〜7〜
「私はずっと、家を出たかった」
「えっ」
あずみの突然の告白に、礼子は言葉を失った。
「私にとってあまり居心地の良い場所ではなかったんだ。本当は中学を出たら、すぐに働いて一人暮らしをしようかと思っていた。でも、それでは納得させる事は出来そうもないし、就ける仕事もたかが知れている。とりあえず高校は卒業しようと決めた。でも、それから過ごすであろう三年間は、私にとっては気の遠くなるほど長い時間に思えていたよ」
納得させられない、というのは両親のことだろうか。目を凝らしてあずみの表情を窺い知ろうとするものの、やはり暗闇の中では難しい。
「入学した高校は、全員が何かしらの部活に入部しなければならない規則になっていた。私にとっては渡りに船だった。学校が帰宅が遅くなることを公認してくれるんだから。なるべく毎日行われる部活、けれどチームスポーツは私の柄じゃない。色々見て回った結果、レスリング部に入ることにした」
当時の事を思い出したのか、ふとあずみの表情が緩む。
「部員数は一桁、お世辞にも強いとは言えない部活だったけど、顧問の先生は熱心でね。レスリングなんて名前しか知らなかった私にも、熱心に指導してくれた。私自身、向いていたんだろうな。一年の夏、地区大会に優勝し、県大会の準決勝まで進んだ」
「たった数ヶ月でですか」
「まあ、私の地元では競技人口自体少なかったから、地区大会は試合数も少なかったしね。県大会でも技術で負けたとは思っていないよ。ただ、連戦をこなすスタミナがまだなかった」
「ふええ〜」
凄い人だとは思っていたが、ここまでだったとは。礼子は羨望の眼差しであずみを見つめた。そして、やはりこの世界はそういった人達が集まる世界なのだと今さらながらに気づかされた。
「先生はとても喜んでくれたよ。いずれはオリンピックも目指せる、なんて言ってくれた。ケガで棒に振ったらしいけど、先生も元はオリンピック候補だったらしい。夏休み中、私は毎日のように部活に出掛け、先生もいつも付き合ってくれた。……でも、それがよくなかったんだな」
あずみの声のトーンがわずかに下がる。
「元々部活にはそれほど力を入れていない、のんびりとした校風だった。レスリング部も同じ。だが、私が入部しレスリングに打ち込むに従って、先生にも指導者として火をつけてしまった。そしてそれは私だけではなく、他の部員達にも向けられた。大多数の、さほどレスリングに熱心ではない生徒達にもね」
「あ……」
一人の異物の存在が、組織を大きく変える事がある。漫画やアニメなどではよくあるパターンだ。だが、必ずしもそうなるとは限らない。むしろ、周囲が変わる事は少ない例だろう。集団とはそういうものだ。
「私は周りの部員達との溝を感じ始めていた。先生が私に目を掛けてくれる分、尚更反発も強かった。それに、この先アマチュアで続けていくには、それなりにお金も必要になるだろうという不安もあった。学生という身分では、個人の力で解決するのは難しい問題だ。いずれにしろ、レスリングはもう長くは続けられないだろうという予感があった」
「そんなあ……」
淡々と語るあずみの口調から推し量る事は難しいものの、まだ高校生の少女にとっては身を裂かれるような苦渋の決断であったろう。
「そんな時、たまたまテレビでプロレスの存在を知ったんだ。レスリングで食べていけるかも知れない。私はいてもたってもいられず、入団テストを行っている団体を探した。ちょうどそこで見つけたのが、一番星プロレスだった」
「でも、アマレスとプロレスって全然違うんじゃ。不安はなかったんですか」
「今考えると自分でも無謀だったと思えるけど、その時はそこまで頭が回らなかったよ。ただ、それこそが自分の天職なのだろう、その時はそう思えた。そして運良くテストに合格。社長がわざわざ頭を下げに来てくれたけど、家からは半ば勘当同然で寮に転がり込んだ。先生はなんとかアマレスへの道へ留まらせようとしたけれど、最後には私の話を理解してくれて、応援していると言ってくれた。その時に誓ったんだ。私にはもう退路はない、プロとして、この世界で生きていく、とね」
あずみの話は、礼子にとってあまりにも重いものだった。あずみにしろつばさにしろ、おそらく他のレスラーにしろ、皆相当の覚悟を持ってここにいるのだろう。礼子はますます、自分がここに居て良いのかわからなくなる。
