〜6〜

「あたしが入った頃はね」
 涙を拭い、再び夜空を見上げながらつばさが話し始める。
「一番近くの目標として、あたしより半年前に入団してたなっちゃんがいたんだけど。身長はほとんどかわらないのに、強いんだよね。元々空手をやってたってのもあるんだろうけど、打撃がすごくて。あと、やっぱり数ヶ月分の体力差も大きかったし。あの頃のウチは海外との提携もなかったから、ほぼ毎試合なっちゃんと当たって、毎回ボコボコにされてた。そのたびに言うの。『貴方にはエレガントさが足りないのよね』って、あのすまし顔で」
 つばさのモノマネに、礼子は思わず吹き出した。
「一時期は顔も見たくないと思ったもん。でも、いつかやっつけてやろうってずっと思ってた。だから、デビューして何ヶ月後だったかな。初めて勝った時は、嬉しかったなあ。なっちゃんの悔しがり様が凄くって、ハンカチ持ってたら、多分噛んでたよ、漫画みたいに。『キーッ、許せないわっ』て」
 当時を思い出し、アハハと笑うつばさ。
「レイちゃんは今、多分周りの誰を見ても手が届かない気がして、目標をどこに置いていいのかわからないんだと思うけど。でも、自信持っていいんだよ。あたしが入った時よりも、よっぽど体力あるし、背だって高いし。地道に練習を続けていれば、きっといい選手になれると思う」
「そうでしょうか……」
 つばさはそう言ってくれるが、礼子にはとてもそんな実感が湧かず、慰めにしか聞こえない。
「そうだよ。ユキ先輩やあずみちゃんのグラウンドスパーについていってるんだもん。あたしじゃ手も足も出ないよ」
「わ、私、全然ついていけてないですよ」
「そんな事ないって。そもそも見込みがなかったら、あのユキ先輩が練習相手に選ぶわけないんだから。大勢の中からテストに受かった事もそうだし、レイちゃんは自分で思ってるよりずっと才能も可能性もあるんだってば。足りないのは努力だけ」
「努力……」
「あ、夜寝ないで練習しろとかそういうんじゃないよ。そんなのあたしだってイヤだもん。そうじゃなくて、言い換えれば時間、かな。入ってすぐ結果が出るほど甘い世界じゃないし、まして周りとは数年キャリアが違うわけだから、尚更実感も湧かないだろうけど。でも、そうだなあ。まずは半年。今は先が見えなくても、半年ウチで頑張れば、自分が変わったのがわかってくると思う」
 半年。今の礼子には、とてつもなく長く感じる。本当にあと数ヶ月で、自分でそれが実感できるようになるのだろうか。
「だからさ。もう少しだけ一緒に頑張ってみようよ。ね?」
 つばさの屈託のない笑顔を見ていると、思わず頷いてしまいそうになる。だが、本当にそれでいいのだろうか。一時間前までは、自分は確かに辞める気でいた。そこまで思い悩んでいた気持ちもまた、嘘だとは思えない。
「……一晩、考えさせてもらってもいいですか」
 だから、少し考える時間が欲しかった。この場に流されるのではなく、時間を置いて、改めて一人で今の自分はどうしたいのかを考えてみたかった。
「……わかった。レイちゃん自身の事だし、ゆっくり決めて。でも、これだけは忘れないでね。それぞれ形は違っても、レイちゃんの事邪魔に思ったり、嫌ったりしてる人なんて誰もいないから。……なっちゃんだってそう」
 夕方那月に言われた言葉はいまだ礼子の胸に突き刺さっていて、ズキリと痛む。
「なっちゃん、羨ましくて仕方ないんだよ、レイちゃんが」
「那月先輩が? 私を? まさか」
 つばさの言葉に、礼子は信じられないといった表情を浮かべる。
「本当だよ。真琴先輩も言ってたように、レイちゃんは背も高い方だし手足も長い。打撃主体だけどいつもリーチで苦労してるなっちゃんからしたら、それだけで自分よりも有利な武器、言い換えれば一つの才能だよね、それをレイちゃんは持ってるって事になる。そんな子に『才能がない』なんて言われたら、どう思うかな」
 礼子は何も答えることができなかった。いつも自信満々な顔をしてクールに振舞っている那月が、自分にそんな想いを抱いていたなど、想像したこともなかった。
「でもそれ以上に、真琴先輩に練習を見てもらってる事の方が大きいかな。なっちゃん、真琴先輩にずっと憧れてたんだよ。レスラーとしてのスタイルも似てるし。でも私達が入った頃って、真琴先輩もまだこれからって感じで、多分上しか見てなくて。私達後輩の事なんてほとんど目に入ってなかっただろうから、なっちゃんは全部目で盗んできたんだと思う。だから、今のレイちゃんみたいに直接教えてもらう機会があるのが羨ましいんだよ」
「…………」
 当然ながら、礼子は今の環境しか知らない。今与えられる物が当たり前の物なのだと考える。だから、それを与えられる事自体が幸せなのだなどとは、自分一人では思い至る事すらできないのも無理はなかった。
「さてと。なんだか寒くなってきちゃった。そろそろ部屋に戻ろっか」
「今日は、すみませんでした」
 礼子が頭を下げる。
「ううん、いいの。引き止めたのもあたしのワガママみたいなものだから。さ、涼美ちゃんも」
「……すぅ」
「寝てる……」
 いつの間にか、涼美は礼子の背中に顔を埋めて寝息を立てていた。
「も〜、しょうがないなあ。まあ、自分の想いはもうレイちゃんに伝わったと思ったから、安心しちゃったんだろうけど。涼美ちゃん、いつも夜早いしね」
 何気なくつばさが口にした言葉は、礼子にとってはとても重い物だった。それに気づかず、つばさはツンツンと涼美の頬をつつく。
「こら、涼美ちゃん。風邪引いちゃうから部屋で寝ないとダメだよ」
「……むにゅ……」
「……ダメだこりゃ。う〜ん、まだ起きてるかなあ。REKIちゃーん?」
 つばさが名を呼んで、手をパンパンを鳴らす。そして3秒後。
「……何か」
 音もなく、闇の中にフッと現れたREKIがつばさの前に跪いた。
「わっ、び、びっくりした……。あ、あのね。涼美ちゃん眠っちゃって起きそうにないから、部屋まで連れて行ってあげてくれる?」
「…………」
 REKIは無言でコクリと頷くと、背中と膝に手を回す、いわゆるお姫様抱っこで涼美の体を抱え上げると、あっという間にその場から消え去った。
「相変わらず素早いなあREKIちゃんは」
「あ、あの……何者なんです、REKI先輩って」
「え。忍者だよ」
「……はあ。忍者……ですか」
 いとも簡単にそう答えられ、礼子はそれ以上ツッコめなかった。
「それじゃ、私達も部屋に戻ろっか。あたしの気持ちは全部伝えたから、この後レイちゃんが何を選んでも、責めたりはしないから。じっくり考えて。ただ、もし辞めるなら、朝にみんなにきちんと挨拶してからね。夜中にいつの間にかいなくなって、お別れの挨拶もできないなんてイヤだから」
 小さく手を振って、つばさは部屋に戻っていった。つばさの姿が見えなくなると、礼子は一人夜空を見上げてみた。千葉の空は、それほど多くの星は見えない。だが、宇宙には無数の星がある。自分は今、見えるか見えないかの微かな輝きを放つ小さな星にしかすぎないのだろう。本当にその小さな星が、夜空に大きく煌く星々のようになれるのか。今はまだ、誰にもわからない。


