〜5〜

「お母さんなんて大ッ嫌い!」
 少女は泣きながら部屋を飛び出した。
「母さん。少し言いすぎじゃないのか」
 父親とおぼしき男性が、新聞から顔を上げると、わずかに下がった眼鏡を指で戻しながら言う。
「いいんですよ。どうせいつもの事なんだから」
 母親は、振り向かずに流しで洗い物を続けている。
「だけどな。かわいそうじゃないか。あの子の夢なんだろう。それに、隠れて一人でトレーニングを続けてるの、母さんも知ってるだろう」
「そうは言いますけど。あの子がプロレスラーになれるなんて、お父さんは本気で思ってるんですか? 特別運動が得意なわけでもないし、体だってあんなに小さいのに」
「でもな。やるだけやってみれば諦めもつくんじゃないか」
「どうしてもって言うから、落ちたら諦めるっていう約束で春にテスト受けさせたんじゃないですか。それで落ちたのに、今になって、また言い出すなんて」
 母親が一つ溜息を吐く。
「春は新女で、今回は星プロだろう。元々あの子は星プロに入りたがっていたんだし」
「星プロか蒸し風呂か知りませんけどね、こんな中途半端な時期にテストをするなんて、まともな所じゃありませんよ。第一、学校はどうするんですか」
「それは……う〜ん」
「いいんですよ、放っておけば。どうせお腹が空いたら下りてきますよ」
 取り付く島もない母親に、父親もこれ以上口を挟むのは止めて新聞に視線を戻した。そして2時間ほど。晩御飯の仕度ができ、父親が少女を部屋へ呼びにいったのだが。
「か、母さんっ」
「どうしたんです、そんなに慌てて」
「あの子が部屋にいないんだっ。それに、部屋にこんなものが……」
 父親から受け取った一枚のメモに目を通し、次の瞬間、母親は絶句した。力の抜けたその手から、ヒラヒラと舞い落ちる。そこには少女らしい丸文字を精一杯怒らせて、こう書いてあった。

『入団テスト、一人で受けに行ってきます。
 絶対にプロレスラーになるんだから!   つばさ』

〜〜〜

「つばさ先輩、ご両親に反対されてたんですか?」
 驚いて尋ねる礼子に、つばさは肩を竦めて答える。
「そりゃあね。こんな体だし。今でも会うたびに信じられないって言われる」
「へえ〜。大変だったんですね〜」
「涼美ちゃんはどうだったの。16で入ってきたし、高校辞めてきたんでしょ」
 つばさの問いに、石川は顎に手を当てて思い返してみる。
「ウチは両親とも、自分の人生だから、好きにしなさいって言われました〜」
「理解あるんだ。それで、話の続きだけど、あたし一人でこっちに出てきちゃったんだよね」

〜〜〜

「東京かあ。すごい人だな〜」
 愛媛から何本も電車を乗り継ぎ、途中小学生と間違われて駅員に捕まりそうになりながら、一夜明けてようやく到着した東京駅。つばさは人の多さに圧倒されていた。中学の修学旅行は関西だった為、東京は初めてである。
「……一応家に電話しておこう。お母さん、怒ってるかな」
 それまで電源を切っておいた携帯電話に改めて電源を入れ、自宅に電話をかける。驚いた事に1コールで繋がった。
『もしもし!? つばさなの?』
「あ、うん。あの」
『バカッ! 今まで何やってたのっ。どこにいるの、早く帰ってきなさいっ』
「何って、テスト受けに行くってメモ残しておいたでしょ。今東京だよ」
『東京って……。何考えてるの、子供が一人でっ!』
「こ、子供じゃないもんっ! あたしもう大人なんだから、一人で旅行だってできるし、一人で将来だって決められるんだから。あたしはプロレスラーになるのっ。それじゃあねっ」
『ちょ、ちょっと待ちなさい、つば』
 ツー、ツー。
「もう、何よ、いっつも子ども扱いしてっ」
 つばさはプリプリ怒りながら、広い駅内をズンズン歩いた。そして。
「……ここ、どこ?」
 完全に、迷ってしまった。
「あれえ? 千葉行きってどっちなの〜っ」
 看板を見上げても沢山ありすぎてどれがどこを指しているのかさっぱりわからない。人に聞こうにも、皆早足で歩いていて誰に尋ねてよいかもわからず。だんだん怖くなってきて、勘を頼りにキョロキョロしながら小走りにうろうろするも、余計に迷うばかり。心細さに思わず泣きたくなってきたその時、誰かにぶつかって跳ね飛ばされた。
「キャッ。あいたた……」
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
 思わず尻餅をついたつばさに手を差し伸べてくれたのは、つばさより3つほど上だろうか、シャギーの入ったショートカットの、どこか落ち着いた雰囲気の漂う少女だった。

