「さっさと自分のベッドへ戻れ。父さんと母さんに怪しまれるだろ」
マロお題:現パロで駆け落ち
「ん……」
双子の弟、無一郎は自慰が下手だ。だから俺が性欲処理をしてやることにしている。誰にも言えない、ひみつの関係。
「ん、兄さん、お手々きもちいい……」
「とっとと出せ」
「わかってるよ」
処理はいつも手でやってやる。ズボンを脱がせ、二人で布団の中へ隠れて、きれいな桃色のそれを握り込みしごきあげる。
「ん、ん、んぅ」
無一郎の声へ、すぐに甘いものが混じりだした。
「ほら、乳首自分でいじってろよ。どうせすぐ出すだろ」
「うん、うん……」
どこかさびしげな声が伝わってくる。
「無一郎、イキそうなら言えよ」
「も、出そう」
「仕方ないな」
俺は無一郎のものをくわえ、すすりあげる。強い刺激に決壊したからだが俺の口内へ熱を放つ。処理がめんどくさいのでそのまま飲み下す。いつものパターン。
「ふう」
快楽を味わった無一郎はぺたぺたと俺へひっつきなごんでいる。
「さっさと自分のベッドへ戻れ。父さんと母さんに怪しまれるだろ」
「うん、おやすみ、兄さん」
俺は無一郎を寝かしつけ、部屋を出た。平気なふりをしてトイレへ入り、ずるずるとパジャマのズボンを脱ぐ。俺のそこはすでに腹につきそうなほど反り返っていた。我慢できず、ついさっきまで無一郎をしごきあげていた手をそれに添える。
「はっ、はっ、はっ、むいち、ろ……」
あいつの感触を思い出しながら自分で自分を追い詰めていく。まぶたを閉じると脳裏に焼き付いた無一郎の痴態が鮮明に思い起こせる。
「むいちろ、う。むいちろ、むいちろ……」
あとすこし、あとすこしで終わりだ。これはあてられてるだけだ。俺だって健全な青少年なんだ。性欲がないわけじゃない。だからそれをストレートに刺激してくる弟をほんのすこし使わせてもらってるだけ。断じて欲情なんかしてない。してないんだ。
「んん、むいちろう、むいちろう、むいち……ん、くっ!」
便器の奥へ射精する。無駄撃ちされた子種が水の底へ沈んでいく。今日も一線を越えずにすんだ。そのことに俺は安堵していた。明日も、明後日も無一郎はきっと俺を頼る。俺は待ってるだけでいい。それでいいんだ。どうせどちらかに恋人ができたら終わる、うすっぺらな関係。だらだら続いて、いつか自然消滅する。そんなものに囚われてたまるものか。俺たちは双子だ、兄弟だ。それ以上にも、以下にもなれないんだ。
そう思っていたのに。青天の霹靂がやってきた。「いま、なんて?」
俺は母さんへ顔を向ける。背筋が冷たい。おだやかな夕食時。母さんが爆弾発言をくりかえす。
「だからね、ご本家がふたりの将棋の腕をかわれてね。特に無一郎、あなたを継国の養子に欲しいとおっしゃったのよ」
名誉なことだなあと父さんものんびり笑っている。
「なに、養子っていったって形だけのものだよ。高校までは同じなんだし、会おうと思えばいつでも会える」
「いやだ」
無一郎は表情を失った顔でそう言った。
「いやだよ。いずれは、跡取りとして結婚を強要されるんでしょう?」
「ん? いや、まあそれは、あるだろうけれど、まだまだ先の話だよ」
父さんがふしぎそうに言った。だが無一郎は激しく首を振り、拒絶の意思をあらわにした。
「いやだ行かない! ぜったい行かない! だって僕は兄さんと付き合ってるんだから!」
父さんと母さんはぽかんとして、それから目をむいた。
「どういう意味だ。説明しなさい」
父さんが厳しい声音を出す。
「そのままの意味だよ。僕は兄さんのものなの。兄さんなしじゃ生きていけない!」
「ちょ、ちょっとまて無一郎、俺は……」
「有一郎」
母さんが真っ青な顔で俺へ問いかけてくる。
「あなたたち、いつまでも仲良しだと思っていたけれど、本当はふたりでなにしているの?」
俺は答えきれず固まった。
「とっくに兄さんは僕のもので、僕は兄さんのものなんだよ」
無一郎が怒った風に言う。静まりかえる食卓。父さんと母さんが俺達を見る目が痛い。驚愕と疑惑と怒り、そしてかすかな恐れが混じった視線だ。
「無一郎! 有一郎!」
「知らない知らない! 継国なんか行かない! 絶対行かない!」
弾けるように無一郎は部屋を飛び出した。そのまま玄関へ駆けていく。俺も無一郎を追って走り出した。どこへ行くかわからなくて心配なのがひとつ、あまりのいたたまれなさに俺も飛び出したい気分だったのがふたつ。
家を出た俺たちは走って、走って、走って、夜の繁華街へまぎれこんだ。路地裏の暗闇で、俺は無一郎を捕まえる。
「どこ行く気だ!」
「どこにでも行くよ。兄さんさえついてきてくれれば……」
そこまで言って無一郎はなにかいいことを思いついたように目をしばたかせた。
