昼行灯にご用心4


 協会側の物件が案外スンナリと片付いたので、午前中は、あと数件ほど、得意先回りをするルートに切りかえた。事務所に携帯で連絡をとり、鶴賀崎開発の専務の来社する夕方6時前に社にもどる段取りをくむ。
 市内の道路は大体頭に入っているので、2件目からは、青山が運転手役の交替を買って出た。
 後部席に酒井と林を乗せたのには、上司と部下の意思疎通を密にさせる、と言う意図もあったし、酒井が自分に遠慮せずに林に指導がしやすいだろう、と配慮してのものだった。
 そして、意外なことに、彼なりの歪んだ表現法…イヤミや皮肉、辛口トークをふんだんに用いられつつ、ではあったが、それでも、林を大事に育てている様子が見受けられた。
 かなり、面倒見は良い方で、甘えられると嬉しいタイプのようだ。
 林は、自分の意見や知識をごく控えめながらも、きちんと持っている。
 そして、酒井を立てることを忘れず、それでも譲れない箇所は、意思表示が出来ているし、解らない事は、きっちり聞いて理解しようとしている姿勢が、とても好印象だ。
 だが、先輩に当たる酒井に対しても、自分に知識がしっかりあり、納得のいかない理不尽な部分は、徹底して追及しようとするムキもなくはない。
 そして酒井はと言えば、林の意見をうるさがりつつつも、結構重宝している様子でもある。
 色々深く追求すれば諸刃の剣とも言えなくもない組み合わせだが、2人の相性は良さそうだ、と、青山は、ちょっと安堵の息をついた。他の営業は全員30代以上の者ばかりなので、酒井としたら、林と歳が近いのも嬉しいのかもしれない。
 ともあれ彼らが仲良くやろうしているのは、歓迎すべきだし、良い事だと思う。

 挨拶を3件ほどこなして、ちょっとした仕様の変更に応じ、現場の状況を確認し、11時45分を経過したころ。
 ちーとエエもん、食いましょうか、オゴるよって、早昼でゆっくり休憩しましょ、と酒井が先達して入った近所のレストランは、とても雰囲気の良いところだった。
 次の取引先の約束時間が、2時半。
 ここから会社に車で帰るのに、時間的ロスを考慮すると、2時頃まで、ここでランチを楽しみ、次へ向かったほうが効率的だった。
 帰社した事を考えると、約30分ほどは多めに休憩する計算にはなるが、この程度であれば、まぁ、許容範囲だろうか。
 営業なりの役得かもしれない。
 休憩と言いつつ、次の商談先への詰めも行うので全ての時間をサボッているわけではない。
 各々のノートパソコンを開き、CDのマスターデータを作成すべく、データの照合を行う。マスターは、林が管理する。
 画面をながめつつ3人で次の会社への詰めを軽く流し、ちょうどパソコンを仕舞いこんだところにタイミングよく、彩りも美しい前菜が運ばれてきた。
 大石の場合だと、何軒かある行きつけの割烹の座敷に入り、事務処理作業を青山に任せ、時折はイヤがる青山に膝枕を強要して、優雅に昼寝、とシャレこむのであるが。

 店は8割の入りで人々の会話がほどよいざわめきを伝えていた。しかし、隣のスペースの会話は、ほぼ、聞き取りが不可能と言っても良い。
 各席ごとに引き回してある衝立に、防音素材の組み込みなどの工夫がしてあるようだ。
 外観は、採光の加減だろう、英国風の地下1階建て構造を取っている。
 建物の周囲を浅く掘りこみ、1階部を地下、2階部が1階の高さになるように建ててあるのだ。
 1階のフロアは、レンガ造りの重厚さもありつつ、席の間隔を充分にとってある。
 プライバシーに配慮してある造りでありながら、高い天井と、床面積の広さが、開放感をも感じさせた。高い吹き抜けからは、ゆったり、と大きな扇風機が上空をかき回し、美味そうな料理の香りを室内に振りまいている。
 他にも目を走らせれば、随所……客層に到るまでに、オーナーの拘りと美意識が感じられた。
「ちょっと重いかもしれんけど、エエ雰囲気でしょ。実は夕飯も時々やけど、来るんですわ。かなり高めやけど、料理も酒もエエし。2階は会員制の、サロンバーと、ちょっとした応接になってます。勘違いしてる成金のプチマダムにも荒らされてへんし。ソコらの姉ちゃんオバちゃんらにはもったいないけど、本命相手なら、ココですわ。連れ込むなら、すぐソコにホテルもあるしね…ま、オレもこの店気に入ってますよって、まだソレは1回しかしてへんのですけど」
