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NOVEL

罪 悪 感  〜第十六話〜
渉編最終話

注意)罵倒 侮蔑 

連れ去られる先は、

地獄か天国か。

――少なくとも、光明は見えない。

 車でどれだけ走っただろうか。
 舗装された道をいつしか外れ、土や石が剥き出しになっているだろう道を車はその車体を大きく揺らしながら登っていく。
 視界を奪われていても、明らかに人の手の余り入ってないだろうと思われる場所を車は進んでいた。
 そしてそんな道を暫く登って行くと、不意に舗装された道に出たのか車の走行が安定した。そのまま車は舗装された道を走り、突然止まる。
 

「――着いたわよ。降りなさい。」

 車が完全に止まると、今までずっと押し黙っていた女が口を開いて下車を促す。
 すると俺の隣に座っていた男が俺の腕を軽く掴むと、ドアを開ける微かな音を響かせ俺を外へと慎重に連れ出した。

「ありがとう。」

 その男にそう小さな声で礼を述べて、車の外へと出る。途端に、山の中特有の肌寒い空気が頬を撫で、俺は少しだけ身震いした。
 ふるり、と体を震わせていると俺を車外へ連れ出した男が、無言のまま俺の視界を奪っていた布を解く。
 途端に今まで暗闇しか見えていなかった視界に、光が差し込み俺はその光の眩しさに瞳を細めた。二、三度瞳を瞬きさせ自然光に目を慣らすと、改めてあたりを見渡す。
 すると、そこは見事なまでの山の中で。周りには今目の前にある家以外、他の建造物は何一つなかった。
 しかもそれはあの資産家の持ち物とは思えない程、ひっそりと、そして、地味な建物で。
 コンクリートで出来た外壁こそパッと見、洒落てはいたが、だけどそれは見るモノに殺風景で質素な建物だという印象を与える。それに、別荘と言うには余りに周りの風景は寂しすぎて。
 確かに鄙びた場所を好んで別荘を建てる金持ちもいるにはいるが、これはそれを楽しむ為に建てたとはどうしても思えなかった。

「何もない所でしょ。でも、何かとこの方が都合がいい場合もあるのよ。」

 俺が辺りをキョロキョロと眺めているのを見ると、女は鼻で笑って馬鹿にしたような声でそう言うとさっさと先に立って歩き始めた。
 その言葉に秘められた意味に、俺は薄ら寒いものを感じ眉根を寄せる。
 と、助手席に居た男が車のドアを静かに閉めると、俺の半歩後ろにひっそりと立つ。

「仁科様も、どうぞこちらへ。」

 そしてその男は、俺の腰に軽く触れると女の後を着いていくように促した。それに曖昧に笑って答え、俺はなんとなく重い足取りでもうすでに玄関の前に立っている女の方へと歩みだす。
 先程まで、主税の船の中で見た秋の空特有の綺麗な抜けるような青だった空は、もうすっかり夕闇に包まれだしていた。山の中で見るその昏い空は、余りに深く闇を滞らせていて。
 玄関に入る直前に見上げた空の、重苦しい暗闇に俺はまるで自分の行く末を見ているような気分になる。
 それでも俺は、女に促されるままそのコンクリートの家の玄関をくぐった。




 如月美奈に案内された部屋は、別荘の中でも奥まった場所にあるベッドルームの一つだった。
 そこに俺を案内すると、女は俺をベッドに腰掛けるように命令して自分は奥に置いてあるソファにゆったりと腰を降ろす。そして、小さなテーブルの上に置いてあるシガレットケースから細身の煙草を取り出すと、火をつけて咥えた。
 ゆっくりと味を楽しむように一服すると、彼女はまだかなり残っているその煙草を灰皿に押し当て火を揉み消す。
 その灰皿から立ち上る細い紫煙を俺が何とはなしに見詰めながら、手錠も外して欲しいな、などと暢気な事を思っていると、漸く彼女の瞳が動いて俺に向いた。

「……仁科さん。貴方には聞きたい事が沢山あるわ。」

 車の中で見せた苛立ちなどもう忘れたかのような、冷たい静かな瞳で彼女は俺を見ながらその赤い唇を動かす。
 そして、俺から視線を外すと、開け放たれたドアの外に立っていた部下の男二人に声を掛けて改めて室内に招きよせた。