「兄さん、このまま駆け落ちしようよ」
「は?」
「もうあの家には居られない。でも兄さんと離れるなんて僕には耐えられない。兄さん、好き。兄さんがどう思ってても、僕は兄さんが好き」
「馬鹿言え!」
「本気だよ!」
俺は酸欠の金魚になった。言葉が出てこない。ぱくぱくとむなしく口だけが動いて酸素を求める。
「どこか遠くで、ふたりで一緒に暮らそうよ。僕は兄さんの恋人になりたい。それとも兄さんは僕が嫌い?」
「い、いや、そうでもないが。いきなり駆け落ちというのは……」
あわてふためいて、何を言っているのか自分でもわかっていない。とうとつに唇へやわらかいものが触れ、ぬくもりが俺を包んだ。キスされたと気づいたのは、しばらく経ってからだった。触れ合うだけの軽い、けれど初めてのキスに場違いに俺は高揚した。
「好き、兄さん。兄さんも同じ気持ちだよね?」
「あ、ああ……」
「なら行こうよ。帰りたくないんだ」
無一郎は俺の手を掴み、駅の方角へずんずん歩いていく。俺はひっぱられるままについていく。行く宛もないまま電車に乗った。揺られる感触に胃の腑がひっくり返りそうだ。とんでもないことをやらかしてしまったんだと、じわじわと恐怖がこみあげてくる。対して無一郎は、俺の肩へ頭をあずけたまま眠るようにおだやかな顔をしている。
「お前、その、恐ろしくないのか」
「どうして兄さんが居るのに怖がらなきゃいけないの?」
無一郎はとろりと微笑んだ。終点へ近づく頃には、車内には俺たちだけになった。俺は半分フリーズしたまま座席に座りこんでいた。どうしたらいいんだこれから、だけどたしかに、俺たちの秘密をばらしてしまったから、家には帰れない。最悪だ。最悪なのに、どこか嬉しいと思っている自分が居る。最低だ。最低なのにやっぱり胸弾ませている自分が居る。無一郎が隣りにいる。好きだと言ってくれた。俺と付き合ってると言ってくれた。喜びがひろがっていく、じくじくと病んでいく心とシェイクされてどろどろのマーブル模様になっていく。
電車は一路終点へ。終点からは海が近かった。
漂流物でごみだらけの砂浜へおり、俺たちはさくさくと砂を踏んだ。誰も居ない。月と波の音とうみねこのなく声しかしない。隣を歩く無一郎がすこし無理のある明るい声を上げた。
「あったかくてよかったね。これなら野宿でもしばらくは平気そう」
「……」
俺は黙々とスマホで調べ物をしていた。無一郎が不満そうに頬をふくらませる。
「ねえ、兄さん。キスして、僕たちもう恋人どうしなんだよね?」
言うなり無一郎は俺を抱きしめ、唇を押しつけてきた。至近距離でささやかれる。
「自慰が下手なんてね、うそ。兄さんに触れてほしかっただけ。抱いてよ、兄さん……ぜんぶ兄さんのものにして」
「七年」
突然の俺の言葉に無一郎は驚いたみたいだった。目を丸くして俺と視線を合わせる。
「行方不明から七年たてば死んだものとして扱われるって書いてある」
俺はスマホの画面を見せ、すぐに電源を切りポケットへ入れた。
「兄さん?」
俺はすべての勇気を振り絞った。
「好きだ、無一郎」
「兄さん、僕も」
無一郎が満面の笑みに変わるその前に、言葉を叩きつけた。
「だからダメだ。だから無理だ。ダメなんだよ。俺たちは双子だから。無一郎、俺は死んだものと思ってくれ。頼むから、お前だけでも日のあたる道を歩んでいけ」
「兄さん、なに、言って……」
俺は全力で無一郎のみぞおちを殴りつけた。苦痛のあまり無一郎が失神し、崩れ落ちる。俺は無一郎を人目につくところへ寝かせ、闇に紛れた。
そこから先は思い出したくもない。
七年。七年逃げ切れば俺は自由だ。無一郎も俺を諦めてくれるだろう。根拠もなくそう思い込み、俺はホームレスをしながら残飯を食い漁った。警察の横を通れば、でかでかと俺の写真ののったポスターが貼られている。実家から届が出されているのは火を見るより明らかだった。足跡を辿られたら一発でつかまる。とうぜんまともな職にはありつけない。日雇いにすら入れないものだから、ときに体を売り、全国を点々とした。そんな生活をしてニ年目くらいだっただろうか、あまりのひもじさに力尽きた俺に転機が訪れた。「一郎君、山菜そば三番テーブルにお願い」
「はい、奥さん」
俺は奥のカウンターから旦那さんの作った山菜そばを受け取り、お客のところへ持っていった。
「おまたせしました、山菜そばです。わさびはそちらの箱からお取りください」
笑顔でそう伝えると、客は待ってましたとばかりに割り箸を割った。