 にやり、と人の悪い微笑を浮かべる酒井の横で、なぜか、林が顔を少し赤く染めている。
 若い子にはちょっと刺激的な話なのかなぁ、しかし、昨今の子にしては、随分スレてないな、と思って青山は微笑ましく、彼を見た。
 そして、酒井が本命相手に1度しか、と言う言葉が意外だった。

 ふと、昨日、会社で詰めをしていたときに、営業課長代理の小田が何気なく漏らした内容を思い出す。
 何かと言えば大阪に帰ると言っていた酒井お得意のセリフが、今月に入ってからは初旬に一度しか、聞かれなかったと言う。既に8月下旬に突入した今も、まだ言わないそうだ。
 盆暮れ以外でも結構、何かと理由をつけて長期休暇を取っては大阪に帰省していたのに、今年は盆休みすら帰った気配がない。
 プライベートも割とオープンに喋る本人の口から、最近コッチに本命が出来たと言っているのは、聞いたらしい。その本命が、どうやら、会社関係らしいのに、間違いなく社内や得意先辺りの女性陣では、心当たりがつかないと、小田は言う。
 普段から、彼が条件に挙げている結婚相手の像は、こうである。
 知的で、清楚でプロポーションの抜群な事。
 習い事の資格を1つや2つくらいは取っていて、家事が大好きな専業主婦志望の、そして経済観念のしっかりした、明るい性格の処女。
……なんて大変な理想をブチ上げていたものだが…。
 そんな女性がこの現代日本に万が一、存在するとしても、多分そう言う人は酒井には見向きもしないだろう、と内心青山も呆れ果てていたものだ。
 それを知っているからこそ、営業課員始め、社内全体に「本命を拝んでみたい」と言う噂が広がっている、と言うのだ。あまり野次馬根性のない青山ですら、それは是非に、お目にかかって見たいと思ってしまったほどだ。

 青山もOBMに着任してから一晩限りだろうと言うのから、ちょっとは付き合っているらしいものまで、彼の「お相手」を、10人近くは見ていると思う。
 先月まで3日と空けずに入れ替わり立ち代りやってくる女の子たちは、皆、一様に平均以上の美女でちょっと細身の頼りなげな、そして、そんな見かけに反し、頭の先からつま先までブランドで固め、自分の外見とプライドの高さを磨くことにのみ、余念のないタイプに見えたものなのだが。
 その上に大体、彼氏の会社までアフター5になってからとは言え、平気でのこのこと顔を出す性格は如何なものか、と言う雰囲気のメンツばかりではあった。
 一度だけ、これは中々、と、あの大石ですら軽く口笛を吹いた、サバサバとした感じの良いグラマラス美女も見たのだが、これには付き合ってすぐに、フラれたらしい。
 彼女は会社のロビーに乗り込んできて堂々と彼を待っていた前述の美女群とは違った。
 社からはちょっと離れた邪魔にならぬ程度の場所で、酒井のバイクに跨り、街灯の明かりを頼りに、文庫本を楽しそうに読んでいた姿が、青山にもとても好印象だったのだが。

 いずれにせよ、その夕方の恒例行事が、ここ、3週間以上は、ばったり途絶えている。
 ナニゴトにおいても無頓着な大石ですら
「そーいや、ナンか最近、夕方…かな、モノ足りねぇ気がしねぇか?」
 と、気づいたようだ。女の子がこなくなったでしょ、と言えばそうそう、などと納得していた。
 当然、彼らしい、酒井にとっては大変不名誉で、口にするのも憚られるような言葉が冗談交じりに飛び出したのは、青山の耳の奥で、なかった言葉として消去しておいたのだが。

 店内に響くのはごく小さくかけられたクラシック音楽と、微かな食器の音、ところどころに響く抑えの効いた笑い声だけで、感じのよい静もりを維持している。
 が、青山は…個人的にはこのように格式ばったトコロは余り好きではない。
 ただ、酒井は大変気に入っているようなので、その気分を害さない程度のあいづちは、打てる。