「榊原、谷口。入ってきなさい。貴方達にはまだして貰わないといけない事があるのだから。」
「……失礼致します。」

 二人の男は足音一つ立てずに室内に入ってくると、俺が座っているベッドの横に立った。それはまるで俺を見張るかのようで。実際、そうなのだろうが男二人の雰囲気はどこか嫌なモノをはらんでいて、俺はそっと下から二人の男を盗み見る。
 一人は細身でダークスーツのよく似合う、どちらかと言えば優男風で、もう一人は主税と同様よく鍛え上げられたその肉体をスーツの下に窮屈そうに押し込んでいる一見強面の男だった。
 年齢は恐らく二人とも三十台後半……。ただ、優男風の男は今ひとつ年齢不詳なイメージがある。
 そして、パッと見で、二人がただのサラリーマンではない事は明らかだった。
 どちらかと言えば、崇さんが率いていた人間達によく似た雰囲気を纏っている。そしてその俺の認識は当たっているだろうと、思えた。
 ――それにしても。
 彼女の家は資産家ではあったが、この手の人間との付き合いはないのだと俺はずっと思っていた。しかし、実際は違うのかもしれない。寧ろ、崇さん達と近い存在のような気がする。ただの裕福な家庭のお嬢様が従えるには、余りにもその二人は纏う雰囲気が普通ではなくて。
 そして彼女の言う、“この二人にして貰わないといけない事”が、俺に対して何らかの暴力なのだろうとは簡単に想像がついた。

「――それで? 如月さんが俺に聞きたい事って?」

 男達に見張られている形になっている今のこの現状に対して、俺は軽く溜息を吐きながら視線を彼女に戻すとそう自分から切り出す。
 俺はもうこの茶番をとっとと終わらせてしまいたかった。
 その時の俺は、もうどうにでもなれ、と言ったある種の自暴自棄に陥っていたのかもしれない。
 なんにしろ俺を恨んでいる彼女が俺を無傷でこの場所から開放するとは思わなかったし、何よりこれから彼女が俺に対してどういった復讐を企てているのかに正直に言うと、多少の興味があった。
 夫になる男を男に寝取られた女が考える復讐に。
 それはやけに他人事のような感覚での興味だった。

「そうね――。」

 俺が切り出した言葉に、彼女は顎に指を当てて考える素振りをする。
 そして、くるりと瞳を回した後、真剣な面持ちに戻ると口を開いた。

「一番聞きたい事は、どうして私の夫を横取りしたの? かしら。」
「……別に、横取りなんてしてない。」
「あら、それは可笑しいわ。だって、私達の結婚式当日に私の夫と一緒に失踪したのは誰? 貴方じゃない。それなのに横取りしてない、なんてよく言えるわね。厚かましいにも程があるわ。」

 狐のように瞳を細めて俺を睨みつけて聞かれた言葉に、俺は呆れたような溜息を一つ零すとありのままを答えた。だが、彼女はやはり俺の言葉など信じなかったようで。
 キッと吊り上げた瞳で矢継ぎ早に俺を攻め立てた。

「大体、同性に媚や体を売っていたような男が、よくもそんな嘘を言えたものだわね。本当に、どこまで厚顔無恥なのかしら。汚らわしい。――ねぇ、仁科渉さん。私が何にも貴方の事を知らないとでもお思い?」
「貴女が俺の何を知っていると?」

 嘲りと侮蔑の色を色濃くそのキツイ双眸に煌かしながら、彼女は吐き捨てるように言う。そして、またシガレットケースの中から煙草を取り出すと、イライラした仕草でそれに火をつけた。
 その様を苦笑を浮かべて俺は見やり、彼女に問い返す。
 すると吸っていた煙草の煙を盛大に俺に向かって彼女は吐き出し、吹きかけた。
 彼女のむせ返るような香水の香と相まって、今まで嗅いだ事のないような甘ったるい煙草の匂いが俺の鼻腔を強く刺激する。

「何でも知ってるわよ。例えば貴方が、一人暮らししてた頃、航矢のお父様とも寝ていた事もね。それに神月の若社長をたらしこんで、その愛人に納まった事だって。全部調べさせて貰ったわ。とんだ淫売ね。」
「…………。」
「……ねぇ、それで貴方に関する報告の中で私が一番許せなかったのは何だと思う?」
「さぁ?」