倒れた俺を拾ってくれたのは、気をつけないと前を通り過ぎてしまいそうなほど小さな定食屋のご夫婦だった。でも中は案外広く、飯時は常に満員。そんな隠れた名店だ。夫婦で切り盛りしていて、旦那さんの名前は伊黒小芭内さん、奥さんの名前は蜜凛さん。俺の事情を聞いたふたりはかくまうように、住み込みで働かせてくれた。呼ぶ時も気を使って、有一郎ではなく一郎(かずろう)と呼んでくれる。旦那さんは極端に無口だけども根は優しく面倒見がいい、奥さんはおしゃべり好きで朗らかでめちゃくちゃ食べる人で、毎日来る客と同じくらいの量を食べる。そんな嫁さんを旦那さんは溺愛してるみたいだった。
俺は毎日身を粉にして働いた。客は引きも切らず、昼間は目の回るような忙しさだ。夜は夜で旦那さんから料理の指導をされる。学歴がないならなにか資格をと、調理師と栄養士の免許をめざして、俺は旦那さんに師事した。免許が取れれば俺も旦那さんのアシストに回れる。幸いにも俺には料理の素養があったようで、旦那さんの指導はスルスルと頭に入っていった。
ある日旦那さんが商店街の会合へ出かけているときのことだった。いったん店を閉めて夕方の仕込みをしている俺へ、奥さんが話しかけてきた。
「ふふっ、一郎君、うちの前で倒れてくれてありがとう。おかげで大繁盛よ。私一人じゃまわりきらなくて困っていたところだったの」
「お客の半分は奥さん目当てですからね」
「やーだーもう! 一郎君てば上手ねえ!!」
背中をバンバン叩かれながら、俺は苦笑した。いい人たちだ。俺の身の上を知って、そのうえで守ってくれている。俺は感謝の意を伝え、奥さんへ頭を下げた。奥さんが優しい目で口を開く。
「一郎君がいいなら、いつまでも居てくれていいんだからね」
その言葉に胸が熱くなり、どっと涙がこぼれてきた。俺は生まれてはじめて人前で泣いた。「一郎君! 一郎君! ほら、継国竜王出てるわよ!」
奥さんがテレビを指差す。俺は微笑んで画面を眺めた。無一郎が涼しい顔でタイトル戦を戦っている。盤上の駒の動きは熱いが、それをおくびにも出さない。意表を突く攻めのスタイルと、盤石な守りのスタイル。両方を意のままに操る無一郎はまさしく盤上の王だ。
あれからさらに十年がたった。俺は無事目指していた資格をとり、いまでは旦那さんに認められ、仕入れを任されるようにまでなっていた。商店街での集まりなども、旦那さんの名代で出る。もともと旦那さんは人前へ出るのが嫌いらしいから、ちょうどいいそうだ。そうして空いた時間を、旦那さんは新商品の開発とグレードアップに費やしている。主に奥さんのために。らぶらぶだなあと俺は微笑ましく見守っている。
(元気そうだな、無一郎。継国を継いでがんばってるな……)
俺の記憶が確かなら、五年前までは時透を名乗っていたはずだ。その頃からすでに頭角を表していた無一郎は、プロ棋士デビューをするなり、冗談みたいな速さで上り詰めた。今や押しも押されぬ大御所だ。勝っても負けてもメディアは大絶賛。しぜんと露出も増え、俺が目にする機会も増える。心地いい距離感。
表向きには、俺は無一郎のファンということになっている。無一郎に憧れる将棋好きは多いので、意気投合することも少なくない。時折無一郎に似ていると言われるが、他人の空似で押し通している。そりゃそうだわなと相手は笑う。今をときめく天才棋士と、定食屋の住み込み。あまりにも身分が違う。だからそれ以上に追求されることはない。
ただ……。
俺は定食屋の夫婦以外には、常にいくつかの嘘をついている。まず無一郎とは双子だということ。未満とはいえ、体の関係があったこと。……今でも好きだということ。そういうことはひっくるめてかくして、無関係の善良な一ファンを装っている。
近所付き合いをしていると、たまに見合い話が俺にも持ち上がるが、すべて断るようにしている。俺は無一郎が忘れられない。今でもからだが無一郎を覚えている。どうしても我慢できない夜は、スマホに撮りためた、無一郎の番組をオカズにしてるなんてご夫婦にも言えやしない。ただ、俺の一途な性格を旦那さんは見抜いているようで、最終的には旦那さんが何かにつけ理由をこじつけて見合いを流してくれる。ありがたいかぎりだ。
無一郎の方はほうで、忙しい毎日を過ごしているようだ。年に四回は地方へ出て指南という名目で、将棋好きの子どもたちと触れ合っている。何しろ竜王本人が来るから周囲の興奮度が半端ない。ちょっとしたお祭り騒ぎにまでなっているそうだ。メディアに映る無一郎はいつも笑顔だ。静かで、落ち着きのある笑みを絶やさない。誰に対しても丁重、品行方正というのはああいうのを言うんだろう。
俺はそんな無一郎を見るたびに、愛しさと若干のやましさで胸が揺れる。やっぱり好きだ。年々思いは募っていき、誰にも聞かせられないため息をこぼした。店を閉めたある日、奥さんが俺を呼んだ。
「一郎君。ちょっといい?」
「なんでしょう、奥さん」