 また、西洋料理にありがちな、ニンニクなどの強烈な香りのものの利用を控え、生姜やハーブを生かして調理された、和洋のよさを取り合わせた、キュイジーヌ風のランチは…くどくなく、かと言って、アッサリしすぎず、絶妙で…。
 確かに、ランチで5千円と言う世間通念上からは、カケはなれた値段であっても、もう一度機会があれば、ランチ程度なら自腹で食べてもいいかな、と思える程度に美味だったのである。
 一通りコースが終了した後、目前にデザートとして、好みのシャーベットと、それぞれの食後の飲み物が並ぶ。
 甘い物が余り得意でないと言う酒井は、シャーベットをパスし、細身の葉巻を所望していた。
 それも、ランチメニューに組み込まれているサービスとの事だった。

 こう言う店には、臆してしまいそうなのに余り緊張せず、ニコニコと酒井の話に頷く事の多い林に、何気なく質問をする。
「林くんは、こちらは何度か?」
 と聞けば、サッときめの細かい色白の頬を再び染め、小さな声で、つい最近…今日で2度目です…、最初は夜でしたけど、と呟く。
 とすれば、一度、配属早々の頃にでも酒井に連れてきて貰ったのかも知れない。
 見栄っ張りの酒井らしい振る舞いだなぁ、と思う。しかし、夜のコースは5万円から、との事だが…。
いくら酒井が金に不自由のないお坊ちゃま育ちとは言え、結構締めるところは締める関西人気質なのは、よく知っている。
 が、気まぐれな彼のことだ。たまたま、虫の居所でもよかったのかな、と、青山は何気なくその話を聞き流した。
「そうですか。ところで仕事の方は、どうですか? 随分慣れられましたか? 困っていることなどは、ありませんか? 酒井さんがしっかり指導はしておられるようですが」
 朝、協会の物件に向かう途中で名の出た、白百合公益。
 ココの話になると、林は、途端に困惑したような表情や声付きになっていた。ゴルフ云々の説教は別として、どうも、何かがひっかかるのだ。
 林から相談できる話であれば、既に酒井に報告して相談もしているだろう。
 それが解りつつ自分が聞きなおすのは、でしゃばった感がないでもないが、どうせ、林と酒井のコンビに自分が割り込んだ意味合いをある程度酒井は推察しているようだ。
 だから、図々しく居直って、ちょっと誘い水を向けてみたのである。
「ええ…実は…その…言いにくいんですけど、僕…。白百合公益さんの担当を外して頂く事、出来ますか?」
 酒井と青山に交互に目をやりつつ、思いつめたように、それでも声をひそめて告げる。
 酒井が驚き、思わず問いただそうと口を開けたのを、青山は、サッと手で制した。
 軽く腰を浮かし、左右を素早く見回す青山の挙動で酒井も察したようだ。
 黒服姿の老年の紳士が、青山のその動作を逃さず、さりげなく足早にテーブルにやってきてくれた。流石は一流の店だけある。
「…なにか、ご用意致しましょうか?」
「ええ…大変図々しく、急な申し出で申し訳ないんですが、ちょっと身内での話がありまして。30分ほどですが、話の内容を聞かれたくありませんので、人の声の届き難い場所を貸していただくわけにはいけませんか?」
 どちらかと言えば店の常連に当たる酒井より、この発言をキビキビと出した一見客のはずの、青山の目を、しっかりと見つめて、紳士はにこやかに
「ようございますとも。では、お飲み物は私がお運び致しましょう。お時間は構いませんのでどうぞ、ごゆっくり遊ばしてくださいませ。あ、君。2階のA応接へご案内してくれたまえ。彼がご案内致しますので」
 そう言うと、いとも優雅に腰を深々と折った。
 若いボーイの先達に従い、店内にある、時代がかったエレベーターを上がると、広いサロンが目前に広がり、その奥に、2つ、扉が見える。サロンには、ちらほらと人影が見えたが、皆、ちらっと目線を走らせたものの、興味なさげに、すい、と視線を逸らしてしまう。
 奥のほうの扉を開き、ちょっとした応接のある部屋に通され、エレベーターにはいなかったハズの老紳士が間をあけずに、飲み物を運んでくる。
 酒井の葉巻も新品が用意されていた。
 全て配り終わった後、老紳士が、青山に名刺をさっ、と素早く差し出す。