「とりあえず、話はまとまったみたいだね」
 寮の廊下の影から裏庭を覗いていた光が呟く。遥はホッとした表情を浮かべた。
「……良かった……これでレイちゃん、残ってくれるね……」
「さあ。どうかしら」
 傍らにいた幸がそっけなく返す。
「……えっ……でも……」
「一度は自分で出した辞めるって結論でしょ。人の話をちょっと聞いたくらいでそんなに簡単にひっくり返るものかしら」
「……それは……」
 幸の言葉に、遥は俯いて考え込んでしまう。
「まあまあ。後はレイ自身がどうするか、だから。まさか今晩もう一度逃げ出すなんて事はないだろうし、私達も部屋に戻ろうよ」
「……でも……私達にも、何か出来ることがあるんじゃないかな……」
 光に促されても、遥はその場を動けずにいた。
「……しのぶがいなくなって初めての新人が……こんな形で辞めちゃったら……しのぶに申し訳ない気がして……」
「だからって、アナタが出ていってどうにかなるの。こう言っちゃなんだけど、アナタはあの子が抱えてる悩みに一番遠い所にいる人間だと思うわよ」
「…………」
 幸の一言に、遥は言葉に詰まる。
「今はさ、下の子たちに任せた方がいいんだよ。私達とあの子じゃ、入団した時の状況も違いすぎるし、あんまり参考にならないでしょ。それに、私達だってあとどれだけココにいられるかわからないし。相談相手なら、この先も長く付き合っていける相手の方がいいでしょ」
 光の言葉に、遥も幸も複雑な表情を浮かべた。
「ほら、早くしないとレイが戻ってきちゃうでしょ。キリキリ歩くっ」
 そんな二人の背中を光は笑いながらグイグイと押して歩かせた。