「えーっ!? 同い年なの?」
 電車内。少女の年齢を聞き、つばさは驚きの声を上げた。どう見ても年上だと思ったのに、まさか同い年とは。それは少女の方も同じようで、つばさのリアクションに一瞬目を丸くしてつばさを見たが、すぐに平静を取り戻した。同い年とは思えないほど幼い、などとは決して口にしないところが少女の優しさだった。
「それで、吉原さん」
「泉でいいわ。えっと」
「あ、あたしは野村つばさ。つばさでいいよ。で、泉さんは何か格闘技とかやってたの?」
「ええ、空手を少し。つばさちゃんは?」
「あたしは全然。陸上やってただけ。う〜ん、なんだか不安になってきたなあ」
「ウフフ。気にすることないわ。プロレスは空手とは全然勝手が違うもの。私も素人だから。お互い、頑張りましょう」
 そう言って優しく微笑む泉。つばさは神様に、彼女との出会いを感謝すると同時に、少しだけ文句も言いたくなった。道に迷ったつばさにステキな同行者を用意してくれた事、そして、そんな彼女がとんでもないライバルだった事に。

〜〜〜

「あれ〜? そのお名前、どこかで聞き覚えが〜」
「うん。多分聞いたことあると思う。吉原泉。高校のインターハイで一年生で無差別級空手王者になって、その後プロレスの世界に飛び込んで、今はフリーとして海外でリングに上がってる、通称『関節の魔術師』」
「ちょ、ちょっと待ってください。つばさ先輩、そんな凄い人と一緒にテスト受けたんですか?」
 またも驚かされて目を丸くする礼子。
「うん。まあその時は知らなかったんだけどね。後でなっちゃんに教えてもらってびっくりしたよ。ほら、なっちゃんも空手やってたから。十年に一度の天才、とか言われてたんだって」
 その時、石川がポンと手を叩いた。
「あ、思い出しました〜。確か、新女のコンバット斉藤さんの憧れの人だとか。3つ違いで空手時代は戦えなかったから、その人を追ってプロレス入りしたんですよね〜」
「へえ。詳しいね、涼美ちゃん」
「エヘヘ〜。この間の週刊リングの受け売りですけどね。同年代の選手の事は、チェックしておかないと〜」
 コンバット斉藤は中学生時代に空手全国大会3連覇を達成、その実績を買われて新女に入団し、デビュー数年でトップ争いに食い込んだ逸材である。その彼女が目指した存在。実力は推して知るべし。
「で、そんなこんなで彼女と一緒に入団テストを受ける事になったんだけど」

〜〜〜

 泉と出会った事が功を奏し、試験会場である一番星プロレスの道場に余裕を持って到着したつばさ。それでもすでに数人の少女達がその場に集まっていた。この頃の一番星プロレスはまだ3年目、それほどの規模ではなかったが、11月という中途半端な時期に関わらず、最終的には十数名の志望者が集まった。
 中にはつばさより20センチ以上も背の高い少女や、倍近い体重の少女もいたが、それでもつばさは負ける気はなかった。小さいから、と言って負けるのが大嫌いなつばさである。体格に頼るだけの少女達には負けないように、どんな状況でも合格ラインの最低ノルマはこなせるように自身でトレーニングを積んできたという自負があった。
 だが、そんな自信もあっという間に吹き飛んでしまった。同じくテストを受けた泉の存在である。受験者が根を上げて次々脱落していく中、ほとんど表情を変えずに軽々とクリアしていく。その堂々とした振る舞いは、すでにデビュー済の新人と言っても疑う者はいないほどだろう。
 しかし、つばさも後には引けない理由がある。このテストに賭けてきたのだ。萎えそうになる気持ちを懸命に鼓舞し、つばさは泉と自分を比較するのを止め、ひたすらテストをこなす事だけに集中した。結果、つばさは全てのテストで自分の持てる力を存分に発揮し、予定通り合格圏を確実に超える事ができた。もっとも、泉は全てにおいてつばさの結果を上回っていたのだが。

