〜8〜

 チュンチュン、チチチ……。
 鳥の鳴き声に誘われ、礼子は瞼を開く。カーテンの隙間から、オレンジ色の光がわずかに差し込んでいる。ベッドの上で上半身を起こし、首を巡らせる。あずみはまだ、自分のベッドの中で眠っていた。静かな寝息が聞こえる。
 寝る前はともかく、こうして朝方に寝顔を見たのは初めてかもしれない。いつも夜が遅い礼子は朝もギリギリまで眠っている場合がほとんどである為、目を覚ました時にあずみがまだベッドにいた事など記憶にない。やはり昨夜、あずみにしては夜更かしをした事が原因なのだろう。少し申し訳なくなって、無言で小さく頭を下げる。もちろん返事はない。
 礼子はパジャマを脱いでジャージを着ると、外に出てみる事にした。なんとなく気分が良い。今後ここに残るべきかどうかまだ決めかねている分、本当は考えなければいけない所だが、なんとなくそれは後回しにしてしまおうと思った。

「ん〜〜っ」
 眩い朝日に包まれながら、寮の玄関先で礼子は一つ伸びをした。決して十分な睡眠を取ったという訳ではないが、なぜだか清々しい。鼻唄など歌いながら何となく体を解していると、耳に何かを叩きつけるような音が聞こえてきた。無意識にそちらへ目を向けると、そちらには道場がある。
「まさかね」
 半信半疑で、それでもその音に誘われるように道場へ近づいていくと、窓から中を覗き込んでみた。
「うそ……」
 その目に飛び込んできた予想外の光景に、礼子は思わず呟いた。道場の中にいたのは、真琴だった。いつものように長い髪を無造作に後ろで束ね、ジャージを脱ぎ捨て上はノースリーブシャツ一枚で、サンドバッグを一心不乱に叩き続けている。
 礼子はもう一度外を見回してみた。物音は少なく、太陽の位置もまだ低い。部屋の時計がずれていたわけではなく、真琴が想像以上に早起きだったという事のようだ。
 真琴は無呼吸でしばし拳を繰り出し続けると、一旦手を止めて目を閉じ心と呼吸を落ち着かせ、そしてまた拳を握る。流れる汗を拭う事無くそれを何度も繰り返す真琴の姿を、礼子はポカンとして見つめていた。
「富沢か」
 と、突然背後から声を掛けられ、礼子はビクンと反応し慌てて後ろを振り向いた。
「ああっ、さ、沙希様っ、じゃなかった、北条先輩っ。お、おはようございますっ」
 ついファン時代の名残が口から零れてしまったが慌てて訂正し、礼子は勢い良く頭を下げた。一瞬眉を顰めた沙希だが、すぐにいつもの引き締まった表情に戻ると礼子に近づいてきた。
「おはよう。珍しく朝早いじゃないか」
「は、はい。たまたま目が早く覚めまして。その、北条先輩は」
「私はランニングをしてきた所だ」
 そう言ってわずかに乱れた髪をかき上げると、飛び散った汗の滴が朝日にキラキラと煌き、礼子は思わずポ〜ッと見惚れた。
 と、道場から漏れ聞こえる破裂音に沙希の視線がそちらへ移る。
「真琴先輩、まだ続けているのか」
「えっ」
「私が出掛ける前にはもう打ち始めていたからな」
 感心したように呟く沙希に、礼子は少し緊張しながら質問をぶつけてみた。ここに入るきっかけとなった憧れの人であり、また気さくな他の先輩と違いどこかいつも周囲に緊張を漂わせている為、礼子にとってはいまだ面と向かい合っては緊張してしまう先輩の一人だ。
「あ、あの……皆さんいつもこんなに朝早いんですか。私、全然知らなくて」
 礼子の問いに、沙希は顎に手を当ててしばし思案する。
「そういう訳ではないが、人によるな。私は朝派だが、午後の練習を長めに取る人もいるだろう」
「は、はい」
 午後の練習時間を過ぎても、自主的に筋トレなどを続けている先輩を見た事は確かにある。もっともその頃には礼子はすでにヘトヘトで、とてもそんな余裕はなく重い体を引きずるようにシャワー室へ転がり込むのが常だが。
「皆と同じ事を同じ時間やっていても、頂点は獲れないさ。そこに素質が絡むなら、尚更ね」
 沙希の呟きに、礼子は顔を上げる。沙希の瞳は、ここではないどこかを見つめているように思えた。