普段と違う、緊張した様子だ。俺は背筋を伸ばし、奥さんについていった。奥の茶の間では旦那さんが待っていた。ちゃぶ台の上にコピー用紙そのままの一枚のチラシがある。それをのぞきこんだ俺は不意打ちを受けたようにびくりと震えた。
『しょうぎであそぼう つぎくにりゅうおうのせんじゅつしなん 場所**将棋会館 連絡先**-****-**** 日時……』
まあ座れ、と旦那さんは言った。
「俺が隣県の農家と懇意にしてるのは知ってるだろう? そこの人からもらったんだ」
返事もできず、俺は食い入るようにチラシを見つめていた。
「行ってこい。行って後悔しろ。行かずに後悔するよりずっといい」
「そうよ。遠くからちょこっと見るだけでかまわないわ。いってきなさい、一郎君。お店の方は私と小芭内さんでなんとかするから」
ふたりとも真剣なまなざしをしていた。
「このままくすぶるだけで終わるならそれでもいい。だが、二度とない機会だ。お前にとっては、まだ思い出じゃないんだろう? そうだろう?」
「忘れられないなら、会ってみればいいのよ。その結果どうなっても、私たちふたりは受け入れるから」
動悸が激しい。吐きそうだ。喉元までこみあげてきたすっぱいものを飲みこみ、俺は口を開いた。
「ありがとう……ございます……、俺、いってきます」
当日、俺は長い髪をくくり、せめてもの変装に大きめのサングラスをかけた。
一本遅れの電車に乗り、わざと遅刻して会場へ入った。すでに中は人でごったがえしており、無一郎は小さな挑戦者の相手をしている。やはりというか親子連れが多い。それと同じくらい、熱量のあるファンがついて回っている。俺はそこへまぎれこみ、無一郎の横顔を眺めた。……きれいだった。カメラに映るお前よりずっと。そして同時に思い知らされた。無一郎は遠い世界の住人だと。行って後悔しろとは、けだし名言だと俺は感じた。後悔した、でもそれは爽やかなものだった。なにかが吹っ切れた。
(さよなら、無一郎。元気でな)
俺は足音を忍ばせ、会場を出た。そのまま廊下を抜け、入り口へ歩いていく。ガタイのいい男が入り口付近の壁に体を預けていた。その男は俺を見るとまっすぐにこちらへ向かって歩いてきて、すれ違いざまに肩を掴んだ。そして呼んだ、もう誰も呼ばないはずの名前を。
「ツラ貸せよ。『時透有一郎』」+ + + + +
「私立探偵の宇髄ってもんだ」
近くの喫茶店の奥、外からは死角になりそれでいてこちらからは入り口が見える場所へ、その男は俺を座らせて気だるげにそう言った。男の俺から見ても端正な顔立ちだった。宇髄はコートの胸ポケットから名刺をとりだし、ピンと指先で放る。テーブルの上を手元まで滑ってきた名刺を、俺は受け取った。ポップな三人娘のイラストが入った軽薄な見た目の名刺だった。
『人探しなら音柱探偵事務所 三人娘がド派手に解決』なんて謳い文句といっしょに、『所長 宇髄天元』と書かれている。
「時透の坊っちゃんとは長い付き合いでな。泣き腫らした目で飛び込んできたのを昨日のように覚えている」
聞いてもいやしないのに宇髄は話しはじめた。俺はそれを遮り、腹の底で渦巻いている怒りをぶつけた。
「俺はもう死んだ人間だ」
「ああ、坊っちゃんもそう言ってたな。警察は頼りにならないってよ」
「お前、無一郎に雇われてるんだろう? なら伝えてくれ、帰るつもりは毛頭ない、俺は定食屋の一郎だ」
「そうイキりなさんな。俺がしたいのはビジネスの話だ」
俺は眉をしかめた。何を言ってるんだこいつは。宇髄はコーヒーを運んできたウェイトレスへ愛想よく笑顔を見せると、すぐに真顔へ戻った。
「時透の坊っちゃんはな、俺の腕を高く買っていてくれて、ド派手に金を払ってる。もう何年もだ。手のひら返した卑怯なお兄ちゃんは、必ずどこかで生きているはずだと、ひと目会えたらそれでいいと、そのためだけにな。……で、本題だ」
宇髄がすっと指を三本立てる。
「アンタには地味にみっつの選択肢がある。ひとつ、お涙頂戴な感動の再会をする。ふたつ、昔やったようになんもかんもぜんぶ投げて逃げ出す」
立てた指をゆっくりと折りながら、宇髄は続ける。
「みっつ、俺にコーヒーをおごり、今までどおりの生活へ戻る」
それを聞いた俺は、相当まぬけな顔をしていたらしい。宇髄が低く笑った。俺は嫌な汗をぬぐい、宇髄をにらみつける。
「俺を見逃すってのか」
「そうしてもいいと言っている。ああ、念の為だが、二番目の選択肢はないも同然だ。俺に見つかった以上、逃げ場はないと思え」
「どうしてそんなことを俺に持ちかける」
「そりゃもちろん太い客が切れると困るわけよ。事務所所長としては」
「……腐ってやがる」
「ビジネスだと前置きしたはずだ。で、答えは?」
