかすらわからなかったが石川にはちゃんと聞こえていたようで、そう答えると大きくあくびをして目をトロンととろけさせた。見ているこっちまで眠くなりそうだ。
「でも、ありがとう、REKIちゃん。つばさ先輩も呼んできてくれるかな」
 小さく頷くと、REKIの姿は一瞬にして闇の中に掻き消えた。裏庭には、REKIのいた場所に向かって小さく手を振る石川と、唖然とする礼子だけが残されていた。
「さて、と」
 石川のその言葉に、礼子はビクンと震えた。今まで振っていた手で礼子をちょいちょいと手招きする。邪気のない柔和な笑顔。しかし、今の礼子がいったいどんな顔で近寄れるというのか。礼子は石川に背を向けて走り出そうとした。が。
「だ〜め」
 突然後ろから抱きすくめられて、礼子は逃れる事ができなかった。思っていた以上に素早く、そして力強い。何より背中に押し付けられる二つの大きなふくらみの圧迫感がすごい。
「は、放してください涼美先輩っ」
「いや〜。だって放したら、レイちゃん行っちゃうでしょう」
「わ、私はもう、やめ」
 その言葉を発する直前、礼子の唇に石川の人差し指が押し当てられた。
「その先は言っちゃダメですよ〜。その前にお話聞かせて。ね?」
 礼子が返事をするより先に、石川は礼子を後ろから抱きしめたまま引きずって先程まで腰を下ろしていた位置に再び腰を下ろした。石川の脚の間に腰を下ろし背後から抱きしめられていると、まるで幼い頃母親に抱かれていた頃の記憶を思い出す。背丈はそれほど変わらないというのに。
「レイちゃん、プロレス嫌いになっちゃった?」
 石川の問いに、礼子は首を振る。
「じゃあ、私達の事、嫌い?」
 少し間が空いた後、再び礼子は首を振る。
「そう。良かった〜」
 そう言って、ぎゅうっと礼子を抱きしめた。礼子が戸惑っていると、
「……ごめんなさい、レイちゃん」
 石川が小さく呟いた。
「私、初めての後輩ができて、すごく嬉しかったんですよ。同期もいないしみんな年も離れてるしですごく心細いだろうなと思って、精一杯ケアしてあげたいなって思ってたんですけど……ごめんなさい。結局全然、レイちゃんの事わかってあげられなかったみたい」
 石川が、礼子の背中に顔を押しつけた。背中がじんわりと濡れて温かくなる。その意味を悟り、礼子は胸が締めつけられる思いがした。
「……どうして」
「え?」
 礼子の小さな呟きに、石川が顔を上げる。
「どうして涼美先輩が、泣くんですか。涼美先輩は全然悪くない。悪いのは全部、私なんです。才能もないし、根性もない。先輩達がキツイ事言うのも、私の為だってわかってる。でも私、先輩達の足を引っ張ってばかりで。もうこれ以上、憧れてた先輩達の邪魔になりたくないし、嫌われたくないんですっ。だから……だからっ」
 堰を切ったように、礼子の瞳からボロボロと涙が零れだした。
「レイちゃん……」
「う……うわあぁぁぁんっ」
 礼子は体を捻ると、石川の首にしがみつき、大声をあげて泣いた。これまで溜め込んでいた様々な感情が、涙と泣き声になって次から次へと溢れ出していく。石川は何も言わず、ただ礼子を抱きしめて、優しくその頭を撫で続けていた。

「落ち着いた?」
 どのくらいそうしていたのだろう。掛けられた石川とは違う声に顔を上げると、そこにはつばさが微笑んで立っていた。泣き顔を見られるのが急に恥ずかしくなって、礼子は両手で顔を拭う。つばさは石川の横にちょこんと腰を下ろした。
「良かった。REKIちゃんに頼んでおいて」
「知ってたんですか。私が、今日……」
「ん、まあ、もしかしたらと思って、念の為ね。ゴメンね、監視するようなマネして」
 礼子は無言で首を振った。再び石川に背中を預けて、体育座りになる。礼子の腰に石川が手を回す。逃げられないように、ではなく、ただ、少しでも礼子が安らげるように。