だが、あずみの話はまだ続きがあった。むしろここからが、あずみが礼子に聞かせたかった部分でもあった。
喉が渇いたとあずみがベッドを抜け出したのをきっかけに舞台は移り、二人はパジャマの上にカーディガンを羽織り、丸テーブルを囲んだ。長い話になりそうだという事で、あずみが気を使ったのだろう。レイの手の中には愛用のコーヒーカップ。あずみが淹れてくれたインスタントコーヒーに、ミルクが1杯、砂糖が2杯。礼子の最も好む配分であったが、寝る前に飲むには少し甘ったるく、若干虫歯も気にかかる。あずみの前には透明のグラスに注がれた、これまた透き通ったミネラルウォーター。こんな時間にカフェインを取って眠れなくなっては困る、という事らしい。
「さて、どこまで話したか……」
「星プロのテストに合格して寮に入った、という所ですよ」
「そうだったな」
あずみはグラスに口をつけ唇を潤す。
「入団して早々、私はどれだけ自分の考えが甘かったか思い知らされたよ」
右手でグラスを軽く揺らしたりして弄びながら、透明な液体に映る自分の顔を眺めるあずみ。
「当時の私は決定的に体力がなかった。基本的な練習についていく事すら困難なほどに。元々県大会の後は私に欠けているスタミナを秋季大会に向けてゆっくり補う予定だったんだが、ウチへの入団準備などに追われて結局それも満足に出来ないままプロの世界に足を踏み入れる事になった。アマチュアで数試合こなすだけで息切れを起こすようでは、とてもプロの練習についていけるはずもない。ランニングは半分もこなせずに吐いてばかり、取らなければいけない食事すら受けつけなかったあの頃の私に比べれば、礼子は良くやっていると思う」
「そんな、大げさですよ」
てっきり自分を励ます為に誇張しているのだと思った礼子は笑いながら手をパタパタと振ったが、あずみの表情からそうではない事を悟り、息を飲んだ。
「唯一の拠り所だった技術も、ユキさんにスパーで完璧に封じられ、何も出来ないまま極められ続けた。今思えば、たかだか数ヶ月の付け焼刃の技術で太刀打ちできるはずもないのは当たり前のことだけれど、その時はショックだった。自分はなんと無謀な事をしたんだろうと、頭を抱えたよ。それでも、私には帰る所なんてない。会社にクビを告げられるまでは、どんなに惨めな思いをしようと、すがりついてでも辞めるわけにはいかなかった」
あずみの置かれていた状況は、礼子より遥かに厳しいものだったのかもしれない。礼子には逃げ出した先に帰る場所はあるだろうから。
「自分自身に何の自信も持てないまま、私はすぐにデビューを迎える事になった。旗上げ世代の先輩達の経験で、目標の定まらないまま練習を続けるよりも、基本的な受身を身につけたら早めにデビューして実戦を積んだ方が後の成長に繋がりやすい、という話だった。……結局その月は、先輩達に引っ張ってもらったからなんとか試合として形にはなったものの、自分ではただリングの上をでたらめに走り回っただけだった」
「でもそれは……私なんかが言うのも変ですけど、デビューしたばかりなら仕方ない事なんじゃ……あ」
そう口にして、礼子はハッとした。それはまさしく、今の自分にそのまま当てはまる事ではないのか。外から見ると当然の展開も、当事者はもどかしさにもがき続ける。ならば礼子が悩み続けていた事もまた、第三者からすれば今すぐに解決できなくても当然の事と見ているのかもしれない。
「同じ立場の人間が、同じ事を完璧にこなして見せても、か?」
あずみは自嘲気味に笑うと、自身の思考に陥りそうになっている礼子を見つめた。
「えっ」
「同じ日に、八島さんがデビューしたんだ。その規格外のパワーで、デビュー戦で一年先輩の北条さんに勝ってしまった。そのシリーズ、シングル6戦で5勝。私も2試合戦ったけれど、いずれも何も出来ずに完敗した。……一つ年上とはいえ、格闘技経験ゼロのあの人の力の前に、私の小手先の技術は何も通用しなかった」
当時を思い出しているのか、あずみはグラスに映ったゆらめいている自分の顔を眺めながら訥々と語り続ける。