クズめ。俺はぎしりと歯を食いしばった。このまま話をまとめてしまえば、俺と無一郎の縁はきれいさっぱり切れるだろう。だがその裏で無一郎は、この先も延々と俺の面影を追って、この男から食い物にされるだろう。だからといって、いまさら無一郎の前にのこのこ顔を出せるわけがない。せっかく陽のあたる道を歩んでいるんだ。お前の人生の汚点になんてなりたくないのに。
答えは出ない。時間だけがじりじりと過ぎていく。
「たっぷり悩んでくれ。俺は困らない。なにせこの話を知っているのは、俺とアンタだけで、アンタは坊っちゃんへ会いに行くわけがない。勝ち確ってやつだ」
宇髄は手を組んで顎を乗せる。
「何も困る必要はないだろう? 俺はボロ儲けが今後も続く。アンタは地味な生活を続けられる。WIN・WINってやつだ」
宇髄が片眉を跳ね上げ、にいと笑った。
「おっと、よっつめの選択肢もあるな。ちとハードモードだが、アンタにゃちょうどいいだろう」
「なんだ」
「平穏な生活と引き換えに、俺へ口止め料を払い続ける」
「どこまで、腐って、お前は……!」
「そろそろ竜王の将棋指南が終わる頃だな」
宇髄が腕時計を見ながらつぶやく。そして冷めたコーヒーへ口をつけた。
「交渉成立、ということで。口止め料については後日連絡する」
宇髄は立ち上がり、伝票を俺の前へ置いた。そのまま立ち去る後ろ姿へ、俺は何もできなかった。ただ自分の無力さを噛み締めていた。
「クソッタレ!」
名刺を握りつぶした俺は、ふと違和感に気づいた。裏になにか書いてある。走り書きの字で。
『あの日の続きを ホテル**1001号室』
それはたしかに無一郎の筆跡だった。振り返った時にはすでに宇髄の姿は消えていた。旦那さんと奥さんへ断り、俺はその晩、指定されたホテルへ向かった。誘蛾灯に誘われる虫のように。
ロビーに入ると上等すぎる絨毯が俺を出迎えた。一杯飲んだだけで目の玉が飛び出そうなバーを横目に見やり、俺はエレベーターに乗った。落ち着いたオークブラウンの室内は、換気がなされているはずなのに息苦しく、喉の奥を言葉にならない思いが削っていく。
なんだって俺は無一郎に会おうとしているんだ。あいつの汚点でしかない俺が。
わかってる。表向きは宇髄のイカサマを暴露するため。本当の理由は、俺が無一郎に会いたいがため。あの探偵野郎、無一郎を餌に俺も脅すことでここへ来る理由を作ってみせた。真意がどこにあるかは知らないが、きっと一芝居うったんだろう。俺がここへ来れば依頼は完了、事務所の名声が上がる。もし俺が名刺の裏の走り書きに気づかなくとも、それはそれでよし、そうとでも考えてるんじゃなかろうか。どちらに転んでも当人にはうまい結果になるんだから、手のひらの上だ、かなわない。
エレベーターが上昇していくにつれて俺の心臓が早鐘を打ち始める。どんな顔をすればいい? もうあれから十二年。俺はとっくの昔に死んだ亡霊だ。日向を歩むキラキラ光るお前を、物陰から眺めることしかできない。でもとにかく、宇髄の件は伝えなければ。宇髄の話しぶりだと、無一郎は俺が生きているのを確認したいだけみたいだし、最低限会話して、そして帰ろう。心にそう決めて、俺は目当ての部屋をノックした。
内開きの扉が開かれ、そこに立っていたのは夢にまで見た鏡写しの姿……。
「に、さん……」
……いい男になったなお前。黄色い声が上がるのもわかる気がする。思わず目がうるみ、踏み出しそうになった。だが理性の有刺鉄線で衝動を抑え込む。動揺と期待と渇望と激情、それが無一郎の中でみるみるうちに膨れ上がっていくのを気づかぬふりをした。
「宇髄を信用するな。あいつは金の亡者だ」
言い捨てて俺は踵を返した。
「兄さん。来てくれてありがとう」
俺の背へ無一郎の声が届く。未練がどろりと湧き上がってきた。俺は走り出そうと足へ力を込め、耳朶を打った内容に愕然とした。
「これで安心して死ねる」
ついふりむくと、無一郎はおだやかに微笑んでいた。執着を洗い流したようなアルカイックスマイル。茫洋とした瞳は俺を通り越して遠くを見ていた。
「なんだって?」
おそるおそる問うと、無一郎はまぶたを閉じた。
「最初の三年は、必ず見つかると思ってた。次の三年は、不安の中過ごした。残りの一年を過ぎて七年目の死亡宣告が降りた時、僕は決めた。僕もいっしょに死のうって、記憶の中の兄さんと心中しようって」
でもその前にひと目会いたかった。無一郎は囁くような声音でそう語った。
「僕の時間はね、兄さん。あの日のままなんだ。今でも兄さんを愛してる。兄さんが僕を置いていったことすら、あなたらしいと思う」
閉じていたまぶたを開け、無一郎がその瞳に俺を映す。
「兄さん、いま、幸せ?」