「略式で大変失礼致します。酒井様には、本当にいつもご贔屓頂きまして、ありがとうございます。どうか、お時間の許す限りゆっくり、お寛ぎくださいませ。何かございましたら、そちらの電話を取っていただければ、私が直接お伺いいたします…それと」
 呆然と、ほぼ身についた習性で型どおりに名刺を受け取る青山に微笑みかけ、
「よろしければ、あなた様にも、これを機会にどうぞ、是非、ご贔屓にお願い出来ましたら…。では」
 静かに、しかし、鮮やかな進退で彼が出て行くのをいささか呆気に取られつつ眺めていた青山は、自分の名刺を返せなかったのに気づいた。しかし、それに囚われず、頭をすぐに本題に切り替える。こちらが、優先事項だったからだ。
 ワリと、猪突猛進な性格なのだ。
「で。本題に入りましょう、また、白百合さんを外して欲しいとは? 何かあった?」
 何か言おうとしていた酒井の機先を制する形になったが、呆然としていた林も、はっ、と気を取り直したかのように顔立ちをこわばらせた。
「ええ…実は…。こんなことをこんな場で言うのはどうかと思うんですが…僕、ゲイなんです。それで…白百合公益さんの担当さんが…。実は僕が大学に在学してた時の先輩で…彼、あの会社の社長の息子さんで、ゆくゆくは、跡取をされるんですが。その、学生時分に…そう言う付き合いを一時期してた事があって…。結局、色々合わなくて別れて、在学当時から、別に、もう何でもなかったんですけど。暫くは、お父様の会社では働かなくて、県外に出ると聞いていたんですけど、白百合さんに行くと、彼がいるのに驚いて…。でも、最初はそうでもなかったんです。基本的にとてもいい人ですし。お話も普通にしてて。僕、研修現場、アソコでしたから。でも…なのに…最近…営業で回るように…今月に入って急に、ゴルフにかこつけて…」
 軽く吐息をついて、彼なりに息を入れようとしているのに、青山は一人ごちた。
「関係の復縁を迫られたワケだね。それで君は断った?」
 縋るような目で、林は、はい、と応えた。
「先方は何と?」
「結婚も決まってるし、けど、独身時代の思い出に、一度だけでいいからもう一度その…そう言うことを、と言うんです。念書を書いてもいいって。一度だけなら、なくても一緒でしょうって言うのに…段々彼も頑なに…。これじゃ、会社にお互い迷惑をかけるだけですから僕以外の担当と替えて頂きましょうと、言うと…今度は凄く逆上してしまって…とうとう昨日、どうしても断るのなら、今後OBMとの取引は一切破棄するって…」
「事態がソコまで悪化するまでに誰かに相談は?」
 ちらっ、と酒井を見れば、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 聞き流してしまったのだろう。
「そんなら、一回だけ念書取って寝てやれや」
 信じられない言葉が酒井から飛び出す。
「俺も同道したる。その部屋でちゃんと、お前と一緒におったる。辛いかもしれんけど、辛抱し。今白百合さんに急に手ぇ返されたら、利益含みで1億近い数字が飛んでまう。それにアコはOBMとは古い付き合いや。怒らすワケにはいかん。そのかわり、一回だけや。そんなら、許したる。俺も忘れたる。せやけど、こんなんは、一回こっきりや!」
 酒井の言葉が、青山に、少しずつ染み渡ってくる。
 すとん、と2人の関係が腑に落ちた。同時に、どうしようもないほど、熱いものが喉のおくから脳の芯に駆け上がってくる。血流が、頭部に一気に流れ込んでくるのが、自覚できる。目の前が真っ赤に染まるようだ。
 耳の奥に、あの男の、低い声がフィードバックしてくる。
 林の泣きそうな顔。あの時…自分はそんな表情すらもできなかったっけ。
『妊娠したんだ。君には悪いが、私にとって、結婚もビジネスの一つだ。チャンスは逃さず、掴みたい。別にバイだと言う事や、君との事を今まではそう深く考えず取り立てて隠さずに来たが、今後はケジメをつけなきゃならない。そして私はそれをつけられる。身辺にも十分配慮しなきゃいけない。…きみは利口な男だ…わかってくれると信じてるよ』
……結婚も。ビジネスの一つ。
……一回だけ、寝てやれ。1億の数字をトバすワケにはいかない。
 そう言う、次元の話なんだろうか?