 つんと澄ました顔で、彼女は部下を使って俺の過去を洗いざらい調べた事を語る。
 そして、吸い込んだ煙草の煙を細く長く吐き出しながら、俺に向けて蔑んだ瞳を向けるとそんな事を問い掛けてきた。
 それに対して俺は彼女の感情になど特に興味もなかったので、適当な返答を返すと、彼女の細い眉が少しだけ苛立たしげに動く。

「航矢のお父様との事よ。」
「…………。」

 俺の向けて棘のある口調でそうきっぱりと答えを言った彼女に、俺は小さく溜息を吐いた。
 彼女が許せないと言ったからって、だからどうした?としか思えなくて、俺は手錠に繋がれている両手を上げると目にかかっている前髪を掻き揚げる。

「……だから?」
「だから? ですって? 貴方は本当に人としての良識や常識ってモノが全くお持ちでないみたいね! 幼馴染の父親と関係を持って恥ずかしいと思わないの!? しかも同性同士でいやらしい事をしていただなんて、最悪じゃない。不潔よ。許せないわっ!」
「……何とでも言えよ。同性同士でいやらしい事をしてたからって、どうしてそれを恥じなきゃいけない? 俺は一也さんを愛していた。一也さんも俺を愛していた。愛し合ってた人間が互いの体を求めて繋げて何が悪い。それになにより俺達の事を如月さんに許して貰おうなんて思ってないし。貴女の許しが必要だなんて思ってない。」

 彼女に不潔だと言われ、しかも許せないとまで言われて、俺はほとほと彼女の感情しかない言い分に呆れてしまった。。
 確かに俺は一也さんと体を繋げていた。だけどそれは俺から誘った訳ではなかったし、それが一也さんの暴力から始まった関係だったとしても最終的に俺はその暴力ごと一也さんを受け入れたんだ。
 その事をわざわざ説明する気はなかったが、俺達がその当時愛し合っていたのは事実だ。
 だから呆れ返ったままに俺は言葉を繋げる。

「そもそも前提から間違ってる。俺は航矢の父親だからセックスをした訳じゃない。一也さんだったから、セックスしたんだ。それから航矢の事だけど、当時あいつとは疎遠になってた。そんな幼馴染に遠慮して自分自身の抱えている恋愛感情を抑えるのも馬鹿馬鹿しい事だろ? だから俺は一也さんの気持ちに、そして俺自身の気持ちに素直に従っただけだ。」
「どこまでも最低な言い分ね。いい事? お父様は結婚して、航矢さんという立派な息子さんをお持ちなのよ。そんな正常な生活を営んでこられた方が、“男”と、しかも自分の息子の幼馴染と愛し合うようになると思ってらっしゃるの? そんな事ある訳ないじゃない。それなのに貴方となんて関係を持つなんて、きっと何かよほどの事があったに違いないわ。」

 俺が説明した言葉を頭から嘘だと決めつけ、女は呆れきった表情で俺を上から下まで蔑むように見た。
 そしてもう一度煙草を緩くふかすと、俺に向けて煙を吹きかける。その煙たさに俺が顔を左右に振ると、女はくつりと嘲り笑う。

「どうせ貴方の方から、嫌がるお父様をベッドの中に引きずり込んで体を繋げたんでしょう? そして、お父様を縛り付けたんだわ。あの方が自分から貴方と体を繋げたなんて思えないもの。それを貴方が勝手に愛し合ってる、だなんて言ってるだけなんでしょ。まったくなんて図々しくって、いやらしい男かしら。貴方って。女でもそうそう居ないわよ。これほど浅ましい人なんて。」

 煙草を灰皿に押し当てながら自信満々な口調でそう言い切られ、俺は絶句してしまった。
 俺の事など何も知らないくせに、彼女の中での俺のイメージはどこまでも淫乱でどうしようもない人間らしい。そのあまりにも勝手に作り上げられているイメージに俺は呆れを通り越して、酷く冷めてしまった。
 もう言葉を返すのも馬鹿馬鹿しくて、俺は閉じている口を緩く苦笑の形に歪める。

「黙ったって事は、貴方がやっぱりお父様を誘ったのね。男の癖に、なんていやらしくて、卑しい人。」
「別に、君にどう思われようと俺にはどうだって良い事だ。もうどうでも好きに罵ったらいい。」