何故だか答えてはならない気がした。それがどんな答えでも、返事をしてしまえば無一郎は扉を閉めるだろう。そして宣言どおり自死するだろう。思い出の中の俺とともに。そんな気がした。
沈黙が落ちた。無一郎は静かに俺の声を待っている。距離にして五メートルが、とてつもなく長く感じられる。俺は覚悟を決め、来た道をとってかえした。
「なに、どうしたの?」
無一郎の華奢な肩を押し、俺はもつれるように部屋の中へ入った。その勢いのまま、床へ無一郎を押し倒す。背後で扉の閉まる音が聞こえた。
「なにが死ぬだ。ふざけんな。俺はお前に苦労をかけたくないから断腸の思いで別れたのに。勝手に満足して勝手に死ぬな。死ぬなんて言うな!」
「……そんなの、兄さんだって同じじゃないか。勝手に思い込んで、勝手に離れていって。僕にだって好きにさせてほしい」
無一郎は俺から視線を外した。
「もうね、疲れた。兄さんのいない世界に。苦しかったよ、嬉しいことも楽しいことも心から味わえない。僕の中の兄さんが重石になって、息をするのもつらい。兄さんは言っていたよね。僕には陽のあたる道を歩んでほしいと。そうだね、順風満帆に見えたかも知れないね。棋士として成功し、メディアからは褒め称えられ、父さんにも母さんにも楽をさせてあげることができて……でも心はずっと闇の中だったよ」
無一郎の深い瞳に涙の膜が張る。やがて目頭から最初のひと粒が転がり落ちた。
「もういやだよ、疲れたんだ。にいさんの気性はわかってる。僕のもとに戻ってくる気などさらさらないんでしょう? だったらせめて、幸せに暮らしているのを見届けたかったんだ。そのために宇髄さんを連れ、地方巡業をくりかえし探し回った。どんなコネでもあたった。藁にもすがった。継国だって継いだ。……会いに来てくれてありがとう。うれしかったよ。会場で兄さんを見かけた時、一瞬でわかった。駒を置く手が震えたよ。本当は天にも昇る心地ですぐにでも兄さんを抱きしめたかったけれど、兄さんには兄さんの生活があるだろうから我慢した」
とろとろと眠たげな声でかきくどかれる話に、俺は雷を食らったような衝撃を受けていた。無一郎がそこまで思いつめていただなんて。無一郎は泣き笑いを浮かべて俺をのぞきこんだ。
「なんで独り身なの。結婚しちゃえばよかったのに。さっさと子ども作って奥さんと温かい家庭築いてさ。そうしたら、僕は、こんな意地汚い真似をせずにひっそりと死んでいくだけですんだのに」
無一郎が俺の背へ腕を回す。
「兄さん、期待なんてしないから、もう少しだけこうしていて」
背中へ回った腕に力がこもる。無一郎が再びまぶたをとじた。涙がすっと落ちていった。
「ああ、幸せ……。こうしてまた兄さんの重みを感じることができるなんて。生きていてくれて、ありがとう」
俺の中で何かがぷつりとキレた。掴みかからんばかりの勢いで、俺は無一郎を怒鳴りつけた。
「何が生きていてくれてありがとうだ! 違っただろ! お前はもっとわがままで貪欲で、自分の気持がいちばんでいつも俺を振り回して、そんなやつだっただろ!」
「兄さん……」
「言えよ、本当のこと。言ってみろよ。取り繕うなよ。双子だろ。お前はもっとがむしゃらでいいんだよ。それを支えるのが、俺の役目だったんだ」
「なんでそんな意地悪言うの? 痛いよ、離して」
「お前に生きていてほしいからだ、言わなきゃわからないのかよ!」
「ずるい……」
「ああそうだよ、俺はずるいんだよ。だからあの日お前から逃げ出したんだ。本音を言うよ。怖かったんだよ、ただ単に。ふたりでやっていけるか不安でたまらなかったんだ。お前に呆れられ、嫌われるのがいやだったんだ。だからお前をだしに使って自分の本心を偽り続けた。そういう自己中だよ俺は」
兄さん、と無一郎が目を見開いた。
「ついでに告白するよ。お前が出てる番組全部録画して、夜中にシコネタに使ってる、そんな変態野郎だ。双子の、弟でなきゃ興奮できない、そんなクソみたいなクズなんだよ! 死んだほうがいいのは俺のほうだ!」
無一郎は凍りついている。当然か。わかってるよ。
「ああ、そうだ。お前の性欲処理をしていた頃から、俺の頭はどうやってお前を犯すかでいっぱいだった。線引いて真面目くさったツラして、そのじつお前の処理を手伝った手でトイレでオナってたんだ。笑えるだろ」
そうだ、キスもできないヘタレだった。大事すぎて大切で、愛しすぎて大好きで、まともに顔も見れなかった。背伸びした。距離を置いた。興味ないふりした。お前の中作り上げた理想の兄に、ひび一本いれたくなかった。
「……僕は、僕だけだと思ってた。欲しがってるのは僕の方だけなんだって」