 かすかに身震いをする青山に、酒井が、渋い顔で話を続ける。
「かくしてたワケちゃうけど…そう言う事やねん。青山さん、アンタがゲイやってのもなんとのう、わかってる。社長とそう言う…」
 皆まで言わせなかった。身体が衝動的に、動いてしまう。
 気づけば、足は低いテーブルをまたぎ越して、酒井の襟首を、ひっつかむ。
 林のひゅっ、と空気を吸い込む音を聞きながら、右ストレートを酒井の頬桁に叩き込んでいた。
「……って…ぇ…んっだよ、アンタも同じ穴のムジナやろ! 男にケツ掘られてアンアン言うたんちゃうんか? 人材派遣の会社で、上司とつきおうてて。その上司が社長の娘と結婚して。あげくに上手いことリストラされてもうて。泣いてコッチに逃げてかえってきたん、ちゃうんか?! ビジネスちゅうのはな、弱肉強食や。強いもんが勝つ。俺かて、この子が、おめおめヨソの男に寝取られるの喜んでるワケないやろ。コレがオヤジの会社なら、1億ぐらいの穴、かまへん。アケさすわ。けど、ココはヨソやろ。そんなん、できるワケない。俺かてしたい放題さしてもろうてても、その辺りくらいは判別つく。ほんなら、したたかにやってかな、どうしょうもない。そう言うもん、ちゃうのか! あんたのモト上司なんかよりは、よっぽど、俺ぁ、人間できてる思うけどな! ええ、青山さん、どないや、ブッた顔してんと、何か言い返してみんかい! アンタらの都合のエエ理想を、俺に押し付けなっちゅうねん…」
 倒れたまま、酒井は、左頬を抑えながら、言い募る。
 無意識に、手加減は出来ていたようだ。おもわず、ほっ、と青山は溜息をついた。
 武道の心得のあるものが、一般の市民に必要以上に危害を加えることの重責は、空手の道場で叩きこまれている。これだけまくし立てられるようなら、かなりセーブできていたのだろう。思い切り叩き込んでいたら、骨折とはいかなくとも、骨にヒビが入っていたのは間違いない。
 林は顔を真っ青にして、それでも、テーブルに並べられた水で素早くハンカチを湿し、酒井の頬にそっ、と当てる。
 黒く長い睫が心配気に細められ、愛しい恋人を見守る姿が清楚で、健気だ。
「情報の出所は、興信所ですか。よくご存知だ。暴力を振るったのは、すみません。けど、そうじゃないだろう、酒井さん」
 青山は、苦い笑いを零しながら、ひざまずいて、彼の腕を取ってやる。払いのけながらも、酒井が立ち上がった。
 途端、鳩尾に、入りそうな拳を、寸前で受け止める。
「………! ……」
「腰が入ってない。それよりなぜ、殴られたかを考えてみたらどうだ。私の事は随分よく調べて頂いているようだが…その通りだよ。私は負け犬だ。けど、林くんには、こう言うミジメな負け犬にはなってほしくない。我々の稼業で、担当者と寝なきゃ取れない仕事なんて、あるわけが、ないだろう。互いに納得ずくで利害が一致していて好んでそう言う関係なのなら私は何も言やしない。軽蔑だってしない。けど、今回のは、違うだろう。何のために人が沢山会社にいるんだと思う? 酒井さん。この話を誰かに君は相談しようとすらしなかった。その上に、一番の弱者である林くんに、さらなる精神的・肉体的苦痛の甘受を求めた。それが、今回の一番の間違いだよ。酒井さん、君もまだ若い。二十四歳だろう。まだ大学を出てたった2年しか経ってない。そんな君が、どうして、怒って当然のことを素直に怒れないのか。上司に素直に感情をぶつけられないのか。その事自体、社会人の先輩としての我々からすると、君に頼ってもらえないのが、申しわけない気持ちと同時に、情けない気もするんだがね」
 林は、形の良い、切れ長な薄い二重瞼の奥の黒い瞳をうるませ、青山の目を見詰めている。
「林くん。社会人として、職場での、必要な最低限度のルールは?」
「……第一に挨拶。そして、報告。連絡。相談です」
 そうだ、と青山は頷く。