 けらけらと楽しげな笑い声を零しながら彼女は俺を咎める言葉を口にする。その言葉の暴力に俺は、深く呆れた溜息を吐いた。
 つくづく女は苦手だと、俺は今また痛感する。
 特にこの手の自分が正しいと信じて疑わず、人の話も聞かずに自己完結している女は本当に苦手な部類だった。
 だからこれ以上面倒な問答をするのが煩わしく、一々彼女の言葉に腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくて、俺は彼女の思い込みのまま話を進めていく事に決める。

「――で? 如月さん。俺に聞きたい事は以上?」
「まだあるわよ!!」

 楽しげな笑い声をまだ上げている彼女に、俺は面倒臭そうな態度で前髪を掻きあげながら取り合えず聞いてみる。
 すると凄い剣幕で答えが返って来た。

「大体最初の質問に、ちゃんと貴方は答えてないわ! どうやって私の夫を誑かしたの? 何故、貴方みたいな身持ちのだらしない、最低の男に航矢は着いていったのよっ!!」

 俺の面倒臭そうな態度に腹を立てたのか、彼女はヒステリックに怒鳴り散らす。
 その感情丸出しの態度に、俺ははっきりと苦笑を面に表した。そして、ゆっくりと口を開く。

「誑かしてなんてないよ。それに俺に航矢が着いて来たんじゃない。航矢が俺を連れて逃げたんだ。航矢から俺にずらかろうって言って、俺の手を引いてホテルから非常階段を通って逃げた。俺はただ航矢に従っただけだ。」
「なっ!! そんな嘘、誰が信じると思ってるの!! 嘘も大概にして!!」

 ゆっくりと力強い口調で、彼女の質問の全てを真っ向から否定してやる。彼女の瞳を真正面から見据えながら。
 すると案の定、彼女は怒りで顔を真っ赤にしてソファから立ち上がると、俺の前につかつかと歩み寄るや否や、その右手を大きく振り上げた。
 パンッ。
 頬を張られる乾いた音が室内に、響く。

「ツ……っ。」
「航矢が私を置いて、貴方みたいな卑しい男を連れて逃げる訳ないじゃないっ!! そんな最低な嘘、吐かないでよ!!」
「……最低な、嘘、ね。如月さん、貴女は本当に幸せな人だ。よくあの航矢の事をそこまで信じられるね。」

 彼女に張られた左頬を手で押さえながら、痛みに眉根を寄せていると更に彼女の怒号が頭の上から降り注いできた。
 その頑なな態度に、俺はまた呆れたような溜息を零すと彼女を上目使いに見詰めながら薄く笑って見せる。
 するとまた彼女の手は振り上げられた。そして再度俺の頬を強く平手で張られる。

「……っ。」
「信じるに決まってるでしょっ! 航矢は私の夫になる男よ! 彼は私を愛していたのっ! 私も彼を愛しているわ!! だから永遠の愛を誓ったその日に、航矢が私を置いて貴方と一緒に逃げるなんて有り得ないの!! いい加減本当の事を仰いっ!!」

 激昂して何度も何度も俺の頬に向けて平手を打ち下ろす彼女に、俺は抵抗する事もせずなすがままに任せていた。それは、彼女のその滑稽なまでの必死さに胸を打たれたからではなかった。ただ、彼女に対しての哀れみがそうさせた。
 航矢の嘘の囁きに、嘘の誓いに、彼女はまったく疑いをもっていない。その事が航矢の本心を知る俺にとっては、酷く哀れに思えた。
 だから彼女の暴力を甘んじて受け続ける。
 そして自分の信念を言い切り、俺の頬をたたき続けて赤く染まった手を握り締め息を切らして俺を見下ろしている女に、俺はまたゆったりと微笑んだ。

「……俺は嘘なんて言ってない。」
「っ! どこまでも、強情な……っ!」

 微笑みながら再度零した言葉に、また女の眦が釣りあがった。
 しかしもう平手は降っては来なかった。その代わり、今度はテーブルの上においてあったシガレットケースが顔面に直撃した。
 ガツンと額に金属のそれが当たった衝撃が走り、次にバラバラとケースの中に納めてあった煙草が俺の上に降り注いでくる。煙草から緩く立ち上る甘い香りと額に残る衝撃の痛みに、顔を顰めた。