「俺のほうが万倍欲しがってたよ。手を出して、関係が崩れるのが怖かったんだ。お前の視線を独り占めしたくてたまらなかったのに、そんな事はできやないと決めつけていた。十四にして、絶望の味を知っていたんだ」
だから何も望もうとしなかった。叫びたいほどギチギチの本音は押さえつけて、心の奥底へ蹴落とした。俺は無一郎の肩口へ顔をうずめた。
「犯したい。お前を。今すぐひとつになりたい」
苦しい、胸が騒ぐ。赦されなくともつがいになりたい。誰に何を言われようとも。小刻みに震えていた無一郎がきついくらい俺を抱きしめた。
「抱いてよ、兄さん……ぜんぶ兄さんのものにして」
あの日の続きのキスを、今。
唇を触れ合わせる。どちらからともなく、舌先を誘い出した。より深く口付ける。歯列をなぞり、上顎を舐め、舌を絡める。甘さを感じて、もっともっとと深まっていく。俺は無一郎をベッドへ寝かせ、着物の帯をほどいた。自分もシャツを脱ぎすてる。裸になって抱き合うと、快さにそれだけで達しそうになった。無一郎の肌はすでに溶け落ちんばかりだ。ほぐすのもそこそこに、俺は自身をあてがう。
「っ! つ、う……!」
「大丈夫か無一郎。痛いなら……」
「ううん、やめないで兄さん。お願い」
懇願する無一郎の色っぽさに俺は胸が高鳴ってたまらなかった。すこしずつ、すこしずつ動ける範囲が広がっていく。中は火がついたように熱い。やわ肉がビクビクと包みこんでくる。気持ちいい。中へ出したい。ぜったい気持ちいい。獣欲がこみあげてくる。抗えない。長い長い空白を塗りつぶすように俺は無一郎の体、至るところへ舌を這わせる。汗の味すら俺を煽る。
「無一郎、中、出していいか?」
「うん、うん。早く来て。ぜんぶ出して。兄さんのものだって刻み込んで」
俺は無一郎の腰を抱え上げ、逃げられないように両腕で固定した。
「すぐ、だから」
「早く……兄さん」
もう我慢が効かなかった。俺は飢えた獣のごとく、無一郎のからだへがっついた。熱い、本当に、全身どこもかしこも溶けて感覚が無一郎でいっぱいになっていく。頂点に至った俺は胴振るいをした。
「あ、ああ、兄さんの熱い。あ、来てる……」
無一郎が切なげに声をこぼす。
快楽。でもまだ足りない。獣欲は去らず、さらに高ぶって俺を支配した。無一郎へかみつくように口づけ、狭い水場から俺だけの空気を食らう。
「ちくしょう、なんでだよ、なんで俺なんか好きになったんだよ! 俺だってお前が好きだよ、大好きだよ、ちくしょう、ちくしょう!」
「兄さん、兄さん兄さん! 好き、大好き、誰より好き、僕には兄さんしかいないんだ! ほんとなんだ!」
無一郎の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。きっと俺もそうなっているんだろう。
「愛してるよ、変わらずお前だけを! ちくしょう、クソッタレ! なんでお前なんだよ、お前じゃないとダメなんだよ!」
「僕、だって…んあ…! 兄さん、愛してるよ、なにもかも兄さんのものだよ、離さないで!」
夢中になって腰を振った。無一郎の体、あちこちへ歯型を残した。汗とよだれにまみれた霞の肌を汚した。それでも足りなくて思いのままに叫ぶ。
「お前にだけは、幸せになってほしかったのに! ちくしょう、こんな、諦めきれるかよ! お前の隣りにいたくなるだろ!」
「僕の幸せは、兄さんの傍らにしかない! さみしかった、さみしかったよ兄さん!」
「俺だってそうだよ! お前なしで楽しいことなんて何もなかった!」
快楽にふけっているのか苦痛に耐えているのかすらわからない。ひたすらに裸の想いをぶつけ合う。いつしか視界は白く染まり、ふたりそろって絶頂へ放り出された。気絶したように眠り込んでいた俺は、意識を取り戻した。時計を見ると二時間ほど寝ていたようだ。
「おはよう兄さん。よく眠れた?」
隣から無一郎がやわらかなまなざしを注いでくる。
「悪い、寝落ちてた」
無一郎が首を振る。長い髪が枕の上をすべった。
「ねえ、駆け落ちしようよ兄さん。どこか遠くで二人で一緒に暮らそう」
甘い、甘い声。だけどそれでぐらつくような人生を、俺も送ってきたわけじゃないんだ。
「行かない」
「……そう」
無一郎が悲しげにまつげを伏せる。
「代わりに料理人を雇わないか」
「え」
「お前の味の好みを知っていて、なおかつ隠れた名店で長年修行してきた料理人。得意なのは和食、自慢のメニューはふろふき大根」
それって。と、無一郎はぱちぱちとまばたきした。星くずが見えそうなほど愛らしく思えた。
「べつに遠くへ行かなくったっていいだろ。都内でマンションでも借りて、一緒に暮らそう」
「兄さん……!」
無一郎が感極まって抱きついてきた。俺はその愛しさの塊をしっかりと受け止めた。+++++
・あの名刺いつのまに用意したの?