「私は、自分のセクシャリティを恥じてはいないけど、色々メンドウで…隠したくて、物事の本質を見ようとしてなかった。そう言うズルさは今でも多少残ってると思う。精神的にショックを受けてた当時には、自分が被害者だと思うことに甘んじて、受けた傷口から逃避するのに精一杯で。今となったら、きちんと相手にも自分にも立ち向かえなかったのは、情けないんだけどね。世の中の大半の会社では色々自分に都合の悪い事は…特にゲイなんて性癖は隠してガマンする事も多い。けど、OBMは違うんじゃないかな。性癖なんか気にせず、人間としての誇りをなくさずに働ける、珍しい幸せな職場だと思うよ。そして、大石社長もあんな風だけど、芯からありのままの姿で人間らしく従業員がいられる、そういう社風を望んでるように見える。彼自身がそうでしょう。感心しない面もそりゃ、山盛りあるけど…。でも、折角、そう言う恵まれた職場にいるんだよ。酒井さん、彼の目を見なさい。恋人に対する態度以前に、君の判断と対処は、殴られても文句が言えないくらい、最低の対応だったよ。彼に、きちんと謝りなさい」
 随分えらそうな事を言っている。そう思いながらも、青山は必死に自分の波立つ感情をコントロールしていた。
 電話をとり、シップ薬があるかどうかをフロントに尋ね、快諾を得たところで、青山はヘタヘタ、とその場に座り込んだ。
「青山さん、青山さん! 大丈夫ですか?」
「オイオイ、ちょっと、あんた…」
 呆れたように酒井がつぶやきながら、林と両脇を支えて立たせてくれようとしているのだが、腰が抜けてしまっている。極度の緊張で…こうなってしまう事が、ごく、稀にだが、青山にはあるのだ。
「は……ははは…ザマないなぁ…エラソーな事言っても、コレだもん…すみません、もう、2時ですね。酒井さんは、シッブ当てたら、申し訳ないですけどそのまま、得意先回って下さい。私はタクシーで一旦帰社します。早乙女さんに全て報告はします。白百合さんの件も。きちんと、早乙女さんの指示に従ってくださいよ。いいですね」
 先ほどの老紳士が、しずしずと入ってきて、酒井たちの様子を見るや、僅かに目を見開く。なんとも言えぬ微苦笑をこぼしながら酒井の頬を、そっ、と見て、シップで大丈夫でしょう、お医者様にはちゃんとかかられた方が、と言いながら、器用に、最低限度の面積でシップを貼ってくれた。
「そちらさまは?」
「お恥ずかしい、慣れぬ事で腰が抜けたようです」
 はっはっ、それはそれは、と爽やかに笑って、では、タクシーと介添えをお貸ししましょう、と察しよく手配をしてくれた。いや、介添えまでは、と遠慮する青山に、
「社長んち、寄らなきゃいけねーだろうが。ここからなら途中だし寄ってもらいなよ」
 と、酒井がヒトコトを挟む。
……忘れていたかった用事なのだが。
 すみません、明日はきちんと同行します、と言う青山に、酒井は軽く手を振ってニヤリ、と笑う。
 左脇を若いボーイに支えられ、青山は、老紳士に丁重に礼を告げ、一揖の後、部屋を出た。
 出がけにちらっと目に入った光景に青山はかすかな苦笑を浮かべた。
 部屋の中で酒井と、林が人目もはばからず、堂々と甘いキスを交わしていたのだ。
「…あいつら…昼からちゃんと仕事するんだろうなぁ…ったく…。最近の若い奴らってなぁ…」
 一人ごちた苦々しい青山の呟きに、ふふ、と脇を支えてくれていたボーイがかすかに笑う。
「お客様が幸せそうなのは、嬉しいですが…正直、ああまで熱烈だと、妬けますね」
 ご迷惑をおかけして、と小さく詫びながら、呼ばれたタクシーに身を入れる。
 車に乗る前にふと、見上げた空は、今日も抜けるような蒼に染んでいた。
 あの空のように、あの幸せそうな2人のように。自分の心の奥も澄み渡る日が、いつか来るのだろうか。青山はそっと吐息を漏らすと、社長の自宅の住所を運転手に告げた。
 とりあえず、まだ、課題は山積している。1つずつこなすしかない、と、青山は軽く目を閉じて暫しの休息を取ろうと、シートに身を預けた。

to be continue…



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