「レイちゃんさ。なんでプロレスラーになろうと思ったの」
 つばさの問いに、礼子は当時、と言っても数年前だが、に思いを馳せる。
「たまたま深夜アニメを見ようと思って夜更かししてた時、始まるまで暇だったからチャンネルを回していたら、丁度一番星プロレスの中継が映ってたんです。それが沙希先輩と翔子先輩の試合で、入場からリングコスチュームまで全てがカッコ良くて」
「ああ、そういう世代なんだ。あたしは遥先輩やしのぶ先輩を見てだったなあ」
「私もそうですよ〜」
 つばさと石川が世代間のギャップを感じている間も、礼子の話は止まらない。
「あんなカッコイイ女の人達が戦うマンガみたいな世界が本当にあるんだって知って、ドキドキして。学校でその事を友達に話したら、プロレスファンの子がいて、一緒に見に行くことになったんです。初めて見た試合は、凄い迫力で。メインがFSPヘビーのタイトルマッチだったんですけど、勝利を飾ってファンの視線を一身に浴びながらベルトを掲げてる遥先輩が、すごく眩しくて。私もあの場所に、立てたらなあって思って」
 熱心に語る礼子を、二人はニコニコしながら見つめていた。
「それからぼんやりと、中学卒業したらプロレスラーになりたいなって思ってて。でも、星プロはしばらく新人は獲らないだろうって話だったから、昨年新女のテストを受けたんです。……落ちちゃいましたけどね。一緒にテストを受けて仲良くなった子が、ブリッジとか凄くて、ああ、こういう子がプロレスラーになるんだなって思いましたよ」
 ちなみにその時新女に入団したのが、現在の新女ジュニアのホープ、ジャンヌ永原である。世界が違えば礼子と同期の仲になっていたかもしれない。
「それで諦めて地元の高校に入ったんですけど、でも星プロのテストに落ちたわけじゃないから、なんだか諦めきれなくて。個人的にトレーニングは続けてたんですけど、そしたら今年、越後さんが引退されて一人新人を募集するって事になって。ダメ元でテストを受けたら、受かっちゃいました。もう、すごく嬉しくって。本当に、夢が叶ったんだって」
 と、そこまで熱を入れて語っていた礼子が、肩を落とす。それまでとは一転、膝に顔を押し付けて、ボソボソと話す。
「でもやっぱり、夢は夢のままにしておいた方が、良かったんだなって、思いました。私なんかが入っちゃいけない世界だったんです、ここは。私みたいなのは、外から眺めているだけで満足するべきだったんです」
「……えい」
 ビシッ。
「いたっ」
 それまで礼子の話を黙って聞いていたつばさが、突然礼子の脳天にチョップを落とした。
「いきなり何するんですか、つばさ先輩っ」
「ごめん。でも、ちょっとカチンときちゃった」
 痛む頭を押さえてつばさの方を振り向くと、そこには真剣な表情をしたつばさの顔があった。
「レイちゃんの夢っていうのが、一度だけでいいからリングに立つ事だったっていうなら、あたしももう何も言わない。先月デビューして、その夢は叶ったんだろうから。……でも、本当にそれだけ? せっかくウチに入団したのに、今辞めちゃって、この後一生後悔しないって、本気で言える? 十年間プロレス続けて、それでも辞めたくないって、でもこれ以上は体が思うとおりに動かないから仕方がないんだって、そう言って泣く泣く辞めなきゃいけなかった人を、あたしは知ってる。レイちゃんはどうなの? まだ終わってない、ううん、まだ何も、始まってすらいないんじゃないのかな」
 つばさの言葉に、礼子は何も返すことができず。ただ俯いて、再び膝に顔を埋めた。
「……少し、あたしの話、聞いてくれるかな」
 つばさは礼子の髪を撫でると、夜空を見上げる。昨日は新月で何も見えなかった月が、今日はほんの少しだけ、円の縁を覗かせていた。


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