じつは事前に用意したのを宇髄さんへ託していました。
会場には三人娘こと宇髄嫁がいてゆいちろの動向を逐一宇髄さんへ報告していました。・兄が独身だってなんでむいが知ってるの?
ゆいちろが夜ホテルを尋ねる前に宇髄さんが報告しました。・ほかにもいろいろ矛盾点が……
すみません。勢いで書いたので見逃してもらえるとありがたいです。+++++
「むーいちろう。これはなんだ?」
俺はにやにやしながら週刊誌を無一郎の前に放り出した。お茶をすすっていた無一郎は、困ったように眉を寄せた。
「『継国竜王熱愛発覚……か?』」
扇情的な見出しをそのまま読んでやると、無一郎はためいきをついた。
「兄さん、あまりいじめないでよ。その女の人、僕のストーカーなんだから」
「わかってるよ。にしても、おまえ何人目だ? そろそろ引っ越しでもするか?」
「それで楽になれるならどんなに良いか」
無一郎は疲れた顔を見せた。
朝から晩まで将棋と俺のことだけ考えていたい無一郎としては、ストーカーなどというノイズがうっとおしくてたまらないのだろう。もちろんメディアは俺たちが住んでいる場所など公表しないようにしてくれているのだが、相手は単独犯じゃなくて複数だ。がっちり手を組んでいつのまにか俺たちの住処を割り出している。裏で下品なパパラッチが糸を引いているらしい。プロに狙われちゃおしまいだ。無言電話とはすでにお友達なので、無一郎は自分で登録した番号以外はシャットアウトしている。
なんでこんなことになったかというと、無一郎に女性ファンが増えたからだ。そしてその理由は、じつは俺にあるのであまり大きくは出れない。
ことの始まりは無一郎が俺に弁当をねだってきたことだった。無一郎クラスともなると対局中の食事は出前を取るのだが、無一郎は「せっかく料理人を雇ったのだし」という理由で俺に弁当を作って欲しいと頼んできたのだった。俺としても無一郎のために腕が振るえるのはうれしいので、一も二もなく引き受けた。最初は仕出し弁当みたいなものを作っていたのだが、そのうち無一郎がもっと華やかなのがいいとわがままを言ってきた。
それに対する俺のひらめきが、キャラ弁。
これが受けた。無一郎本人だけじゃなく、周りにまで受けた。竜王がもふもふとおいしそうにキャラ弁を頬張っているギャップが、キュンと来る人には来るらしく、しまいにはメディアまで本日の継国竜王の弁当は~などと取り上げるようになってしまった。おかげで無一郎にはそっち方面のにわかファンが大激増。正直言ってうざい。かといって元の仕出し弁当風に戻すと無一郎が悲しむので、やめるにやめられないのだった。
キャラ弁づくりの料理人が、双子で兄弟だというところまではメディアに明かしてある。が、愛し合っているとまでは公表できないので、いっしょの時間を過ごすことが出来るのはこうして家の中にいるときだけだ。俺達の関係を知っているのは、父さんと母さん、それから継国本家の一握りの人間だけだ。父さんと母さんは「生きていてくれたならそれでいい」と、こんなバカ息子を温かく迎えてくれた。継国は無一郎が結婚せず将棋へ全精力を傾ける代わりに、もうひとり養子を取ることで合意した。腹をくくってしまえば、案外ことはうまく回るもんだ。
「兄さん、だっこ」
「ん」
俺は向かいのソファに座っていた無一郎のとなりへ行ってやさしく抱きしめた。本当にこんな肉付きの薄い体のどこに、あれだけの覇気を秘めているのだろう。俺と暮らし始めたことにより、無一郎はわずか数手で勝利への道筋が見えるほど腕が冴え渡ってきた。そんな無一郎の衣食住すべてを整え、あつらえ、支援するのは楽しい。
「無一郎、俺にできることがあるならなんでも言ってくれ。お前を支えたいんだ」
「じゃあぎゅっとしていて、ねえ」
「ほら」
「ふふ、うれしい」
俺の腕の中、幼な子のように無一郎は笑う。この笑顔を守るためならなんでもしよう。ああ、ストーカーだろうとパパラッチだろうと、どんとこい。無一郎の心の平穏は俺が守ってみせる! 決意を秘めた俺はいそいそと夕飯作りへ戻るのだった。