「もっとも、今の君に誰もそこまで求めてはいない。今の君がやるべき事は、与えられたメニューを完璧にこなす事だ」
「は、はいっ」
 沙希は礼子の肩に手を置いて語りかける。礼子は胸をドキドキと高鳴らせながら、思わず大きく頷いていた。
「それにしても、最近の真琴先輩は私の目から見ても凄いな。鬼気迫るというか。昨日も一番最後まで道場に残っていたはずだ」
 沙希の言葉に促され、礼子は再び道場へ目をやる。膝に手をついて荒い息を吐いていた真琴が、再び顔を上げサンドバッグを叩き出す。さすがに拳の速度は落ちてきているが、それでも振るい続ける。まるで己の限界を超えようとするかのように。
「さ、沙希……ようやく、追いついた……ハァ……」
 その時背後から、沙希を呼ぶ声がした。沙希と共に礼子も振り返る。そこには滝翔子が、フラフラしながらこちらへ向かってくる所だった。しかし額を押さえてヨロヨロするそんな姿も決してみっともなくは見えず、まるでお芝居の中の悩める青年のように見えてしまうのが彼女の不思議な所だ。
「翔子。君は朝が弱いんだから、無理に私に付き合うことはないといつも言っているだろう」
 呆れたように溜息を一つ吐く沙希だが、当の翔子は全く堪えた様子もない。
「そうはいかない。キミは我が心の友であり、そして終生のライバル。キミが頂を目指して歩んでいるというのに、私がのんびりと惰眠を貪っていられるはずがないだろう。おや、そこにいるのはレイじゃないか」
「お、おはようございます翔子先輩」
 今度はきっちり呼ぶ事が出来た。沙希と同じく憧れの先輩である滝翔子は、沙希の様に近寄り難い空気があるわけではないが、その独特の空気につい飲まれてしまう。
「今日は早いね。朝の光と小鳥の囀りに誘われたのかい」
「え、ええと、そんな感じです」
「わかるよ。本来なら私もこの爽やかな空気に包まれながらとびきりの紅茶でも楽しみたい所だけれど、残念ながら私は戦う事が宿命づけられた身。今の私にはこののどかな朝でさえ、安息の時とは成り得ない。悲しい事だけれどね」
 そう言って、遠くを見つめる翔子。遠くから見ている分には、彼女の今の憂いを帯びた表情などは溜息が出るほどの美しさなのだが、こうして直に接する間柄になるとそうも言っていられないのであった。
「あら。早いのね貴方たち」
 と、また別の方角から声がした。視線を送ると、寮の玄関から真壁那月が現れた。
「おはようございます」
「お、おはようございます……」
 挨拶を口にし那月に近寄っていく沙希と翔子。だが、礼子は挨拶こそ口にしたものの足を踏み出す事ができなかった。昨日那月に言われた一言が、まだ胸に刺さったまま抜けないでいる。
 那月と沙希、翔子が何事か話しているのを礼子は少し離れた位置で見ていた。耳をそばだてれば会話を聞き取る事も可能であったろうが、会話の内容よりも3人並んだ姿の方に惹きつけられた。つばさと並ぶと子供二人のように見えてしまう那月も、こうして沙希と翔子に挟まれていると『プリンセスと二人のナイト』のように見えてしまう。ジャージ姿ですらそうなのだから、しかるべき衣装を見につけていたらどれほど惚れ惚れするだろう。妄想逞しい礼子はそんな光景を頭に浮かべ、悦に入っていた。
 礼子がそんな妄想に耽っている内に、会話は終わったらしく沙希と翔子はそれぞれ那月に頭を下げる。すると翔子は、礼子の方へ振り返ると思わぬ言葉を掛けてきた。
「レイ、キミはこれからどうする? 私たちはシャワーを浴びた後、二人で朝のティータイムを過ごすのだが、よければキミも一緒にどうだい」
「えっ、ええと」
 願ってもない申し出。礼子は首を縦に振りかけたが、寸でのところで思いとどまった。
「あ、わ、私はその、まだやる事があるので……すみません」
「そう。残念だね。ではまた機会を改めて招待するよ」
「あ、ありがとうございます」
 小さく手を上げると、翔子は沙希と連れ立って寮の中へ入っていった。残されたのは立ち尽くす礼子と、しゃがみこみ靴紐を結び直している那月。
「良かったの」
「えっ」