「じゃあ、どういったら満足? 俺が航矢を誑かしたって言えば満足? 式の後、俺が航矢をこの体を使って篭絡して一緒に逃げる事を囁いたって? そう言えば満足なのか、君は。と言う事は、君は航矢の気持ちをまったく信じていないことになるよ? それでもいいの? 俺にそういわれて満足を感じるのなら、君は航矢が男に言い寄られてあっさり結婚式を捨ててしまえるくらい、尻軽だって、そう言ってるも同じなんだけど?」

 女を上目使いに見上げながら彼女が思い描いているだろうシナリオを、嘲りを含んだ口調で語ってみせる。
 途端、また大きく振り上げられた手が俺の頬へと降ろされた。

「――っ!! 馬鹿にしてっ!!」
「……馬鹿にしてるのは、そっちだろ? 俺は航矢を誑かしてなんてないし、俺が航矢を連れて逃げたんじゃない。如月さん。貴女の望む答えは、貴女が愛してる航矢まで咎めてるって気がついてる? ……そりゃ、確かに航矢が貴女を置いて俺と失踪した事で、貴女の心を気持ちをどれだけ手酷く傷つけてしまったか考えると、今回の事は本当に申し訳ないと思ってる。でも、だからって俺を悪者にするその裏で航矢まで咎めるのは、許せる事じゃない。航矢の事を愛してる、と言うなら、そんな風に航矢を咎めるのだけは止めてくれ。」

 ヒステリックに叫び、今にも泣きそうな顔になった彼女を見上げ、俺は一つ軽く深呼吸をすると吐く息と共に言葉を紡ぎだす。
 その声は、自分でも驚くほど低くて、静かな声で。
 その時になって俺は、自分が酷く怒っている事に気がついた。それは、自分を咎められた事に対してではなくて。彼女が俺に言わせたがっている言葉が、裏を返せば航矢をも咎めている事だったから。
 自分を咎められるのはもう今更で、どれだけ酷く言われても全然我慢できるけど、でも、だけど、航矢の事を悪く言うのはどうしても許せなかった。
 愛している人を悪く言われることが、俺にはどうしても我慢できなかった。
 だからその感情をそのまま瞳に乗せて、目の前で仁王立ちをしている彼女を睨みつける。

「な、何よ……。そんな目で見たって、貴方なんて怖くないわよっ。大体、私は航矢を咎めてる訳じゃないわ! ただ、貴方が許せないだけよ!! 人の夫を横から掻っ攫って、平然として被害者面して、そんな風にいかにも航矢の事は知り尽くしてます、って顔してる貴方が、許せないのよっ!! なによ、なによっ!! アンタなんかより、私の方がもっとずっと航矢を愛してるのよっ!! 財力もあって、美貌もあって、彼の子供を宿す事だって、私にはできるのよ!! なのにっ男になんか、アンタみたいな男になんか盗られて堪るもんですか!!! ずっと……、ずっと彼の事を見てたのは、私なんだからっ!! アンタなんて顔がちょっと綺麗なだけの、なんのとりえもない男じゃない――!!」

 俺に睨まれ、彼女は初めて少しだけ恐怖の色をその瞳に浮かべた。
 そして唇を強く噛み締めた後、堰を切ったようにまたヒステリックに叫び始める。そうして俺を責めながら、彼女は最後には泣き崩れた。
 ワァァァァ……と、大声で泣きながら俺の顔や胸や肩を滅茶苦茶に、拳で叩く。
 か弱い女の力ではあったが、それでもその拳には彼女の痛みが沢山詰まっていて。俺は自分の中にあった怒りを飲み込むと、彼女の気の済むように殴らせることにする。
 彼女には彼女なりの痛みがあって、そして、それはやっぱり俺のせいだと解っていたから。
 しかし、今の今までひっそりと存在しないかのように俺の後ろに立っていた男二人が、すぃっと足音もなく前に出てきた。
 そして一人が無言のまま彼女の体を支えると、もう一人と目配せをした後、何かを彼女の耳に囁く。と、感情のままに泣きじゃくっていた彼女の涙が、止まった。
 涙が止まると彼女は男の手を借り、床の上から立ち上がる。