「翌月も相変わらずまともに練習についていけず、試合も敗戦を重ねるばかりだった。対して八島さんは、2年先輩の那月さんからも勝利を奪い、デビューしてわずか2ヶ月でその年の新人王を獲得するんじゃないかなんていう噂も流れ始めていた」
「…………」
礼子は今の二人のイメージとのギャップに言葉が見つからなかった。現状、安定感がある試合運びのあずみは一般的に団体ナンバー3と目されている。一方八島は、確かにその荒々しいパワーは団体随一でツボにはまれば誰にも止められないほどの力を持っているものの、いまいちムラがありすぎて安定せず、評価としてはあずみより下に位置づけられていた。
「自分としてはやれるだけの事はやっているつもりだったが、結果には現れない。そして、嫌でも八島さんと比べられてしまう。……いや、比べてしまっていたのは自分だけだったのかもしれないけれど。その内、このままでは私は存在価値がなくなり、解雇されてしまうのではないかと内心怯えるようになった。とにかく、目に見える結果が欲しかった」
乾いた唇をグラスに口をつけて潤してから、あずみは続ける。
「私はユキさんに、試合を決められるような技を一つ教えて欲しいと頭を下げた。ユキさんにもしのぶさんにも、今は技よりも焦らず体を作るべきだと諭されたけれど、私はどうしてもと食い下がった。最後にはユキさんが折れてくれて、アキレス腱固めを教えてくれた。私はひたすらその習得に時間を費やし、そしてその新しい武器を手に、3度目のシリーズに臨んだ。必ず結果を残す、という誓いを立てて」
礼子はカップに口をつけるのも忘れ、身を乗り出してあずみの話に聞き入っていた。
「開幕戦、つばささんとのシングル。私の頭の中は、いかにアキレス腱固めを決めるかでいっぱいだった。リング中央でひたすら機会を窺ってろくに試合を作ろうともしなかった私に対して、つばささんはリング全体を使って試合を組み立てていた。私の分まで試合を作ろうとしてくれていたんだ。素早い攻撃に翻弄されながら、私はひたすら機会を待った。そしてつばささんが中央で動きを止めた一瞬、……今思うと、つばささんが私に作ってくれた見せ場だったのかもしれない……、私はタックルを仕掛けてダウンを奪うと、全てを賭けてアキレス腱を絞り上げた」
あずみがわずかに唇を噛む。それは、あまり振り返りたくない過去なのかもしれない。
「力配分も何もない。ただギブアップを奪う為に、私はメチャクチャに力を込めた。腕に伝わるイヤな感触にも躊躇せず、ただ破壊する為に。つばささんもそのまま受け続ける事に危険を感じたのか、技を外しにかかった。それでも私は、意地でも放さなかった。最後には外されたものの、つばささんは痛んだ足を押さえたままうずくまり、立ち上がる事ができずにいた。レフェリーが間に入って距離を開けられたけれど、もしその後つばささんが立ち上がったとして、どう攻めて良いかわからなかった。せっかく掴みかけた勝利が手の中から逃げる、その焦りに私は、レフェリーの静止を振り解いてつばささんの足を再び掴んだ。つばささんの悲鳴も、試合終了のゴングも耳に届かず、ただただ敗北の、居場所がなくなる事への恐怖から逃れる為に、極め続けた。……それが、私の初勝利」
礼子は、背筋が寒くなるのを感じた。握っていた手のひらには、嫌な汗を掻いている。
「試合後、しのぶさんに殴り飛ばされた。ユキさんには侮蔑の目で見られ、一言だけ告げられた。『そんな戦い方をしているようじゃ、アナタ干されるわよ』と。あれだけ望んだ初勝利だったのに、高揚感も達成感も何も得られなかった。でも、そんな私に、幸い大事には至らなかったけれど足を動かせないままのつばささんが言ってくれたんだ。『初勝利おめでとう』と、笑顔でね。……私は泣いたよ。自分の馬鹿さ加減に」
そこまで話し終えて、あずみは深く息を吐く。それは未だ拭い去る事が出来ない、いや、決して忘れてはならない、彼女の苦い過ちの経験。
「それから私は、考え続けた。なぜ自分がこの道を選んだのか。ただ家や環境から逃げたかったのか、お金のためだけなのか。そうじゃない。それだけなら他にも、もっと楽な道は幾つもある。そうではなく、レスリングが好きだから、一生を賭ける仕事として相応しいと信じたから、選んだんだ」