 那月は顔を上げる事無く呟いた。
「翔子の誘いを断って。親しくなる良い機会じゃない」
「あ、その……私、今日はただ早起きしただけですから。ご一緒できないです」
「そう」
 二人はランニングを終えた上での休息。そこにたまたま早く目が覚めただけの自分が加わるのは、相応しくない気がした。
 那月は立ち上がると爪先をトントンと地面につき、感触を確かめる。そして耳に届く微かな破裂音に誘われ視線を道場の中に移すと、小さくため息を吐いた。
「真琴先輩、今日もやってるのね」
「あの、真琴先輩っていつもこんなに朝早いんですか」
 沙希に尋ねたのと同じようでいて微妙にニュアンスの違う質問を、今度は那月にぶつけてみた。すでに早朝に出会った先輩は4人。複数の先輩がこうして早朝から自主練を行っているのは間違いない。普段礼子が目を覚ますとすでにベッドの中から消えているあずみもまたそうなのだろう。だが、真琴のそれは自主練の域を超えている気がした。
「元から練習熱心な方だけれど、ここ数ヶ月……そうね、しのぶ先輩が退寮された辺りから、輪をかけて練習量が上がっているわ。こちらが心配になるくらい」
 そう言って心配そうな視線を道場の中に向ける姿は、礼子に普段見せる厳しい先輩の顔とは全く異なるものだった。
「それで、貴方はどうするの、これから」
「えっ」
 道場に背を向け体を解し始めた那月に突然尋ねられ、礼子は驚いて声を上げた。まだ自身の考えもまとまっていないのに、いきなりそんな核心に迫った質問を投げかけられても……。だがそれは礼子の勘違いで、那月が尋ねたのはそういう意味ではなかった。
「散歩ならそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃない。風邪引くわよ」
「あ、ああ。そういう事ですか」
「他にどんな意味があるのよ」
 呆れたように那月は呟いた。
「そう言えば貴方、この間後輩が欲しいとか言っていたわね」
「は、はい」
 那月はチラリと視線を寮へ向けると、礼子に背を向けたまま言った。
「心配しなくても、遅かれ早かれ入ってくるわよ。その前に、やれる事はやっておきなさい。後悔したくないならね」
 その表情は窺い知る事ができない。だがその言葉に込められた想いは礼子にも正しく伝わった。
 決して努力が足りなかった訳ではない。だが体格差や素質、その他諸々の要因で、1年という時間を持ってしてもアドバンテージにならない場合もある。それでもこの縦社会、年数もまた内部では確かな序列である。だからといってそこに胡坐をかいて済ます事は、プライドの高い那月にはできなかった。
 しかしそれに気づいても、そこから挽回するのは難しい。プライドの高さ故に、屈辱に塗れながら、無駄とわかっていても思わずにはいられないのだろう。あの頃、もっとやれることがあったのではないだろうか、と。
 昨日までの礼子は、年も実力も周りと離れすぎているが故に、ただ寂しさと孤独感が募るばかりだった。だが今の礼子にはわかる。その開いた距離故に今は優しく包まれている立場にある。しかし遠くない未来に訪れるであろう近しい存在の出現は、心強い絆となると同時に、常に比較され競い合う事を宿命づけられる事になるのだと。
「あの、那月先輩っ。ランニング、ついていってもいいですか」
 礼子の言葉に振り返る那月。
「当たり前だけど、今走ったからと言って今日の練習は軽減されないわよ」
「はい、わかってます」
 勢い良く礼子が首を縦に振ると、那月はニヤリと笑って背を向けた。
「私は自分の為に走るわ。貴方の為にペースを落とすつもりはない。それで良いなら、ついて来るのは貴方の勝手よ」
 言うと、那月は返事も待たずに走り出した。
「よ、よろしくお願いしますっ」
 その小柄だが礼子にはとても大きく見える背中に頭を下げると、礼子もまた走り出す。それがプロレスラー・富沢礼子の新たなる一歩であった。


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