「合格者は、吉原泉、そして……野村つばさ」
「やったぁっ」
 その発表につばさは飛び跳ねて喜び、泉は安堵の表情を浮かべ、そして他の多くの少女達は落胆の表情を浮かべた。少女達は皆、羨ましげに二人を見つめ、その中の幾人かは二人に夢を託しエールを送って、道場を後にした。残ったのはつばさと泉、そして一番星プロレスの社長と秘書の4人だけだった。
「さて、二人には合格おめでとう、と言いたい所なんだが……宿舎の関係で、今回ウチに入団できるのは一人だけなんだ。だから、非常に申し訳ないが君達の内、どちらか一人を選ばなくてはいけない」
「そ、そんなあ……」
 社長の言葉に、つばさは目の前が真っ暗になった。誰がどう見ても、どちらかと言われれば泉を選ぶに決まっている。だったら、最初から泉だけを選べば良かったのに……。そう思い至って、つばさはふと気づいた。初めからそのつもりなら、泉だけを合格させればいい。それなのに自分も合格を言い渡されたという事は、1%でも可能性が残されているという事なのではないか、と。
 それから、社長との面談が行われた。何をどう答えたのか、つばさはよく覚えていない。ただ、自分がいかにこのテストに賭けていたか、どれだけこの団体に入りたがっているのかを必死で訴えた。対する泉は受け答えも落ち着いていた。彼女の動機は非常に明確だった。未知の世界で、より強い者と戦いたい。それだけだった。
 面談後、社長と秘書は一旦席を外し、その場にはつばさと泉だけが残された。泉は相変わらず落ち着き払っていたが、つばさは祈るような気持ちでその時を待っていた。

「お待たせしたかな」
 再び社長が戻り、つばさは顔を上げた。その顔は緊張で血の気が引いていた。
「面談も含めた審査の結果……野村つばさ君。君に、我が団体に入団してもらう事になった」
「…………へ?」
 その言葉に、つばさはポカンと口を開けて社長を見つめた。
「合格だよ、野村君」
 社長にポンと肩を叩かれて、つばさはヘナヘナとその場に崩れ落ちた。
「あたし……合格したんだ……プロレスラーに、なれるんだ……っ」
 じわじわと実感と共に湧き上がってくる喜び。つばさは熱くなる自分の胸を両手でギュッと抱き、その喜びを噛み締めた。
「……一つ、聞かせていただいてもよろしいですか」
 と、その時。それまで黙っていた泉が口を開いた。
「私には、何が足りなかったのでしょうか」
 悔しさに顔を歪める事もなく、ただ真摯に、社長の顔を見つめる泉。そんな泉と社長をつばさも交互に見つめる。
「目、かな」
「……目、ですか」
「ああ。漠然としていて申し訳ないが、私は野村君の目に惹かれた。彼女にはウチしかなく、そしてウチに必要なのも彼女なのだと、その目が訴えかけていた。……こんな答えでは、君には到底納得してもらえないだろうが」
 申し訳なさそうな社長の言葉を、泉は首を振って遮った。
「いえ。つばさちゃんを見ていて、よくわかりました。今日はありがとうございました」
 泉はペコリと頭を下げた。
「あ、あの、泉さんっ。あ、あたし……」
 思わず泉の名を呼んでしまったつばさだが、こんな時何と言葉を掛けて良いのかわからず、口ごもってしまう。
「おめでとう、つばさちゃん。これから頑張ってね。つばさちゃんの試合を見られる日を、楽しみにしているわ」
 そう言って、微笑んで右手を差し出す泉。つばさは立ち上がることもできないまま、その手を両手で握り返した。
「あたし、頑張るからっ。泉さんの分まで、立派なプロレスラーになるからっ」
 言葉にし足りない想いは手を握る力にこめて、つばさは泉に誓った。泉はそんなつばさを、ただ微笑んで見つめていた。
「あ〜、吉原君。今回は残念ながらウチとは縁がなかったが、今更私が言うのもなんだが君は経歴も素質も素晴らしい物を持っていると思う。私のつてで、知り合いの団体の社長に話を通してみる事もできるが」
 社長の申し出に、泉は首を横に振る。
「いえ。もう一度、良く考えてみます。そして、私を必要としてくれる所を、自分自身で見つけたいと思います」
 泉が去った後も、まだつばさはその場にへたりこんでいた。そんなつばさの頭に、社長がポンポンと手を置く。
「さて、野村君。お母さんが心配して何度も電話を掛けてきていたぞ。プロになるとはいえ君はまだ未成年だ。ちゃんとご両親の了解は取らないとな」
「ええっ、お母さんが? 恥ずかしいなあもう。何て言ってた……言ってました?」
「娘をよろしく、と、迎えに行くのでテストが早く終わっても少しの間預かっていて欲しい、とのことだ」
「な、何それっ。まるであたしが落っこちるみたいじゃない。全然信用してないんだから〜っ」
 プリプリと怒るつばさ。ようやくいつもの調子が戻ってきた。
「今頃ご両親も東京に着いた頃かな。ご挨拶も兼ねて、ご両親の元まで私が送っていこう。大事なウチの金の卵に何かあっては大変だからね。井上君、用意してくれるかな」
 秘書に一声掛け、つばさの頭を社長がグリグリと撫でつける。
「も〜っ、子供扱いしないでーっ」
 つばさは頭を振って社長の手から逃れる。プロレスラーになる事が決まっても、つばさはやはりつばさなのだった。