 入寮時期の関係で、二人の部屋より遥の部屋は手前にある。軽く挨拶すると、遥は自分の部屋へ戻った。残った光と幸は、数メートル先の各自の部屋に戻るでもなく、なんとなく並んで廊下の窓から夜空を見上げていた。
「どうするんだろうね、レイ」
「さあ」
「冷たいんだ、弟子なのに」
「やめてよ。ただ、あの子がそこそこ出来るから練習相手にしてるだけよ。いつもあずみとじゃ飽きちゃうでしょ」
「何年も二人でやってきて、今さら飽きるとも思えないけど」
 幸がわずかに唇を尖らせると、光はクスクスと笑みを漏らした。
「でも、美幸と和美に感づかれなくて良かった〜」
「あの二人に知られたら、一晩中『プロレスとは〜』とか語られて、かえってレイがノイローゼになっちゃうわ」
 二人は顔を見合わせる。静まり返った廊下にお互いの笑い声が響いた。
「本当は遥にも知らせたくなかったんだけどね。たまたまつばさと話してたところ、聞かれちゃって」
「そうね。変に悩むから、あの子。ま、真琴の耳に入らなかっただけでも良しとしないと」
「このタイミングじゃ、尚更責任感じちゃうだろうしね。少しは千秋みたいに割り切れればいいのに」
「それが出来るようなら真琴じゃないわよ。さて、そろそろ寝るわ」
「うん、おやすみ」
 幸が背を向け、自分の部屋のドアノブに手を掛ける。
「ねえ、ユキ。一つ賭けない? レイが明日練習に出てくるかどうか。私は、出てくる方に賭ける」
 幸は振り向く事無く扉を開く。
「残念だけど、その賭けは不成立ね」
 それだけ言うと、部屋の中に消えてしまった。
「良い師匠じゃない」
 光はクスリと微笑むと、自分もまた部屋に戻った。


「……ただいま〜」
 部屋に戻ったつばさは小声で呟く。同室の、すでにベッドに入っている那月からは、眠っているのだろうか返事はない。
「レイちゃん、もう一度一晩考えてみるって。あたしとしては、言うべき事は言ったつもり。涼美ちゃんも。あとは、レイちゃん次第かな」
 言いながら、つばさは自分のベッドに潜り込む。返事はない。が、那月は一つ寝返りを打つと、つばさのベッドに背を向けた。
「クスッ……おやすみ、なっちゃん」
 つばさが目を閉じると同時に、那月は薄く目を開く。目の前には暗闇を塗られた白い壁。少しだけ壁を見つめると、那月は再び目を閉じた。


「……礼子か」
「うわっ」
 物音を立てないように精一杯気を使って部屋に戻ってきたというのに、後ろ手に扉を閉めた瞬間に名を呼ばれ、思わず礼子は声を上げてしまった。
「お、起きてたんですか、あずみ先輩」
「……いや、目が覚めただけだ」
「すみません。起こしてしまって」
「気にしなくていい」
 電気の消された部屋は真っ暗で、あずみの表情を窺い知る事は出来ない。もっとも、元から表情の薄いあずみであるから、例え部屋が明るかったとしてもその表情を礼子が読み取れたかどうかは分からないが。あずみが目を覚ましているとわかっても、暗闇という事もあり礼子はなんとなく物音を立てないように自分のベッドへ近づいていく。だが、何かに足を取られて躓くと、頭からベッドにダイブした。
「あいた〜っ」
「大丈夫か」
「は、はい。……あ、これ……私の鞄」
 ベッドの脇にはパンパンに荷物の詰まった自分の鞄が置いてあった。そういえば、寮の前でREKIに抱えられて裏庭に連れて行かれてから、その時置き去りにした鞄の事をすっかり忘れていた。REKIが運んでくれたのだろうか。
 礼子は鞄を開けると、パジャマを取り出しのそのそと着替える。あずみは、口を開かない。こんな時間にわざわざ着替えて出かけていたというのに、理由を尋ねる事もない。あまりに静かなので、再び眠ってしまったのかと思い、礼子は静かにベッドに入る。
 天井を見上げる。まだ眠気は下りてこない。普段から夜更かし癖がついているせいもあるが、今は考えなければいけない事が沢山ある。とても眠れる心境ではない。
「……起きてるか」
 突然声を掛けられ、礼子はビクリとした。振り向いた先、ぼんやり見えるあずみのシルエットは、天井を向いたまま。
「は、はい。ちょっと、眠れなくて」
「そうか。……一つ、昔話をしようか」
「えっ」
 礼子は驚きの声を上げた。あずみが自分の話をするなど珍しい、いや、礼子が知る限り初めてかもしれない。
「嫌なら止めておくけど」
「い、いえっ。聴いてみたいです、あずみ先輩の話」
 見えているはずもないのに、礼子は大きく首を振る。
「そうか」
 あずみは小さく微笑んだ、ように礼子には思えた。単純に、興味があった。この職人気質の常に冷静な先輩が、どんな話をするのか。その過去に何があったのか。
 今夜は随分と長く感じる。が、実際にはまだ深夜1時を回った所。夜はまだまだ、これからである。



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