あずみの眼差しは、真っ直ぐな強い光を帯びていた。そんなあずみの横顔を見ながら礼子は、自分はなぜここにいるのかをもう一度考えた。憧れた眩い輝きの中の世界。見つめているだけでは我慢出来なくて、どうしても触れてみたくて、意を決して飛び込んだのではなかったか。
礼子は今、その眩しい輝きの中にいる。周りを見渡せば、直視できないほど強く輝く宝石達。近すぎるが故にその輝きに圧倒され、わずかに煌く事すらできない自分と比較してしまい劣等感は増すばかり。だから、そこから出て、また以前のように外から、遠い輝きを羨ましげに眺めるだけの自分に戻るのか。それで良いのか。元より輝きが違うのは覚悟の上、その光をわずかにでも吸収し自身も煌いてみたい、そう思ったが故にここにいるのではなかったか。
「私は、焦るのを止めた。周りの誰も、今すぐに私が結果を出す事を求めていたわけではないとわかったから。その時点で出来る事など、たかが知れている。無理に背伸びをしても良い結果は得られないと身をもって知った。まずは与えられた練習を完璧にこなせるように、しばらくはただそれだけに集中した。その途中でクビになるようなら、それはそれで仕方ないと割り切った。
……それから3ヶ月、入団して半年たった頃かな。ようやく自分でも、少しは成長したなと実感できたのは。その頃には少しずつだけど、結果もついてくるようになっていた。後はただひたすら、勝利の為に、そしてプロとして観客を魅了できるだけの技術を高める事に没頭した」
半年。つばさも口にした数字。礼子から見れば才能の塊にしか見えないこの人でさえ、自信を持つまでにそれだけかかったという。
ならば自分はどうだろう。自分は本当に、どれだけ磨いても輝く事のないただの土の塊なのか、それともまだまだ研磨の足りない汚れた石なのか。
磨く事に疲れて放り出そうとしているのは礼子自身。周りは皆、磨けば必ず光るのだと教えてくれているのに。
輝けない自分を卑下し、蔑みの視線を向けられる事に怯えているのもまた礼子自身。周りは皆、自分達も輝けるまでに時間が掛かったのだからと、温かく見守ってくれているのに。
「あの頃、ただ先輩達と自分自身を信じてやってきた事が、今の私に繋がっている。その時は未来なんて何も見えなかったけれど、今思えば信じて良かったと、本当に思う」
自分は何を信じるべきなのか。辛い、苦しい、逃げ出したい、どうせ駄目に決まっている、そんな自身の負の感情か。それとも自分の夢と憧れ、そして憧れた先輩達が信じてくれている、自分の中に今はまだ眠ったままの輝きの存在か。
「……もうこんな時間か。ガラにもなく喋りすぎて、疲れてしまった。悪かったな、付き合わせて」
あずみはチラリと時計を見ると、グラスにわずかに残ったミネラルウォーターを口に運んだ。礼子もつられて時計を見る。もうすぐ2時になろうとしていた。
「いえ。ありがとうございました」
礼子は頭を下げると、カップに半分以上残っていた冷め切ったコーヒーを飲み干した。すっかり砂糖が沈殿してしまっていて、最後の一口はひどく甘かった。
「さて、私は寝るが……礼子はどうする」
「えっ、私も寝ますよ」
「いいのか。いつもこの時間、見ている番組があるだろう」
「え、あっ」
そういえば、毎週楽しみにしているアニメが始まる時間もまた2時だった。
「ど、どうしてそれを」
「見ていればわかる、なんとなくね」
礼子は驚いていた。あずみが意外なほどに、自分を見てくれていた事。そして、自分の為にこんなにも話をしてくれた事にも。
「……今日は、いいです。DVD買います、お給料出たら」
「そうか」
いつもの明るい笑顔でニッと笑う礼子を見て、あずみは小さく微笑んだ。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ベッドに潜り込んだ瞬間、礼子の瞼は急激に重くなった。考えなければいけない事が沢山あったはずなのに。けれど、心の中はなんだか随分と軽くなっていた。
(明日、起きてから考えよう)
礼子は逆らわずに目を閉じると、程なくして寝息を立て始めた。本当は、すでに答えは出ていたのかもしれない。何ヶ月か先のお給料を、ちゃっかりアテにしているのだから。
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