「……仁科、渉さん。アンタにはそれ相応の罰を受けて貰うわ。もう、貴方が航矢を誑かしたかどうかなんて、どうでもいいわ。でも、貴方が私の航矢を盗っていったのは、間違いなく事実よ。その罰を受けて貰うわ。ねぇ、当然甘んじて受けて下さるわよね? 仁科渉さん。」

 優男の手を借りたまま、だけどもうすっかり平静を取り戻した彼女は、今だ涙で濡れた憎悪に燃える瞳で俺を睨み付けながら女王様のような口ぶりで俺にそう処刑の宣告をした。
 俺はその女王様の言葉に、苦笑を返す。

「どっちにしろ、俺には選択肢はないんだろ?」
「勿論。貴方に選択肢なんてないわ。与えるわけないじゃない。」
「……どんな罰が与えられたのか位は、聞いても構わない?」

 勝ち誇ったような顔で言われた言葉に、俺は更に苦笑を深くすると罰について問う。
 すると彼女は、くすりと鼻を鳴らして笑った。
 そしてその質問には答えずに優男の手を取ったまま、男にエスコートされるように部屋のドアへと向かって歩き出す。
 開け放たれたままの入口を通り抜ける直前、彼女は俺を振り返った。

「ひょっとしたら貴方にとっては大した罰じゃないかもしれないわ。だけど、期間は私の怒りが解けるまでよ。果たして貴方は、どんな風になっちゃうのかしら? ふふ……、楽しみだわ。精々、貴方もこの罰を楽しんで、すぐに壊れないで頂戴ね。――それでは、ごきげんよう。」

 くすくすと楽しそうに笑いながら、そんな言葉を残すと彼女は優男と共に入口から廊下へと出るとゆっくりとドアを閉めた。
 だが、完全にドアから出る瞬間、彼女はもう一度俺を振り返る。

「あぁ、そうそう。神月さんは、あんなご商売されてるにも関わらず貴方にはクスリを使ってらっしゃらないみたいね。」

 そう俺の顔を勝ち誇った優越感で醜く歪ませて睨み付けながら、まるで独り言のように零す。
 その言葉の中に含まれる“クスリ”という単語に、凄まじい禍々しさを感じ、自分がどれほど恐ろしい女を敵に回していたかを知った。
 体がぎくりと固まり、顔面から血の気が引いていくのが分る。
 そして同時に。
 本当に俺は、もうこの地獄から抜け出す事は出来ないのだと悟る。
 知恵を振り絞っても、腕力を使っても、俺に罰を与える役目を担っている男を懐柔しようとしても、どんなに惨めに足掻いて見せても、もうこの閉じられた世界から自由にはなることはないのだと。
 そう、女は俺に告げていた。

「感謝して頂戴。神月さんの替わりに、私が貴方に美味しいクスリをたっぷり食べさせてあげるわ。身も心も蕩けるほどに、ね。」
「……っ!」

 それだけをニヤァと見たこともない嫌らしく醜悪な笑みを零しながら一方的に告げると、女は、俺の反応を見る事もなくさっさとドアから廊下へと出て行った。

 そして、施錠する微かな音が俺の耳に届く。
 後に残ったのは、優男の片割れの屈強な男と、俺だけ。
 男は女がドアから出たのを確かめると、胸ポケットに入れていた小さな銀色の箱を恭しく取り出した。
 そして、その箱の中から鋭く細い針を携えた恐ろしい凶器を更に取り出すと、俺に見せ付けるように目の前に掲げ中に満たされている液をゆっくりと揺らした。
 そのまま男は何の表情もその顔に浮かべる事無く、俺に近づくと、なんらかの液体で満たされている注射器を俺の腕に……。




 女はその後二度と俺の前に姿を現すことはなかった。




 女が去って行った後に行われた彼女の指示した“罰”は、俺を永劫の地獄へと叩き落した。
 甘い歓喜と渇望と欲情の地獄へと。




 そして、その地獄は、俺を“仁科渉”という一人の人間としての存在を赦さなかった――。
 恐らく、もう、一生。

 身も心も、記憶も想いも。

 俺は俺に戻る事はできない。

 女が言ったように、それらは溶けて蕩けて。
 『俺』を飲み込み喰らいつくしていった。




 さようなら。
 俺。

 さようなら。

 もう二度と会うことさえ望めない。
 叶わない。



 ――――俺の記憶にある愛しい人々。





bad end


航矢編へ続く