〜〜〜

「…………」
 つばさの話を聞き終え、礼子は絶句していた。どちらかというとストイックに強さを追い求める方ではないつばさは自分に近しい存在だと思っていたが、それでもそこまでの決意を持って入団を果たしていたのだ。なんだか自分が恥ずかしくなり、礼子は下を向く。
「あれ、話が長くなりすぎて何が言いたいのかよくわからなくなっちゃった。えっと、つまりね」
 そんな礼子の様子を察し、つばさは改めて、礼子に一番伝えたかった事を口にする。
「あたしは泉さんや、他のテストに合格できなかった子達の想いを背負って、ここに入ったの。そりゃ、練習がキツくてサボりたくなる時もしょっちゅうだし、練習や試合で痛い思いをするのは好きじゃないけど。でも、自分から逃げ出す事だけはしたくない。他の誰かの夢を奪ってまで、自分で叶えた夢だから」
 微かに見える月を見上げて、つばさは呟く。月と星の光に淡く照らされたその横顔は、いつもの子供っぽい雰囲気とは違い、大人の女性のそれだった。
「レイちゃんも、そうじゃないのかな」
 つばさは視線をレイの顔に移す。
「あたしが入った頃と違って、ウチは今では新女と肩を並べるくらいの団体になった。入団希望者だってあの頃とは比べ物にならないくらいだって聞いてるよ。そんな中から、レイちゃんはただ一人、ウチに合格した。不合格になった子達の分も、頑張らなきゃいけない責任があると思う」
「わ……私、そんな責任背負えませんっ。私には無理よっ。資格も才能も、何にもない私なんかに、そんなの押し付けないでっ!」
「バカッ!」
 パンッ!
 突然頬に走る衝撃。礼子は呆然と、ジンジンと熱くなる左の頬を押さえた。涼美は驚きに目を丸くしている。
「なんで……なんでそんな事ばっかり言うのっ。レイちゃんが本当に何にもない子なら、そもそもウチに入れるわけないじゃないっ。社長が選んだんだよっ。コーチやユキ先輩、真琴先輩も目を掛けてるんだよっ。今はただ、みんなと、自分を信じて頑張ればいいんだよ。それとも、そんなにみんなが信じられないって言うのっ」
 つばさは顔をくしゃくしゃに歪めて、礼子の袖を握ってガクガクと揺すった。
「だって、だって私、先輩達の邪魔になって、嫌われたくないんですっ。だから、だからもうっ」
「まだ入ったばかりなんだもん。最初から全部完璧にこなせるはずないなんて事、みんなわかってるよ。そんな事でレイちゃんを嫌いになるはずないじゃない。レイちゃんがいなくなっちゃった方が、余計にみんな傷つくよ。あたしも涼美ちゃんも、他のみんなだってそう。だから……そんな事言わないでよ……」
「つばさ先輩……」
 つばさは、泣いていた。礼子の袖を握ったまま、俯いた顔から草むらに滴がこぼれ落ちていた。礼子はようやく気づく。たかだか知り合って数ヶ月の自分の為に、泣いてくれる人が二人もいた事に。そして、焦りや劣等感のせいで周りが見えなくなっていただけで、決して自分は一人などではなかった事に。


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